放課後の教室にて

 そして、その日の放課後──。

 既に授業も終わり、掃除も済んだ三年六組の教室で、俺は朝に会話した奈々美や桧藤、阿部と言った連中プラス、別のクラスに所属している何人かの友人と共に、帰りのバスが来るまでの気だるい時間をだべっていた。

 教室に差し込む陽の光の色を見る限り、まだ日没には大分時間がありそうだが、しかし、その色合いや角度を見ると、段々と確実に夕闇が迫って来ている事が分かる。

 今朝の階段室の事件を受けて、放課後に予定していた各部活の活動は全て中止となり、朝から楽しみにしていた香織の入部先を探す部活動めぐりもしようが無いので、当然の如く取り止めとなった。

 学校側の措置により凍結された各部の活動が再開される目途めどは、少なくとも、今の所は立っていない。

 おそらく、週明けぐらいには再開出来るんじゃ無いかとは思っているが……それとて、俺が個人的に想像している憶測に過ぎない。

 もしかすると、ここしばらくの間、ずっと部活が出来無い可能性もあるな。


 さて、朝も見た教室の前にある時計を見れば、時刻は既に学校の近くの停留所に最初の帰りのバスが来ている頃合いだが、香織ら一年生に対する各クラスの担任によるHRホームルームでの指導は、かなり念入りに行っているらしく、普段よりも二、三十分ほど長引くようだ。

 香織からそれが終わったと言う連絡が来るまでのあいだ、俺は特にやる事も無いので、教室で適当にその待っているのだった。

 実を言えば、下校する前にやって置くべき事が無い訳では無いのだが、それはこう人が多いと果たし難いような、人目をはばからなくてはならないタイプの秘めやかな用事だ。

 なので、今の俺の現状は、そんな風に部活が中止になったせいでいつもよりも生徒が多く残り、まるで文化祭の準備の時のように騒がしいこの自分の教室で待機しながら、その用事を果たせるタイミングを見計らっているのであった。


 そんな賑やかな放課後の教室で話されている事と言えば、それは無論、朝に起きた、例の事件の話題に決まっている。

 発覚後に大騒ぎとなったあの朝の階段室スプラッタ事件に関しては、もはや全校に知れ渡る所となり、今日のこの学校の生徒達の会話と言えば、事件に関する他愛たあいも無いうわさばなしと、その犯行動機や犯人像などを考察するもっともらしい推論・議論などで持ち切りである。


 さて、朝のHRホームルームが開始される直前、この教室で妙な悲鳴を耳にした俺が、校舎の三階にいるはずの妹の香織の事が心配になり、阿部を連れて階段を駆け上がり、その付近を調べた結果、三階から屋上に昇る為の階段室にて、赤い塗料の塗られた天井と、そこに突き刺さった金属パイプを発見したと言う、その先の経緯に付いてだが──。

 あのあと、俺はひとまず、鮮血が一面に飛散したようなおぞましい階段室の光景を見て恐怖におののいている阿部を落ち着かせ、そこの踊り場にいたあの女子生徒を、見物人の生徒が来ていた三階まで送ってやった。

 それから、俺と阿部は、まず時間通りに自分の教室へと帰り、無事に朝のHRホームルームを迎え、その階段室の件を教室にやって来た担任へと報告した。

 一時限目の授業が終わる頃、学校側の通報を受けた県警のパトカーが二台、校舎裏の駐車場に停まり、そこから制服の警察官とクーラーボックスのような手提げ鞄を持った鑑識風の格好の人達が降りるのを目撃した。

 聞く所によれば、この警察の方々は、校舎の中に入ると、そこで待機していた先生達の立ち合いの元、簡単な事情を再度聞くと、即座に、あの現場に向かい実況見分を行ったようだ。


 そして時は過ぎ、四時限目の授業が始まる直前──。

 朝の事件の発見と関係していると思われた生徒数名が、いまや簡易取り調べ室となった職員室の隣にある校長室へと呼び出され、警察と先生方の双方に事情を説明する事態と相成った。

 この俺が何故、そんな詳しい事情まで知っているかと言えば、おそらく事件の第一発見者である、あの貧血だと思っていた踊り場の女子生徒と、彼女を手助けして三階まで降ろしてやった俺と阿部もそこに呼ばれ、そこにいた警察官と先生達を前にして、事の次第をありのまま説明する事になったからだ。

 あの校長室に置かれたソファーの座り心地の良さと来たら、この教室にあるような腰掛けて十分もすればお尻が痛くなるような、硬くて平べったい合板の座面の生徒用の椅子とは別次元のものだったが、俺はそんな事より、先生と警察の人を相手に事情を話している最中、朝鬱がぶり返しては来ないかと、気が気では無かった。

 全く、警察とかに事情を聞かれるのは、本当にもう、今回限りの事で、勘弁して欲しいものだ……。

 四時限目前の休み時間に、教室にやって来て俺と阿部を職員室に連れて行った担任は、その聴取の為に欠席した四時限目の授業を出席扱いにすると言っていたが、これに付いては、後できちんと、その授業の教科を担当している先生に確かめねばなるまい。

 上手く、話が通っていない可能性もあるからな。

 今俺が着ている、あの血みたいなものが肩口に付いて仕舞った制服のブレザーだが、これに付いては、汚れがこびりつかないよう、朝のHRホームルームが終わった後、次にある最初の授業が始まるまでの休み時間を利用して、即座に水道の水で全体をじゃぶじゃぶと洗い、その次の休み時間に一年生の頃に俺の担任だった家庭科の女の先生に許可を頂いて、家庭科室の洗濯機を借り、軽く脱水を掛けさせて貰った。

 それから、教室にある自分の椅子にその制服を掛けて干して置いたが、五時限目が終わった時、もう良い頃合だろうと思って袖を通して見たものの、やはり、まだその内側は湿っていた。

 しょうがないな、この後は、俺自身の体温で乾かすか。

 そして、春先の乾いた空気と俺の体温の重ね技をもって、残り一時限と少々……。

 今日の午後は段々と曇り時々晴れ気味になり、気温がやや低下したせいか、未だにブレザーがきちんと乾く様子は無い。

 今を思えば、時間の空いた昼休みに学校の近くにあるクリーニング屋に走って、翌日仕上げの注文で、クリーニングを頼んで仕舞った方が良かったかも知れない。

 二時間目くらいに二台編成でやって来た警察のパトカーも、先ほどまで駐車場に停まっており、さっきようやくその内の一台が帰ったようである。

 この分なら、バス待ちをしているこの放課後の時間に、もう一度呼び出される事はあるまい。

 朝っぱらから三日連続で朝欝を発症してしまった上に、学校へ来れば奇怪なスプラッタ事件とはな。

 全く、今日はもうさんざんだ。

 バスがやって来る時刻になったら、とっととそれに乗って、香織と一緒に家に帰り、その後はゆっくりと風呂にでも入って、この疲れた頭と体をいやしたい。

 その後は、今日の授業で出された宿題をちゃっちゃと片付け、母親が作った夕食をたらふく食って寝る。

 そして、明日から始まる二連休の最初の土曜日の過ごし方だが、これは朝からオンライン・ゲームでもやって、この溜まったさを晴らす積もりだ。


 そう言えば、何の因果いんがか、不幸にして階段室スプラッタ事件の第一発見者になって仕舞った、あの踊り場で見掛けた一年生の女の子は、あの後、大丈夫だっただろうか?

 何組の子だか知らないが、あの時、制服に付けられた名札を見て覚えている限り、その子の名前は確か、「森山もりやま」と言う苗字のようだった。

 一応、俺と阿部が校長室に向かった時、若い男の先生に連れられて校長室から出て行くのを見たので、早退はせずに済んだみたいだが。

 彼女があの血の池地獄のような階段室の惨状を目の当たりにした時は、阿部と同様、ひどくショックだったに違い無い。

 数日前に入学式を終えたばかりの新入生だと言うのに、高校生活の開始早々、一人の不幸な女子生徒がこんな妙な事件のとばっちりを受けて大変な思いをした事に、俺は心底、深い同情を覚える。

 もし、彼女が香織と同じクラスだったり、委員会を一緒になって知り合いになった場合、この先、会う事もあるかも知れない。

 その時は、今日の件に付いて、何か慰労の言葉を掛けてやろうと思う。


 ……と、そんな事を考えていると、俺の左隣の席に座り、女子生徒は、ストローを刺して旨そうに飲んでいた紙パック入りのスポーツ飲料を机の上に置き、そこに両肘を付いて、二の腕で三角形のブリッジを作った。

 思索にふけっていた俺は、顔をそちらに向けて、じっと静かに周囲の話を聞いていた彼女に注目する。

 彼女のその顔には、今朝の校内を騒がせた当の一件が、まるで隣町で起きた新聞にも載らないような些細な事故か何かだと思っているような、爽やか極まりない笑みが浮かんでいた。

 朝に起きた一件など、まるっきり自分とは無関係な他人事と言う印象である。

 彼女は、そのやや大きい胸元の前に作った親指の間に、その端正な形のあごを乗せると、他の連中の発言に対し、顔を動かしてうなずく動作をする。

 そして、ひとしきりそいつの発言が終り、会話が途切れると、彼女は短く溜息を吐き──。

 いかにも嬉しそうな、いつも浮かべている笑顔をたたえ、あの独特の響きを持つ、のびやかで落ち着いた声でこう言った。

「……今朝の事件の犯人は、この辺でたむろしている、不良なんじゃ無いかなあ?」

 悩み事などこれっぽっちも無いような、彼女のあっけらかんとした人畜無害そうな笑顔が、夕映えの中に映える。

「えっ? 不良!? 不良って、あのヤンキーとかが、この事件の犯人なの?」

 有栖川の推理を聞いた奈々美が、意外そうにそう聞く。

「うん。きっと、この学校の生徒である私達を、手の込んだ派手なイタズラで、驚かせてやろうと思ったんじゃ無いかな」

「ええっ。そんな、まさか……」

 奈々美はニヤニヤして、彼女の意見をあざ笑う。


 抜群の美少女──と表現するのはいささか言葉が過ぎるが、このそこそこ整った目鼻立ちをしたにこやかな女子のフルネームは、有栖川ありすがわすみれと言う。

 彼女を俺達に紹介したのは、確か、高梨たかなし玲人れいとだったか。

 彼女の所属クラスは、俺の友達の高梨と同じく、隣の三年七組だ。

 有栖川ありすがわは、三年生になってすぐ、俺達、優等生が中心の交友グループに混ざるようになった奴である。

 この県立東浜高の場合、基本的に、二年生から三年生に掛けては、教室の生徒が大きく入れ替わる、いわゆる「クラスえ」などは無い。

 よって、基本的には、新しい三年生のクラスメートは、二年の時と全く同じ顔触れになるはずなのだが、そうは言っても、生徒が一年生の終了時までにまだ進路を固めていなかったり、二年生になった後でそれを変更したくなった場合は、学校の方でもそれに合わせて、受ける授業の構成を変える必要が出て来る。

 なので、そうした変更を行った生徒は、文系とか理系とか就職と言った自分の進路希望に応じ、現状のクラスメートを元の教室に残し、一人だけクラスえをして、別の教室に移らなければならない。

 ゆえに、新学期が始まったこの一学期内の時期には、三年生であったとしても、そんなクラス間での生徒の入れ替わりが、結構ある。

 始業式の日、新しい教室を見渡すと、二年生の終了時と机の数が合わず、教室の中に若干じゃっかんめいの見慣れない顔の生徒があったのなら、それはつまり、彼ら彼女らはそんな進路等の事情でクラス替えをした生徒と言う事だ。

 有栖川は、海外での長期留学を終えてこの学校に転入して来た、いわゆる帰国子女の転校生なのだが、その転入して来た日が入学式を兼ねた始業式と同じ日であり、かつ、クラスの所属も隣の七組だったので、俺は当初、このそこそこの美少女がよその学校から来た転入生であると言う事に、全く気が付か無かった。

 この日本からは離れた海外の遠くかなた、イギリスの学校から転校して来たと言う身の上を持つ彼女も、そんな部分的なクラス替えが行われる期に上手く乗じ、この東浜高の三年生の中にすんなりと溶け込んだようで、七組の高梨を通じて、始業式早々に、俺のいる交友グループの会話に参加して来るようになったのだった。

 長らく海外で過ごしていた帰国子女とは言っても、そもそも有栖川は、その外見も名前も、純粋な日本人のように見える。

 なので、多分、ハーフとかって訳じゃ無いんだろう。

 有栖川は、中学を卒業するまでは日本で暮らしていたそうなので、当然の如くその話す日本語は完璧だ。

 つまり、英語が抜群に出来る生徒と言う他は、その辺の女子高生と全く変わらない普通の奴である。

 ただし、転入の初日かそこら辺りにして、六組と七組と言う、この二つのクラスにまたがった優等生で固まっている交友グループにするりと混ざって来た辺り、かなり優れたコミュニケーション能力を持っているようだ。

 兎に角、有栖川すみれは、そんな奴である。


「……グラフィティって言うか、不良がラッカーとかペンキみたいなのを使って、その辺の建物や壁に大きな落書きをするのは、良くある事じゃないかなあ? だから、私はあんな事をするのは、ここら辺にいる不良だと思うな」

 その時々の話す調子やトーンによっては、まるで花粉症の症状が起きている人のようにやや鼻声に聞こえる時もあるが、混声合唱で言えばアルトに当たるであろう有栖川の声は良く通る。

 後ろの教室でこいつの発言や音読などが始まると、すぐにそれと分かるくらいだ。

「え? グラフィティ? 何それ?」

 他の全ての教科と同様、英語にもうとい奈々美は、周囲にそう聞く。

「え……奈々美、グラフィティ知らないの?」

 と、美術部の部長をしている桧藤は、眉をしかめつつ悲しそうに言って、黙ってしまう。

「うーんと……」

 奈々美が難しい顔をして首を捻り始めたので、そろそろ、俺も口を挟む事にした。

「なんだ、松原は、グラフィティを見た事が無いのか?」

「無いわよ。そんなもの知らないし。何よ? それ?」

 しょうが無い奴だな。

 周りが誰もこいつに教えてやらないなら、仕方が無いので、俺が教えてやる。

「……ほら、アメリカの大都市の一つである、ニューヨークにある地下鉄などで、そその車両色々な落書きがしてあるのを見た事があるだろう」

「いや私、ニューヨークとか、行った事無いし」

 まあ、そうだろうな、分かってたが。

 俺も無い。

「じゃあ、そうだな……。後は、お前の家の近くの、線路の下にあるトンネルの壁とかにも、ラッカーで、文字やら色々な絵が、派手に描かれてるだろ。グラフィティって言うのは、つまり、ああ言うのだ」

「ああ、あれの事!」

 それがどのようなものか思い出したらしく、奈々美はポンと拳で手の平を叩く。

「松原さんも、分かったかなあ」

 と、有栖川は笑い掛ける。

「うん! それなら、私も見た事あるー!」

 ようやく奈々美はグラフィティの意味を理解し、聞いてもいない自分の家の近所のそれに付いて話し始めた。

 周囲はと言えば、そんな奈々美の話に興味津々と言った様子だ。

 まあ、事件と全く無関係とも言えないし、この幼馴染に付いては、放っておくか。


 そんな周囲に注意を向けつつ、俺は再び、新入りである有栖川へと注目する。

 ……聞く所によると、有栖川は、女子バレー部の部長を務めている奈々美と並び得るくらいには、スポーツもそれなりに得意らしい。

 らしいと言うのは、有栖川と同じクラスの友人からから伝え聞いただけで、実際に体育の授業で運動している所を俺が目にした訳では無い。

 有栖川すみれと言う名前の持つその可憐な響きには、深窓しんそうの美少女と言うか、何かそう言う、お嬢様的なフェミニンなイメージを想像するが、彼女のスカートの下にある、その程良く引き締まった筋肉質な二の足を見ると、そんな名前による想像とは裏腹に、有栖川は陸上部の部員的な、割とアスリート風の体格である事が分かる。

 確か、スポーツはバスケットが得意だとか聞いた気がする。

 そんな有栖川は、俺の幼馴染で脳味噌まで筋肉のような奈々美とは、気が合うようだ。

 てか、俺達のグループには、その手の深窓しんそうの美少女と言うか、読書好きで体育が苦手、みたいなインドア派の女子は、既に他にいる。

 それは、立って喋っている奈々美の前の机に座って静かに話を聞いている、桧藤ひとう朋花ともかだ。

 どこか涼し気な印象を持つその顔は、どこかはかなげな困り顔と来ている。

 未だ乾かない制服の上着に、いつもより長いバス待ちが重なり、とてつもなくヤバくなりつつあった俺の気分も、そんな桧藤を見ていると徐々に回復した。

 この辺りの雰囲気は、奈々美や有栖川にも見習って欲しいもんだな。


 と言っても、有栖川に女性らしい魅力が無い訳では無い。

 妙に暖かくなった始業式の翌日、休み時間に阿部と廊下で喋っていた時、後ろの七組の教室の前のドアが開いていた。

 何とは無しにそこに目をやると、気温のせいか、ブレザーを脱いで、シャツのみでいる彼女の姿を、俺は目にする。

 遠目で見た感じ、彼女の胸元……脇の前にあるその出るべき所は、人並み以上に出ていたように思う。

 そんな割とスタイルの良い有栖川は、その純日本人的な黒髪と黒い目と言う見た目と同様、割と真面目っぽい考え方と立ち振る舞いをする奴で、それだけならちょっとしたクール・ビューティーとも言えるのだが、人間、誰しも何かしらの欠点があると言うか、彼女は時折、会話に寒いジョークを交えたり、変な妄想を膨らませてそれを口走ったりする所がある。

 その事の原因が、彼女が二年ほど海外に留学していたせいなのかは知らないが、結果として、奴はちょっとばかり天然が入っているので、注意が必要だろう。

 所で、俺は前からずっと図書委員をしているが、昨日、図書当番をしている時、有栖川がそこへ来て、俺のいるカウンターから遠くの机に座って本を読み始めた。

 何を密かに勉強しているのかと思って、近くの本棚を見廻る振りをして、彼女の読んでいる本を後ろから盗み見たら、あにはからんや、それは手塚治虫のブラックジャックだった。

 気になったので、彼女が帰った後、図書委員の特権を利用して、図書カード置き場の三年七組の所から、彼女のカードを取り出して貸出記録を調べてみたが、新学期にも関わらず既に何冊か記載されていたそれは、全て漫画本だった。

 生徒の教育の為、大量の有用な書籍を蔵書としてようしている東浜高の図書室の在り方として、漫画のみを選んで借りて行くこの有栖川の利用方法は、余りにもご無体むたいなそれである。

 わざわざ街中にある自治体の図書館などに足を運ばなくても良いよう、税金を使って学校内に小型の図書館を設置していると言う、学校図書の持つその崇高すうこうな理想と目的を、彼女にも少しは理解して貰えないものだろうか。

 別に漫画を借りて悪いと言う事は無いのだが、少しはちゃんとした活字の並んだ本も借りて行って欲しい。

 図書室の蔵書の中には、挿絵さしえの付いたライトノベルとか、そう言う青少年や若者向けのジャンルのも、沢山取り揃えてるしな。

 生徒から希望のあった新刊に半透明のカバーを掛けたり、表紙や裏表紙などにハンコをして、学校図書として配置するのも、大事な図書委員の仕事の一つだ。

 まあ、有栖川がそんな風にして借りて行った、顔がそっくりの六人兄弟が主人公である漫画本も、翌日にはちゃんと返されているので、しがない図書委員の一人にすぎない俺としては、注意するべき点は何も無いが。

 その後、俺の見ていないテレビドラマの話で盛り上がっているのを見た。

 桧藤は見ているんだろうか。

 俺も見るかな。ドラマ。


 ──そんな俺の考えを他所に、有栖川は畳み掛ける。

「……と言う訳で、不良がこの事件の犯人。ねえ、みんなもそう思わないかなあ?」

 有栖川は姿勢を正し、スポーツ飲料の容器が乗った机の上に、手を組んだまま両腕を乗せる。

「うん。その動機は多分、いたずら目的だと思うな。君達みたいな真面目で生意気な高校生を、現代美術のみにくさで、心底ビビらせてやろうって考えたんじゃ無いかなぁ」

 お前もその真面目で生意気そうな高校生な訳だが……と言う、当然とも言える突っ込みをするまでも無く、奈々美が言う。

「またまたぁー。有栖川さんも高校生でしょう?」

「あー、そうだったなあ。これはいけない」

 有栖川はその指で、自分の頭をパチンと叩いた。

 この所作に、話を聞いていた教室内にいる別のグループにも笑いがこぼれる。

 肩の上まであるストレートに整った、シャープ・ペンの芯みたいな光沢を放つ、有栖川の髪が揺れる。

 綾音と香織と言う、二人の女のきょうだいに挟まれて育ったせいか、俺はその辺の男子高校生よりもずっと女性の髪形に詳しい。

 そんな俺が有栖川の髪型を評するならば、それはショートと言うにはやや長いし、ロングと言うには短か過ぎる、「ちょっと短めのミディアム・ストレート」としか言いようのない、特に変わった所など無い普通の髪形である。

 だが、その髪の色とコシに関してはこれは群を抜いていて、これが実に艶やかかつ清楚で、いかにも帰国子女のお嬢様らしい雰囲気を醸し出しているのである。

 そこに認められる唯一の特徴は、ストレートパーマでも掛けているのか、前髪も後ろ髪も非常に真っ直ぐな直毛で、サラサラしているって事ぐらいじゃ無いだろうか。

 きっと、毎日のように風呂の時には丁寧にシャンプーを泡立てて洗髪し、スーパーで売ってる値段ちょっと高めのコンディショナーなんかをなじませて、ドライヤーを乾かして櫛削っているに違い無い。

 こんな事を何も知らない人が聞けば、まるで有栖川が真面目で病弱な深窓の美少女のように思えるのだが、その実際は正反対である。

 むしろ、有栖川はざっくばらんで明るく落ち着いた性格の持ち主で、おまけに、アスリート風の筋肉質な体つきをしており、可憐な深窓のなんとかなんて風では全然ない。

 実際、帰国する前にいた海外の学校では、バスケット・クラブに所属していたそうな。

 有栖川のおちゃらけたその性格についてはともかく、俺はそんな彼女の髪が、結構気に入っていた。

「みんな、そんなに生意気じゃないと思うけど……」

 と、先程の有栖川の発言に、今更、桧藤は苦笑してそう返す。

 誰かが、「俺は二時間目の時、こいつと間近で見たけどな、あれはカラーギャングの仕業だぜ、きっと」なんて具合に、とうとうと自説を披露するに、

「ん? カラーギャング? なんだよ、それは」

 と、阿部は聞いた。

 この質問に、今まで寡黙に聞き役に回っていた、隣のクラスの高梨玲人が、俺の方をちらっと見て、俺が黙って話し出すのを待っているのを見ると、答えた。

「カラー・ギャングと言うのは、自らの魂、即ちソウルを表す特定の色をチームカラーに掲げた、やや犯罪的なチーマー集団の事だ」

 皆、今度は今まで寡黙だった高梨に注目する。

 有栖川は聞いた。

「ええと、チーマーって、何かなあ?」

「それは、特攻服などを着て示威行動をする『暴走族』などと同様の組織だが、自動二輪車で暴走行為を行う事は少なく、外見的な特徴としては髪を染め、アクセサリーなどを見に付けている。都市の中心部の盛り場などを中心に、集団で自らの縄張りをうろつく。チーマーとは、そんな不良が徒党を組んだような、準犯罪グループを指した言葉だ」

「へえー。高梨君は、物知りなんだなあ」

 と、有栖川はにこやかに笑い、うんうんと頷くように頭を動かす。

「うん……本当に」

 などと、桧藤は感心したように微笑する。

 一呼吸置くと、高梨は笑いを収めて真面目な顔をし、

「一応、これは首都圏での事だが、連中の犯行の中には、人が殺された例もある。見かけても極力、関わらない方がいい。これは本当の事だ」

 と、事件の話で盛り上がる女子連中に釘を刺した。

 桧藤の感心を得たのは少々癪だが、俺は素直にその忠告を胸の内に収める。

 何を隠そう、この仏頂面でややぶっきらぼうな言葉遣いの、始終険しい表情をしているが容姿端麗な美男子こそが、我が東浜高校の誇る名探偵、高梨玲人その人なのであった。

 奴とは一年の頃から同じクラスで友人関係にあるが、その推理力や知識、そしていざという時の頭の回転の速さは、折り紙つきである。

 また、高梨はこの学校で一番新しい文化部である推理小説研究部、略して推小研を創部した初代部長でもある。

 初めて聞いた人には信じられないだろうが、二年生の夏頃には、学校で流行っていた連続盗難事件を解決に導いた事もあり、俺はその解決に至るまでの過程を脇役としてつぶさに見ていたから良く分かる。

 高校生をするかたわらで本当に探偵業こそしていないものの、そう言う意味では、高梨はまさに正真正銘の本物の名探偵なのである。

 もっとも、高梨本人は、名探偵だとか呼ばれる事を嫌がっており、あの夏の事件の解決は偶然の賜物だと言い張っている。 

 こう言う謙虚さが、俺としては実に友人として尊敬出来る部分でもある。

 いずれにしても、高梨の言う事はそれがなんであれ、きちんと聞いて置く事。

 大抵の場合、それがベストの選択肢なのであった。

「それで?」

 と、奈々美は高梨に続きを促す。

 モーションを掛けている事は分かるが、別にどうとも思わない。

 と言うか、別にツンデレとしてそう考えているのではなく、事実、俺の本命というか意中の相手は奈々美の他にいるのであった。

 もし何かの幸運で奈々美がこのイケメンの高梨とくっ付くのなら、俺は良い厄介払いが出来たとして、心からそれを祝福したいくらいである。

「今の時点で分かる証拠からは、まだそこまでの事しか言えない。この事件は、学校に恨みを持つ者のイタズラか、赤をチーム・カラーとするカラー・ギャングの示威行為、或いはその両方である可能性はあるが、やはり、個人的な動機の線の方が濃いと思う。今の状況でこの俺に言える事は、それだけだ」

「ふうん、そっかー」

 と、奈々美は考え込む。

 教室の外の空は次第に曇って来たようで、夕陽の色になりつつあった日差しは、冷たい灰色の光に変わった。

 今、高梨が言った事を、お前は本当に理解してるんだろうな?

 そんな高梨の話に対し、有栖川は反対意見を展開する。

「けど、やっぱり私はヤンキーみたいな不良のいたずらや悪ふざけだと思うな。だって、学校なんてカラー・ギャングが標的にしてもしょうが無いと思うし、むしろ、ああ言った事をやるなら、ドドーンと商店街のど真ん中とかでやらないと、対抗する別のカラー・ギャングへの示威行為には、ならないんじゃないかな?」

「ああ。それも、もっともな意見だと思う」

 高梨は頷く。

 みんなの話を聞いていた阿部が、ようやく発言する。

「なあ、これって、そう言うカラー・ギャングとかとは関係無い、ただのいたずらって事はねえか?」

 有栖川は笑って、即座にそれを否定した。

「うーん、幾ら何でもそれは無いんじゃ無いかなあ」

 高梨は答えた。

「ああ、俺も、単なる思い付きでのいたずらの線は無いと思う。それならば、校庭や校舎の壁でも良かったはずだ。示威行為やイタズラなら、むしろバス停の前にある成渚せいしょ高校の方が相応しい。犯人は……。その時刻に付いては多分、人目に付かない夜間の事だとは思うが、わざわざこの高台に建っていて周囲からは内部の見え無いこの学校までわざわざやって来ており、そこで何らかの方法で警備システムを潜り抜け、更に、そんな建造物侵入を行うだけでは飽き足らず、赤色の塗料を用意し、成海の見た現場の犯行を行う為に三階より上の階段室にまで上がって来ている。その犯行結果自体も、今朝、一年生の女子生徒の偶発的な行動により、偶然発見されたもので、そこは普段、生徒や先生方が常日頃から通るような場所では無く、極めて奥まった所であると言う現場の状況からすれば、犯行はしばらくの間、気付かれ無かった可能性もある。よって、この事件と犯人の犯行の意図、その目的とするものは、単なるその場の思い付きによるいたずらや、カラー・ギャングなどによる示威行動の域を超えていると考えるのが、現時点では妥当では無いだろうか……」

 この高梨の回答に、阿部は深く考えるように頷いた。

「うーん、そうか。それもそうだよな……」

 そこで、高梨は思索にふけるように、視線を落とす。

「屋上に上がる為の階段室でああする事に、一体、何の意味があったのか……。今の俺には、全くもって見当が付かない。そこだけを見れば、かなり個人的な動機によるものとしか」

 高梨は、ようやく口をつぐんだ。

「それもそうよね……」

「なんだかな」

 阿部は教室の天井を見上げ、奈々美は腕組みをし、他の皆も同様に考え込む。


 ──にしてもだ。

 不良でもカラー・ギャングでも個人的恨みによる犯行でもなんでもいいが、俺のこの腐りに腐った気分は、一体、どこの誰がどうしてくれるんだろうな?

 もう夕方だと言うのに、久々にズレた時間に鬱がやって来そうな感じだ。

 もし朝の事件を起こしたそいつに、僅かでも人の心があるとするなら、脱水機の中で高速で回転する訓練機に乗る宇宙飛行士のようになり、こうしてヨレヨレにくたびれたブレザーを元に戻すのに必要なクリーニング代に対し、それを補填する誠意を見せてはくれないもんだろうかな。

 まだ乾いていないブレザーを着こんで、机の上に頬杖を付き、積み重なる被害者意識にうずもれる俺であった。

 大人の世界で誠意と言えば、それはある程度のまとまった額のお金である事は、無論、言うまでもない。

 もっとも、実際、事件の犯人がいま目の前に現れたとしても、そいつに向かって声高に慰謝料をせびる気概など、今だけではなく、普段の俺にも皆無だが。

 俺が万一、そんな奴に出くわしたとしたら、せいぜい、ほうぼうのていで逃げ出し、上手くその追跡をまいた辺りで、即座にケータイで一一〇番通報するくらいのものだ。


 それにしても、と、俺はその内心に疑問を覚える。

 高梨の述べた、深淵しんえんなる個人的動機説はおおむね支持出来るとしても、有栖川が先程唱えた犯人不良説に付いては、どうも何か、違和感を感じる。

 無論、それは高梨の言うように、犯行手順の様態が余りに凝っており、単なる思い付きによる犯行にしては、いささか手間を掛け過ぎているせいでもあるのだが──。

 と、そこで俺は、今の今まで忘れていたある事を思い出し、湿った上着の内ポケットから、急いでケータイを取り出し、電源を入れた。

 そして、今朝、自分が撮影したあの現場の画像を、フォルダの中から探し出す。

 ……あった、これだ。

 俺はそれを良く見てみる。

 円の内部に描かれた、何本もの直線で構成された複雑な図形──。

 いや、良く見ると、走り書きを消すように元々は五芒星が描かれていたのか?

 幾つかの線を拾うと、そんな風にも見える。

 また円周に沿って何か文字のようなものが描かれていたようにもうかがえた。

 そう、これは魔法陣と呼ばれるもので、青少年の好奇心と冒険心を刺激してくれるファンタジーな世界観を彩るのに良く使われる図形の一種だ。

 もしこれが本当に魔法陣ならば、現場の状態からして、犯行の意図がオカルトチックな目的である事は明白だと言えないだろうか?

 多分これが、犯人像に付いての推理に関して有栖川が述べた意見が、事件の本質と何か根本的にズレていると感じた違和感の原因だったのだろう。

 俺は画像をスマフォのディスプレイ一杯に映し出すと、折を見て周りに話を切り出した。

「なあ、みんな。これを見てくれないか?」

「ん? 何よ、成海?」

「忘れてたんだが、今朝、現場で写真を撮ったんだ」

「え? 成海君、写真を撮ったの?」

「ああ」

「えっ、どれどれ! 私にも良く見せてよ!?」

 高梨も身を乗り出して覗き込む。

「これは……現場の、写真か?」

「そうだ。良く撮れてるだろう。推理の参考にしてくれ」

「そうか。うん、これは……本当に綺麗に撮影されている。成海、良くやってくれた」

「まあ、礼には及ばないさ。この画像が高梨の何かの役に立つなら、俺にはそれが一番だからな」

「ちょっと待ってよ。それとおんなじような奴、私も持ってるけど」

「は?」

「ええと、待って。昼休みの時、バレー部の後輩が送って来たのがあるから……」

 俺は呆気に取られて、いそいそとケータイを操作する奈々美の姿に目が釘づけになる。

 現場の様子を撮影した画像──。

 何故そんなものが、俺が今朝撮ったものの他に、もう一つ存在している?

 すると、あれを撮影したのは、俺だけじゃ無かったのか?

「はい、これ」

 所定の操作を終えたのか、奈々美がケータイを差し出したので、一同、今度はその画面を覗き込む。

 ……が、しかし。

「あ? 何だ、この写真? 何と言うか……手ぶれが、酷いな」

「そ、そうかもしんないけど……。でも、これ、間違いなくあの現場で撮ったものでしょ。フフン、どうよ」

 奈々美は得意気にそう言う。

 全く、こいつはそうやって、大した事でもないのに、すぐ得意になるからな。

 有栖川は奈々美のケータイを覗き込み、残念そうに言った。

「うーん。これじゃ、一体、何を写したのか、良く分から無いなあ……」

「そ、そう? あ、そうだっ。ちょっと成海。後輩に自慢したいから、あんたの画像もこっちに送りなさいよ」

「は? お前は何を言ってるんだ?」

「良いでしょ。減るもんじゃなし……」

「ああ? この写真を、お前にか?」

 俺はこの奈々美の要求に付いて、どうしようか迷う。

「うーん、それは、よした方が良いんじゃ無いかなあ」

「それも、そうかも知れないな。松原を発端に色々な人に広まると、面倒だしな。不幸の手紙みたいなチェーン・メールにでも使われでもしたら、収拾が付かなくなる」

「そんなの、私、出した事無いわよ!」

「まあ、後でたっぷり見せてやるから、そう怒るな。って事で、この画像を送るのは、高梨だけにしておくか。何しろ、我が校の名探偵なんだからな。松原も、それで構わないだろ?」

「じゃあ、それで良いけど……」

 奈々美は、知り合いの誰かから貰ったらしい、警察の実況見分後に撮影されたその画像と、俺のケータイの画像を見比べ、そう言った。

 俺の見た限りでは、その奈々美のケータイに映った生徒達の間で出回っている画像は、現場を塞いでいる立ち入り禁止のテープから誰かが身を乗り出して撮ったものだと思う。

 階段室が暗かったせいで、被写体に自動的に焦点を合わせるオート・フォーカスの機能が充分に発揮されなかったらしく、その画像は、あの時、俺がケータイで撮影したものよりも不鮮明で、かつピンボケしていた。

 自分の方の写真画像を高梨のケータイに送り終えると、俺は何とはなしにこう聞く。

「ひとまず画像の話はこれで良いとして……。それで、松原は、この朝の事件に付いてどう思ってるんだ?」

 自分の推理を披露していないのは、今の所、奈々美だけだ。

 その奈々美の推理・考察がどのようなものであれ、少なくとも、高梨の推理にはあまり役に立たなそうだが。

「え!? 私?」

「そうだ。何か、松原の方からも、素直に思った事を言ってみてくれ」

 俺はどんな迷推理が飛び出すのか、内心に込み上げる笑いをこらえながら、突然の事に慌てふためいている幼馴染の発言を促す。

「え、いやっ……。ええと……。私は、その、あはは……」

「お前は何を笑ってるんだ。いいから、さっさとその推理をみんなに聞かせたらどうだ?」

「え? でも、うーん……。こう言うのって、信じる人と信じない人がいるし」

「はぁ?」

 奈々美による突拍子も無い発言の前触れを感じ取り、俺は顔を歪める。

「それは、つまり……一体、どんな事なんだ?」

 奈々美は話し始める。

「この事件だけど、私は、これは普通の人間には出来無い事だと思うのよね」

「あ、うん。私もそんな感じかも……」

 と、桧藤。

 うんうんと有栖川も頷く。

「それで……この事件の犯人に付いてなんだけど……」

 一同、奈々美に視線を集中する。

「これはきっと、妖精の仕業に決まってると思うのよ!」

「はぁああ!? 妖精!?」

 俺はぽかんとしてそう聞き返す。

 こいつの頭脳は、一体どうなっているのだろう。

「あはは、妖精かあ。可愛いなあ」

「フフフ……。でしょ!? でしょ!?」

 俺は溜息を吐き、奈々美を叱り飛ばす。

「そんな子供の空想みたいな愚にも付かないヨタ話をして、お前は得意気になるなっ。全く、何が妖精だ。真面目に聞いて損した。松原、お前はもっと真面目に事件の事を考えろ。犯罪なんだぞ、これは」

「ちゃんと真面目に考えてるわよっ! これは絶対に、学校に住む妖精の仕業だしぃ!! 私には分かるし!」

 奈々美はそう言って、荒唐無稽こうとうむけいとも思える自らの犯人妖精説を強弁した。

「ああ、もう良いから、松原、お前はもう黙ってろ。みんな呆れて、物も言え無いじゃないか」

 一同、苦笑する。

「フン、良いわよ。誰が何と言おうと、私はそう信じてるしぃいいっ!」

 奈々美は半べそになりながらもそう宣言し、机の上に置いていた鞄を掴んだ。

「あ、そだ、私、この後、ちょっと用事あるから、行くわね」

「ああ、うん、じゃあ、また」

「それじゃ、また」

「面白い話だった。気を付けて帰って欲しい」

「うん……。じゃあ、高梨君もまたね」

「妖精かあ、全く、そうだと良いんだけどなあ……」

 有栖川は、独り言のようにそう言って、にこやかに笑う。

 俺はと言えば、そんな周りの会話を聞きながら、ケータイで写した現場の天井の写真を眺め、今朝、階段室で見た光景を物思いにふけるように思い出す。

 ……結局、犯人はあの場所で、何がしたかったのだろう?

 よほどの動機がなければ、こんな大それた事は出来無いはずだ。

 普通にまともな頭で考えれば、犯人にはこうする事に、何の利点もメリットも無い。

 そこには、ただ警察に捕まり、司法による裁きを受けて罰せられる可能性があるだけだ。

 それは多くの人にとって、マイナスでしか無い事のはずだ。

 警察に捕まりたかった?

 それは違う。

 もしそうなら、もっと犯人と犯行の分かり易い、監視カメラのある場所での万引きやスリのような、言って見れば、捕まって処罰される事の明確な陳腐な犯行を行うはずだ。

 にも関わらず、犯人をこの不可能犯罪にも近い難しい犯行へと突き動かしている現実がある以上、そこには犯人に対する、何らかの強い働き掛けがある。

 その時、犯人の頭脳を満たしていたもの。

 ──それはおそらく、論理では無い。

 そう、感情である。

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