夢見坂

 東山温泉で湯治をしている間、

「綾乃と呼んで」

 と彼にお願いをした。

 はじめの頃は照れて渋っていたけれど、間違えるたび赤ペン先生のように指摘していたら、いつの間にか定着していた。

 ──綾乃。

 彼の唇がそうこぼすとき、わたしはいつも集中してしまう。嬉しいからだ。

 だから、近ごろ彼のようすがおかしいことにも気付いてしまった。

「おい、────」

 と、口ごもることのなんと多いことか。

 そのたびに青い顔をする彼に、わたしはいつも「土方さん」と声をかける。

 すると彼はいつもホッとした顔で「綾乃」とつぶやくのだ。

 分かってしまった。

 その名をこぼす回数のなんと多いことか。

 そのたびに子犬のような瞳をする彼に、わたしはいつも「はい」と返事をする。

 すると彼は満足して目をこするのだ。

(つらい────)

 とうとう来たんだろう。

 わたしたちの存在が、彼のなかからも消えるときが。


「土方さんは、まだ知らないの」

 葵は沈んだ顔でつぶやいた。

 わたしが相談した。

 大切な人から忘れられる恐怖は、彼女の方が体験している。葵がかつてわたしに電話をかけてきたときの心情が、いまならばわかる。

 よく耐えたな──とわたしは彼女に感服した。

「まだ言えてない」

「…………」

「でも、もう時間がないから──言わなくちゃね」

「だけど土方さんは別に病気ってわけじゃないのに。どうしてもう発症してるんだろう」

 そう。

 これまでは、重篤な病や怪我によって命の灯火が消えかかるとき、発症するものだと思っていた。

 けれど土方はまだ元気である。

 それなのに──どうして。

「こんなのって、ないよね」

「え?」

 わたしの呟きに、葵は眉を下げる。

「前に葵が電話で言ったでしょう。あのときはしょうがねーよとかおもってたけど」

「…………」

「本当に、こんなのってないよねえ」

 笑った。

 もう笑うしかできなかった。

 これが、歴史に介入した代償とでもいうのだろうか。こんな、こんなことなら──。

「後悔してるの」

 わたしの肩に手を置いた葵が、言った。

 それもどこかで聞いた言葉である。

「みんなと会ったこと、後悔してる?」

「…………」

 してないよね、と葵は微笑んだ。

「綾乃に言われてあのとき思ったの。悲しいけど後悔なんてしてない、するわけないって。だから、本当ならあり得ない出会いに感謝してさ、残りの時間を大切にしよう──って」

 自分にむりやり言い聞かせた。

 と、葵がうつむく。

「ありがとね、葵。いつもいつも」

「なによ、めずらしい」

「ひとりだったら乗り越えられない、こんなの」

 本心だった。

 胸が痛くて目が閉じる。

「私も、そうだよ」

 葵の声が震える。わたしたちはお互いに肩を組み合った。

 わたしは、決意した。

 

「土方さん、少しいいですか」

 めずらしく早めに城下の宿舎に戻ったと聞いて、わたしは彼の部屋を訪ねた。

 土方が松前攻略後に五稜郭へと戻ってからは、葵とふたりでこの土方の宿舎に身を寄せている。

「おお。──綾乃」

「…………」

 彼は文机に向かっていた身体をこちらに向けた。少し離れたところに正座をしようとしたけれど、土方が右腕を伸ばしてくる。

 最近、このしぐさが彼なりの甘え方であることを知った。

 恥ずかしいが、おとなしく近寄って彼の手に触れる。すると彼はいつものようにすっぽりと抱き込んでくれた。

 出会った当初、文久のころとは真反対な彼の様子には、いまだもって慣れない。

「どうした」

「話しにくいです」

「つれねえことを言いやがる」

「ちょっと真面目な話なんですったら」

 彼の胸になだれかかった身を起こした。けれど、これから話すことを思うと心細くて、彼の手を離す勇気もなかった。

「土方さん、最近わたしや葵の名前を──忘れることってありませんか」

「…………」

「目がかすんで、わたしたちが見えにくくなるとか、なんかそういうの。ありませんか」

 思ったよりも冷静に言うことができた。

 対する彼からはわずかな動揺が見てとれる。

 やはり、図星のようだった。

「なにゆえそれを──」

「やっぱり」

 期待したわけではない。

 ないよ、という言葉が出てこないことくらい、わかっていた。

 しかし本人の口から聞くとやはりツラいものがある。

「目はかすむし、声も遠い。近ごろ名前をよく呼ぶのも──確認のためだった。お前たちが」

 いなくなってやしないかと。

 と、土方はそう言った。

「お前はもう──そばに、姿が見えねえと落ち着かんだろうが」

 照れたように頭をかいて首をかしげる。

「これはなんだろう」

「…………」

 ──こんなのって、ないよね。

 葵の言葉が甦る。

「土方さん、それ──それね」

 言葉にしようとすると、息が詰まった。

 言ってしまえばそれが真実になってしまう気がして。

「しょうがないんですって」

「え?」

「────」

 そのあとの言葉が、喉を通ることを拒んでいる。それが苦しくて目からぽろりと涙がこぼれた。

 彼がハッとする。

 わたしの涙で、とてつもなく大変なことが起こっていると気が付いたようだった。

「これまでもそうでした。山崎さんも沖田くんも、そうだったって」

「…………」

「わたしたちの存在が、いつかここのみんなから、土方さんから、消えていくんだって」

 だからしょうがないみたい、と。

 そこまで言うとわたしは泣いた。

 泣きたくなかったけれど、もうどうしようもなかった。


 ────。

「…………」

 土方は絶句する。

 近ごろ、そんな違和感が出るたびにえもいわれぬ焦燥感はあった。けれどまさか、そんな──。

 お前なんざ、忘れたくても忘れられるか。

 東山温泉にて言った自分の言葉を思い出す。

 そうだ。忘れない。

 忘れるわけがない。

 でもあのとき、あのときから──綾乃はその恐怖を抱えていたのだ、と土方は悟った。

「…………」

 おもわず頭を抱える。

 しかし綾乃は意外にも冷静な声で説いた。

「いいんです、忘れても。嫌だけどいい」

「嫌だ。俺は、──イヤだ」

「いいんです、わたしは覚えてるから!」

「…………」

「ちゃんと覚えているから」

 苦し紛れの繕いだった。

「また初めから……土方さんに好きって伝えて、ずっと、ずっと、嫌がられてもずっとそばにいるから」

「────」

 土方は恐怖した。

 これまで、仲間が死ぬときだって悲しみや怒りが大きくて、恐怖なんていうものはほとんどなかった。

 これから先、どんなことがあっても、きっとなんとかなると思っていた。

 自分の人生の先に、目の前の女がいないことなど考えてはいなかったから。

「いやだよ、俺ァ────」

 そばにいると、言ったじゃないか。

 土方はそんな想いを込めて、彼女を抱き寄せる。再び泣き出す彼女の肩は、思ったよりもずっとずっと儚くて、壊れてしまいそうなほど細かった。

「お前がいなきゃ、退屈で死んじまうよ──こんな雪国」

 綾乃の胸はふるえた。

 そんな言葉をまさか彼の口からもらえるなんて。

 切なくて、嬉しくて、悲しくて。

 もう、いまこのときをもって命が尽きればいいのに。

 ──なんて、そう願いたくなるほどに。

 

「……分かった」


 しばらくの抱擁ののち。

 不意に土方が呟いた。

 綾乃は涙で潤む瞳を向ける。

「わかったよ。もう分かった」

「…………?」

「仕様がねえ」

 土方の瞳から、恐怖は消えていた。

 その瞳の強さに綾乃は思わず息を呑む。

 彼は笑んだ。

「未来で待ってろ」

 ここでお前と一緒にいられないのなら、今度は俺が未来に行く。

 と。

 土方は深く綾乃に口付けた。

 身に刻むかのように、深く、深く。


 ※

 四月六日。

 新政府軍の蝦夷進攻がまもなくだという情報が英国商船からもたらされ、市民の避難所が設けられた。

 市中取締の新選組に、厳重警戒が命じられる。

 土方軍は台場山と天狗岳に陣地をもうけて待ちうけた。


 数日後。

 江差から進軍した新政府軍は、台場山に対して攻撃を開始。

 熾烈な銃撃戦が繰り広げられる。

 土方軍は二百余名、新政府軍はおよそ六百名という兵力差があるなか、土方軍は二小隊ずつが交替して休憩を挟みつつ小銃を撃ち続けたという。聞くところによれば、土方軍はひとりとて怠ける者なく、顔は火薬の粉で真っ黒になっていたとか。

 およそ十六時間に及ぶ土方軍の抵抗の末、銃弾を撃ち尽きた新政府軍はやむを得ずに後退。それからさらに二週間にも及ぶ攻防戦は、一定して土方軍の勝利に終わった。

 土方は終始冷静だった。

 兵士の士気が落ちぬように戦の合間に酒を一杯だけ配ったり、陣内をめぐっては声をかけたり。

 しまいには、二十九日に味方の防壁が崩されるとすぐに撤退を決め、その場に地雷火を埋めるという手際を見せた。

 おかげで混乱もなく、一行は五稜郭へと帰陣する。


「市村はどっか総司に似ていた」


 以前から、市村鉄之助と話をするたびに土方はそう言った。憎めなくてかわいい存在だったのだろう、と思う。

 四月末。

 五稜郭に戻った土方軍のなかに、市村鉄之助の姿はなかった。

「市村には遣いを頼んだよ」

 土方はただ一言、綾乃にそう告げた。

「…………」

 それ以上は彼が何も言わなかったので、ここから先は歴史として聞きかじった話である。

 ──二股口の攻防戦の合間、土方は市村に箱館からの脱出を命じる。

 その理由は、日野の佐藤家へ自分の形見を届け、これまでの戦の様子を伝えてほしいというものだった。

 土方と最期まで共に在り、と覚悟していた市村は当然「ほかの者に命じてください」と断った。

 が、「断るとあらばいま討ち果たす」と土方より諭されたのだという(というよりは思いやりのある脅しだ)。

 市村が受け取ったものは、金子五十両、質に入れるための刀をふた振りと質屋への書状。さらには『遣いの者の身上を頼む』と記した佐藤家への手紙、自身の写真と髪、そして辞世の句。

「佐藤兄には、何一つ恥ずべきことはないゆえご安心を、と伝えてくれ」

 と市村に全てを託したのだという。

 後年、確かに佐藤家へと諸々の品を手渡した市村は、

「箱館を脱する際、窓に人影が見えました。おそらく先生であったろうと思います」

 という言葉を残している。

「──そうですか」

 綾乃は、市村不在の理由を言われたときに、もはやそれしか言葉は出なかった。

 そこでいったいどのような会話があったのか。

 そんなものは聞くだけ野暮だ。

 彼がこの世と決別する覚悟を、旧友の面影を持つ部下に託した。

 ただその事実があれば、それでいいと思った。


 ※

 明治二年五月上旬。

 旧幕府軍諸隊は多くが敗退し、もはや勢力が残るは五稜郭および箱館市内周辺のみとなっていた。海軍側も、回天と蟠龍が目覚ましい活躍を見せたものの、もはや二隻で堪えられるほどの状況ではなく。

 両艦弾薬は打ち尽くし、機関も破壊されたような状態となっていた。

 これを受けて、敗戦色が濃厚と悟ったフランス人教官ブリュネ等は、自国船にて箱館を脱出。横浜へと向かう。

 ──一説には、この船に市村鉄之助が乗り込んでいたのではないかとも言われている。が、それも確かめようがない。──

 五月一日。

 弁天台場に宿陣していた新選組は、土方の指示により有川へと出陣する。

 ここ有川にはすでに新政府の東下軍、南下軍が集結し、最後の大戦を仕掛けようとしていた。

 大鳥の指揮の元、新選組、彰義隊、遊撃隊は七重浜にて連日の夜襲を行うも、それらはいずれも大したダメージには遠く及ばず。もはや打つ手なしであった。


 少し戻った四月二十日、五稜郭に凶報が入る。

 二股口の攻防戦にて新選組とともに出動した遊撃隊の伊庭が、胸に被弾したのだ。

 弾を取り出すことも適わず、ただ死を待つのみになった伊庭だが、それでも味方の活躍を聞くたびに、苦しそうな顔を綻ばせて喜んだ。

 土方が別件で箱館病院に用がある、というので、綾乃と葵も伊庭を見舞おうとともに病院へやってきた。

 どうやら土方は急務のようで、箱館病院事務長である小野権之丞に会いに行ってくる、というやそそくさとその場を立ち去った。

 残されたふたりは、病院のなかに伊庭を探す。

 やがてベッドに横たわる伊庭を見つけるや、葵が手をあげた。

「イバハチ!」

「…………?」

 名を呼ばれて、伊庭が首を動かす。

 しかし自分に声をかけた女たちを見ると、彼はきょとんとした顔をした。

 知らない顔だ──とでも言いたげである。

(あっ)

 葵は手を下げた。

 伊庭も発症しているのだ、と思った。

「えっと──」

「あ、なあんだ。綾乃さんと葵さんか」

 来てくれたのかィ、と一拍おいて、伊庭は笑った。

「うん」

 乱れた布団を直しながら、綾乃はホッと息をつく。

 まったく、わかっていても心臓に悪い。

「土方さんと一緒に来たんだけど、ちょっと忙しいみたい。あとで来ると思うよ」

「うん……」

 珍しく、伊庭が暗かった。

 怪我がひどいために消沈しているものと思ったが、どうやら違うらしい。

 葵が顔を覗き込む。

「どうしたの」

「いいや。まったく、使い物にならねえ自分が……悔しくてさあ」

「イバハチ──」

「もう後もねえんだってな。人見に聞いた。でもさあ、おいらたち」

 ここまでよく、やったよなあ。

 そう呟いて口を閉じた。

 彼の瞳は、じっと虚ろに天井を見つめている。

「本当にね。勝てば官軍、なんて」

 綾乃は声を震わせた。

「冗談じゃないったら……ねえ」


 翌日の五月十日。

 旧幕府軍は、十一日未明に新政府軍が箱館総攻撃を決行する、という情報を得た。もはや、新政府軍総攻撃に抵抗できるほどの弾薬も兵糧も、尽き果てようとしている。

 それでも榎本武揚は『降伏』を唱えようとは決してしなかった。

 だからといって、命が永らえるとも思っていない。

 榎本はその夜、全滅を覚悟した別れの宴を築島の武蔵野楼にておこなった。

 各々が肩をたたき合い、これまでの武勇を労って、明日に散るであろう命に夜通し盃を傾けた。

「────」

 その宴に参加していた土方が、日付が変わりそうな頃合いにこそりと抜け出て五稜郭に戻ってきた。

 もうまもなく、五月十一日がやってくる。

 綾乃と葵は、変に目が冴えて眠ることもままならず、ポツンと前庭を眺めて座っていた。土方がその姿を見つけるや足早に近寄ってくる。 

「ようお前ら、まだ起きてたのか」

 と、ふたりの肩を後ろから組んだ。

「おかえりなさい、土方さん」

「宴会は終わったんですか?」

「いや、抜けてきた」

 土方はそれきり沈黙した。

 綾乃も黙って前庭に視線を投じる。

 その沈黙が息苦しくなったのか、葵は「渡したいものがあるんだった」と言うなり、廊下の奥へと駆けていった。

 いや、もしかしたら、気を利かせたのかもしれない。

 綾乃はようやく口を開く。

「御武運を」

「ああ」

「やっぱりいいです」

「うん?」

「土方さんが未来で待っていてください」

「なんで」

「だって土方さんは忘れちゃうもの。わたしは、覚えてるから。わたしが探した方が早いでしょ」

 けろりと言った綾乃に、土方は吹き出した。

「信用ねえなあ」

「…………」

 一瞬、沈黙が漂う。

 綾乃は土方の肩に頭をのせた。

「土方さんが子どものころ、おうちに矢竹を植えたでしょう」

「よく知ってるな」

「あれね、未来ではもりもり生えているんですよ」

「そうか」

「日野にいったら、土方歳三だらけなの。すごいんだから」

「本当かよ」

「ほんとほんと。──京だって、函館だって、……土方さんがいっぱいいるの。だから全然寂しくないよ」

「…………」

 土方は、動揺したように手を震わせた。

 綾乃は笑っている。

「大丈夫ですから。安心して、堂々と戦ってきてね。それで──近藤さんの、みんなの雪辱を、果たしてね」

 時計が零時を指す。

「わたしはずっと土方さんを想っていますから、ね」

「────」

 もう、今生で会うことはないかもしれない。いや、きっとない。

 土方はつよく、つよく抱きしめた。

 影に隠れて立っていた葵は、懐に忍ばせていた巾着袋を握り締めて、膝を折る。

 そのまま静かに泣いた。


 ──。

 ────。

 未明。

 出陣する間際、土方は奉行所の一室に立ち寄った。

 綾乃と葵がならんで眠っている。

 あれからまもなく、ふたりとも糸が切れたかのように眠りに落ちてしまったため、土方がここまで運んでやったのだ。

「────」

 見送りはない方がいい。

 変に湿っぽくなるのはごめんだった。

 ふと、葵の手に握られた巾着袋を見つけた。

「もらっておこう」

 そっと取り上げる。

 葵の髪の毛をくしゃりと撫で、綾乃の頬に手を滑らせた。

「いってくる」

 土方歳三は一度も振り返ることなく、五稜郭を出陣した。


 ※

 一本木関門。

 馬の駆ける足音が迫ってきた。

 土方歳三である。

 右に、左に斬り払いながら、目の前に作られた壁すらも馬とともに飛び越える。

 向かう先は、異国橋の先──弁天台場。

 敵におびえて逃げ戻る味方に刀を突きつけ、叫んだ。

「われこの柵にありて、退くものは斬るッ」

 と。

 しかし異国橋付近は新政府軍が固めており、突破が容易でないことは一目でわかった。

 それでも、土方は敵前にして、落ち着いていた。

 その雄々しい馬上の姿に、官軍は気圧されて一斉に銃口を向ける。

「──いざ」

 呟いて、馬腹を蹴り、走り出す。

 官軍の銃口が火を吹いた。


 ──。

 ────。

 綾乃は、気付けば戦場に立っていた。

 しかし弾や刀は自分を通り抜ける。

 どうやらこれは夢らしい。


 目の前に、黒い洋装の骸が転がっている。


 場所は、異国橋にほど近い場所であった。

 周囲からこの骸の名を呼ぶ、悲痛な叫びが聞こえる。

「土方さんッ」

 兵士のひとりが駆けてきた。

 すぐさま骸を抱き起こし、新政府軍の目から隠さんと持ち上げる。

「…………」

 綾乃は、それをじっと見つめていた。

 なにを言うでもなくずっと眺めていた。

 

 明治二年、五月十一日。

 土方歳三、戦死。


 目が覚めると、葵が泣きそうな顔で綾乃を抱きしめている。

「…………」

 ここには、見覚えがある。

 ふたりが初めてあの世界へと迷い込んだ、旧新選組屯所八木邸の前だった。


 ※

 明治二年五月十二日。

 箱館病院にて、伊庭は榎本から土方の訃報を聞いた。伊庭だけではない、重傷のため入院していた兵士もみな聞いていた。

「…………」

「いま、新政府軍の黒田清隆公より降伏勧告を受けている。君たちは──どうするかね」

 榎本は言った。

 どうする──という意味は、彼の左手にあるモルヒネの瓶がすべてを物語っていた。

 屈するか、死ぬか。

 伊庭は迷わずに手をあげた。

「私はそれを」

 その潔さに、榎本は一瞬だけ暗い顔をしたけれど、すぐに微笑んで手渡した。

「私もすぐに追うから、──先で待っていてくれ」

 伊庭も笑ってうなずく。

「ありがとう、ございます」

 

 明治二年、五月十二日。

 伊庭八郎、服毒死。


 その遺体は、土方の隣にひっそりと埋葬されたとも言われているが、詳細な位置はいまだもって分かっていない。


 五月十五日。

 協議の上、新選組最後の隊長相馬主計らは、ついに降伏を決意。

 榎本は黒田清隆に、貴重な洋書が燃えてはあまりにもったいない──と、海律全書を贈った。

 その日に薩摩藩士と会見をする。

 未だ降伏を拒否する榎本だったが、この会見によって、負傷者達約二百名は湯の川へ送られたそうだ。

 さらに黒田は、海律全書の礼として、翌日お酒五樽を五稜郭の箱舘政府に送ったとか。

 書状には、兵糧や弾薬が少ないならば贈る、とあったがそれを断り、いつでも攻撃していい、という返事をした。

 みな、酒に毒が入ってないかと冷や冷やしたが、自他共に認める狂人──額兵隊長の星恂太郎が毒味を買ってでたこともあり、やがて酒を分け合ってお疲れ、という宴を開いたそうな。


 ──。

 ────。

 弁天台場が降伏したと知らせを受けて十六日、榎本も降伏を決意する。

「榎本総裁、おやめくだされ!」

「私が腹を切らんでどうして皆を助けられようかッ」

「お願いします。榎本総裁──あなたは我々の最後の希望です。あなたがいなくなったら……他の者たちもみな腹を切るッ」

 榎本、大鳥といった幹部陣は切腹を試みたものの、部下の説得により刃を下ろした。

「………………、……」

 十八日、旧幕府軍全軍降伏。

 五稜郭は、開城した。


 ※

 ──京にて、とある光景を見た。

「新選組隊士、岸島芳太郎と申すものですが」

 そう声をかけた家から、女性が出てきた。

 少し疲れているようすである。

「──原田隊長の御内儀で」

「はい」

「原田隊長は、上野戦争にて、立派な最期を遂げられました。聞く話によれば、だれよりも奮迅し──」

 その報告に、婦人は膝を折って悲しむ。


 また、東京ではこんな男と会った。

 長身で見目の整った直衣の男が、桜が見事な深川の野っぱらに酒を撒いていたのだ。

「なんしよるか」

 と笑ってたずねると、男は朗らかに微笑んで「祝宴だ」とふたたび酒を撒く。

「戦が終わったら祝宴でもしようや、と──約束していた友がいた」

「ほに──」

「村垣ってんだがそいつァ、すこし前に死んだもんで。ここで焼いたんだ。俺がね。だから、飲ませてやっているのサ」

 男は最後に残った酒をあおり、笑う。


 また、会津ではこんな話も聞いた。

「山口っていい男がいたろう」

「ああ──立派な男だったなあ。官軍の捕虜になって、まもなく脱走したと聞いたが」

「うん。いまは別の名を名乗ってな、東京で警察をやっとるらしい」

「本当か」

「おまけに噂じゃ、木から吊るした缶をひと突きで捉えるってんだから──さすがだよな」

「ふふ、名を変え居場所を変えども、目立つ御仁だ」

 男たちの話は、尽きずに続く。


 そのまま足は、長年憧れていた蝦夷地──いまは北海道という名前になった──へ。

「ほえェ。北海道はでっかいどう」

 つまらぬボケを呟いて、ひとり笑う。

 函館に入り、五稜郭をめぐる。

 それから札幌、小樽へ。

 あの黒田清隆が北海道開拓使長官になり、札幌を拠点に工場や鉄道を敷設したという。

 なるほど──幾年前までは想像もつかぬほど発展しているようだ。

「初め、蝦夷地に目をつけたがはわしじゃというに」

 小樽に到着してひとりぼやいた。

 目の前から、小柄ですこし垂れた目をした男が口笛を吹きながら歩いてきた。

「おや──」

 以前、どこかで見たかもしれない。いや気のせいかな。──と、首をかしげていると、だんだん距離が迫る。

 すれ違い様、男はちらりとこちらを見た。

 負けじとこちらも見つめ返す。

「…………」

 ハッ、と男は息を呑んで立ち止まった。

「…………」

 しかし、こちらが人差し指を口に当てて苦笑すると、男も一瞬口を開けて目を見ひらく。

 無言で笑い、うなずいた。

「すまんの」

「お互い様よ」

 笑いあう。

「そうじゃ、あんた」

「…………」

「新選組に匿われていた女をふたり知らぬか」

 小声で問うたが、男には聞こえていたようだ。しかし男は眉を下げて「女?」とつぶやく。

「知らん」

 男はひらりと後ろ手を振った。

「夢でも見たのじゃないかェ」

 ふたたび口笛を吹きながら去っていく。

「……夢」

 夢だったのだろうか。

 ──いいや、違う。夢なものか。

 そう思い直してふたたび歩む。

「なんたって俺が証よ」

 くくっと笑った。

 さて、ようやく北の果てに来た。

 日本は狭いと思っていたが、それでも巡ってみれば広かった。

「これが、世界となりゃあ──どれほどのもんかのう」

 ここから、どこへいこうかな。

 坂本もとい坂谷は、北の寒風に身を縮めながらそう思った。


 ※

 さて、久しく見ていなかった彼らはといえば──。

 伊藤俊輔は博文と改名し、十一月に大隈重信とともに鉄道建設を計画。

 明治四年の八月には断髪廃刀が許され、陸奥宗光が神奈川県知事に就任。

 同年十一月には、岩倉使節団の団員になった木戸や伊藤が、渡米する。


 時代は、目まぐるしく変わっていた。


 京都、夢見坂。

「…………」

 上に広がる空をみた。

 雲は、止まっているように見える。

 それでもたしかに時は動いていた。

「この時間のなか──みんな生きていたんだね」

 葵がつぶやいた。

 あの時代、決して恵まれていたわけではないけれど。

 みんなが、一生懸命生きていた。

 一日一日を精一杯生きていた。

 生まれてきた意味も、死にゆく意味も、そんなことは関係ない。

 生まれたからには、生きて、生きて──。

 己の生きた証をこの世に残していった。

「一生懸命生きるのも、悪くなかったな」

 という綾乃に、葵は

「ねえ」

 といたずらっ子のような目をする。

「もしも、またこういう旅行に行けるなら、どこに行きたい?」

 綾乃を見た。

 しばらく、黙る。

 が、やがて破顔った。

「……そうだなぁ、でも」

 彼女の顔は、実に晴れやかだ。

「もう過去はいいから、土方さんのところに行きたいな」

「本当好きだね。でもまあたしかにいい男だったよ、うん。それは認める」

「ははっ。それを言うならわたしも、土方さん以外にもいい男はいっぱいいるんだってこと、認めるよ」

「ふふふふ、そうだね。いい男もいい女も、たくさんいたね」

「なんだったんだろう。この長ァい旅行は」

 綾乃の言葉に、葵はふと考えた。


「夢を、見ていたような旅行だったから──“夢見旅行”かなぁ」


「いいねそれ。あっ」

 ふいと視線をズラせば、この坂の名前の碑が目に入る。

「ここもまた、夢見坂!」

 ハモった瞬間、お互いに吹き出してまた、笑った。

 今日も空は青い。


(完)

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