第2話【第一章】

 一ヶ月前。

 年明けの温かな街の光を横目に、僕は歩いていた。一歩一歩、雪を踏みしめる。靴底はギュッ、ギュッ、という独特な音を立てて、僕を急かしているように聞こえた。


「今日は冷えるな……」


 そう呟いて、僕は安物コートの襟を立てた。

 こんな都会の真ん中に、降雪があるのは久しぶりだ。太陽は早々にビルの向こうへ没し、今は代わりに、街の照明が地面の雪をライトアップしている。赤く、青く、そして七色に。

 僕は胃がぎゅっと締めつけられるような、不快な感覚に囚われた。これらの照明は、普通の人たち、幸福な人たちのためのものだ。

 この世間で、ひっそりと、陰ながら生きていかざるを得ない僕たちのような人間には眩しすぎる。


 地下鉄に乗るだけの賃金も惜しい。代わりと言ってはなんだけれど、僕はより足を速めた。俯きがちに、ただし前にだけは気をつけて。他人にぶつかって喧嘩を吹っかけられたら、何もできない。手も足も出ないし、反論するだけの度胸もない。


 それが僕、塚島優翔という人間の在り方だった。

 バイトの掛け持ちをして、なんとか生計を立てている。自分の食い扶持を稼ぐために。

 幸いだったのは、妹、塚島優海を中学校に通わせるだけのお金が仕送りされてくる、ということだ。まさかあの両親から仕送りがあるとは、未だに信じられないのだけれど。


 僕は一本裏道に入り、複雑な街路を抜けて、優海と暮らすアパートに帰り着いた。


「ただいま」

「あっ、お帰り、兄ちゃん!」


 とてとてと足音を立てて、細い廊下の向こうからやって来たのが妹、優海だ。


「やあ、優海」

「今、お弁当温めるね!」


 満面の笑みを浮かべる優海。つられて僕も、口元が綻ぶのを感じた。

 これまた安物のブーツを脱ぎ、フローリングに上がる。電子レンジは既に回っており、残り時間は三十秒ほど。僕は急に空腹を感じた。


 これは、優海が近所のコンビニから貰ってきた弁当だ。当然、賞味期限切れ。ただし、それは古くなって食べるのが危険だ、ということではない。毎日少しずつ頂戴してくれば、そしてその日のうちに食べきれば、問題はない。


 優海は学校終わりにこうした食事を調達してきて、僕はアパート代と水道代、電気代を稼いでくる。そうやって僕たちは、独立した生活を営んでいた。


「ほう、今日は中華丼か」


 ゴミ箱に放られたビニールをよく見る。中華丼とは、なかなかいいチョイスだ。腹持ちがいい気がする。

 チン、といってレンジが止まったので、僕は火傷をしないように気をつけながら、中華丼のパックを取り出した。


「優海、お前はもう食べたんだろう?」

「え? まだだけど」


 僕は眉を上げて、腕時計に目を落とした。


「もう日付が変わるぞ? わざわざ待ってることなかったのに」

「だって、兄ちゃんが一人っきりで夕食食べるなんて、寂しいでしょ? 頑張って働いてきてくれたのに」

「そ、そんなことはないぞ」

「あ、図星なんだ?」


 僕は言葉に詰まり、優海から顔を逸らした。僕が人一倍寂しがり屋だということを、優海は誰よりもよく理解している。だからだろうか、毎日毎日、『僕の帰りを待つ必要はない』と言っているのだけれど、優海は必ず待っている。ありがたいやら恥ずかしいやら。


 そんな遣り取りをしている間に、再びレンジがチン、と鳴った。優海がレンジを開けると同時に、カレーの食欲をそそる香りが、廊下に広がった。


「おっと、アチチチ」


 ゆっくりとカレーを取り出す優海。彼女は器用に足でドアを開け、廊下からリビングに移った。中華丼を手にした僕も後に続く。


 僕たちが暮らしている部屋の造りは、キッチンを兼ねた廊下と、突き当たりにある六畳のリビングとなっている。

 向かって左側に机があり、主に優海が使っている。部屋中央には背の低いテーブルがあって、右側にはシングルベッド。僕は床に敷かれた布団で寝ることにしている。

 僕たちはテーブルを挟んで座り込み、『いただきます』と一言。


「うめー! この新発売のチーズカレー、美味いよ兄ちゃん!」

「そうか、よかったな。この中華丼もいいぞ」


 はしゃぐ優海に、僕は中華丼を差し出した。優海もカレーをこちらに寄越してくる。僕たちは互いの弁当を食べ比べした。


「ああ、確かに美味いな、このカレー。今度は僕の分も頼むよ、優海」

「おう!」


 そう言うと、優海は僕と自分の弁当を元に戻し、またカレーをガツガツと食べ始めた。

 そんな優海を見ていると、僕は思わず微笑んでしまう。


「ん? どしたの兄ちゃん?」

「ああ、なんでもないよ」


 僕はそう言って、中華丼を食べながら、両親と暮らしていた頃のことを思い出していた。


         ※


 塚島家はごくごく平凡な、仲のよい家族だった。幼心に、自慢の家族だったと言ってもいいくらいに。父の収入は安定していたし、母は専業主婦として、常に気を遣っていた。裕福ではなかったが、生活苦に陥ることは決してなかった。


 その歯車が狂い始めたのは、優海が三歳になるかならないかという頃だった。急に、父が会社の無断欠勤をしだしたのだ。きっかけは知らない。分かりやすい変化は、暴力的な言動が増えたこと、そして飲酒量が急激に増したということだ。


 まるでそれにタイミングを合わせたかのように、母の外出も増えた。こっそりついて行ったことがあるが、パチンコ店に入ってところまでしか把握できていない。だが、母は他の場所でも遊び呆けていたいた可能性が高いと、僕は睨んでいる。


 怠惰を貪るようになった父と、遊びにのめり込んでいく母。塚島家の生活での生活は、一気に暗転した。

 標的になったのは、まずは父母同士だった。互いを罵倒し合い、殴り合い、武器になるもの、すなわり鈍器や刃物が用いられたりすることもあった。


『今までこの家を支えてきたのは誰だと思っている!』

『そんなあんたを支えてきたのは誰なのよ!』


 そんな主張の醜いぶつけ合いの中で、いつしか攻撃のベクトルは、僕と優海に向けられていった。まるで、大きな川同士がぶつかりあい、大量の水がわきに逸れていくかのように。

 その水は渦を巻き、僕らを巻き込んで、情け容赦なく心身を蝕んでいった。特に、優海の心を。


 そんな時、児童相談所がすぐに動いてくれたのは不幸中の幸いだった。僕と優海は身柄を保護され、両親は僕たちの親権を求めて裁判沙汰になった。

 僕は、両親から引き離されて安心感を覚えた半面、父と母のどちらかが親権を獲得してしまったら、また暴力に晒されるのではと、気が気ではなかった。


 しかし、事態は思わぬ方向に進んだ。両親共々、親権を放棄したのだ。

 僕と優海は、児童養護施設に入れられることとなり、久々の安息をいうものを得た。だが、今思ってみれば、両親が親権を放棄したということは、二人にとって、僕と優海は『その程度の存在』だったということだ。

 そんな虚無感に囚われた僕を救ったのは、優海の笑顔だった。


『もう、お父さんやお母さんの喧嘩を見なくて済むんだね』


 その、幼くも的を射た言葉に、僕は泣き出してしまった。どうしたの、と優海に訊かれたが、とても答えられる状態ではなかったし、今もそうだ。


 こうして今現在、僕は十八歳となり、養護施設からの巣立ちを迎えることとなった。

 優海は、まだ退所を言い渡される年齢ではなかった。だが、兄妹で暮らしたいという希望と、両親からの資金援助があったことで、二人で施設を出ることとなったのだ。


         ※


「どうしたの、兄ちゃん? 中華丼、不味かった?」

「え? ああ、いや。美味いよ」


 いつの間にか、僕は考え込んでしまっていたらしい。食事の手が止まっている。ふと顔を上げると、心配げな優海の顔が正面にあった。

 優海に心配はかけたくない。その一心で、僕は笑顔を作ろうとした。だが、顔をしかめる程度のことしかできなかったので、『ああ、そういえば』と無理やり話題を変えることにした。


「学校の方はどうだ? 勉強はできてるか?」

「それがサッパリだよ」


 優海はケロリと言ってのけた。座ったまま手を後ろに着き、そちらに重心をかける。


「なあ兄ちゃん、連立方程式って、ありゃ一体何なんだい?」

「ぼ、僕に訊かれてもな」


 僕は人差し指で頬を掻いた。小中学校で得た知識など、どれほど役に立つものか。

 勉強を教えてもらうには、僕では不足だと気づいたのだろう。優海は先にシャワーを使ってもいいかと尋ねてきた。


「いいけど、風邪ひくなよ。暖房もなかなかつけられないんだからな」

「あーい」


 それだけ答えると優海は着替えとバスタオルをまとめて、風呂場へと向かって行った。

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