第4話
「冗談、だよな……?」
僕の口から零れたのは、そんな言葉だった。自覚もないままに。気づいた時にはそんな発音をしていた、という具合だ。
僕が正気に戻った時には、既にニュースは経済面に移っていた。だいぶ時間が過ぎていたらしい。
あれほど暴力を嫌っていた、そして無縁だったはずの麻実が殺人未遂を? いや、もしかしたら、既に殺人を? 馬鹿な。そんなことがあってたまるか。
しかし、僕には否定材料が何もない、ということも事実だった。麻実が拳銃を手に、この街をうろついている。それを気持ちだけで『違う!』というのは簡単だが、証拠がない。
それを言うなら、警察側にどんな証拠があるのか、と疑ってかかることはできる。しかし、実名報道されるほどの確証がある、ということは、よほどの情報が収集されているに違いない。
それが世間一般の、客観的な見方だ。
「違う……。そんなこと、あるはずない……」
僕は呻き声を上げた。
逆に、どうして僕は、こんなにも麻実の『暴力性の発露』を否定したいのだろう?
ああ、そうか。麻実は塚島家が崩壊した後も、僕や優海の友達でいてくれたからだ。
優海の記憶に残っているか否かは定かではない。しかし、僕ははっきりと覚えている。麻実がかけてくれた言葉を。優しさに満ちた微笑みを。抱き締めてくれた温もりを。
『大変だったね、優翔くん。いつでも私の家に来ていいからね』
幸い、児童相談所の動きが迅速だったため、僕は麻実の家に行くことはなかった。幼い優海を残してはいけなかった、という事情もあるけれど。
しかし、それでも僕たちが麻実から無理やり引き離されてしまったことは事実だし、それは理不尽なことだと思う。
そうして僕が知らない間に、麻実が暴力に走ってしまった、否、巻き込まれてしまったとしたら、それは許されざることだ。
「畜生……畜生!」
僕はラジオを掴み上げ、思いっきり放り投げようとして、止めた。これこそ、暴力行為の表れではないか。
「ッ……」
落ち着け、と自分に言い聞かせながら、僕はそっとラジオを枕元に下ろした。
ふと額に手を当ててみると、嫌な汗が滲んでいる。暖房をつけているわけでもないのに。
危ないところだった。僕がものを壊すだなんて、想像すらしていなかったことだ。
しかし、今の自分の言動を顧みるに、全く無関係でいられるわけでもないようだ。
僕は深いため息をつきながら、両手で顔を覆った。
涙は出てこなかった。ただ、自分の魂がすり抜けていくような、大きな絶望感が僕を包み込んでいた。
暴力は、伝染する。
※
その日の夜まで、僕の記憶は途切れ途切れになった。ただ、優海と話をしたかった。
生憎、僕のバイトの開始時刻と、優海の帰宅する時間が重なってしまうため、僕は自分の帰宅時間まで待たねばならなかった。
バイトを休むなり早退するなり、やりようはあったかもしれないが、そこまで頭が回らなかった。
ただ一つ、明確に記憶に残ったのは、ネオンに紛れて聞こえてくるニュースを聞かなくても済むように、足早に街路を歩んでいったということだ。誰かにぶつかったかもしれないし、ぶつからなかったかもしれない。そんなことすら、脳裏にはなかった。
ふと意識が鮮明になった時、僕はアパートの自室の玄関で立ち尽くしていた。
『ただいま』と言ったかどうかも定かではないが、目の前にいた人物を見て、僕は声を漏らした。
「優海」
「どうしたのさ、兄ちゃん? あたし、何度も『おかえり』って言ったのに!」
「ああ、いや、考え事をな」
大代麻実に関するニュースは、この街界隈では広く報道されている。優海が知らないわけがない。そうは分かっていても、優海に『麻実についてどう思う?』とは訊けなかった。
尋ねられるものか。幼児期のお前を抱っこしてくれた、優しさの塊のような女性が、殺人犯だったらどう思う? などと。
「兄ちゃん、やっぱりおかしいよ! 熱でもあるんじゃない?」
「うるさいな!」
そっと差し伸べられた手を、僕は思わず振り払ってしまった。パシン、と軽い音がする。
「あ、ご、ごめん」
僕ははっとして、優海に謝った。
「あたしは平気だけど、兄ちゃんが心配だよ。頭痛薬か何かあればいいのに」
眉根に皺を寄せ、首を傾げる優海。これ以上、彼女に心配をかけるわけにもいくまい。
僕はもう一度、『ごめん』と言ってから、玄関のフローリングに上がった。
※
翌日、僕は布団から出るのが叶わなかった。どうやら、酷い風邪に罹ったらしい。関節は痛くないから、インフルエンザではないようだが、それでも全身の倦怠感、頭痛、食欲のなさには我ながら参ってしまった。
「昨日から変な様子だったからだよ、兄ちゃん。何か元気の出るもの、コンビニでもらってくるから、今日はバイト休んで寝てなって」
「そうするしかないな……」
咳を挟みながら、辛うじて僕はそう言った。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい、優海。気をつけてな」
紺色の、学校指定の鞄を背負い、優海は玄関を出ていった。
「うう……」
息を詰めながら、僕は布団を頭からひっかぶった。他に何もできることはない。麻実が何をしていようと、どうにもできないのだ。暴力の激流から、彼女を救い出すことも。
そもそも、出会うまでが大変だ。こちらから麻実に連絡をつける手段はない。
僕が寝返りを打った、その時だった。
「ん?」
音がした。スマホのバイブレーション機能だ。僕は自分の枕元にあるスマホを見下ろしたが、何も着信した様子ではない。
振動の源を求めて立ち上がると、優海のベッドの枕元に、スマホが放られていた。忘れて行ったらしい。
僕は気を紛らわそうと、少しばかりの興味と共に、優海のスマホを覗き込んだ。
「LINE着信、『姉ちゃん』から?」
本名ではない。一体誰だ、『姉ちゃん』なる人物は?
僕はスマホをベッドに置いたまま、『応答』ボタンに触れてみた。そして、戦慄した。
《優海、君かい?》
この声、まさに彼女のものではないか。そう、大代麻実の声だ。
《もしもし? 聞こえるか?》
すると、スマホの向こうで動きがあった。
ごそごそと、何かが引きずられるような音だ。砂嵐を連想させる。
すると、通話はあっさりと切れた。
しかし、その一言、二言が僕に与えたショックは相当なものだった。
何故、麻実が優海に連絡を試みている? 優海が『姉ちゃん』としてスマホに登録していた以上、既に何らかの接点を持っているのではないか? あの優海が、殺人犯と?
「嘘だ……嘘だッ!!」
僕は喉が枯れているにも関わらず、叫んだ。
今すぐ優海と話さなければ。事の真偽を確かめねば。相手が誰であろうと、暴力を肯定する人間は、優海から遠ざけなければ。
僕は優海のスマホを、ディスプレイが割れるのではと思うほどに強く握りしめた。が、いまここに優海のスマホがあるなら、連絡の取りようがない。
学校に電話するか? いや、一一〇番通報した方がいいだろうか。
僕は振り返って自分のスマホを手に取り、警察に電話しようとして――やめた。
警察沙汰になっては、優海に前科がつく可能性がある。それだけは避けなければ。僕が彼女を説得しなければ。
最早、寝ている場合ではなかった。僕は狭い部屋の中を闊歩し、ジリジリと胃袋を焼かれるような思いで、優海の帰りを待った。
そして、数時間後。もう夕日がビルの向こうに消え去りかけた時、アパートの階段を、誰かが上ってくる気配がした。この時間に外出先から帰宅するのは、優海である公算が大きい。
僕はスリッパを脱ぎ、玄関に駆け寄った。
「優海!」
ドアが向こう側に開かれる。果たして、そこに立っていたのは優海だった。
「ど、どしたの、兄ちゃん?」
「さ、さささ、さっき、あの、す、スマホ、お前の、お、お前のスマホに……」
動揺を隠しきれるはずもない。当の本人を目の前にしては。しかし、対する優海は落ち着き払った様子だった。
「ほら兄ちゃん、この前あたしが食べてたカレー、好きだったんでしょ? 貰ってきたよ」
そう言って、僕に微笑みかける優海。
それを見ていたら、僕の中にあった優海への嫌疑が急速に萎んでいくのが分かった。
「きょ、今日お前、スマホ、忘れていったよな?」
「ああ、そういえば」
なんとも気楽な調子の優海。
優海は弁当や食料品を僕に渡し、リビングへと歩み入った。僕はその後ろ姿を見守る。『姉ちゃん』――大代麻実からの着信を見て、どう思うだろうか?
「あー、特に連絡はないね」
その言葉に、僕は拍子抜けした。
「お、お前、そのスマホ、LINEで着信があって……」
「ああ、これね。ちょっとした悪戯だよ。流行ってるみたいだ」
「悪戯?」
どういう類の悪戯なのだろう。しかし、僕の疑問を封殺するかのように、優海は満面の笑みで、
「今日の晩飯はエビチリだー!」
などと言いながら、自分の弁当をレンジに入れている。
優海のこんな姿を見ていると、僕の勘違いだったのではないか、という気になってきた。
マズい相手から着信があり、それを僕という他人に見られたというのに、全く動揺の気配を見せない。やはり、僕の考え過ぎだったのだろうか。
「ほうら、カレーも温まったよ!」
そう言って、プラスチック容器に入ったカレーを差し出してくる優海。
これは、僕のとんだ早合点だったようだ。何も心配はない。
僕はやっと、心の中から重石が取り払われたような気がした。
「いっただっきまーす!」
「いただきます」
今日一日、僕は何をやっていたのだろう? まあ、優海が犯罪と無関係ならそれでいいか。
そう割り切って、僕はカレーにありついた。
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