第零章
初対面
時は江戸末期。
ペリーが黒船に乗って、横浜港へやってきた。
神仏に縋って過ごしてきた日本人は、この時もまた同じように、夷狄から我が国を守りたまえと神に願った。
これはそんな激動の時代に、ただ一人の主に己のすべてを捧げた、二人の男の物語。
※
「佐兵衛」
「ここに」
頭を垂れて、村垣佐兵衛は幼くも主君である徳川家茂の膝元へ素早く近寄った。
彼は、代々御庭番家筋村垣家の末裔である。
後世では村垣家実質六代目範正が名を残しているように見られているが、この佐兵衛──村垣範正の末息子がお上の側についていたとは誰も知らない。
御庭番衆の実態は、隠密とは名ばかりで町中警備をし、しっかりと一つ一つの行動を記録に取って後世に残している。
しかしこの佐兵衛。
御庭番家筋の出自に加え、その並外れた洞察力で数々の仕事をこなしてきたこともあって、数ヶ月前の就任の日、内密に家茂専属として仕えるようお達しが来たのであった。
「佐兵衛、金平糖が欲しい」
「いけません」
弱々しく呟く家茂公(13)の言葉を、佐兵衛はぴしゃりと言い捨てた。
「上様は今、甘いものはいけないと医者にきつく止められております。それ以上歯が痛くなったらどうするんですか」
「痛くない!」
「だめです」
家茂公は、大変な甘党であったという。
おかげで二十一歳の若さで亡くなったにも関わらず、三十一本あった歯のうちなんと三十本も虫歯であったとか。
「では上様、こちらでお気を紛らわせて」
と、佐兵衛が差し出したのは折り紙。
「余はもう元服を済ませたのだ。子どもではないぞ!」
「童心に戻ることも大切ですぜ。ほら、上様より十も大人な私も鶴を折りましたよ」
「…………」
佐兵衛が取り出した折り鶴は、彼の性格どおり几帳面に折り目がつけられている。むかしはよく乳母と折り紙を折ったものだっけ──と彼ははにかんだ。
「わかった。きれいに折って、あとで慶頼(将軍後見職の人)に見せて驚かせてやろう!」
「それはよい」
家茂公の笑顔に、佐兵衛もつられて小さく笑む。
幼くして将軍継嗣を告げられたこの人は、幼いながらにも威厳を見せようと趣味を全てやめた。
そのことで受けるストレスも表に出すことなく、一生懸命に励んでいる。
そんなお上の努力も苦労も、この数ヶ月すぐそばで見てきた。
「佐兵衛、鶴ってどうやって折るのだっけ」
「出だしが違いますよ上様」
「折る前に教えてよ!」
この人のためなら、命だって惜しくない。
佐兵衛は心からそう思っている。
家茂公が就任する少し前──安政五年一月末。
幕府には、ふたつの問題が浮上していた。
・日米修好通商条約の勅許問題
・将軍継嗣問題
である。
ペリー来航後、日本はアメリカから開国を迫られていた。
しかし今まで一部の国以外とはほとんど鎖国状態にあった日本にとって、開国をするなどとんでもないことだった。
天狗のような異人が日本に入ってきて、人も文化も食い尽くされてしまう!
そんな恐怖があったのである。
しかし幕府は未来の日本発展のため、かつて自分達が掲げた『鎖国』というスローガンをとっ払い、あらたに『開国』を宣言したのだ。
鎖国が朝廷命令でないゆえ、本来開国にあたっても勅許の必要はない。
とはいえ、諸藩の大名が
「国のことだし一応上(天皇)に確認取らないとヤバくね?」
と言うので、天皇におゆるしをいただくため、幕府老中堀田正睦や勘定奉行の川路聖謨は京へ赴いた。
てっきり
「よきにはからえ」
なんて言葉を天皇から賜ると思っていたが、外国を毛嫌いする孝明天皇の意志は真逆。
「ふざけんな、御三家あつめて考え直せ」
という御言葉とともに江戸へ突っ帰されてしまったのだ。
あと一歩というところで二の足を踏み、調印期日の延期ばかり連絡してくる日本に、待たされていた駐日公使ハリスは怒った。
「はやく決めてくれないと攻撃するよ」
と。
これまで、調印に反対していた就任二ヶ月足らずの大老井伊直弼だが、このままゆけば戦になると危惧したか、
「仕方ないからやることやりつくしたんなら調印していいよ」
と調印担当者の岩瀬忠震たちに告げた。
そのため岩瀬らは六月に条約を無断調印。
孝明天皇の怒りを買うこととなる──。
一方、将軍継嗣問題は、といえば。
つまり十三代将軍徳川家定の跡を継ぐのは誰だ、という問題だ。これには候補者がふたりいた。
・紀州藩主慶福(のちの徳川家茂)
・一橋慶喜(のちの徳川慶喜)
である。
事態が急転したのは、堀田が江戸へ帰還した三日後の四月末のこと。
彦根藩主井伊直弼が突如大老に就任した。
ストイックで堅物な性格の彼は、のちに安政の大獄という浪士大量処刑を敢行したことで別名『井伊の赤鬼』と呼ばれたと伝わる。
彼のバックにいたのは、かねてより次期将軍には慶福(家茂)を、と猛プッシュしていた南紀派(保守派)。
井伊が大老に就任したことで力をつけた彼らは、慶喜をプッシュする一橋派(改革派)を弾圧。将軍継嗣問題は収束した。
「どうすればよかったのだろう」
家茂は肩を落とす。
これらの問題は、まだ幼い彼が背負うにはあまりにも重すぎる事だった。
佐兵衛は苦笑する。
「井伊大老も勅許にはこだわっておられたようですがね。相手方が拳を振り上げて急かしてきた──即決即断をなさるのも致し方ありますまい。ここでメリケンを相手取り、戦をするという選択に向かなかっただけヨシとすべきでしょうな」
「うん」
「しかし、周囲の……井伊大老への不満が高まりつつあるのが些か気になります」
「……うん」
心優しき将軍は、まだ幼い顔をくしゃっと歪めて井伊直弼の身を案じていた。
※
──京都御所。
右近橘を眺めてから男は紫宸殿の横を抜ける。
御常御殿にたどり着き、ため息をついてずかずかと中へ入った。天皇がおわす場所に自由に出入りするのは、この男くらいのものだろう。
「平次」
ゆったりとした口調の孝明天皇は、御簾の向こうで含み笑いをしているようだ。
「戻りました」
「扇子は」
「お陰様で」
嫌みたっぷりに呟いてから、平次と呼ばれたこの男は静かに御簾へ膝を寄せる。
「こちへ参れ」
「…………」
慣れた手つきで御簾をあげ、平次は帝の顔をひたと見据えると静かに横で頭を垂れた。
この男、名を平次という。
姓はない。
天皇を拝顔することすらはばかられた時代、この平次だけは常に天皇のそばに仕えることを許された。理由は不明だ。
しかし噂によれば、彼は天皇が幼き頃からともに遊ぶ仲であったという話や、容姿は変わらぬが天皇の教育係であったとする話もある。
いずれも真偽は不明であるが。
「帝、譲位をお考えとはまことですか」
「うむ。勅許を求めておきながら、無断調印をするとは何事ぞ。こんなくだらぬことに付き合うほど余は暇ではない」
「暇でしょ」
「そなたはまた失礼なことを」
平次は、先ほど町で新調した扇子をパチ、と開閉しながらつぶやいた。
「戊午の密勅を、出されたとか」
「うむ」
戊午の密勅とは、無断調印にブチ切れた孝明天皇が、水戸藩へ正式な手続き(関白を通すこと)もないまま勅書を降下したものを言う。
この密勅が出される少し前、井伊直弼は一橋派の徳川斉昭ら重要人物を、不時登城(彼らは、勅許を得ないまま条約締結したことを詰問するために指定日以外で登城した)を理由に謹慎などに処していた。
さらに、改革派幕吏も次々と左遷され、老中堀田も条約勅許不成功の責(表向きはこうだが、実際は慶喜擁立に動いたことが原因らしい)で罷免・隠居を命じられる。
天皇はこれに対し、戊午の密勅にて斉昭らの処罰の理由を問うてから「公武合体を軸に、御三家は徳川家を助けつつ内を整えろ。外国なんかの挑発は受けるなよ」という激励の言葉を与えた。
「まだ若ェお上はさぞや大変でしょうな」
「立派にこなしとると聞いておる。余も、彼を責めるつもりは毛頭ない」
「責め立てたあかつきにゃ、俺がまた帝を叱らねばなりますまいな」
「ふふふ、また扇子を折るのか」
「いや今度は」
脇差を、と再び真顔で言うものだから、孝明天皇は楽しそうに声を上げて笑うのだった。
※
安政の大獄は安政五年から六年の一年間ほど続いていたものだ。
その背景を簡単に説明しよう。
井伊直弼は、戊午の密勅が水戸藩に直接降下されたことを「水戸藩は大名らと結託して朝廷を利用し幕府を潰そうとしている」と考えた。
そのため、幕府は水戸藩に対してその勅書を幕府に返せと命じながら、勅書降下や慶喜の将軍擁立運動の関係者の処罰を始める。
これが、安政の大獄である。
代表者をピックアップしてまとめてみよう。
●水戸藩●
安島帯刀(勅書を受け取ったため)
茅根伊予之介(上記に同じ)
鵜飼吉左衛門父子(勅書降下に直接関与したため)
全員死罪。
●尊攘志士●
梅田雲浜(影響力があったため)捕縛後獄死
頼三樹三郎(上記に同じ)死罪
吉田松陰(上記に同じ)死罪
橋本左内(上記に同じ)死罪
彼らの他に七十名を越える志士や幕臣、諸侯、公家などが処罰され、やがて遠島・蟄居・隠居などに処せられたのだった。
まるで暴君である。
「公家の者たちも相当罰せられていると聞くが、まことか」
帝の声は沈んでいる。
そばにいた平次はため息交じりに答えた。
「尊融法親王は、表向きは隠居永蟄居を命じられているほどですな」
「表向きとは」
不安な色をにじませた帝の質問に平次は答えなかった。
ばさりと御簾をあげて外へ出る。
「いずこへ」
「穴を──少し埋めて参ります」
平次の言葉に何事かを察したのだろう。孝明天皇は御簾の奥で小さく頷く気配がした。
安政六年十一月。
井伊直弼の極端な正義感から起こる暴走は、佐兵衛をも巻き込んだ。
「尊融法親王を殺せ」
井伊の指示であった。秘匿事項であるため、家茂公にすら口外は許されなかった。
尊融法親王とは、のちの久邇宮朝彦親王(賀陽宮)のことである。彼は確かに勅許に反対し、一橋慶喜の将軍擁立に手を貸していたと聞いている。井伊の掲げる正義を邪魔する者は徹底的に排除される──佐兵衛はそれを実感した。
(…………朝廷)
まずは京に行かねばなるまい。
佐兵衛は手持ちの荷物もそこそこに江戸を出立した。
※
出立から三日後、京に着いた佐兵衛は迷うことなく相国寺へと向かう。
永蟄居を命ぜられた尊融法親王は、今まで名乗っていた青蓮院宮を名乗れなくなったため、現在はこの相国寺に幽居しているという噂を聞いたのだ。
「…………」
夜も深くなってきた頃、佐兵衛は一人相国寺の桂芳軒へ向かう。
素早く屋根裏に身を隠して息を殺した。
どうやら、部屋の中には一人しかいないらしい。布団がもっこりと膨らんでいる。
(恨みはないが、しかし)
佐兵衛は複雑な気持ちをかかえたまま、屋根裏から部屋へと音もなく降り立つ。
布団で横になっているであろうターゲットに忍刀を振り上げた。
「身軽なやつ」
声が聞こえた。
佐兵衛が素早く声の方角を見る。
狩衣姿の男が一人、扇子をパチンと開閉しながら床の間に行儀悪く座り、佐兵衛を見ている。
「…………」
佐兵衛は、口布の下で小さく舌打ちをしてから布団をめくった。
そこにあったのは適当に造られた人型の藁人形。ご丁寧に着物を着せられて寝転がっている。
「くそ」
藁人形に忍刀をぶっ刺し、長身の男を睨みつけた。
「青蓮院宮はどこだ」
「あの色狂は夜遊びがお好きでねェ」
「──貴様、何者」
という佐兵衛の言葉に、男は片眉を吊り上げてわらった。
(ばかにしやがる)
佐兵衛はすばやい動きで手甲から手裏剣を取り出し男に放つ。
しかし男は持っていた扇子でそれを全て弾いた。
「────」
火がついたか。
男が座っていた床の間からゆっくりと立ち上がる。
扇子をばらりと開いた。
佐兵衛も懐からクナイを取り出して構える。
先手を打ったのは、飛び道具を持つ佐兵衛だった。
クナイを四本投げ、素早く忍刀を抜き男へ斬りかかる。
しかし男はクナイを全てはたき落とすと、身を翻して刀を避けそばに転がっていた人型藁人形を投げつけた。
佐兵衛は難なくその藁人形を真っ二つに斬り落とし、再び男との間合いを詰める。
詰めたついでに横に払うように刀を振る。男は腕一本でバク転をし間一髪避けきった。
狩衣姿でよく動く男だ。
佐兵衛は刀で押し切りにかかる。力には自信があった。
男も応戦するように閉じた扇子で刃を受けたけれど、思いのほか佐兵衛の力が強かったようだ。横に払い再びバク転で間合いを取る。
「怪力やな」
男は笑い、戦闘態勢を解いた。
なにをする気か分からずに佐兵衛は身構えた。しかし男は足もとに転がる真っ二つになった藁人形を拾い上げて切り口をじっくりと覗き込み、つぶやいた。
「井伊大老か」
「────」
「ああいう正義漢は悪心で動くわけでもねェ分、タチが悪い。そう思わんか」
答える義理はない。
佐兵衛は男の話など半分に、己の逃げ道をいかにするかについて集中していた。屋根裏へあがるには高さが足りない。中庭方面は男の身体が邪魔で難しい。
部屋の入口は幸いに自分が近いが、部屋の外に思いがけず伏兵がいる可能性が無きにしも非ず。
(如何とする──)
警戒心を剥きだして男を睨みつけていると、彼は「足が付く、はよう拾え」と地面を指さした。指がさしているのは佐兵衛が投げたクナイである。
いったいなにを考えているのか──。
男の動向をうかがいながら足もとに散らばったクナイを拾う。拾うなかですこし冷静になった佐兵衛は疑問を覚えた。
「足が付くだと。貴様、俺が何者かわかっているということか」
「井伊大老の遣いで来たんとちがうかェ」
「なにを──」
「井伊大老のタチを思えやァ容易なことよ。おぬし御庭番か」
「…………貴様、名を名乗れ」
佐兵衛はふてぶてしくつぶやいてから内心で後悔した。
なぜ相手にしてしまったのか、と。
「平次。姓はない」
「────公卿ではないのか」
「おぬしは」
「……村垣佐兵衛」
「村垣というと、一流の御庭番家筋だなァ。大老もそうとう殺したかったと見える」
平次は床の間に置いていた立烏帽子を拾い上げてつぶやき、わらう。
そしておのずからこちらに近付いて部屋の出入口である襖に手をかけた。
「おぬしが京におる間、宮さまは隔離するかな。おぬしにかかりゃァあのお方なら一発で仕留められそうだ」
「なればお前をさきに殺せばいいということか」
「江戸者は血の気が多くていけねェな。おかげで今宵はよく眠れそうだ」
そう言って、平次は一度こちらを振り返って微笑むとゆったりとした動作で部屋を出て行った。闇に乗じて伏兵を連れてくるか──と警戒したが、長年の戦場での勘が告げるにはもうここに敵はいない、ということ。
佐兵衛はあっけにとられてしばらくその場に立ち尽くした。
不思議な男だ。捕縛もせずに暗殺者をそのままそこに置いていくとは。
(しかたなし)
早く親王を見つけ出して殺さなければ、井伊大老がまたなにを言うとも限らない。
佐兵衛は再び屋根裏から出て、真夜中の京の町に姿を消した。
「ただいま戻りました」
平次は、眠さからくる不機嫌さを兼ねて思いっきりの仏頂面で御所へと戻る。
そこにいたのは身を隠す尊融法親王の姿。
彼はいつもどおりのひょうきんな顔で、息もつかずにまくしたてた。
「おお平次か。なんやねん一体。私が相国寺におるとまずいことでもあったか。せやお前さっき私の髪の毛抜いたやろ。まさかとは思うが丑の刻参りなんかしとらんよな。なんだか先ほど身を切り裂かれるような痛みが走って──死ぬかと思うてほんまに怖うてな」
「ああ……────」
平次の口元がわずかにあがる。
脳裏にはいまにも噛みつかんばかりに毛を逆立てた犬が一匹、布団に隠していた藁人形に忍刀を突きたてたシーンがよみがえる。仕込みの際に遊びでいれた髪の毛だったが、まさか本当に効果があるとは、と思って肩を揺らした。
「なにがおかしい」
「いやなんも。宮様が亡くなられて喜ぶのは井伊大老と世の中のおなごくらいじゃァねえかと思って」
「口を慎め、口を」
かなりの精力家であったこの尊融法親王は、十八人もの子どもを五人の妻に作らせている。
他にも神社の巫女も孕ませるなど、大変お盛んだったようだ。
「とうぶんは夜遊び禁止、死にとうなけりゃおとなしくしてくだされや」
といって、平次は早々に御所のちいさな角部屋で丸くなる。
平次は夜に弱いのだ。
おかげで目を閉じるやものの数十秒でさっさと眠ってしまった。
これが、平次と佐兵衛の第一接触である。
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