登校──そして、事件

 思う存分に調べ物をし、気が済んだので、俺はようやく、ベッドのそばに脱いで置いていたスリッパを履き、自室から出た。

 そして、綺麗に掃除されたベージュ色のフローリングの床を歩いて、我が成海家の食堂とも言える、キッチン兼リビングへと向かう。

 その途中、そこを軽くノックした上で妹の寝ているであろう部屋のドアを開け、中を覗いてみると、今年、高校一年生である妹の成海なるみ香織かおりは、ベッドの中ですやすやと寝息を立てていた。

 何か良い夢でも見ているのか、彼女は何やら、のほほんとした薄笑いを浮かべて、平和そうに眠っている。

 うーん、これはどうにも、起こし難い状況だ。

 その内容は自由に選べないとは言え、我が妹は、たった今のこの瞬間、夢と言う名のフル・ダイブ型VRヴァーチャル・リアリティコンテンツを楽しんでいる最中だと言うのに、それをわざわざ起こして、仮想世界から強制ログ・アウトさせてやる必要もあるまい。

 別に今は、急いで学校へ行く支度をしなければならないような時刻でも無いしな。

 もし家を出る二十分前の段階になっても、この寝ている香織が目を覚まして来る気配が無ければ、その時はしょうがないので、起こしに行ってやろう──。

 と、そう心に決める。


 妹の状態を確認した後、誰もいない我が家のキッチン兼リビングへと辿り着く。

 シンクの近くにある物干し台に逆さに伏せてある自分のマグカップを取ると、冷蔵庫に仕舞ってあるデカンタから既に抽出ドリップしてあるコーヒーをその中へとそそいだ。

 そのマグカップを電子レンジの中に置き、スイッチを入れて加温を開始する。

 コーヒーの準備をしつつ、キッチンの壁に掛かっているカレンダーを見やれば、本日、四月八日は、四月の第二週の金曜日、つまり、週内最後の平日である。

 と言う事は、明日からはこの三年生の新学期が始まってから最初の土日どにちの二連休がやって来るになる。

 今頃は新学期がスタートしたばかりの時期だと言うのに、朝鬱あさうつのせいで朝っぱらからグダグダなだしを切っている俺だが──。

 毎朝そうしているように、あのレンジで温め中のコーヒーを飲み干し、頭をスッキリさせれば、今日も何とかそんな困難を乗り切って、頑張り切れるはずだ。

 カレンダーに近付いた俺は、そこに小さく書かれてるせいで遠くからでは見えなかった、今日の六曜ろくようを見てみる。

 六曜と言うのは、要するに大安たいあんとか赤口しゃっこうとか言う、あの六日むいか周期で一巡ひとめぐりしている、その日の縁起えんぎの良さみたいなものだ。

 もっとも、縁起えんぎと言っても、結婚式のような冠婚葬祭かんこんそうさいをする時以外には、あまり関係無いらしい。

 そりゃあ、六曜は一週間にも満たない周期で吉凶が変動するのだから、普通に学校やら職場などに通う生活をしている人達ならば、そんなもの、いちいち気にしてられ無いのは、しがない男子高校生の俺も同感だ。

 が、しかし……気になったので、俺は一応、それを調べてみた。

 すると、大安だった三日前の入学・始業式の日とは違い、今日のそれは何と、仏滅であった。

「なんだ、今日は仏滅じゃないか」

 よりにもよって、まさか今日の六曜が一番悪いとされる仏滅とは、実に意外だ。

 迷信など全く信じ無い方であるこの俺も、これには流石さすがに不安感を覚える。

 根拠は特に無いが、何となく悪い予感がするので、これは学校に行く前に、おはらいのようなものをして置いた方が良いかもしれない。

 だが、割と近代的な我が家には、そこでおがめるような仏壇ぶつだん神棚かみだなも無い。

 何か、そんな祭壇の代わりに、お払いに使えるような物は無いだろうか?

 辺りを見回すと、調味用の塩が入れられた小さめの容器が、食卓である大きなテーブルの上の真ん中に置かれているのが見える。

 塩か……。

 確かこれって、いにしえの時代より、おきよめに使うとされているよな?

 お葬式から返って来た場合などの時には、故人の霊に集まるそのよこしまな気配、即ち邪気じゃきを払う為、家の中に入る前に、自分の胸、背中、足元に塩を振り掛けて、それを払うのだったような気がする。

 と言うのも、住宅のような建物の扉や外壁と言った境界は、物理的に部外者の侵入を阻む障壁であると同時に、霊的にも結界の一種なので、帰って来た者がそこに入る手前でおきよめを行い、邪気を退散させて置けば、建物の中と言うセーフティ・エリアをその汚染から守れるそうだ。

 ん?

 じゃあ、仮に俺の体にそんな悪い気配がまとわり付いていた場合、塩を振り掛けて払わなければならないって事か?

 思わず、俺は容器の中で輝く、その真っ白な塩化ナトリウムの結晶を、この場で頭から振り掛けたい衝動にかられる──。

 が、ここでそんなものを散らばらせたら、そのあとの床の掃除が大変だ。

 だったら、バス・ルームで裸になってそれを実行すれば良いじゃないか、との妙案がひらめくが、今日の気分ではどう考えても朝から風呂など入りたくないので、今思い付いたその食卓塩を使ったお清めは、止めておく事にする。

 次に、油の容器の隣に調味用の日本酒が置かれているのが目に入ったが、しかし、高校生の分際ぶんざいで、朝から酒を飲む訳にも行かないので、それの使用も止めておく事にする。

 おきよめに使えそうな代わりのものが他にも無いかと、俺は更にキッチン兼リビングの中をサーチしたが、その塩と清酒せいしゅの他は見当たら無い。

 結局、出掛でがけ前のお払いみたいな事は、諦める他は無いらしい。

 今日が仏滅だと言うのは、確かに若干気掛かりな事ではあるが……。

 しかし、現代っ子らしく科学の信仰者であった俺は、そんな縁起えんぎかつぎみたいな事にはいつまでも躊躇ちゅうちょせず、朝の支度に必要な行動をさっさとして仕舞う事にした。

 今日も普段通りの生活を送るように気を付けていれば大丈夫だろう、多分。

 とりあえずトイレに直行した後、そのまま風呂場と繋がっている洗面台へと向かい、さっぱりと洗顔を済ませた。

 寝起き直後のストレッチにうがい手洗いなど、形式美の予定調和な所作を何とか全部済ませた俺は、その洗顔を終えた直後から、まるで生まれ変わったように、今日も毅然きぜんとして、てきぱきと朝の支度を開始する。

 と、キッチン兼リビングに帰る前に、俺はもう一つ気になる事があり、母親が寝ている通路の奥の和室へと向かう。

「おい、母さん? ちょっと、ここ開けるぞ?」

 声を掛けてから、俺は和室に繋がるふすまを開ける。

 と、畳の上に敷いた布団の中で、先程の妹と同様、静かに寝息を立てている母親がそこにはおり、こちらに向いているその顔を見れば、穏やかな寝顔である。

 息をしているので、寝ている途中に心臓麻痺まひなどを起こして死んではいないようだ。

 母親は昨夜、パートの夜勤だったので、今日は午前十時頃まではこんな風に寝続けている事だろう。

 そんな別室で寝ている母親を尻目に、俺はキッチン兼リビングへと戻り、早速、加温の終わっていたレンジの扉を開ける。

 そして、おそるおそるレンジの中のマグカップに触って見ると、どうやらその中に注いだコーヒーは、設定温度の摂氏八十度くらいまでには温まっている。

 俺は熱いコーヒーに、冷蔵庫から取り出した冷たい牛乳と豆乳を注ぎ、ほど良くガブ飲みするのに丁度良い温度にしてから、まず初めの一杯を満喫した。


 ──うん、今日も朝に飲むコーヒーは、実に美味い。

 二種類のミルクを使って作り出したまろやかさの中に、上から二番目にふかりであるフレンチまでローストされたコーヒーまめのふんわりとした上品なアロマがかおり、最後にはコクとキレに富んだ、実にエレガントで旨味のある、強い後味が残る。

 流石に、普段から最も長時間ったエスプレッソ用のイタリアン・ローストを飲んだりはし無いが、やはりコーヒー豆は、深味ふかみ焙煎ばいせんに限る。

 この自家製コーヒーは、近所のデパートにあるコーヒー豆専門店で買った新しい豆を、浄水器で濾過ろかしてから沸かした綺麗なお湯でれ、専用のデカンタに移して冷蔵庫に保存しているものだ。

 俺が普段口にするものの中では、かなり美味うまい部類の飲み物と言って良い。

 一週間に一度ほど、そうして作り置きしておけば、いつでもその味を楽しむ事が出来る。

 ……その為に遅刻する覚悟こそ無いものの、この成海なるみ隆一りゅういち、どれほど忙しかろうとも、朝に美味いコーヒーを飲む事に付いてだけは心血注ぐ事を惜しまない、比較的飲み物の味にうるさい男子高校生である。


 そんな風にしてコーヒーを楽しんだ後、少し水も飲んで乾いた喉を潤した俺は、このキッチン兼リビングで朝食を作る準備に取り掛かる。

 冷蔵庫の中やテーブルの上をざっと見た感じ、晩以前に作った料理の残り物など無かったので、冷蔵庫の扉にマグネット付きのフックで引っ掛けてある調理用のエプロンをまとい、扉を開けて材料を取り出し、朝食を作り始める。

 この家で一番早く起きる俺が朝食を作るのは、ほぼ毎朝の事なので、高校三年にもなった今では、もはや手慣れている。

 材料を用意した俺はエプロン姿で、フライパンを持ち、ガスコンロの前に立った。


 それからしばらくののち──。

 俺は耐熱ガラスの蓋をしたフライパンの中で、ベーコンからにじみ出た脂で作っている、目玉焼きの様子を見ていた。

 それぞれの卵の白身は、今やまるでスライムのように合体していので見分けが付か無いが、黄身の数は四つ。

 朝食を食べる妹と母親の分が各一つ、残りの二つが俺の食べる分だ。

 コンロの熱と充満する蒸気によって、半熟だったフライパンの中の目玉焼きの黄身が固まるのが確認出来たので、俺はようやく蓋を開け、そこに塩とコショウを振った。

 後ろの食事用の大きなテーブルには、既に大きな三枚の丸い皿を用意してあり、そこには目玉焼きを作る前の段階で冷蔵庫から取り出して洗って置いた、レタスの葉が添え物として乗せてある。

 後は、炊飯器に入っているご飯か、食パンかを各自で自由に選んで食べれば良い。

 この成海なるみの朝食については、他に特に言及するような事はない。

 それこそ、どこの家庭でも毎日のように食べているような、ごく普通のメニューであるが、何かと忙しい、学校がある日の朝食としては、こんなんで良いはずだ。


 完成した目玉焼きをそれぞれの皿に配ると、俺はエプロンを元通りにフックへと引っ掛け、椅子を引いてテーブルにいた。

 そして、玄関のドアにある新聞受けから取って来ていた朝刊を広げ、それに目を通しつつ、用意した食事を一人で食べ終える。

 その後、ボリュームを絞ったテレビのニュース番組をなんとは無しに眺めていると、時刻も午前七時を過ぎる頃になり、そこでようやく、遅まきながら妹の香織が起きて来た。

 香織はこの兄や姉の後を辿るように、小中学校に引き続いて今年同じ高校へと進学した末っ子の妹だ。

 中学では卒業間際までテニス部などに入っていたせいか、その髪形は後ろからだとまるで男の子のようにも見える、かなり短めの、いわゆる、ベリー・ショートと言うやつである。

 しかし、それが美人かどうかはいずれにしても、香織は母親に似たせいか、かなり童顔どうがんと言うか、高校一年生の十五歳と言う年齢にしては幼く可愛らしい顔立ちをしているので、正面から見れば、大抵の人にはちゃんと女の子だと分かる。


 寝起きの香織は、あくびをしながらキッチン兼リビングにやって来るなり、そこで既にテーブルに着いている俺を発見し、朝の挨拶をする。

「あ、にーやん! おはよ!」

「おはよう。今起きたのか?」

「うん。今起きたばっかり。ふぁああ」

 あくび交じりに、香織はそう答える。

「随分……眠そうだな。昨日は、よく眠れたか?」

「うん。しっかり寝たから、大丈夫だよっ!」

 香織はそこで、このキッチン兼リビングのシンクで、うがいを始めようとする。

 こんな風に無邪気に笑いながら兄貴に黄色い声で朝の挨拶をして来る辺り、もしかするとこう言う妹を持つ俺は、誰かからうらやましがられるような非常に恵まれた存在なのかも知れないとすら思うが、そこは心を鬼にして、しつけるべき所はしつけるのが、成海家の長兄でもある俺の務めである。

 と言っても、三きょうだいの一番上である、成海なるみ綾音あやねは姉なので、実際問題、この家に住んでいる家族の中で、男は俺だけなのだが。

「おい、香織。うがいとか洗顔とか、そう言うのは、洗面所でやってくれないか? もう食事の用意をしてあるんだ。皿にはラップも掛けて無いし、そこにしぶきが飛んだら、嫌だろ」

「あ、そっか。いっけない……。ごめんねっ、にーやん?」

「分かれば良いんだ、分かれば。良いから、さっさと洗面所に行って来いよ」

「うん」

 そううなずいて返事をすると、まるで遊具に走る幼稚園児のような元気さで、香織は洗面所へと走って行った。


 そんな妹の後ろ姿を見送りながら、俺は我が家の家族構成を思う。

 姉、俺、妹、そして母親。

 うちの父親は会社勤めのバリバリの働きマンで、いつも海外に単身赴任やら出張をしているので、いつもこの家にはいない。

 つまり、この家に住んでいる男は、現在の所、長男の俺一人である。

 全く、何と言う男女比率で構成された世帯なのだろう。

 おまけに、俺には女の幼馴染がいて、奴の家とは家族ぐるみで付き合いのあるせいで、そいつは今でも頻繁に遠慮無く家にやって来るので、そんなに母親が家にいたりすると、更に我が家の女性率はアップする。

 今はもう慣れっこになって仕舞ったが、母親は兎も角、姉と妹と言う女二人の真ん中に挟まれて、言わばサンドイッチの具のような位置にあった俺は、昔からそうした微妙な立場にまつわる苦労を散々したものだ。

 それにしても、香織や母親の性格は昼行燈ひるあんどんと言うか、いつもこんな風にぼんやりしているだが、俺は姉の綾音あやねほど優れた女性を見た事が無い。

 成績は抜群で、ピアノや他の楽器何かもけて、絵も上手かった。

 父親に似て、そんなしっかりものの姉は、父親が単身赴任で家を離れてからというもの、我が家の実質上のボスであったし、子供時分じぶんの俺と香織は、その配下につく家来けらいのような存在だったと言える。

 もっとも、そんな有能で頭の回り過ぎる嫌いのある、姉の成海なるみ綾音あやねも、俺が高校も二年生に上がった頃、専門学校を卒業してから後の就職を機に、今は家から出て他所よそで一人暮らしをする事になった。

 きょうだいの一番上をバトンタッチされたその後の俺はと言えば、少し広く感じられるようになったこの家で、まるで目の上のタンコブが取れたように、いまだかつて無かった開放感を味わっているのだが、時折、そんな姉の存在が恋しくなる時もある。


 ──と、ようやく洗面所から戻って来た香織は、壁に掛かった大きなカレンダーの前に立ち、俺に向かって疑問をていした。

「あれ? にーやん? 今日って、土曜日だっけ?」

「お前は何を言ってるんだ? カレンダーの日付を良く見て確かめて見ろ、カレンダーの日付を」

「うーん……良く見ても分から無いよ? ね、にーやん? 今日って土曜日? それとも金曜日? ねえ、どっち!? あ、もしかして今日は日曜日!?」

 俺は寝言をほざく香織をたしなめる。

「はぁ? そんな訳があるか。全く、お前は何を寝ぼけた事を言っているんだ。日曜はあさってだぞ? 今日は立派な平日である金曜日だ」

「そうだっけ? あっ、じゃあ、今日も学校に行くんだね! わーい!」

 新入生である香織は、早く学校に行きたくてウズウズしてるらしい。

 この俺も、かつて一年生の頃には、そんな風な時代もあったような気もするが……時間の経過とは、時として残酷な物だよなあ。

「おい、香織。お前はそうやって無駄に喜んでいないで、さっさと食事を済ませて、早く学校へ行く支度をしたらどうなんだ?」

 俺はそう言って、今にもはしゃぎ出しそうな香織をたしなめる。

「う、うん。……もう、そんな事、にーやんに言われ無くても分かってるよっ」

 しばらく主人と遊んでいない猫のような声でそう告げ、香織は眠たげな目をこすりつつ、まるで浮遊霊のようなゆるやかな動きで椅子を引いてテーブルに付く。

 と、香織はキッチンの壁に掛かっている時計と、俺が見ているテレビの画面を何度も見比べて、その曇っていた顔をパッと明るく輝かせる。

「──って、なんだ、今ってまだ七時じゃーん! にーやん! そんなに急がなくても、まだ大丈夫だよっ?」

 何が七時だ、そんな時刻は、とっくに悠久ゆうきゅう彼方かなたへと過ぎ去っている。

「良く見ろ。正確には、今は七時十二分だぞ。もう七時ちょうどから、十五分近くも過ぎてるじゃないか。そうやって、お前はあたかも今が七時ちょうど近くであるかのように言うなっ。明日は今日よりも十五分早く、七時きっかりには起きるんだぞ?」

「うん! 分かったよ、にーやんっ!」

 そう元気良く返事をして、香織は早速、はしを握る。

「ええと、駅のバス停に、予定のバスが来る時刻は七時五十分だから……。今日は、七時三十五分には家を出発するぞ。それまでに、用意は全部済ませとけよ?」

「はーいっ!」

 香織はそう返事をして、シンクの近くの物干しに置いてある茶碗を取ってご飯をよそり、席に着くなり、箸を握った。

「いただきまーす」

 全く、実に平和な奴である。

 バス通学は高校にあがってから初めてのせいか、もはや毎日が遠足気分のようだ。

「あっ、飲み物忘れた! にーやん、コップとオレンジ・ジュース取ってよ」

 冷蔵庫には俺の方が近いので、仕方なしに言う通りにしてやる。

「しょうがないな、ほら」

「ありがと」

 香織はコップに飲み物を注ぎ、オレンジ色の紙パックの方を俺に返す。

 俺は溜息を付いて、冷蔵庫にそれを仕舞った。

 ……俺の熱心な指導の成果か、香織は学校の成績も悪くは無いし、運動も出来るのだが、歳の離れた上のきょうだいである長女の綾音あやねや、長男である俺とは違って、母親に似たのか、その性格はどこかのんびりした所がある。

 ゆえに、今年、一緒の東浜高に通う事になるのが決まった時から、小・中学で一緒だった時に巻き込まれた香織絡みのトラブルに関係する様々な気苦労が思い起こされ……それが少しばかり懐かしくもあり、反面、非常にウンザリでもあった。

 そもそも、香織が学内で何か問題を起こしたら、それで紛糾する場をとりなす手間を取ったり、先生に呼ばれたりして恥をかくのは、俺の方なのだ。

 それに、今年度の末には。三年前の高校受験と同様、人生の一大イベント、大学受験が待っている。

 幾ら血のつながっている実の兄とは言っても、妹の世話やその後始末で、後に控えている大学受験にまで悪い影響を及ぼす事態は避けたい。

 それゆえ、俺はこれから高校三年生として過ごす時間、高校最後の一年間を、何としてでも大過たいかなくやり過ごしたいと思っているのだった。

 ……頼むから、あまり問題を起こさないでくれよ。

 俺は二杯目のコーヒーを、今度はブラックで飲みながら、朝刊の残りの記事を読みつつ、ゆっくりしている香織をせかし、さっさと朝食を食べ終えさせた。


 ──同日、午前七時二十七分。

 食後の歯磨きをしっかりやり終えると、その次は、各自、自室へ戻って、制服への着替えタイムである。

 俺は洗いたての白いワイシャツを着ると、ワインレッドの補色みたいなつややかな青色の制服のネクタイを結び目が一重いちじゅうのプレーン・ノットにめ、最後にこんいろのブレザーを羽織って着替えを済ませた。

 寝癖ねぐせを整える為、その最後に一度だけ、やや伸びている髪に適当にブラシを掛ける。

 そうした後、部屋の壁に掛かっている姿見すがたみ自分の姿を映して見ると、起き抜けに朝鬱と戦っていた当時の締まりの無い風体ふうていはどこやら、生徒手帳をめくると最初の方に載っている、校則で定められた学生らしい服装を説明する見本イラストのようであり、その服装、そして髪型ともに、一切が完璧だ。

 たまに海外勤務から帰って来る、頼もしいビジネスマンである親父が、まだ単身赴任をしていなかった頃の出勤時のスーツ姿を思い浮かべつつ、俺はそんな鏡の中の自分を見ながら、少し曲がったネクタイを直す。


 そんな風に着替えを済ませ、キッチン兼リビングの様子を見に来ると……。

 そこには、もう出発五分前の時刻になると言うのに、未だに寝巻のパジャマの格好でテレビを見ながら食べ掛けのパンをのんびりと咀嚼そしゃくしている、香織の姿があった。

 育ち盛りのせいで、どうやら、目玉焼きサラダとご飯いちぜんと言う食事では足りず、追加の食事として、薄い八枚切りの食パンを一枚焼いたらしい。

 テーブルの上を見ると、香織は更に牛乳も飲んでいるようだ。

 俺はこの妹ののんびりした様子に少しウンザリしつつ、釘を刺す。

「なあ、香織? お前、いつまで、そんな格好でいるつもりなんだ? 俺の方は、あと五分もしたらば、ここを出るぞ?」

「えっ? あと五分で? ちょっと待って!?」

 と、香織はようやく慌て始める。


 この家の玄関のドアは、扉をきちんと閉めれば、それだけでじょうが締まると言うタイプのオート・ロックになっている。

 ゆえに、出発予定時刻の七時三十五分を少しでも過ぎたら、戸締りの心配が無い以上、俺はこのまま香織を置いて家を出る腹づもりである。

 つーか、実際、昨日は余りにも香織がグズグズしているので、置いたまま先に出て行ったがな。

 ……一応、マンションの下の共用玄関で、香織の奴を待ってやってはいたが。

 玄関のドアは、更に鍵を使う別の錠前で二重にロックする事も出来るが、このマンション全体が入っているセキュリティ会社の警備システムがあるので、家族全員でどちらかの祖父母の実家に遊びに行くとか、長期に渡って家を空ける場合でも無い限り、通常はそこまで厳重な施錠せじょうはしてい無い。

 と、そんな事を考えていると、香織が口をもぐもぐ動かしながらバタバタと自室へ駆け込もうとしたので、俺は素早く彼女の腕を掴んで引き留める。

「待て、香織。……そのパンくずの付いた口で、新しい制服に着替えるつもりか?」

「え!? いけない? フガフガ……」

 香織は立ち止まり、解放されたその手で、口元をパッパッと払う。

 そして、モゴモゴと口を動かしながら、聞き取り辛いくぐもった声で聞く。

「ね? と、取れた? えへへ」

「口元を払うだけじゃ無くて、まずはそのパンを飲み込んで、それから水も飲め。そうしたら、最後の仕上げに歯磨きをするんだ」

 香織はうんうんと頷き、何とか口の中のパンを飲み込むと、既にシンクの蛇口に取り付けた浄水器から汲んで置いてある水差しの水をコップに注いで飲み、それをどうにか飲み下す。

 そのまま洗面所まで付いて行くと、香織は歯磨き粉も使わず、ブラッシングとうがいだけをし、自分の部屋へと戻って行った。

 俺は、その歯磨き粉の未使用と言うぞんざいなブラッシングについて注意しようかと思ったが、時間が勿体無いので、止めておく。

 そう言えば……この前、母親から与えられた歯磨き粉が、ミント臭くて嫌だとかとも言っていたしな。

 大体、俺も中学に上がるくらいまではそうだったので、その香織の気持ちは分かるつもりだ。

 それに、あまり匂いのきつい歯磨き粉を使うと、その強烈な刺激臭を消す為のうがいに、案外と時間を食うので、今日の所は大目に見てやろうか。

 こうした口臭は、それが割りかし人同士が離れている学校の教室でならばともかく、より人口密度の高い乗車率二百%オーバーの混雑する通学バス内では、時として問題だ。

 高校に入ってからと言うもの、俺も朝食後の歯磨きに使う歯磨き粉の分量は、幾らか節約気味である。

 そんな具合なので、今回、敢えて毛先に工夫の施されたデンタルブラシと歯磨き粉を使った正式なブラッシングを命じる事は止める。

「ほい。にーやん、お待たせ」

 二分ほどして、香織はようやく学校に行けるだけの支度をして、テレビを見ている俺の待つキッチン兼リビングへとやって来た。

 そんな香織の格好はと言えば、真新しいかばんに真新しい制服と言う、ちで、ヨレヨレにくたびれたパジャマ姿のさっきとは、まるっきり見違える、立派な女子高生の格好に変身している。

 適当にとかした頭の髪形は少々野暮やぼったく見えるが、しかし、そこを変にいじくられるよりマシだ。

 こいつがポマードやムースで固めたおかしな髪で登校したりしたら、兄であるこの俺が、その日の内に学校から呼び出しを喰らい、先生から妹の髪形への注意指導を要請される事は必至ひっしだ。

 そうなれば、高校生活最後の一年間である今年度を、今まで以上に大過たいか無く過ごしたい俺の方としては、たまったものではない。

 香織の俺は鞄を取りに、もう一度キッチン兼リビングから自室へと戻る。

 香織は特に念入りにとかしたらしい前髪をいじり、照れながら俺に聞いて来る。

「ね、にーやん。これで大丈夫かな? えへへ……」

 全く、今年は高校にまで入ったと言うのに、この妹はいつまで経っても子供である。

 この調子では、もうしばらくの間、生活指導をしてやらねばなるまい。

「まあ、それで大丈夫だろう。もう、それ以上、変にいじるなよ」

 学校へ持って行く物は、忘れ物などが無いよう、常に前日の夜までに用意を済ませてあるが、一応、そんな入れ忘れや、持って行ってはなら無い物が紛れ込んでいないか、チェックする。

 調べた感じ、どうやら俺の鞄の中身には、特に問題は無いようだ。

 出掛ける前、最後に火の始末や家の戸締りをするのは、俺の役目である。

 手早くコンロや風呂場、電化製品のチェックを済ませ、玄関へと進む。

「香織、ハンカチは持ったか?」

「うん!」

「ケータイの電源は切ったか?」

「うん!」

「何か、鞄に余計な物を入れて無いだろうな?」

「もう……。大丈夫だよ、にーやん」

 香織は呆れ顔でそう言った。

 身支度が全て整うと、後は登校するのみである。

「いってきまーす!」

 香織は意気揚々と出掛けの挨拶をし、俺よりも先に家のドアからマンションの廊下へと歩み出る。

 それと対照的に、俺はため息混じりそそくさと家を出る。

 家のドアはオートロックなので、きちんと最後まで閉めれば、施錠作業をする必要は無い。

 それから俺は、その扉の前で待っていた香織と一緒にエレベーターに乗り、一階へと降りる。

 マンションのエントランスから出ると、眩しい春の日差しの中に、香織はその身をおどらせる。

 しわ一つ無い制服に、真っ白な真新しい肩掛け鞄、そして紺色の体育着入れを手に持っており、いかにも新入生と言った感じである。

 もっとも、靴の方はと言えば、これは中学の時からの履き古しの学校指定の白い運動靴だ。

 そして、そんな香織はまるでスキップでもしているかのような颯爽たる足取りで、響かせる靴音も軽やかにバス停へと向かって行く。

 対する俺はと言えば、そんなピカピカの一年生である香織の後ろを、朝鬱のもたらした重苦しい気分の名残りを抱えながら、まるでリストラされたサラリーマンのような表情をして、足取りも重く、元気良く歩く妹の後を付いて行くのだった。

 最終年次の三年生ともなれば、何とか駆け抜けてきた学校生活もいよいよ大詰めを迎え、受験や就職など生徒各自の希望進路に向けて、学年全体がこれからラスト・スパートと言ったムードに包まれ始めている。

 全く、四月の初めからこれでは、スパートを掛けるどころの話ではない。

 これからの一年間、俺は朝鬱や予定している受験などのストレスを背負いながら、何とか擦り切れずにやっていけるのだろうか……?

 正直、自信は半分半分と言ったところだ。

 つらつらとそんな事を考えながら、ビルや住宅などが並ぶ街並みをどんどんと歩いて行く。

 割と山がちなこの近辺でも、この自宅のある付近は道路に沿って所狭しと建物が並ぶ都市部であり、交通機関も揃っている。

 朝の忙しげな車の動きに注意しながら、俺と香織は家から徒歩五分あまりの距離にある、駅前の正面に設けられたターミナル内のにある最寄りのバス停を目指して歩き続けた。


 ──バス停に着いてから約十分後。

 時刻表に書かれた時間通りに、冷暖房が完備で混雑している事以外には快適極まりない通学バスがやって来た。

 目の前の車道に走り込んで来たバスは、物憂げな制動音を立てて停車し、その後に開け放たれた扉から降りる人が出尽くすのを見届けてから、俺達きょうだいは学割で買ったカード型の定期を手に、その混んだ車内へといそいそと乗り込む。

 香織がバス通学をした初日である入学式、事前に注意しておいたにも関わらず、降りる人よりも先にバスに乗ろうとしてちょっとしたトラブルになった事があったので、それ以降、バスは必ず俺が先に乗る事にしている。

 今を思えば、あの始業式を兼ねた入学式の日は、四月だと言うのに珍しくも雪が降りそうな寒さだった。

 香織はと言えば、新入生ならば当然と言うべきか、珍しく朝六時半の早起きなどして、あの雪やこんこの唄い出しで始まる「雪」と題する童謡に登場する犬のように、庭ならぬ家の中を興奮して歩き回っていたものであったが。

 そんな調子なので、兄としてはこの妹が高校入学後の新しい生活に慣れるまで、しばらく見ていてやる必要を感じた。

 さて、読み取り機に定期を通して階段を上がったものの、まだ乗り降りする場所には近くて危険である。

 俺は後から付いて乗った香織に命令を発する。

「おい、香織。もう少し、奥の方に行くぞ」

「うん」

 これだけ人でごったがえしているバス内で、わざわざ人をかき分けるようにして妹のそばについている必要は無いのだが、香織はバス通学にまだ慣れてい無いので、念の為、横に付き添う事にしている。

 お互いに高校生とは言っても、誕生日が六月で遅生まれの俺とは正反対に、香織は三月の後半と言う大変な早生まれだ。

 つまり香織は、ついこの前に満十五歳になったばかりなのである。

 ゆえに、多少過保護になるかもしれ無いが、一人で色々と出来るようになるまでは、兄の品格として色々と手助けしてやるつもりである。 

 そうこうしているうちに乗車口の扉が閉まり、バスが発車する。

 今日も何とか、無事に乗れたようだ。

 そして、これまたいつものように、バスに乗車している他の沢山の生徒と共に、俺達は学校へと運ばれて行くのだった。


 ──およそ十数キロ、時間にして二十分ばかりの通学路をバスに揺られながら、俺と香織は自分達の通う学校──県立東浜ひがしはま高校へと向かう。

 走るバスの車内に立ち尽くしたまま、俺はぼんやりと窓の外の景色を眺める。

 妹が同じバスに乗り込んでいると言う以外、これまでの二年間と全く変わり映えの無い通学の風景である。

 過ぎ去って行く街並みを目にし、俺は短い溜息を吐いた。

 高校入学当初、ガリ勉をしていた時分には、バス内で単語帳なんかを取り出し、難しげな顔つき次々にめくってそれを覚えようとしてたりしていたものだが、今ではそんな事も止めている。

 そうした勉強の仕方は、結構、暗記すべき中身が頭に入ったりするものだから、今でも全ての部活がテスト前の休みに入るような、定期テスト前の数日には、そんな風にバスの中での時間を潰したりもする。

 しかし、別に今はそんな時期でもないので、単語帳は鞄の中へと大人しく仕舞い込んである。

 街を抜け出したバスの車窓から見える風景は、標高の低い無名の山々が連なるものになっていた。

 住宅地やら畑やら森林やら山肌やらが複雑に入り組み、それなりに風光明媚である。

 平地へいちで発達している都市部を除けば、この辺りの地方の地形は、大体がそんなものだ。


 ──と、バスが発車してしばらくの後、まずい事が起きた。

 目が覚めた時にほぼ退治したはずの朝鬱が今頃になって息を吹き返し、底意地悪くも隠れていた深層意識から次々と飛び出て、俺の意識内にやって来てしまったのである。

 俺は「ドナドナ」で歌われる市場へと出荷されていく子牛のような気分で、吊り革に付いた丸いプラスチックの輪を握り締め、歯を食いしばった。

 こうなって仕舞うと、同じくバスに乗っている香織の事より、自分の方を心配しなければならない。

 俺の異変に気付いた香織が、俺に向かって怪訝な顔で聞く。

「ね、ね。にーやん?」

「あ?」

「もー、にーやんったら、さっきからどうしたの? 変な顔してるよ? 乗り物酔い?」

 「苦虫を噛み潰したような」と言う言葉は、まさに今の俺の顔を指す言葉に違いない。

 周りにいる他の連中にも、俺はきっと少しばかりおかしな奴に見えているだろう。

 いや、そんな事は最初から分かっている。

 そもそも、バスに乗っている最中、風邪気味だとか車酔いで気分が悪くなるなんて事は、常日頃から十分あり得る事なのだし、周りの乗客に多少変な風に思われた所で、それ自体はどうって事は無いのである。

 バスが所定の場所に着き、学校に登校してしばらくすれば、このしつこい朝鬱も徐々に消え去ってくれるはずだ。

 問題は、今の俺自身が抱えている鬱な気分と、そんな兄の窮状きゅうじょうを察して、心配してからんで来る香織をどうするかである。

 気分が優れているうちにさっさと登校して仕舞うと言う黄金パターンを既に編み出している俺にとって、香織のこの反応は、周囲の注目を一身いっしんに浴びて仕舞う分、ありがた迷惑ではあった。

 そして──色々と考えた挙句、俺は重々しく口を開く。

「あ……いや、なんでもない。ちょっと、眠いだけだ」

「え? ほんとに大丈夫?」

「ああ。大丈夫だから、お前は心配するな。いいから、香織は黙って、あっちを向いていろ。もう俺に構うな」

「うん……」

 そして、欝な気分が運動不足のせいであまり鍛えられていない三半規管にまで侵入して酔いをもたらさないよう、俺はバスの横向きだった体を九十度回転させ、進行方向に対して正面を向く。

 本当に乗り物酔いなどになったら、午前中の授業がまともに受けられなくなる。

 毎日の授業で習う範囲の予習は、少なくともその日のおとといまでに完璧に終わらせるように、常日頃からの習慣でしているので、今日、授業を受ける状態が散々だったとしても、五月の半ば以降に控えている中間試験には差支えないだろう。

 問題は、今日、授業中に気分が悪化して、保健室で休むような事にならないかである。

 これはある程度の年齢になれば分かる事だが、そもそも学校に行ってきちんと授業に出席すると言う事は、それが試験の結果に関係がするとかしないとか、そういう問題とは全く無関係に、それ自体が一種の能力の発揮であり、大事なのだ。

 さて、一説によれば、乗り物酔いやゲームなどをしていて時たま起こる3D酔いは、頭の傾きや揺れを感知する三半規管から得られる平衡へいこう感覚と、目から得られる視覚情報との不一致によって、脳が混乱する為に起きるそうである。

 つまり、三半規管による平衡感覚が発達していればいるほど、その不一致の幅も大きくなり、乗り物酔いをし易くなる……らしい。

 ──ん?

 と、言う事は、だ。

 俺の三半規管はオリンピックなどの各種スポーツ大会で活躍するようなアスリート並みと言う事なんだろうか。

 だとしたら、凄い事だな。

 ってか、仮にそうだとしても、運動部に入っている訳でも無い、しがない優等生の俺には、その平衡感覚に優れていると言う資質が、全く良い方向に生かされていないぞ。

 全くのデメリットでしかない。

 帰宅部のようにほぼ毎日登校して下校するだけの日々を送る俺にとって、そんな凄さに何の意味があるって言うんだ?

 推理小説研究部、略して推小研すいしょうけんと言う部活に入っているとは言え、その活動内容は運動能力の全くいらないものだしな。

 そんなこんなで、しばらくの間、朝鬱との戦い第二ラウンドの脳内戦闘を繰り広げた末、何とか俺は精神の中心部に殺到していた欝軍団の攻勢を防ぎ切り、沈み込んだ気分も再び回復基調に戻すに成功した。

 朝鬱による悪影響も、どうにかノーダメージに近い程度で済みそうな気配になり、少し安心した俺は、ずっと進行方向に向けていた頭をそろそろと動かし、バスの窓の外を見てみる。

 東浜高への到着が近いいまのようなころいになって来ると、通学路の景色もひときわ良くなって、通学バスは緑に囲まれたV字谷の間を走るような感じになり、まるで本当に遠足にでも来たようである。

 初めてこの道路を通る人なら、途中で白いコンクリート製の陸橋なんかもくぐったりするので、全く旅行にでも来たようなひとときを味わえる事だろう。

 しかし、そんなちょっとした観光地並みに美しいとさえ言える通学バスの外の景色も、朝鬱を退しりぞけた後の複雑な気分に支配されていた俺には、それらが後方に流れていくままを険しい表情をして眺めるだけのものだった。


 ──数分後、漁港でもある東浜ひがしはま港のある、港湾方面へ続くトンネルに面した交差点で、これまで直進していたバスは左折した。

 しばらく走った辺りで左手の上方を見ると、高台の切れ目に古びたネットが張られているのが見え、何かそこにスポーツ施設的な敷地があるらしいのが分かる。

 これが、我が県立東浜高の裏手である。

 すぐにバスは、緑に囲まれた谷の道を抜け、住宅や畑なんかがある開けた場所に出た。

 この辺りまで来ると、近隣が海辺なだけあって、窓を開ければ軽く潮なども香って来るが、そうした事は周りの迷惑なので止める。

 道路の向こう側に木々の立ち並び、その奥に学校の建物が見える辺りで車体が止まった。

 東浜高のすぐ近くの海岸沿いには、もう一つ、公立の学校がある。

 バス停の目の前にそびえる木々の向こうにある、フェンスで区切られた敷地と建物は、漁業関連の技術を習得する為に置かれている、県内唯一の水産高校の成渚せいしょ高校がある。

 俺が東浜高での学校生活を始めた入学後数日の当初、いつも登下校時に目にするこの学校の名前の「成渚」の読み方を知らず、いささか落ち着かない気分だったのだが、しばらくの後にバス内で耳にしたそこの生徒の会話から、「せいしょ」と読む事が判明して、ようやく日常に潜んでいた気持ち悪さから解放された記憶がある。

 ここから西側に見る事が出来る俺の通う東浜高校は、徒歩数分と言う近場で目と鼻の先なので、それなりに交流みたいなものもあり、夏休みが過ぎて時期が来れば、合同で学園祭を催したりなんかもしている。

 目と鼻の先と言う言葉がそのまま当てはまるように、東浜と成渚は余りにも近いので、実を言うと最大のイベントである文化祭も、両校の合同で行っている程だ。

 俺は文化祭の最中に足を運んだだけだが、中には互いに付き合っている男女もいるらしい。

 バスが停車し、何かの圧を開放するプシューと言う音と共にドアが開くと、他の生徒ともども、俺と香織もバスから降り始める。

 階段を降りる際、まだバスの揺れに慣れてい無いせいか、香織が階段の途中でバランスを崩し、

「うわわわわわぁ!」

 などと言って転びはぐったので、俺は制服の首根っこを掴んで引き戻してやる。

「おい、何やってるんだ? ちゃんと足元を見て降り無いと、危ないぞ?」

「うん。ふう、危なかった……。ありがと、にーやん」

 全く、世話の焼ける奴だ。

 と、俺はバスの中では気付かなかった妹の様子の変化を見て取る。

「おい、香織、大丈夫か? お前、ちょっと顔があおいぞ」

「うん、えっと……。ずっとにーやんを見てたら、何か、私まで気持ち悪くなっちゃったよ」

 背丈は違うが、香織のその顔の作りは、母親と、姉の小さい頃の顔にそっくりだ

 性別が違うとは言え、きょうだいは、両親から殆ど同じ遺伝子を受け継いでいるのだから、乗り物酔いのし易さに付いても、俺と同じレベルであったとしてもおかしくはないな。

 入学式のあった先週の様子から、大丈夫だろうと思っていたのだが、バス通学三日目の今の具合だと、やはりこれを与えておく方が良さそうである。

「全く、本当にしょうがない奴だな……」

 俺は香織に歩み寄ると、ブレザーの内ポケットを探り、そこに常備している酔い止めの入った紙箱を出し、そこから一シート分ほどを香織に差し出した。

「ほら、これをいつも持っていろ。使い方は分かるな?」

「あっ、何これ? くすり?」

「そうだ。途中で気分が悪くなって早退とかになったら困るから、今すぐ服用しろ」

 念の為、その用法・容量も教えて置く。

「服用は、一度に一錠までだ。近くに水が無い時は、キャンディみたいにめていればいい。胃腸が荒れる可能性があるから、そのまま飲み込むんじゃ無いぞ。それと、お前だけじゃ無く、もし友達がバスに乗っていて酔いそうになった時は、お前がこいつをあげて、その人を気遣ってやるんだ」

「うん。やってみるよ、にーやん。ありがと」

 香織はそれをスカートのポケットへと仕舞う。

「あっ、おい。いま服用しろって言ったろ、今」

「あっ、そうだった」

 香織は慌てて、先程渡した酔い止めをポケットから取り出し、一錠ほど口に入れ、ニコニコしながら頬を膨らませる。

 が、その柔和な顔は、すぐに渋面じゅうめんに変わる。

「うう~……。ねえ、にーやん。この薬……もの凄く苦いよ?」

「当たり前だ。良薬りょうやく口に苦しって言うだろ」

「えっ? りょうやくくちににがし? 何それ?」

「良薬って言うのは、漢字で良い薬と書くんだ」

「あ、なるほどぉっ」

「……その意味は、聞きたくないような忠告であってもな、ちゃんとそれに耳を傾ける素直さが大事って事なんだぞ? まあ、その酔い止めに関しては、小さい子供とかが誤って口に入れ無いように、わざとそうしてあるのかも知れないがな。そう言う訳で、香織、お前は今ここでそんな苦い思いをするからこそ、その気持ち悪さを治す事が出来るんだぞ。それとも、その気持ち悪いままでいたいか?」

「え? それって、結局、どっちにしても苦しいよ、にーやんっ! 金の斧とか銀の斧みたいな話だよ。苦く無い薬は無いの? て言うか、にーやん、この近くに水は無い? 水」

「服用したばかりで水を飲むな。舌から吸収するんだぞ、それは。今は我慢して、後で、学校の水飲み場の水でも飲んでおけ。それとも、その気持ち悪いまま授業を受けて、教室とかで吐きたいのか?」

 香織は唇を強く閉じたまま、フンフンと首を振る。

「そうだろう。それと、一つ注意だが、その友達がアレルギーなんかを持ってる場合は、迂闊うかつにあげない方がいな。その辺のコンビニでも売ってる市販の酔い止め薬とは言っても、お前があげた薬のせいで、その人と薬の相性が悪いせいで、ショックにでもなったら大変だ。だから、そう言うおそれがある時には、少しずつ舐めさせて、絶対に飲み込ませないように注意するんだぞ? ついでにこいつも持ってけ」

「……うん、分かった」

 紙箱から酔い止めの説明書を引き抜いて香織に渡すと、俺はバス停から学校までの間を先行するように指示し、坂道を上がって校門までの五百メートルばかりを歩きはじめる。

 

 住宅地を抜ける頃になると、左側に学校のテニスコートの見える道が左に伸びているので、そこを真っ直ぐに進む。

「おい、香織。先生の前で、そんな風にまるで登校しながらお菓子でも食べてるように口を動かして歩くなよ? 色々と、疑われるからな」

「えっ、どうして? 何を疑われるの?」

李下りかかんむりを正さずとも言うけどな、そう言うお菓子でも食っているような紛らわしい真似は、余計なトラブルの元だから、止めておくんだ」

「あ、うん、分かった。だいじょぶだよ、にーやん。エヘヘ……」

 酔い止めの効果がてきめんだったのか、そう言って香織は再び歩き出す。

 歩を進めていると、高台にある校舎までの道に次第に登校してくる生徒への指導と侵入者対策の為に先生達が立っているのが見え、その両脇に、人の背丈ほどの高さの正方形をした巨大なコンクリートブロックが、両脇に置いてあるのが見えて来る。

 香織は酔い止めを舐めながら、悠然とそこを通り過ぎる。

 東渚高校前にあったような重々しい鉄製のゲートが無いので、一見そうは見え無いが、これが我が東浜高校の正門なのである。

 そんな鉄製のゲートは、校舎のすぐ近くにある。

 まるで江戸時代の関所のようなそこから先には、通常の人が通れる学校へのルートは主に三つに分かれ、門を入って右の北へ伸びる坂道が第一のルートだ。多くの生徒は、登校時にここを通って校舎の裏手にある昇降口へアクセスする。

 左にも同様の坂道があり、曲がった先のすぐに斜面に階段が備えられているのが見え、これがテニスコートと学校の敷地を直接繋ぐ第二のルートとなる。急階段を登った先にはプールがあり、また、それに隣り合うように校庭に面して運動部の部室棟があって、朝練なんかがある運動部員はここを通って、直に部室棟に移動する事もあるらしい。

 ……らしい、と言うのは、朝六時だとか、そんな自宅で起きるような時間帯に学校へやって来た事など皆無なので、野球部に入っている友人から聞いたと言うだけの話である。

 残る第三のルートは、左の坂道をそのまま上がって行くもので、先には白い屋根をした我が校の第二体育館の裏手や、通学バスからも見えた、野球のバックネットの張られた校庭の端の辺りに続いている。

 詳しい地理的状況なんかは、学校のホームページに簡単な地図が乗っているので、それを見て欲しい。

 俺は学校へと続く緩い坂道の前の道路にたむろしている先生方に朝の挨拶をしつつ、香織を置いてけぼりにして、手早く正門を抜け右折した。

 この先の桜の木の植わっている坂を上がって行くのが一苦労なのだが、俺のような運動不足になりがちなバス通学の生徒にとっては、良い朝の運動になるだろうさ。

 途中で痙攣など起こさないように、坂の前で軽くアキレス腱を伸ばしつつ、競歩の選手のような足取りで坂を登り始める。

 まだ時間的には余裕たっぷりだが、早く教室で待機しているに越した事はないはずだ。

 昨日の日曜日には少し雪が降ったので路面の凍結が不安だったのだが、すでに融けているようで、スリップして坂の下まで転げ落ちてしまう危険はない。

 俺は歩きながら、高台の上にそびえる校舎を一瞥する。

 それにしても高台に上がる坂道に植わっている桜は、見事に満開だ。

 入学以来、俺はこの道を毎日のように歩いている。

 そこに妹が加わったと言う以外、何も変わら無い日常の風景。

 校舎から南東の方を見れば、そこには少しではあるが海が広がっていて、時折、付近を通る船舶が見えたりと、公立校とは思えないくらいにいたって雰囲気の良い場所だ。

 今通っている東浜以外にも、進学先の候補には家から同じくらいの距離にある都市部や山の中の学校もあって、高校受験の当時はいずれに出願するべきか迷っていたのだが、今の所、東浜高を選んで正解だったと、俺自身では思っている。

 もっとも、その頃、海外への単身赴任からたまに帰ってくる父親に倣って釣りを始めた事もあって、どうせなら海が近い学校の方が何かと面倒がないかな、なんて言う、非常に適当な選定理由によるものだったが。

 と、下界を見下ろすと、同様に学校へ歩いて行く生徒達の中で、香織が立ち止まって、何やら口を開けて空を見つめている。

 はて、欝や妄想と言った精神疾患は伝染性のものだっただろうかと内心首を傾げつつ、俺はようやく上がって来た香織に近付いた。

「どうした? 何か、珍しい鳥でも飛んでたか」

 すると、香織は「うーん」と唸った挙句に、

「ねえ、にーやん。今まで、UFOって……見た事ある?」

 などと言う電波発言が来やがった。

「はぁ?」

 ダメだな、こいつ、意味不明過ぎる。

 だが、待てよ。

 この辺りには幾何学的な形状をしたタワーのある、垂直離着陸の可能な乗り物の発着場としてはぴったりの雰囲気を持った大きな公園なんかもあったりするからな。

 万が一と言う事があるので、俺も一緒になって、鵜の目鷹の目で付近の上空を見回してみる。

 もし香織の目撃が本当なら、人類が地球外生命体と遭遇する決定的瞬間をこの目に収められるチャンスかも知れない。

 ……などと思ったのだが、俺の視界に映ったものと言えば、少しばかり浮かんでいる雲と鳥くらいのもので、上空にはそれらの他に物体は見当たらず、何の異常も見られなかった。

 対空警戒、終了。

 全く、あと十五分も経てば、朝のHR《ホームルーム》が始まり、その後に授業も開始されると言うのに、我が不肖の妹である香織は何を寝ボケた事をほざいているのかと、内心、忸怩じくじたる思いでその顔を覗いてみる。

 すると、実に人畜無害そうな面食らった顔がそこにあったので、俺はますますゲンナリとした。

 香織の肩を掴んで軽く揺すぶりながら、

「おい香織、早く目を覚ませ」

 などとたしなめると、

「もう、にーやんたらあ、私、ちゃんと起きてるよ!」

 と、いかにも拗ねたように、歯をむき出しにして怒る。

「だったら寝言みたいな事を言うのは、寝ている時だけにするんだ」

「寝言じゃないってば。今、なんかいたもん!」

 香織は頑としてそう強く主張する。

 全く、一体、何が飛んでいたと言うんだ。

 と言うか、今はそんな事どうでもいい。

「それは多分、鳥か虫か、風に飛ばされたビニール袋か、あるいはそれに類似した何かだ。教室に行っても絶対にそう言う言動はするな。お前はここで何も見無かった」

「むぅううううううう!」

 香織はフレンチブルドックのように顔を歪めて、不満げに唸る。

 厚紙で作ったハリセンで張り飛ばすぐらいの事は許可するので、誰か早くこのバカをなんとかしてくれ。

 つくづくバカな妹の態度に、俺は深いため息を吐き、家の近所に眼科の病院はあっただろうかなどと思案すると同時に……ふと、最近の生活における重大な懸案事項を思い出した。

 この件の重大性に比べれば、未確認飛行物体だとか未知との遭遇だとか、もうそんなSFチックな話はどうでもいい。

 早速、香織に問いただしてみる。

「そうだ香織。UFOだとかそんなバカな事よりもな、弁当はどうした。今日は入れ間違えて無いだろうな?」

 香織はハッとした表情になり、すぐさま鞄の蓋を開け、中を探る。

 しばらくゴソゴソやった後、香織の手に取り出されたは、いかにも女子高生らしい、可愛げな動物のキャラクターが沢山描かれた弁当袋である。

「調べてくれ」

 俺は厳かにそう言い、そのファンキーな袋の中身の調査を命令した。

 香織は中を開けてみると、

「あー……また入れ間違っちゃってるよー」

 と言ったので、俺は心の中で悪態を吐きつつ、しばし固まってしまった。

 毎日のように学校に持参している弁当は、朝食とは異なり、前日の深夜にパートから帰った母親が用意して袋に入れ、翌日まで冷蔵庫に保管して置くのだが、時々、作り終えた弁当箱とそれに被せる袋を間違える事がある。

 全く、母親のマヌケぶりには、本気で健忘症か何かに罹ってるんじゃ無いかと疑いたくなるのだが、夜勤疲れのせいかどうしても弁当箱と袋のセットを一致させる事が難しいらしい。

 さて、俺はどうしたら良いのだろう。

 学校に着いて午前中の授業を受けてから、昼休みに香織と落ち合って弁当の袋などを交換すると言うのは、面倒である上に、俺と香織がきょうだい仲べったりのようで、何となく気恥ずかしい。

 では、今ここで弁当袋を開けて入れ違った中身の箱を交換し、両者を正常なセットに戻すのはどうだろうか?

 根本的な解決に至るこの案も、俺は次の危険から、即座に棄てた。

 万一、取り出した弁当箱の受け渡しをしている最中、箱を止めている布製の輪ゴムの親玉みたいなのがスルリとすっぽ抜けて、蓋が簡単に開くような状態になり、肝心の昼飯が何かの加減で手から離れ、この道路にぶちまけられないとも限らない。

 そんな事になったら、昼飯の心配以前に一大事だ。

 まず天下の往来で弁当箱をひっくり返すなどと言う不始末をやらかしてしまったからには、その当然の責任として掃除をせねばならない。

 香ばしい匂いを放つご飯やらおかずについては、その辺の川の魚の餌として始末するにしてもだ、朝っぱらから申し訳なさそうに近所の民家の戸を叩き、片付けの為のチリトリやら箒の貸し出しを申し出る面倒は、何としてでも避けたい。

 つーか、そんな事をしていたら時間的に学校への遅刻は確実だ。

 今の所、俺の二年次からの出席状況は、皆勤に近い感じで通っている。

 そして、それは三年生に上がったこれからも続いて行かねばならない、目標のひとつである。

 ──しからば。

 俺はとっさに周囲を見回す。

 バス停から通学バスが去ってしばらくした今では、この道を通る生徒の大方は既に学校の方へと移動し、付近のギャラリーはずっと少なくなっている。

 香織の袋に入っている自分の弁当を取り戻す方法をものの数秒で立案した俺は、直ちにそれを実行に移した。

「よし、香織。そっちの袋を貸せ」

「え?」

「いいから寄越すんだ。お前はこっちを持って行け」

 昼時、弁当袋は鞄の中で開け、弁当箱だけを何食わぬ顔で机の上に取り出して、昼食に入る魂胆である。

 俺は自分の鞄を開け、薄青い色の弁当袋をそこから出すと、香織の持つキャラクター付きの可愛らしいのを受け取って、さっさと仕舞った。

 実際、弁当袋を交換してみると、やはり重さが違う。

「にーやん、私、そっちの袋がいいよ!」

「駄目だな。どう考えても、中身の弁当を入れ替えてる暇は無いぞ。今日は我慢するんだ。あと、お前も早く教室に行けよ。じゃあな」

「むぅううううううううううううう! もうっ! にーやーんっ!」

 すべき事をなし終えると、俺は唸り声を上げる香織を置いて、早足で東浜高校の学び舎へと向かい始める。

 すると、香織は誰か友達を発見したらしく、パッと表情を変えた。

「あっ、同じクラスのあかねちゃんだっ。それじゃあ、にーやん! 私、先に行くから、またね!」

「ああ。焦って、昇降口の所の段差で転ぶなよ」

 坂を上りきった所の、松が何本も植えられている築山が幾つもあるエリアを通り、俺はようやく昇降口にたどり着いた。

 昇降口は特に大人数がいる訳でも無く、ガランと空いている。

 ここが黒山の人だかりとなる前に来られて良かった。

 俺は余裕で下駄箱に入っていた上履きをさっと掴み、下足を手早く上履きに履き替えて、一階にある自分の教室、三年六組へと向かった。


  昇降口で上履きに履き替えると、光を反射している白いリノリウムの床が伸びる廊下を、俺はトボトボと歩き──ようやく、自分の教室へと辿り着く。

 今朝は色々あったせいか、授業が始まる前の今の時点で既に軽い疲労感を覚えつつある俺の元気も、残す所あと七割と言った具合だ。

 扉を開けて入った教室の中には、まだ朝のHR《ホームルーム》までに時間があるせいか数人の生徒の姿が見えるのみで、昇降口や廊下と同様、閑散としている。

「よう、成海」

 すると、楽な姿勢で机に座ったまま、俺に出迎えの言葉を掛けて来た奴がいる。

 そいつは、俺の親友の一人である阿部あべだった。

 野球部でレギュラーをやってるせいか、奴の髪型は、今日も変わらず、清々しいまでのスポーツ刈りである。

「なんだ、阿部も来てたのか。もう、朝練は終わったのか?」

 俺は軽く手を上げ、フランクな笑顔でそれに応える。

 この日に焼けた顔の髪の短い男子生徒は、フルネームを阿部あべひろしと言い、野球とゲームが大好物の健康優良児だ。

「ああ、もうとっくに終わってるぜ。今日は金曜日だから、放課後にみっちりと練習があるんだよ」

 そう言って、阿部は右手に持っていたボールを左手に渡し、それを捕まえる。

 阿部はこの東浜高校の野球部で主力の、それも左手で球を投げるサウスポーのピッチャーをやっていると言う、スポーツ青年の顔を持つ半面、二次元や二・五次元の架空の女性などを恋愛的に攻略するゲーム、いわゆるギャルゲーを中心に、オンラインRPG含めたその他の様々なゲームにハマるゲーム青年と言う、裏の顔を持っている。

 本人としては、ギャルゲーを熱心にやっているのはリアルでの彼女作りの為の練習らしく、その甲斐あってかは知らないが、阿部は中学三年の頃から、当時一年生だった我が家の香織と、彼氏彼女の恋人同士の関係で付き合うようになり、今に至っている。

 阿部はその立ち振る舞いから、一見、割とい加減そうに見える奴だが、彼の実家は手打ちの蕎麦そば屋をしており──その理由の多くは小遣い稼ぎの為なのだろうが──そんな家業かぎょうあとり息子である彼も、休みの日にはその店内での作業や出前運びなどをしてしっかり働いていたりするので、香織の実の兄である俺としては、むしろ、この俺と関係の深い二人が付き合っている事を歓迎している。

 しかし、そんな親友とは対照的に、どれほどそんな女の子の登場するゲームをやっても、俺自身の「彼女いない歴=年齢」と言う、これまでの経歴が一向に変化する気配が無いのは、これは一体どうした事だろうな?

 そんな所が、世の中の不思議と言うやつである。

 いや、それはもはや、声高に是正を要求するのに足りる不平等であり、不公平だ。

 神仏よ、朝鬱の事などどうでも良いから、俺の好みにぴったりの彼女をくれ!

 時折……そんな風に祈りたくもなる。


 俺が自分の席の机の横に鞄を置き、溜息交じりに席に座った辺りで、阿部は俺の顔をまじまじと見つめる。

「ん? なんだ? 今日は随分疲れた顔してるじゃねーか。どうかしたのか?」

 そう阿部は問い掛ける。

「いや、別に何でもないぞ。ちょっと、寝不足なだけだ」

 俺は香織に使ったのと同じ言い訳で、平静を装う。

 香織の顔を思い浮かべてでもいるのか、阿部はニンマリとする。

「なら良いけどな。成海と違って俺は自転車つうだから、そんな俺の代わりに、カオリンをしっかりエスコートしてやってくれよ? お兄様。痴漢とかに遭わねえようにな」

 こいつは俺の幼馴染と同様、我が妹の事を香織をもじってカオリンと呼んでいる。

「はぁ? 痴漢? あいつの器量から言って、殆ど、そんな心配は無いと思うぞ? まあ、気を付けて置いてやるが……」

「そうかよ。まあ、頼むぜ」

 俺は鞄を開け、筆箱と一時限目に必要なノートと教科書を用意すると、後ろに向き直って阿部とのおしゃべりに興じる事にする。

「はぁ、全く。それにしても、阿部はいいよな、一人っ子で。こっちは朝から香織の世話で、てんてこまいだぞ?」

 それを聞いた阿部は、残念そうに俺をたしなめる、

「あん? おいおい、折角、カオリンみたいな可愛いがいるのに、そんな風に面倒臭がるなよ。まあ、大体、分かるけどな。それにしても、ああ、俺も妹がいればな……。俺もお前みたいに、朝から可愛い妹の世話、焼きてえよぉおおお!」

 そう言って悔しがる妹の彼氏に、俺はその彼女の実兄じっけいとして、忌憚きたんの無い意見を述べる。

「言うに事欠いて、自分からあいつの世話を焼きたいとか……。そんな風に思えるのはな、最初の方だけだと思うぞ?」

「んな事あるかよ。ちゃんと末永くお世話をしてやるぜ。死が二人をわかつまでな。って言うか、お前んとこは姉ちゃんも妹もいて、ずる過ぎだろ! なあ、そろそろどっちか俺にくれよ? グヘヘ……」

 そう言って、阿部は締まりの無い笑みを浮かべる。

「やれるかっ! ……って言うか、真面目な話、うちの香織なら、このまま付き合いを続けて行けば、最終的には結婚出来るんじゃ無いのか?」

「ん……だよなっ!? まあ、その時は宜しく頼むぜ、お兄様」

「さっきから、何がお兄様なんだ……? いや待てよ、実際、そうなれば、確かに俺はお前の義理のお兄様って事になるのか……」

「ん? そうだぜ? って事は、お前んとこの姉さんも、俺の義理の姉さんって事になるんだな」

「ああ、そ、そうだな。じゃあ、もしそうなるとすれば、阿部は俺の義理の弟って事になるのか。義理とは言え、お前が弟とか、そう考えると、何だか複雑な気分だぞ……」

 また、下のきょうだいの甘えの対象でもあった、我が家の万能姉ちゃんである姉の綾音あやねが、友達とは言え他人の義理の姉になるのは、それも何となく、妙な気分である。

「まあ、そう嫌がるなよ。俺だって、お前が義理の兄さんってのは、何だか変な気分なんだぜ」

「そうだろうな。こっちとしても、まるで実感が湧か無いぞ」

「だから、こうして今のうちに練習しとくんだよ。お兄様」

「ぐはっ……」

 阿部は得々として俺をそう呼ぶが、それにしても、気持ちの悪い呼び方だ。

 今はまだ良いが、今後、そんな変な呼び方で定着して仕舞うのはマズイ。

 後で、元通りの苗字の呼び捨てに変えさせておこう。

「……それはそうと、明後日あさっての水曜にあるグループ・ワークって、どうしたら良いんだよ? これ、四、五人でグループ組んでやるみたいだぜ」

「ん? ああ、グループ・ワークか。……そう言えば、今年から、そんなカリキュラムもあったな」

 俺は机の中に入れていたクリア・ファイルから、グループ・ワークに付いて説明している、既に配られていたプリントを探し出した。

 ──と、その時。

「あ……二人とも、おはよう」

 この三年六組の教室の出入り口から見知った顔が入って来て、掻き消えそうなそのか細い声で、俺と阿部に挨拶をして来た。

 誰かと思ったら、俺と阿部の共通の友人である、桧藤ひとう朋花ともかであった。

「ああ。桧藤か、おはよう」

「よう」

 俺と阿部はそちらを向いて、返事を返す。

 桧藤は割と穏やかな性格をした女子で、繊細な雰囲気を持っている美少女だ。

 彼女は視力が悪く、二年生の時までは眼鏡をしていたのだが、最近、その近視の矯正にはコンタクト・レンズをする事にしたらしい。

 そして、そんな桧藤ひとうに続いて、のしのしと言う力強い歩き方で入って来た者がいた。

 そのショート・カットの、いかにもなスポーツ系元気少女は、顔を輝かせてこう言う。

「あ、阿部君と……成海だ。へえ、もう来てたのねっ。みんな、おはよう!」

 それに呼応して、教室にいる他の連中も松原に挨拶する。

「なんだ、桧藤だけじゃなくて、松原も一緒か」

「は? なんだとはなによ。ムカツク!」

 松原は少しムッとしながら、俺に向かってそう言い放つ。

「ああ、悪かったな。別に、何か含みがあった訳じゃ無いんだ」

「あっそ。なら良いわよ! じゃあ、朋花、私は鞄を置いて来るから、自分の席について待ってて」

 松原は破顔はがん一笑いっしょうし、彼女の机へと向かった。

「うん」

 桧藤が席に付くと、朝の挨拶も一通り済んだので、松原はその隣に歩いて来て、俺や阿部と同じように会話を始めた。


 そんな松原と俺との関係は、世間で言う所の、いわゆる「幼馴染」というものに該当する。

 お互いの自宅が近いせいか、奈々美とは腐れ縁と言う奴で、幼稚園から高校までずっと一緒であり、高三の今と同様、小・中でも何度かクラスを同じくした事がある。

 そんな訳で、俺とあいつの二人きり、あるいは妹の香織を含めた三人の時ならば、「隆一」「奈々美」と、お互いに下の名前で呼び合う仲ではあるのだが──。

 高校の入学時当初に結んだ「ある協定」に基き、俺と奈々美は、学校や多人数のいるおおやけの場では、お互いの苗字みょうじで呼び合うようにしている。

 幼稚園では、奈々美は単に遊び友達の一人だったのだが、彼女との最初の大きな思い出は、いつだったか、ある幼い時分、そう、あれは幼稚園を卒園する前の年くらいの事だ。

 その日は日曜日であり、お互いに家の近かった俺と奈々美は、休みの日は良く遊ぶようになっていたので、必然的にその日も一緒に行動していた。

 約束の場所である自宅マンションの下に集合すると、早速、近所に公園に繰り出した俺は、その場にいた奈々美や既に幼稚園に通い始めていた香織と共に、公園の植え込みの辺りの土を掘り出し始めた。

 なんでそんな事をし始めたのかは、幼少の頃の事なので今では全く覚えていないが、多分、あのデカくて白い芋虫のような昆虫、カブトムシの幼虫か何かを探していたのだろう。

 その後、夕方になり、それぞれの母親が呼びに来たので、俺達は数時間がかりで作ったその大きな穴を放置して、お互いに別れを告げて帰宅した。

 そしてその夜──。

 公園に掘られた不自然な穴を発見し、不審に思った付近の住民が警察を呼び、夜中であるにも関わらず、俺達は両親共々、警察に呼ばれて事情を説明し、その後、掘ったものはちゃんと埋め戻せと、叱られたりしたのであった。

 まあ、確かに、あの時公園に掘った穴は、あるもの──。

 そう、例えば、大人の人間の体などを埋めて隠すものとしては、形も大きさもぴったりだったからな。

 通報を受けた警察が一応、現場の様子を確認しに来るのも、無理もあるまい。

 高校生にもなった今から考えれば、何であの時の俺は、掘る穴の形を円とか三角とか星形とか、そう言う他人から見て疑問に思われ難い形にしなかったのだろうとつくづく後悔しているが、全ては過ぎ去りし日々の記憶、もう終わって仕舞った過去の思い出だ。

 しかし、あの女──。

 奈々美は、俺達が過去に行ったそんな悪魔の所業の数々を、十分過ぎる程知っている。

 そんな落書きやら、死体を隠すのに適しているような不審な穴の件を含めて、奈々美の頭の中には、その時、俺と一緒に様々な悪事を行った記憶が、彼女の記憶の中には克明に残って仕舞っているのだ。

 小さい頃やんちゃだった俺が、奈々美と共に行った、そんなイタズラな犯行の数々は他にも沢山あり、例えば、公民館にある和室の障子紙破りやら、近くの寺の墓地に並んだ全てのお墓に大量にこしらえた泥団子のお供えをした件など、本当に枚挙まいきょいとまが無い。

 その後、時は流れて中学も卒業間近の頃、色々と状況が変化し、人々の記憶も薄れつつあったので、俺は高校も同じ学校に通う事になった奈々美と、お互いの過去と今後に付いて話し合う機会を持った。

 その結果、俺達はそんな薄汚れた過去を綺麗さっぱりと清算し、心置きなく高校デビューを飾る為、「今後、お互いの過去の悪事に付いて公言しない」「学校では、下の名前では無く苗字で呼び合う」と言う、紳士協定を固く結んだのである。

 そんな俺と奈々美は、お互いの性格や考え方を深く理解し、そして過去を知っているせいか、人によっては、まるでその仲はラブラブ・カップルのように見えるらしい。

 しかし、これが人生の悲しさと言うものだろうか、そこまで親しいにも関わらず、奈々美は別に俺の彼女と言う訳では全く無いし、そうなって欲しいとも思わない。

 良くも悪くも、俺と幼馴染みである奈々美との関係の実態は、世間が考えるような牧歌的で好ましい関係からは遠く掛け離れた、割と計算高く殺伐としたものである。

 互いが異性である事を意識してか、幾分、素っ気無くなった所はあるが、奈々美と俺は一応、親友と呼べる間柄ではあるかもしれない。

 そして、それは今後もそうだろう、多分。

 少なくとも俺の方からは、奈々美を自分の彼女とか将来の妻にしたいと言う気は殆ど無い。

 いや、地球上にいる結婚可能な女性としては、こいつと齢八十を過ぎたお婆さんしかいないと言う状況なら、しょうがないので彼女と言わず妻として是非とも検討したい所だが。

 そして、そう言うお互いへの意識については、おそらく、向こうも同様である。

 そんな奈々美と俺との関係を一言で表すなら、「お互いを信用していない共犯者」と呼ぶのが相応しい。

 ……そう、ルパン三世の五ェ門と峰不二子みたいな。

 つまり、俺と奈々美は、幼い頃からの深い関係により、余りにお互いを知り過ぎているせいで、出来れば、別々の教室でいて欲しい奴なのであった。

 全く、別に申し合わせた訳でも無いのに、なんであいつは文理の選択を俺と同じにしやがったんだろうな?

 くそっ。

 一年生が終わる時、進路希望を出す前に、あいつの希望を変えさせれば良かった。

 阿部は親友なので別に同じクラスにいても構わないが、成績の芳しくないスポーツ・バカ女は、ほぼ七割方が俺のような進学希望者で占められている三年六組では無く、一組とか二組とか、そう言う半数が就職するような数字の若い文系クラスにでも行っているべきだ。

 なあ、奈々美、お前は大学とか、全く行く予定無いよな?

 と、俺は心の中で問い掛けながら、阿部と会話を交わしつつ、奈々美と桧藤のいる方を見やる。

 すると、奈々美と話している桧藤もこちらに気付いたのか、少し視線が合い、また奈々美の方を向く。


 そう言えば、美術部所属で、線が細くどこか儚げな桧藤は、俺的にはちょっとしたロマンスの対象なのだが、高校二年生の時から教室を共に過ごしたにも係わらず、その間柄は友達程度恋人未満の関係から一ミクロンたりとも前進してない。

 芸術科目の選択も俺や奈々美と同じ美術なのだが、美術室での授業の最中に覗き見たデッサンを見る限りでは、美術部の部長をしているだけあって、流石に絵は上手い。

 彼女にスケッチされれば、いま美術室で部員集めの為に公開中の、標本になっている牛や鶏の骨も浮かばれようと言うものだ。

 俺の思惑を他所に、二人は会話を続けている。

 ……つーか、今疑問に思ったんだが、奈々美はあの時の約束と言うか、紳士協定を覚えているんだろうな?

 いや、覚えていたとしても、きっと昔話の一部は桧藤含めた誰かに話しているに違いないし、機嫌を損ねたりする事があれば、話していない部分についても、これからも事あるごとに面白おかしく脚色して吹き込むに違いない。

 だが、幼少の頃から既に十年近くこいつと寄り添っている俺は、十分過ぎる程知っている。

 この奈々美は、一見、清々しいスポーツマン・シップに溢れる体育会系女子のように見えるが──。

 そんな世間から見える仮面に隠された裏には、打算的で他人に迷惑を掛ける事をいとわない、恐ろしい自己中女が隠れている事を。

 そして、普通の感覚を持った男子高校生である俺は、心から付き合いたいと思っている女子の好みとしては、そんな奈々美何かよりも、もっと真面目で献身的な人の方がより良いと思っているので、彼女の関係は、そう言う意味でも彼氏彼女のそれとは程遠いのであった。


 耳を澄ますと、どうやら、奈々美と桧藤は俺の事で何か話しているらしい。

 俺の名前に加えて、放課後とか夜とか何とか、そんな単語を聞き取る事が出来た。

 何を話してるのか知らないが、お前はあの時の紳士協定をきちんと覚えていて、今もそれを守ってるんだろうな?

 その事を確認する為、俺は周囲に聞こえるよう、わざとらしく、阿部にこう切り出して見た。

「──そうだ、阿部。ちょっと、思い出した事があるんだが……。お前、松原の小さい頃の話に、興味無いか?」

「ん? 松原の小さい時の話? それってカオリンもいた時の話かよ?」

「うーん、そうだな。そう言えば、あの時──」

「な!」

 途端に、ちらっと後ろを振り返ると、側に立つ奈々美は渋柿でも食らいついたかのような顔になった。

 奈々美は椅子に座ったままで固まり、こちらを見て絶句している。

「ちょ、ちょっと、成海……。どう言うつもりよ?」

 それから、桧藤との会話を中断して席を立ち、とげとげしくそう言って急いで近付いて来る奈々美は、周囲に怒りのオーラすら漂わせており、そには軽く殺意すら感じられる。

 この調子だと、どうやら紳士協定に付いては、ちゃんと覚えているようだ。

「ああ、済まん。ちょっと、冗談で言って見ただけだ」

「嘘! いまの成海の声は本気だったわ!」

「お前は何を言っているんだ? 冗談だと言っただろ」

 俺は落ち着き払った態度で、極めて紳士的に振る舞う。

「……ふん、そんな事あるもんですか、この半端者。大体、私のあの時って何? 心当たりが無さ過ぎて困るんだけどー!」

 フンッと鼻息を鳴らした奈々美は、冷や汗をかきかき、不敵に笑った。

 これほど内面の状態が分かり易い奴もいない。

「そうか? まあ、冗談だし、本気にする事は無いだろう」

 そう言って、俺も笑う。

「何が冗談よ!? この卑怯者! 都合が悪くなると、成海はすぐにそれなんだから! て言うか、昔の事で他人たにんに悪口を吹き込む何て、本当にサイテー! あ、阿部君も成海から何言われたか知ら無いけど、それは内緒にしててよねっ!?」

「あの……いや、松原。俺、まだ成海から何も聞いて無いぜ? まあ、落ち着けよ」

 奈々美の気迫に気圧された阿部のとりなしで、奈々美はひとまず引っ込む様子を見せる。

「あ、そう。ふぅん。なら、別に良いけど……。じゃあ、成海。今の件に付いて、後でじっくりと話してよね。じゃあ、二人とも、邪魔して悪かったわよ」

「ああ、そうだな。後でな。はは……」

「もう! あんたは何笑ってんのよ! イーッ! それじゃあね」

 奈々美は一応謝りつつ、最後に口をヘの字にしながら俺に対しブーイングし、不安げな表情で待つ桧藤の元へと走り戻って行った。

 ……そもそも、昔の思い出話などと言うものは、自分がその時一緒に行動していたのならば、そいつと一蓮托生の事柄である。

 俺の側に、昔、一緒に数々の悪事を行った当時の事を話すメリットは無いのだから、奈々美はそう慌てる必要も無かったはずだ。

 今の桧藤との会話を小耳に挟んだ限り、どうやら奈々美は最近の俺の放課後の生活に関心があるらしいが、そんな話をわざわざ俺のいる教室でしたのは、余りに不注意であったと言える。

 何を勘違いしてるのか知らないが、今の俺は放課後含めて、朝から晩までの生活において、何もやましい事などない。

 いや、実の所、良く思い出してみると一つだけあったが、それは奈々美が知らなくても良い、男同士の話だ。

「やれやれ」

 奈々美が戻って行くのを見て、阿部が素直なコメントを漏らす。

「──なんか、成海って、色々大変だよな?」

「まあな」

 良い意味で香織以外の女子とは縁遠い阿部に、俺は小声でアドバイスする。

「なあ、阿部。お前は知らないかもしれないがな、女子の幼なじみなんて、持たない方が幸せだぞ?」

「そうかよ?」

「そうだ。俺の経験上、間違いない」

「……それでさー」

 奈々美の声が聞こえたので耳をそばだてると、奈々美が桧藤と会話を始めた。

 桧藤は松原の話を、おかしそうに懇々と聞いている。

 どうやら今の事は話題に出ていないようなので、俺は安心して阿部との会話を続ける事が出来た。


 ──と、ここまでは何気のない平穏な朝の光景。

 俺こと成海隆一が、学校のある平日であれば毎日のように過ごしている、何ら特筆すべき所のない平和で平凡な学校生活の始まりだった。

 後から考えてみても、この後、どうしてそんな事になって仕舞ったのかは、判然としない。

 とにかく、そんないつものような一日がスタートした──。

 そんな風に思えた瞬間、事件は起きたのである。


 奈々美が離れてしばらく時が経ち、教室の前面にある黒板の上に備えられている時計の針も進み、時間も押して来た為、殆どの生徒は会話を切り上げ、出席確認と連絡事項が伝えられる朝のHR《ホームルーム》に備えて、各自、自分の席へと戻って行った。

 HR《ホームルーム》の開始は午前八時四十分からだが、八時半近くにもなれば、比較的優等生の多くてしつけの良い我が三年六組の教室の様子は、こんなものである。

 この辺りまで来ればバスの中で暗躍していたあのしつこい朝欝の奴も鳴りをひそめて、頬も引き締まり、いよいよ授業に集中するぞという感覚がする。

 八時半を過ぎた頃、教室の前の扉が開けられ、まだ登校していなかった生徒が、遅刻ギリギリと言った感じでまるで滑り込むように登校して来る。

 その時、何やら、階上から聞き慣れない音が耳に入りこんで来た。

 それは「キャアーッ」と言うような、悲鳴にも似た声だ。

 あれは──女子生徒の悲鳴、か?

 悲鳴のような声の鳴っていた時間はごく短かったので、それが人が発した悲鳴なのか、鳥の声だったのかは良く分から無い。

 良く考えると、他の動物に襲われるなどして、ピンチに陥った動物の鳴き声のようでもあった。

 更に、その音は三年六組に面した廊下からすぐ近くにある階段、つまり南階段の上の方から、聞こえて来たようである。

 俺と同じく教室の前の方に着席している連中は、耳を澄ましたのか、静かにした。

「何だよ、今の」と言う誰かの声から始まり、次第にその静けさは解け、周囲はざわめき始める。

 そこで俺は時計を見た。

 現在時刻は、八時三十五分の少し前くらいだ。

 八時四十分の時間通りに朝のHRが始まるとしても、まだ五分弱程度の余裕がある。

 朝もUFOだのおかしな事をのたまっていたし、もしかすると香織がバカをしでかしたか、何かのトラブル巻き込まれたのかもしれない。

 ちょっと迷ったが、そう邪推した俺は、すぐに教室から出て、階上の様子を見に行く事にした。

「悪い。俺、妹が心配だから、ちょっと行って来る」

「え? ちょっと、成海?」

 奈々美が引き留める声が聞こえたが、俺は無視し、ひとまず近くの階段を目指し、教室を飛び出す。

「おい、成海ィ! 俺も行くぜっ!」

 阿部も教室を走り出て、俺に付いて来た。

 こいつは時々、無鉄砲過ぎる所はあるが、今のような状況では頼もしい友人である。

 俺達は速足で階段にたどり着くと、そこを一段抜かしで上り始める。

 途中で阿部が横に並んだ。

 必然的に最上階までの階段駆け登り競争となり、俺達二人はフットワークも軽く、途中から二段抜かしでそこを駆け上がって行った。

 ──ものの数十秒で最上階の三階まで階段を上り切った時、流石は野球部と言うべきか、阿部がタッチの差で先にゴールする。


 すると、我が不肖の妹がその当事者ではありませんようにと言う俺の祈りが通じたのか、その階段と三階廊下を繋ぐエリアで、友人らしい女子生徒を連れ添った香織に俺達はばったりと出合った。

 香織が鞄を持っていない所をみると、既に自分の教室には行ったらしい。

 少なくとも、ぱっと見た限りでは、香織は無事な姿をさらしている。

 いかにも新入生らしく、そこにいた新入生全員の制服の胸元には、ピカピカの名札がしっかり止まっている。

 どうやら、名札を止める為の安全ピンの針を出した状態で遊んでいて、それが体のどこか致命的な部分に刺さってしまった、と言う訳でも無いらしい。

「ん? こんな所でどしたの? にーやん? あとヒーくんも。忘れ物?」

 息切れでフラフラ状態の俺を、香織は不思議そうな目で見る。

「あ……なんだ、香織。無事だったか」

 廊下を見ると他にも何人かの一年生が教室から出ているようだ。

「どうかしたの?」

「いや、ちょっと、気になってな……」

 阿部は、同様に荒い息を吐きながら曖昧に笑う。

「うん? どうして?」

「今、この辺りで、何か聞こ無かったか? だから、わざわざこうして様子を見に来たんだ。阿部もな」

 三階の廊下に繋がる階段の付近には、他にも一年生用の名札を付けた男女五、六人の生徒がいた。

「あ、うん。私なら別に平気だよ。えへへ」

 香織は照れ笑いをする。

「無事なら、出歩いてないで早く教室に戻れ。もうすぐHRだろ。……それじゃ、邪魔したな」

「ああ、にーやん、ちょっと待ってよう!」

 HRに間に合わせる為、早くも帰ろうとする俺を香織は引き留める。

「今度はなんだ?」

「さっきあっちで、女の人の悲鳴みたいな音がしたよ!」

「それは知ってる。だから俺と阿部は登って来たんだ。って、あっちって──この上か?」

 そう尋ねる俺の質問に、香織は黙ってうなずく。

 どうも悲鳴らしき音声が発せられた瞬間に行き会ったらしく、香織は階段を指してたどたどしく言う。

 どうやら香織がクラスメートらしい一年生の女子数人とここにいるのは、さっきの音の原因を確かめんとする為のようであった。

 その先は屋上へと繋がる階段室だ。

 そう言えば、こいつはホラー映画だとかゲームだとかは大の苦手だしな。

 不安げな表情で別の女子生徒の腕を掴んでいる様子からして、ここ三階のさらに上……屋上に登る階段室の方から悲鳴らしきものが聞こえてきた事は把握しているものの、怖気づいてそこから先に足を運べなかったらしい。

 そんな臆病な香織の性格からしたら、ここで足止めを食ったのも無理もない。

「……怖いから、おにーやん達が代わりに見て来てよ!? あっちの方」

「あ?」

「ええっ」

 この香織の提案に、俺と阿部は如何にも嫌そうな顔を見合わせる。

 悲鳴のような音の原因を、俺達に確かめろと言うのか。

 すかさず俺は釘を刺す。

「危ないから、お前みたいな奴は、余計な事に首を突っ込むなっ」

「う、うん……」

 しかし、香織がその場から動く気配は無い。

「しょうがないな……。じゃあ、俺らが見て来るから、一年生は教室戻ってくれないか?」

 そう笑顔を作って提案する俺の言葉に、香織のクラスメートらしき一年女子が、踵を返す。

「じゃ、戻ろっか」

 聞き分けの良い後輩で本当助かる。

「ほら、香織ちゃんも行こ」

「う、うん……。ねえ、にーやん、後で絶対教えてよ!」

 俺は別に確かめるとも何も言って無いんだが。

「分かったから教室に行くんだ。HRまで、あと五分もないぞ」

 俺はしっしっと手を振って香織を追いやり、周囲を見渡す。

 今の会話で他の一年生も戻ったが、まだ三人ほどの男子生徒が残っている。

 俺はその中の一人に近付き、話し掛ける。

「君、新入生だろ。ここは三年の俺達が何とかするから、悪いが、みんなに教室に戻るように伝えてくれないか?」

「は、はい」

 俺が話し掛けたメガネの一年生男子は、消え入りそうな声でそう返事し、今度は大きな声で三階の廊下に呼び掛けた。

「みなさん、教室に戻ってくださーい」

 これを受けて、廊下に出ていた他の一年生も、ぞろぞろと戻る。

「悪いな、頼んだぞ」

 と、さっきのメガネ青年に言い、俺達は階段に足を向け掛けたその時、最後に一人、残った一年生の男子生徒が、廊下に立ち、複雑な表情で真っ直ぐこちらを見ているのに気付く。

 阿部がそんな風にしている彼に近付き、さとすように言う。

「ん? どうしたんだよ、お前? そろそろ、HRが始まっちまうぜ? 先生が来る前に教室にいないと、遅刻扱いになっちまうぜ」

「あ……いえ」

「ほらっ、一年坊主はさっさと自分の教室に帰った、帰った」

「はい、済みません」

 その男子生徒は一礼し、長い廊下を歩いて戻って行った。

 ようやく一年生を追い払ったので、三階から上の屋上出入り口に続く階段を前にし、俺と阿部は上を見上げる。

 この一年生のいる校舎三階の異変に気が付いていないのか、それとも、職員室での朝の打ち合わせが長引いているのか、本当にもうそろそろHRの開始を告げるチャイムがなりそうな時刻だろうと言うのに、まだ階下から先生方がやって来る気配は見え無い。

 ここはひとまず、事態を把握し、さっき聞いた女子生徒の悲鳴のような音の原因を調べ、必要であれば、それを先生に報告しなければなるまい。

「さて、ちゃっちゃと済ませるか」

 阿部の言葉に、俺は頷く。

「ああ、そうしよう。俺がこの上を見て来る、阿部は、ちょっと待っててくれ」

 俺は自分の立っている三階の床から、屋上へ昇る為の階段室の階段に足を掛け、一段一段、上がって行った。


 ──そうして十数段ばかり階段を登り、俺は階段室の中腹、折り返しの踊り場へと辿り着く。

 上方からやってくる、柔らかな光。

 壁に埋め込まれた、凹レンズみたいな形をした強化ガラスが横に並べられた明り取りの部分から、薄青い空と太陽の光が見え、その差し込む光線の中に空気中の塵が静かに舞っているのが見える。

 なべて世は事もなく、全くもってここは平和である。

 ……こっちには、特に、異常は無いようだぞ?

 下で大人しく待っている阿部に、そう宣言しようとした時。

 壁から差し込んでいる光の奥の暗がりの中に、一年生らしき女子生徒がしゃがんだ状態で顔を覆い、何かに怯えるようにかすかに震えているのに気が付いた。

 俺は、はっとばかりに驚く。

 こんな暗い踊り場の隅で、この子は何をやってるのだろう?

 よく目を凝らすと、可哀想にもスカートがまるっきりめくれ上がっているせいで、下に履いている学校指定の紺ブルマーが丸見えである。

 上半身はと言えば、これはちゃんと制服を着ていた。

 夏場などには、我が家では暑がりな香織が半袖の体育着にブルマーと言う涼しげな格好で、そこらじゅうお構いなしに適当に寝そべっているので、別に俺は女子のブルマー姿など見慣れている。

 よって、俺個人の感覚からすれば、女子がスカートやらジャージの内側に履いているブルマーなど、その色がどうであれ普段着の一種だ。 

 制服と言うのは、それがブルマーであれ何であれ一部のマニアには人気のようだが、これは俺にはまるで理解出来ない趣向である。

 しかし、重要なのはこの光景を見ている俺個人がどう感じるのかでは無く、周りがどう思うかだ。

 それは無論、スカートの下からあられもなくブルマーをさらしているご本人を含めて。

 例えば、うちの香織が、ブルマーと上着だけの格好で家の外を歩き回っているのを見たならば、俺は苦言を呈した上で、すぐに家の中へと引き入れるに違いない。

 それにしても、この状況はどうしたものか……?

 香織が関係していなさそうなら、余計な事には首を突っ込まず、俺はあのまま教室にいた方が良かったかも知れない。

 俺は今更ながらにそう後悔したが、トラブルの処理を既に教室に戻った一年生達に買って出た手前、彼女をこのまま放って置く訳にも行か無いのが現状だろうな。

 俺はどう声を掛けたら良いのか考えに窮したが、そのまるで悪魔でも見たかのように震える女子生徒を見、ひとまず、声を掛ける事にした。

「ちょっと、君、どうしたんだ? 貧血か?」

 と、呼び掛けてみた。

 しかし、相手は今までと同じ格好で、泣くように震えるばかりである。

「なあ、君、気分が悪いなら、とりあえず保健室に……」

 恐る恐る、俺はそう切り出す。

 ショック状態の彼女がパニックになり、いきなりこちらに飛び掛られたりでもしたら面倒なので、俺は警戒を解く為にそんな風な事を呼び掛けつつ、その女子生徒に近付いて行った。

「とりあえず、気分が悪いなら、場所を移動しよう」

「あ……。すっ、済みませんっ」

 やっと呼び掛けが通じてか、その女子生徒は差し出した俺の手を掴んでようやく立ち上がり、ふらりとよろけて壁に手を付き──。

 そして、上を見た。

 瞬間、彼女は今にも気を失いそうな感じで顔を背けると、

「ひっ」

 と言って、再び手で顔を覆ってしまった。

 何をそんなにおびえているのだろうと、そろりと近付いたその時、まるでそこを叩くように、俺の肩へ何か重量の軽い物がポタリと落ちる感覚があった。

 はっとして、俺の視線はそこに吸い寄せられる。

 ブレザーの肩に、何か、赤い物が付着している。

 これは……液体だ。

 血だろうか?

 当然の如く、疑問に思った俺は先程の女子生徒と同様、自分の真上の方を見てみる。

 そこは、赤い。

 本来、壁の色と同等、真っ白なはずの階段室の天井にある方形の空間が、赤く歪んでいる。

 ──あれは一体、何だ?

 正方形のタイルが貼られた階段室の天井に、黒インクと混ぜた真紅の塗料のようなもので、何かおどろおどろしい図形らしきものが描き殴られている。

 何本もの線が複雑に絡み合っているので詳しくは分から無いが、その図形の主なラインを取ると、その輪郭はほぼ完全な円に近いのが分かる。

 そして、そんな落書きのような図形の描かれた天井の中央部分に、どうやってかは分から無いが、鈍い光を放つ金属製の棒が突き刺さっていた。

 その先端から何か、これまた真っ赤なひも状の物がぶら下がり──。

 俺の肩に滴ったものは、どうやらそこから垂れて来たらしい。

 俺ははっとして、その場から後じさる。

 落書きが描かれた壁面から、少し余白を置いて、その周囲の壁面も赤く染められていた。

「うっ!」

 俺はその光景のおぞましさに、思わず声を出して仕舞った。

 平衡へいこう感覚を失い、立ちくらみのようなものを覚えて、目をぎゅっと閉じる。

 しばしの後に再び目を開いて踊り場の下を見ると、我が目を疑う惨状がそこにはあった。

 上から滴り落ちて来た赤い液体は、決して今の一滴だけでは無かった。

 それどころか、辺り一面、赤黒い塗料のようなものが点々と飛び散り、辺り一面、まるで血の雨でも振ったようである。

 俺はそんな自分の立っている場所の状況にぎょっとして、踊り場の床から足を浮かす。

 暗くて見えなかったが、そこらじゅう、一面に赤い液体が飛び散っている。

 そのまま床に落とした視線を移動させ続けると、肩にあるのと同じような赤い液体が、踊り場の床にも点々とおびただしく散らばっているのがようやく分かった。

 当然、俺の上履きの裏側にも、それは付着していた。

 このあまりの凄惨かつ芸術的な光景に、俺はその場から逃げ出す事すら出来ず、恐怖におののいて仕舞う。

 しかし、深呼吸をしながら上履きの底でその赤い液体を擦って見ると、全然固まっていないので、少なくともその液体が血液ではないだろう推測出来た辺りで、幾らか落ち着きを取り戻す。

 人間を含む大抵の生物の目の仕組みとして、明順応めいじゅんのうよりも暗順応あんじゅんのうの方が何十倍も時間が掛かると言う、ガリ勉時代の生物の知識が無意識の向こう側から親しげな表情でひょっこりと顔をのぞかせたのだが、俺はそいつに構う事無く、自失呆然のように辺りを見回すばかりで、再び目を閉じて更にこの階段室の暗さに目を慣れさせる心の余裕は無かった。

 その血痕のようなものは、良く見てみれば、踊り場から屋上への出入り口に続く階段にもある。

 三階から屋上に繋がる階段室には、明かり取りの埋め込み式の窓以外の照明が設置されていないため、今まで薄暗くて見え無かったが、その薄暗さに慣れた目で見ると、その赤い塗料のような物は、壁も含めてそこらじゅうに付着している事が見てととれた。

 そこでふと、俺はある事を思いつき、ポケットに入れていたケータイを取り出すと、二つ折りになったそれを開いて天井に向け──そこで撮影ボタンを押し、写真を撮る。

 この写真は、後でこの学校の名探偵である、あいつに見て貰おう。

「おい、何やってんだよ、成海」

 待ち切れずに階段を上がって来た阿部が、この踊り場に上る階段の途中でそう尋ねる。

「あ……汚れるから、阿部は上がって来ない方がいいぞ?」

「ん? 汚れるって、何がだよ? ──って、うおっ!」

 と言ったきり、彼の一切の挙動がそこで止まる。

 それはまるで、その周りの時間が停止したかのようだ。

 そして段々と目が慣れ、阿部は何やら上の方が血のような赤い光に満たされている事に気が付き──。

 全く当然のように、床に飛散している液体の出所でどころと思われる、自分の真上を見上げた。

「──うわぁああぁああああああああああああっ……!!」

 と、校舎全体に響き渡る程の勢いで、そのおぞましい光景を見た阿部の放つ絶叫が、この校舎の最上階にある狭い空間にこだました。

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