第5話

「兄ちゃん、本当に大丈夫?」

「ああ」

「無理しないでよ?」

「分かってる」


 翌日の早朝、まだ薄暗い時分に、僕と優海は外出の準備をしていた。僕はバイトへ、優海は学校へ。

 

 風邪自体は、昨日一日ですっかり治った。昨日、麻実からのものだと思っていた電話も、何某かの勘違い、聞き間違いだったように感じられる。

 僕はバイト先で、昨日休んでしまったことを詫びて、いつも通り業務にあたった。


 そして、夜。


「もう十一時か」


 自分の掌に息を吹き当てながら、僕はネオンの隙間を抜けて、足早に帰宅した。一、二回くしゃみをしたけれど、昨日よりはずっとマシだ。


 妙なことが起こったのは、僕が帰宅した時のこと。


「ただいま」


 玄関ドアを開けて声をかける。しかし、優海は出てこない。室内にいる気配はするのだが。


「優海?」

「あっ、兄ちゃん!」


 僕がリビングへのドアを開けると、部屋の隅で優海が何かをしていた。荷物をまとめているようだ。

 少しばかり慌てた様子で、こちらに振り返る優海。


「どうしたんだ?」

「今お弁当温めるね!」


 僕の問いを無視して、優海はそばを通って電子レンジに向かった。


「兄ちゃんは牛丼と豚丼、どっちがいい?」

「じゃあ、牛丼」

「あいよ!」


 先ほどまでの慌てた様子はどこへやら。優海は淡々とした所作で、パック入りの牛丼を温め始めた。


 僕はリビングに戻り、優海が自分の豚丼を準備するのを待った。


「それじゃ、いただきます」

「いっただっきまーす!」


 パックに付いていた七味をかける。それから僕は牛丼を口に含んだ。

 ん? なんだか味がおかしい、か? 僕が疲れているからだろうか。僕はそう割り切って、黙々と牛丼口に含み――。


         ※


「ん……」


 僕は身を起こした。


「あれ?」

 

 記憶が飛んでいる。ここはどこだ? 今はいつだ?

 はっとして周囲を見回すと、僕はアパートのリビングにいた。牛丼は半分ほどが食べられており、僕は牛丼をわきに避けるようにして、テーブルに突っ伏していた。


「うえっ」


 口の中が甘いような苦いような、不快な感覚に満ちている。牛丼を食べた時に感じた違和感が倍増されたかのようだ。


 僕はかぶりを振って、優海の姿を探した。


「優海? いるのか?」


 自分に何があったのかはさておき、優海は何をしているのだろう。廊下の方から動きは感じられるのだけれど。僕はシンクで口をすすぎ、振り返った。そして、『それ』を目にした。


 優海のジャンパーだ。赤いジャンパー。

 いや、そんなはずはない。優海はいつも、白いジャンパーを着ていたはずだ。それが何故か赤くなって、脱ぎ捨てられている。

 脱衣所に繋がるドアは開いていて、赤い色だけが、点々と続いていた。


 何か怪し気なものを感じて、僕はその赤いものに顔を近づけた。同時に、浴室からシャワー音が聞こえてくる。


「優海、何があったんだ?」


 呼びかけてみるものの、シャワー音に紛れて聞こえないらしい。僕はそっと、床の上の赤い点々に手をつけてみた。ぬるり、とした触覚。それに鉄臭さが混じって、僕の鼻腔を占めた。


「……ッ!」


 僕は悲鳴を上げることもできずに、後ろに吹っ飛んだ。まるで、思いっきり胸を掌で突かれたかのように。


 これは、血だ。優海は出血しながら帰ってきたのだ。

 もしかしたら、先ほどの牛丼には、優海が『兄に隠れて何かをする』ために、睡眠薬か何かを混ぜていたのかもしれない。


 いや、そんなことはどうでもいい。優海の怪我の処置をしなければ。

 僕は立ち上がり、なりふり構わずシャワールームのドアを引き開けた。


「優海!」

「兄ちゃん!? ちょ、何だよ!? あたしが入ってるじゃん!」

「大丈夫か? どこを怪我したんだ!?」


 優海が生まれたままの姿であることになど構わずに、僕は彼女を抱き締めた。自分にもシャワーが降り注ぐが、そんなことに構ってはいられない。


「あ、あたしは大丈夫だよ! 薬の量が少なかったのか……」

「一体何があった? どうしたんだ? 答えてくれ、優海!」

「その前に落ち着いてくれ、兄ちゃん! あたしは怪我してないよ! 返り血だ!」


 何だと?


「返り血、ってお前、何をしたんだ?」


 優海は深いため息をついた。


「ちゃんと話すよ。だから今はシャワーを浴びさせてくれ!」


 僕はシャワールームから押し出された。そのまま、ぺたりと床に尻を着く。

 返り血……。優海は誰かを傷つけたのか? あれほど血が出るくらいに? それは立派な『暴力』ではないのか?


 僕はがっくりと肩を落とし、再び両手で顔を覆った。


         ※


 僕は勢いよく、自分の頭上からシャワーを浴びせた。最早、僕は暴力から目を逸らすことはできない。優海が暴力行為、殺傷行為に及んでいるとしたら、なんとかして彼女を現実に引き戻し、正気にしてやらなければならない。


 そんな僕の思いは、シャワーを浴び終え、服を着替えて、リビングに入った直後に打ち砕かれた。


 カチャリ。カチカチ、カシャッ。


「ゆ、優海、それ……」

「ん、ああ」


 優海は『それ』の扱いに集中し、僕の方には目もくれない。素人目にも分かる『それ』の正体。銀色の銃身は、優海の手には収まりきらず、しかし従順にメンテナンスを受けている。


 拳銃、だよな。


 そばに置かれている四角いものは何だろう。


「これ?」


 手元に視線を落としたまま、優海はその四角いものの方を顎でしゃくった。


「弾倉。マガジン、っても言うね。弾丸を入れておいて、こいつを拳銃に込めるんだ」


 あまりに淡々とした態度と、落ち着き払った所作に、僕は呆然として優海を見つめた。

 今、優海はしきりに銃身を磨いている。


「色は落ちたけど、ルミノール反応は残るかなあ、やっぱ」

「る、るみ……?」

「ルミノール反応。血が付いた跡に残る、目には見えない汚れみたいなもんかな。刑事ドラマでよく出てくるよ」


 刑事ドラマなど、優海がどこで観ていたのかは知らない。僕からしてみれば、そんな暴力的なものなど、観たくはない。たとえそこに映るのが血糊だと分かっていても。

 

 僕の考えが脱線しているうちに、優海の手の中で、一際大きな音が響いた。

バチン、と弾倉が拳銃に叩き込まれ、カシャッ、と銃身の上部がスライドし、優海は『よし』と小さく呟いた。


 優海はそっと拳銃を目の高さに掲げ、部屋の窓の方へと向けた。まさか、撃つ気か!


「ひっ!」


 ガラス片が飛んでくるのではと思い、僕は慌てて頭部を覆った。しかし、


「何やってんの、兄ちゃん。こんな狭いところで撃つわけないじゃん」

「え……?」

「ほら、セーフティもかかってるし」


 そう言って、優海は無造作に銃口をこちらに向けた。


「どわあっ!」

「はあ……」


 優海は肩を竦め、拳銃をテーブルに置いた。


「危険はないって! まったく、兄ちゃんはビビリだなあ」


 ビビリ呼ばわりされても、殺されるよりはマシだ。そう言ってやろうと思ったけれど、歯がガチガチと鳴って、言葉を発するどころではない。

 僕は必死に脳みそを回転させ、今確認すべき事項を整理した。


 まず、優海は本当にその拳銃で人を殺傷したのか。

 もう一つは、優海と大代麻実には何らかの関係があるのか。


 最初の質問の答えは、思いがけない形でもたらされた。


「そろそろやるかなあ、ニュース」


 そう言いながら、優海はテーブルを回り込み、僕の枕元にあったラジオのスイッチを入れた。


《ここで、緊急ニュースをお伝えします。本日十一時三十五分頃、港湾地区で発砲事件が発生しました。繰り返します――》

「こ、これって……?」

「ああ、たぶんあたしの仕業かな」


 相変わらず落ち着き払った態度の優海。むしろ、いつもよりも肝が据わっているような気分さえある。


「死んだかなあ、あのおっさん。何者なのかは知らないけどさ」


 僕は、恐怖心が一回転して大声を張り上げた。


「お前は人を殺したのか!!」


 立ち上がり、腕を伸ばして優海を指差す。しかし、優海にジロリ、と睨みを効かされ、途端に腕が震え始めた。僕に一瞥をくれてから、ベッドに腰かけて首を回している。軽くポキポキと骨が鳴る。


「そう大声出さなくてもいいんだよ、兄ちゃん。何も、あたしのせいで兄ちゃんが捕まるわけじゃないんだから」

「誰かに命令されたのか? 大代麻実に――」

「そうそう、よく分かったね」


 優海はこれまた淡々と答えた。


「これもビジネスだよ、兄ちゃん。あたしはあたしで、自分の食い扶持は稼がなきゃならないからね」

「どういう意味だ?」

「察しがつかないかなあ? まあそうか、どこからあたしたちの口座にお金が振り込まれてるかってことは、あたしが管理してたからね」


 僕の頭はクエスチョンマークで一杯だったが、今は黙って、優海に喋らせた方がよさそうだ。

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