第10話
「お、兄ちゃんおかえり」
「ああ」
アパートの玄関ドアは開錠されており、リビングには優海がいた。彼女もちょうど帰宅したところらしく、ジャンパーをハンガーにかけている。
「麻実姉ちゃんに送ってもらったの?」
「ああ」
「夕飯は食べたんだっけ?」
「ああ」
「どうしたのさ、心ここにあらず、って感じだけど?」
「ああ」
ん? あ、そうか。つい返答が適当になってしまった。
考え込んでいたのだ。優海がどのくらい、『暴力』というものに魅せられてしまっているのか。どうすれば優海を『暴力』という沼から引き上げてやることができるのか。
「……」
「なあ、兄ちゃんってば!」
その呼びかけに応答する前に、僕の頬に痛みが走った。優海につねられたのだ。
「いててて! 何するんだよ?」
「兄ちゃんがちゃんと話を聞いてくれないからだろ? 何があったんだよ?」
こうなったら、また斬り込むしかあるまい。僕は腹を括って、優海に尋ね返した。
「優海、お前、僕が『暴力行為は止めろ』と言い出したらどうする?」
「は?」
「暴力反対だよ。あんな酷い戦場みたいな光景を見せられたら、誰だって怖いと思うだろう?」
そう言うと、まったく意外なことに、優海は沈黙してしまった。俯いて口を閉ざす。
僕は優海を焦らせないよう、注意しながら『お前の考えを聞かせてくれ』と、一言付け足した。
しかし、少しばかり間を置いた後、優海が発したのは、思いがけない言葉だった。
「暴力って言われても、止められないよ。なんだか、止めるのは不自然だ」
「え?」
今度は僕が沈黙する番だった。暴力に反することが『不自然』だと?
それに構わず、優海は一言一言、自分の考えをまとめながら語りだした。それこそ、淡々と。
「あたしが麻実姉ちゃんに会ったのは、半年くらい前なんだ。そりゃあ、あたしだって驚いたよ。あの麻実姉ちゃんが、強盗やら何やらやってる、って言うんだから」
「お、お前、それを承知で組織に加わったのか?」
しっかりと頷く優海。
「暴力なんて、親父とお袋の喧嘩で散々見てきたし、拳銃を見た時だって、始めはビビったけど、田宮さんが丁寧に使い方を教えてくれたから、すぐに怖くなくなったし」
『気をつけるとしたら暴発くらいだね』と言いながら、優海は肩を竦めた。
僕は思った。田宮同様、優海もまた、暴力行為に耐性ができ始めている。このままでは、優海はまだまだ人を傷つけ、恐怖させ、挙句殺すだろう。いや、もう既に命を奪っている。今、ここで止めなければ。
僕は優海の両肩を掴み、揺さぶった。
「しっかりするんだ、優海! お前だって、家族の暴力を見てきたんだから、その怖さは分かるだろう? それを他の人に押しつけてはいけない!」
「それは見方が違うよ、兄ちゃん。他の人? 知らないよ。要はあたしが満足に稼げるか、って話。あたしはね、麻実姉ちゃんに感謝してる。逆に、間違ってるとは思えないし、思わない」
「じゃあお前は、麻実たちがやっていることは正義だ、とでも考えているのか?」
僕の声は、極端に情けないものになった。それに対して優海は、『あながち不正義、ってわけでもないだろうね』と答えた。
「兄ちゃんは聞いた? 田宮さんの話」
「聞いたよ。それがどうしたんだ?」
つい棘のある口調になってしまったが、誰にも咎められる筋合いはあるまい。
「皆、辛い思いを抱えて生きてるんだよ。その辛さは、自分一人では耐えられない。誰かの助けが必要なんだ」
「だったらどうして、僕に相談してくれなかったんだ?」
「兄ちゃんも兄ちゃんで、大変だったでしょう? おいそれと縋っていられるもんか。だったら、赤の他人に当たり散らした方が、心の平穏を保つにはちょうどいい」
何だって? 優海の言葉は、解釈のしようによっては『暴力行為は過去の心の傷を癒す』とも捉えられてしまう。
「そ、それは許されるはずのない悪行だ!」
「だから相談しなかったんだよ、兄ちゃんには。兄ちゃんは一般道徳的な正義を盾にして、あたしの考えなんて聞いちゃくれなかっただろうからね」
優海は腰に手を当てた。『何か異論は?』とでも言いたげな目つきをしている。しかしこのままでは、優海の暴力を止めさせることはできない。
結局、僕は唯一の肉親だった優海にすら見放され、一人寂しく死んでいくのか。
そう思った瞬間、僕の足は優海に向かって一歩、大きく踏み込んでいた。
くぐもった音がして、優海は二、三歩後ずさる。目を合わせると、優海の瞳には『信じられない』とでも文字で書いてあるかのような、驚愕の念が映っていた。
優海はそっと、自分の左手を上げ、頬を押さえた。
僕が、優海を殴った。それを理解するために、僕には丸々一分間ほどの時間が必要だった。いや、生理的に『理解したくない』という思いが強かったのかもしれない。
「ゆ、優海、僕は、一体……?」
「それが暴力、ってやつだよ、兄ちゃん」
優海は自分の左頬を擦りながら、
「あんまり突然だから、びっくりしちゃった」
と言って、ふっと笑顔をみせた。
「優海、お前……!」
何故優海は笑っているんだ? 自分が暴力に晒されたというのに?
そしてようやく、僕は自分の失態に気づいた。
繰り返すが、優海は暴力に晒された。誰によってか、といえば、間違いなく『僕によって』だ。
つまり僕、塚島優翔は、あれだけ忌避していた暴力に頼って、自分の心の平静を求めたのだ。
背筋に冷えた氷柱を差し込まれたような感覚と共に、僕の全身に震えが起こった。
そして、自分の言動を振り返っていると、足がもつれた。無意識のうちに、後ずさりしていたらしい。
「ち、違う! 違うんだ、優海、こ、これは……。僕がお前を叩いたのは……!」
『暴力衝動に駆られたわけじゃない』と言おうと思った。しかし、そうでなければ一体どうしたというのだろう。明らかに僕は、暴力に憑りつかれた。暴力の沼から伸びてきた腕に、足を取られてしまったのだ。
さらに恐ろしいことに、僕は『無意識に』暴力行為に走ってしまった。もし僕が、今この瞬間に拳銃を握っていたら、一体何をしでかしたか分かったものではない。
「大丈夫だよ、兄ちゃん。兄ちゃんはずっと、優しかった。優しすぎたんだ。だから、もう我慢しなくていいんだよ。他人に迷惑をかけても。他人を傷つけても」
優海は体勢を立て直して、そっと足を進めてきた。左手で僕の右手を握り、右手で僕の左頬を撫でる。
僕は、まるで催眠術をかけられたかのように、優海の瞳に見入った。
どちらがどちらを諭そうとしているのか、僕には全く分からなくなってしまった。
「あたしたちは、両親からずっと酷い暴力を受けてきたんだ。だから、そんな事件を許容した社会に対して、復讐する権利はあると思う。それに今は、武器もあることだしね」
僕は今まで、犯罪的な中毒というのは、酒類や薬物によるものばかりだと思っていた。しかし、現実は違った。暴力にも、立派な中毒性があるのだ。それも、直接的に他者を傷つけるのだから、さらに性質が悪い。
だが、それに対して異論を唱えることは、僕にはとてもできなかった。
今この会話を打ち切って、部屋を飛び出し、犯罪組織に誘拐されたことを警察に報告するべきだろうか?
僕はぎゅっと、両手を握りしめた。
優海の腕を振り払い、玄関ドアに突進し、この部屋から逃げ出す。それから最寄の交番までは、ダッシュで五分もあれば着く。スマホを壊されてしまった以上、そうやって助けを求める外あるまい。
しかし。
逃げ出す前に、優海に撃たれやしないだろうか。ドアを開錠する間に、射殺されてしまうかもしれない。今の優海なら、僕を殺さない程度に負傷させるくらいのことならしかねない。
願わずして、僕の命を奪ってしまうことも。
「兄ちゃん、あたしが怖い?」
僕の無言を、優海は肯定の意志表示と解釈したらしい。
「だよね。こんなもの持ってるんだもんね」
優海は自分のホルスターに目を落とした。
「でも、兄ちゃんも来てくれれば分かるよ。そうだ! 兄ちゃんも武器をもらったらいいよ! あたしのお勧めは、こいつ」
「うわっ!」
ホルスターから抜いた拳銃を、優海は差し出してきた。
「あっ、ごめん」
銃口を自分の方に逸らし、そっと持ち上げる優海。
その時彼女が教えてくたのが、ベレッタ92の特徴だった。初心者でも扱うことができ、汎用性も高いとのこと。だが、僕は声を荒げて、説明を打ち切らせた。
「そんなもの、僕は持たない」
「え? やっぱりまだ怖いの?」
「当たり前だ!」
僕は顔を上げ、優海を睨みつけた。
「指先だけで人を殺せるんだぞ! 怖いに決まっているだろう!」
「あ、そう」
優海はすっとベレッタをホルスターに戻し、『じゃあ、仕方ないな』と言ってため息を一つ。それからシャワーを浴びる旨を僕に告げた。
しかし、今の僕には、もう現実から目を逸らすだけの余力はなかった。
もう、優海は帰ってこない。目の前にいるのは、優海の皮を被った嗜虐的な殺人鬼だ。たとえ裁かれたとしても、元には戻らないだろう。
あの優海には、もう会えない。僕にはもう、守るべきものはないのだ。
僕は通報する気も、逃げ出す気も失せて、シャワー音を聞きながら立ち尽くした。
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