天の罰

「貴様は誰だ」

 土方が言った。

 ズン、と衝撃を受けて身体がぐらりと揺れる。

 どうして。

 どうしてそんなこと──。

 ふふふっ。

 笑う。誰かが笑っている。

「そんなのって、ないよねえ」

 葵の声だった。

 ガン、ガン、ガン。

 どうして笑っているの。

 頭が痛い。

 頭が──。


「痛い!」


 ガバリと起き上がった。

 は、は、と息を乱して、わたしは周囲を見回す。

「…………」

 夢。

 ズキズキする頭をさすり、ようやく気がついた。

「あれ?」

 船内のベンチに寝転がっていたはずの自分の身体が、床に投げ出されている。心なしか身体も斜めに傾いて、壁が良い背もたれになっていた。

 放心していると、通路で騒ぐ声がする。

「なんだなんだ」

「座礁したぞォ!」

「後ろの部隊に救援を頼めっ」

「クソ、雪で見えないッ」

「榎本艦隊、鷲ノ木に到着するようです!」

「風雪がひどい。室蘭に避難した艦もあると聞いた」

 船内に怒号が飛び交う。

 座礁。

(ああ)

 今日は明治元年十月十九日。

 兵糧と薪水補給のため入港した宮古湾から、ふたたび蝦夷地に向けて出航。

 川汲沖に到達したとき。

 我々新選組部隊他を乗せた大江丸が、座礁する。

 一時混乱に陥るも、味方艦隊の助けもあって大江丸は再度出航。旧幕艦隊が続々と鷲ノ木浜へと集結していくなか、一日遅れて合流することとなる。──

「おい綾乃、あや!」

「あ」

 気がつけば、部屋の中に愛しい彼がいた。

 険しい表情でわたしの顔を覗き込んでいる。その顔も凛々しくて好きだ。

 見惚れるあまりぼうっとしていると、彼は再度「オイ」とガラの悪い口調で声をかけてきた。

「あ、土方さん。おはようございます」

「おはようじゃねえよ、船が座礁したってのに何を呑気にぼうっとして」

「すみません。ちょっと寝ぼけてたみたい」

「しっかりしろよ、まだ先は長ェぞ」

「はァい」

 ホッとしたら、気が抜けた。

 なんだ──夢か。

 と思うと同時に、いまの言葉がズシンと胸にきた。

(先は長い?)

 先ほどの夢を反芻する。残された時間を思う。

 馬鹿を言え──寸の間だ。

 わたしはいま、まばたきだって惜しいよ。

 三日後、新選組は鷲ノ木浜に上陸した。


 ※

 上陸した──といっても、それがまた非常に大変だった。

 暴風のため波も高く、なにより積雪が凄すぎて陸との見分けがつかない。

 寒気も激しく、男たちはぶるぶると止まらない震えを抑えるように、我が身を抱きながら降り立った。

「ぎゃあ寒いッ、死ぬぅ!」

 と、綾乃が叫ぶ。

 気がつけばこんもりと着膨れした女たちを見て、土方は笑った。

「なんだお前ら、獣みてえな服着やがって」

「外套ですよッ……さむ、寒い──寒い!」

「これ寝たら死ぬやつ!」

「北海道やばい!」

 現代の暦で言えば、十二月頃である。

 何故、冬に北海道へ来るのだ。

 とふたりは怒りすらこみあがるが、そんなことを言っても仕様がない。

 とにかく、寒さで死ぬことのないように必死にお互いを励まし合い、くっついて暖を取り合った。


 これから向かうは蝦夷地の砦──五稜郭。

 すでに先発した旧幕府軍を追うように、部隊をふたつに分けて行軍するという。

 それにあたり、綾乃は新たな事実を聞かされた。

「ええっ、土方さんって新選組の隊長じゃねーの!」

「ずっとそばにいて今更なにを言う」

「そうですよ綾乃嬢。もう土方さんは我々の隊長ではなく、旧幕部隊全体の総督なのです」

 島田は寂しそうに胸を張った。

 そうなのだ。

 新選組は土方ではなく、大鳥圭介の指揮下に入り、峠下経由で五稜郭へ。

 土方は額兵隊や陸軍隊を率いて川汲峠から五稜郭へと向かうという。

「土方さんだって、心配でしょう」

 と、葵。

 土方は馬鹿を言え、と笑った。

「新選組はいわば俺の分身だ。だからこそ別動隊なんだよ。どっちにも俺がいるとなりゃあ負けなしだろうが」

 なるほど、と妙に納得した。

「さすが常勝将軍──」

 葵がつぶやくと「期待しとけ」と土方は笑った。

 ──その言葉は、的中する。

 先陣を切っていた旧幕軍が、峠下方面の途中で新政府軍から攻撃を受けたのである。

 しかしながら、駆けつけた新選組含む大鳥軍の加勢により形勢逆転。見事打ち破ったと報告が入った。

 同じ頃、土方軍は鹿部に宿陣することになる。


 ──。

 ────。

 それから二日後、土方軍は湯ノ川に到着。

 五稜郭も目前のことである。

「なんなんだこの寒さは──」

 土方がぼやいた。

 土方軍は、額兵隊と陸軍隊を主力に、四百人あまりが行軍していた。途中に戦闘もあったもののなんとか乗り切ったのだが──。

 寒い。

 とにかく寒い。

 寒すぎて、敵がいるにも関わらず一歩も進めないこともあった。

 戦ならばいくらだって頑張れる。

 しかし寒いことにはどうしようもない。

「どうしました、総督!」

 額兵隊隊長の星恂太郎が、目を爛々と輝かせて身を乗り出した。彼は沖田とそう変わらない歳で、勢いのある頼もしい青年である。

「キミは元気だな。寒くねえかい」

「寒いのでいつもより元気を出しています!」

「はっはっは。なるほど、いい気概だ」

 と、土方が笑ったときである。

 後陣にいる陸軍隊から声が聞こえた。何やら言い争う声色だった。

「なんだァ」

「土方先生ェ、野村くんと春日さんが喧嘩してまァす」

 後ろに様子を見に行った綾乃が、報告した。

「喧嘩?」

 野村とは、新選組のくせに陸軍隊小隊に加入していた野村利三郎のことである。寒いと気も立つのか、その陸軍隊頭の春日左衛門と喧嘩を始めたというのだ。

「原因は」

「野村くんの気概と春日さんの責任感がぶつかり合った結果です」

「は?」

 聞けば、野村が行軍のたびに後陣に配備されることに怒って、勝手に先陣に赴いたことが原因だった。それに春日が大変怒り、もう喧嘩、喧嘩。

「おいおい、最初は仲良くやっていたじゃねえか。おい春日さん、野村も!」

「男のプライドってやつかしら」

 葵が苦笑する。

 土方が慌てて駆けつけてその場を収めたものの、ふたりの仲は険悪で、行軍中も皆が気を遣うったらない。春日の怒りは、翌日に五稜郭へ入城したときまで続き、

「野村を軍法会議にかけよう!」

 と言い出すほどだった。

 榎本がなだめすかしてこの件は落着したものの、まったく、天気同様の大荒れた行軍となった。


 ※

 五稜郭入城後まもなく、土方を総督とした松前攻略軍が出陣した。

 完全に別働隊となった新選組は、市中取締りを下命される。

「わお、市中取締まりってすごく久しぶりの響きじゃない」

「なんだかあの頃を思い出します。近藤局長も土方副長もいない新選組で取り締まるなんて──少し心細い気もしますが」

 と、安富才助が呟いた。

 彼も長く新選組に属してきた隊士の一人だ。

「なに言ってんですか。新選組は土方歳三の分身なんですよ。土方さんから全幅の信頼を置かれていること、忘れないで!」

 葵はにっこり笑った。

 新選組隊士は、鳥羽伏見の戦が始まってからというもの、我らが土方歳三のすごさを身にしみて感じ入ることがよくあった。

 彼の采配は人を活気づけ、戦略は我々を勝ちに運ぶ。

 いつからか旧幕府軍のなかでも『常勝将軍』などと呟かれるほど。

 そんな男が自分たちを信頼している──それだけで、新選組隊士の士気は上がった。

「松前攻略も土方さんが総督ならば負けなしだ。俺たちは俺たちで、できることをやるぞ」

「おう!」

 土方歳三の存在は、大きい。

 それは例に漏れず松前攻略軍も同じであった。

 十一月五日。

 陸から土方率いる松前攻略軍が、海からは回天と蟠龍という旧幕艦隊が一斉に攻撃を開始。海からの砲撃は城に大ダメージを与え、そのなかを松前攻略軍がなだれ込んだことにより、城は陥落。

 松前藩兵は江差まで敗走する。

「…………」

 松前城攻略は、当然嬉しい知らせだった。

 綾乃と葵も、もちろん喜んだ。

 喜んだけれど──。

 その勝利の陰にあるものを見てしまえば、素直に喜べないのが平和な世を生きてきた者の性であろう。

「松前城下が──」

 綾乃は呟く。

 砲撃による火災が城下に広がり、松前城下は四分の三が火災にて焼失したと言われている。


 それからも松前攻略軍は止まらない。

「土方さんが全然帰ってこない!」

 と五稜郭にいる綾乃が嘆くとおり、土方率いる攻略軍は、松前城に滞陣したのち江差に向けて出陣した。もちろん、敗走した松前藩兵を追うためである。

「あんた、こんな状況なんだから土方さんのこと少し忘れたら?」

「それができたら苦労しない」

「まあ、勢い余ってそっちについていくとか言わないか心配だったから、その点は良かった」

「…………」

 綾乃がじっと葵を見つめる。

「なに」

「素敵なこと言うね」

「違うやめろ」

「その手があったか」

「ない、ないから!」

 もちろんそんなことはできない。

 いるだけで足手まといになるのは目に見えている。が、綾乃の心はそばにいたいと叫んでいた。

「だって、──」

 今日は十一月十五日。

 旧幕府軍にとって、悲劇とも取れる出来事が起こるのだから。

「なに?」

 もったいぶる綾乃に、葵は眉をしかめた。

「開陽丸の沈没。聞いたことない?」

「……あるような」

 ないような。

 という葵の反応を予想していたのだろう。

 綾乃はかいつまんで説明をした。

 明治元年十一月十五日。

 江差攻撃をかける松前攻略陸軍を援護するため停泊していた開陽丸が、暴風雨に見舞われて座礁。沈没するのである。

 開陽丸の救援に向かった神速丸も座礁し、旧幕府軍の頼みの綱は全滅してしまうという。

「それはどれほどのダメージなの?」

 葵は首をかしげた。

 久しぶりの綾乃歴史講座である。

「開陽丸はね、世界でもめっちゃ最新の軍艦だったの。みんな、みんな頼りにしてて──これがあれば勝機も見える、っていうくらいの」

「ええ……土方さんも?」

「当然」

 と、綾乃は暗い顔でうなずいた。 


 十五日早朝。

 榎本武揚(釜次郎)を乗せた開陽丸は鴎島の島影に碇泊した。

 町はすでに無人であり、榎本軍は無血で江差を占領。榎本は能登屋と言う旅館で身体を休めていた。悲劇の報告はそのときだった。

「開陽丸が沈みますッ」

「なんだと!?」

 榎本は飛び起きた。

 すぐさま浜に駆ける。海を見た。

「…………」

 そこに見たのは、傾いた開陽丸が激しく波に打たれる様であった。

 ──その頃、陸軍として松前藩兵を追ってきた土方軍は苦戦の末、翌十六日になったころ、松前藩兵を抑えることに成功した。

 榎本が能登屋にいると聞いた土方は、足早に向かう。

 当然、土方も開陽丸の沈没は知っている。なにせ、江差攻略に奮戦していたなかでも目視できる距離だったのだから。

 硝煙と返り血にまみれたまま、土方は奥歯を噛み締めて能登屋に入った。

「────」

 榎本は、海を見て立っていた。

 土方の気配なぞ一分も気づかぬほど目を凝らしている。

 声をかける気も削がれて、土方もその場に立ちつくす。

 後年、能登屋の女中は語っている。

「ただお茶を届けに行っただけなのに、あの部屋の空気ときたら──わけもなく身体が震えて止まらなかった」

 と。

 その後、榎本と土方は本陣を置く順正寺に向かう。道中ふたりの間に会話はほとんどなかった。

 しかし途中、檜山奉行所前を通ったときにふと土方が顔をあげる。

 海が見えたのである。

 ──三分の一ほど顔を覗かせた開陽丸まで。

「…………」

 奉行所の門前に立ち、ふたりは沈みゆく開陽丸を眺めた。

(ああ──)

 土方の目から涙がこぼれた。

 悔しくて悔しくて、土方は手のひらに爪が食い込むほど、拳を握りしめる。

 目前にあった一本松に、何度もその拳を叩きつけた。


 ──天も我らを見放すのか。

 

 松前藩が降伏の意志を示したのは、それから三日後のことだった。


 ※

 帰ってこない。

 全然、帰ってこない。

 綾乃は洗濯板で隊士の服を洗いながら、沈んでいた。

 土方が松前攻略に出て行ったきり五稜郭に帰ってこないので、寂しくてたまらないのである。

「やっぱり一緒について行くんだった──」

「なにバカなこと言ってるんだよ」

 と、後ろから声をかけてきたのは遊撃隊所属の伊庭八郎だった。

「イバハチィ、寂しいよォ!」

「泣くな泣くな。戦場についてきてもらうより待ってて欲しいもんだよ、男は」

「うん……」

「しかし驚いたな、あのご執心だった綾乃さんがまさか落としちまうとはね」

「落とすって?」

 と綾乃が問うと、伊庭はニヤニヤと笑った。

「土方さんを、に決まってんだろう。いったいどんな手を使ってあの女好きを手篭めにしたんだよ」

「言い方!」

 綾乃の額が赤くなる。

「あんまりいじめるなよ、伊庭」

 さらに後ろからやってきたのは、伝習歩兵一小隊を率いる人見勝太郎だった。伊庭とは旧知の仲で、伊庭の左腕を失くした戦でもともに戦っていた盟友であると聞く。

「綾乃嬢をいじめたら、土方総督からしっぺ返しを食うと聞いたぞ」

「まって」

 綾乃はストップをかけた。

「なんで人見さんまで嬢呼びなの」

「新選組の連中が言ってたんだ。戦場に女がいるってことに不平を漏らしたどっかの兵士にさ」

「な、なんて」

「お嬢たちをバカにするな、と。火事で焼けても水に溺れても死なんだぞって」

「オホホホホ」

 思わず笑って誤魔化してしまった。当然、旧幕府軍にだって未来から来たなどとは言っていない。

 きっと島田あたりだろう、なんて思っていたら「蟻通さんが言ってたっけ」と伊庭も頷いた。

「えっ、蟻通勘吾!?」

「そうそう。大人しそうに見えるけど、はっきりとものを言う頼もしい男だったよ」

 伊庭は笑った。

 蟻通勘吾も、長く新選組に属する隊士だ。沖田と葵の恋模様にふたりで戸惑ったのも今となってはいい思い出。

「そうかぁ──蟻通さんがね」

 新選組は土方の分身。

 なるほど確かに、と綾乃は思う。

 土方がいないときでも、新選組の誰かが話題にのぼるとそれだけで嬉しくなる。土方だけでなく、綾乃にとっても新選組は家族のように愛しい存在となっていた。

「安心しろ、綾乃嬢。聞いた話じゃあ土方総督も箱館に向けて帰ってくるそうだ」

 人見は腕まくりをした。

「なんでも蝦夷地平定を祝して凱旋するんだと」

「凱旋……」

 時は既に十二月。

 そう、箱館府知事の清水谷公考が本州へ敗走したことで、旧幕府軍は蝦夷地全島を事実上支配下に置いたことになる。

 蝦夷地平定──つまりは、箱館政府の誕生である。


 十二月十五日。

 人見が噂した凱旋は、大変華々しいものだった。

 百一発の祝砲をあげ、夜の街は行灯で照らされ、幹部陣は馬に乗る。フランス教官団とラッパ隊が景気付けながら亀田まで行進した。

 葵はバシャバシャとデジカメで写真を撮りながら、野次馬に混じって声援を送る。

「すごい活気だね。あれだけ戦続きだったのが嘘みたい」

「おいオヤジ、このハゲ! 土方さんが見えねっつんだよタコ!」

 綾乃の罵声も、野次馬の喧騒にかき消される。

 街はすっかりお祭り騒ぎで、一晩中明かりがちらついた。

「総ちゃんにも見て欲しかったなあ、こんなに綺麗なの」

「見てるよきっと。空のどっかで」

 野次馬の親父と一戦交えてきたのか、ボロボロになった綾乃がけろりと言った。

「そうかな」

「でも沖田くんってどちらかというと花より団子派じゃない?」

「そうかも」

 葵がわらう。

「それよりも手伝って、葵」

「何を?」

「今度国内初の入札人事があるんだって。みんなに、土方さんに投票してもらうようにお願いするの」

「入札人事?」

 葵にはピンとこない。

「だからつまり、選挙だよ」

 綾乃は力を込めて言い切った。


 ──。

 ────。

 それは、国内初の投票選挙であった。

 士官以上の投票により、箱館政府閣僚を選出したのである。

 結果が以下の通りだ。

  幕府総裁、榎本武揚

  幕府副総裁、松平太郎

  箱館奉行、永井玄蕃

  松前奉行、人見勝太郎

  海軍奉行、荒井郁之助

  江差奉行、松岡四郎次郎

  陸軍奉行、大鳥圭介

  開拓奉行、沢太郎左衛門

  陸軍奉行並、土方歳三


「並ってなに」

 案の定、綾乃は不服そうな顔をした。

 土方はここしばらく五稜郭に腰を落ち着けている。

「さあ。わかるのは大鳥さんの下ってことだよ」

「おかしいでしょ。常敗将軍の下に勇将をつけるって」

「常敗将軍は言いすぎだ」

 ククク、と土方は笑った。

「それだけじゃねえ、俺にはあとふたつ追加された」

「え?」

「陸海軍裁判役だろ、それに──箱館市中取締役」

「市中取締役って、それってつまり」

「ああ、ようやく新選組がまた俺の配下になった」

「きゃあ!」

 綾乃は飛び上がった。

 役職が決まれば、必然的に各人の役回りは決まってくる。蝦夷地平定からこっち、旧幕幹部陣は箱館政府として、国の運営を本格的に形にしようとしていた。

 つまりは、資金調達である。

 例をあげれば、祭りの露店や見世物に税を課したり、一本木に関門を設けてそこを通る住人からわずかでも徴収したり、お返しに米銭を支給したり──。

 豪商から金を搾り取ろうと言い出した幹部もいたが、どうやら土方がかなり強く反対をしたために取り止めとなったとか。

 新選組時代にやってきたことを反面教師にしたのだろうか──と綾乃は感心する。

「調練のやり方も変わりましたよね」

「お前ってよく見てるのな」

 と、土方もまた、感心したように呟いた。

 いうとおり、彼らは毎日のように降雪のなかフランス式調練に挑み、様々な技芸も習得した。

「でも、ちょっと役職が多くないですか。土方さんが過労死しちゃう」

「この程度で過労なら、もう京にいたときに死んでる」

 さらりと言った。

 綾乃はすかさず「カッコいい、好き」と呟く。

「ああ──そうだ。なあ」

「うん?」

「市中に休息所でも作ろうか」

 唐突な申し出だった。

 予想もしていなかった言葉に、綾乃はきょとんとする。

「なんで」

「俺がいねえ間、お前も徳田も五稜郭に詰めっぱなしだったそうじゃねえか。息が抜けるようなところがあった方がいいんじゃねえかと」

「そ、んなこと」

 考えていてくれたなんて。

 感激のあまり、綾乃は土方に抱きついた。

「嬉しい!」

「五稜郭からそう遠くない場所で、どうだ」

「でもいらない」

「なに?」

 先ほどまで笑顔だったくせに、もう眉をしかめている。土方は困り顔をした。

「俺がいない間ってことは、土方さんが戦に出張ってる間ってことでしょ。それならわたしたちだって休息なんかしてる場合じゃない。何日だって、何ヶ月だって五稜郭に詰めて、土方さんの帰りを待ってますよ」

「────」

「なんのためにここまでついてきたと思ってんですか、そうでしょ」

 と綾乃はにっこり笑う。

 土方はしばらく黙っていたけれど、やがて口を開いて、

「お前って、いい女だなァ」

 と嬉しそうに綾乃を抱きしめた。


 ※

 正月、二日。

 男たちは、寒空の中の調練を終えてそれぞれ暖を取っている。まもなくしたら新選組は市中巡邏に向かうらしい。

「ねえ、島田さん。ついて行ってもいい?」

「えっ。お嬢たちがですか」

 葵の申し出に、島田魁は眉を下げた。

 市中取締りは仕事だ。もし途中で何かがあれば、彼女たちの命だって危ない。

 そういうことは彼女たちもよく分かっており、いつもならばそんなことは言い出さないものだが──。

「大丈夫だよ。今日は三が日の中日だし、みんな休戦してるよ」

「しかし……急にどうしたの」

「だって──これまでずっと新選組のみんなと一緒だったのに、蝦夷に来てからほとんど顔も見られないんだもん。だから……」

 葵のすねた顔に、島田はほとほと困り果てた。

 昔からこのお嬢たちの機嫌を損ねた顔に、隊士たちは弱かった。

「あんまり島田を困らせるなよ、お嬢」

「あっ、権限者が来た!」

 土方であった。

 彼が市中取締役に任命されたと聞いたとき、新選組の面々はこれまでにないほど沸き立った。土方が自分たちを見てくれる──それだけで、彼らの士気は高まった。

 今も、島田の瞳は一気に輝き、もはや土方しか映していない。

「というかなにゆえお嬢と呼ばれているんだ、おぬしら」

「今さらすぎる疑問ですね──私も聞きたいです」

「土方さん、よろしいですか。お嬢たちを連れて行っても」

 島田が尋ねると、土方は一瞬思考を巡らせる。しかしまもなく顔を上げて「よし」とうなずいた。

「俺も行こう」

「えっ」

「なに、いつも新選組がどのような市中巡邏をしているのか監督するのも俺の役目らしい」

「まことですか!」

 と、島田は大きな身体を揺らして小躍りする始末。

 するとその声を聞いた途端に、どこからか市村と田村も沸いてきた。

「なんだよ、銀。お前は榎本さんの小姓だろ」

「勉強のためだ。鉄にとやかく言われる筋合いはない!」

 小姓の鉄銀コンビ──綾乃と葵はそう呼んでいる──は、何かと土方にくっついて回りたがる。綾乃さえも嫉妬するほど、特に市村鉄之助は土方に可愛がられていた。

「分かったよ、ふたりとも一緒に来ればいいだろう」

「はい!」

「島田。市内取締、準備しておけよ」

「はい、皆にも申し伝えます!」

 とは言ったが、気が付けば新選組隊士はすでに周りに集まっていた。

 ふと土方が周囲を見回す。

「綾乃はどうした」

「ああ、綾乃はもう──」

 準備して外で雪遊びしてます、と葵が言うと、土方は吹き出した。

「ならば早く行ってやろう。野郎ども、準備はいいか」

「おう!」

 一行は土方を先頭に、ぞろぞろと列を成して歩き出す。

 すると、大鳥がこちらへ歩いてきた。

 集団を見るなりギョッとした顔で三度見している。

「ど、どうしたんだ。君たち……出動か?」

「市内取締です。出動とは」

「だって……先鋭部隊じゃないか。すぐにでも戦が出来る」

「そりゃあ、新選組ですからな」

 土方は少し顎を上げて言う。

 その言葉に、新選組隊士はまた沸き立った。


 温和で、母のように慕われていた──と、後年に中島登が伝えている。

 土方歳三は、変わった。

「土方さんは早く死にたいんだと思う」

 いつの日か、綾乃が葵にそうこぼしたことがある。

 そのときはお互いにまさかね、なんて笑っていたのだが。

 わざわざ寒空の街中へ、共に巡邏へと赴いた彼を見ていると、あながちその考えも間違っていないのかもしれない。

 途中、巡邏隊は昼食休憩のため大所帯でうどん屋に立ち寄った。

 うどんを食べながらも土方は常に微笑んで、隊士の近況を聞く。その様は、さながら学校から帰ってきた子どもの話を熱心に聞く母親のようだった。

「ごちそうさま。わたしちょっと外で雪だるま作ってくる」

「えっもう食べ終わったの」

「葵はゆっくり食べてていいよ。みんなもまだ食べてるから」

「うん」

 暖簾をくぐり、外に出る。

 道の脇に積もった雪に触ると、積もりたてだったのだろう。ホロリと崩れた。

「…………」

 妙にさびしくなってしまった。

 文久三年の五月に、ここへ来た。

 そこから幾年が過ぎて──今やもう明治年間に入ってしまった。

「やっぱり寸の間だ。……バーカ」

「何がバカだって」

 いつの間にか、後ろに土方が立っている。

 少し眉を下げて微笑む彼を見ていると、胸がつぶれるほど恋しくなった。

 情けない顔の綾乃に、土方は苦笑する。

「なんだよ、情けない顔をして」

「…………」

「手が冷たくなっちまうだろう、──」

 土方はそう言って、変に口をつぐんだ。

 一瞬だけ表情がこわばる。

 どうしたのだろう、と綾乃が「土方さん」と声をかけると、彼はハッとして微笑した。

「いや──そろそろ巡邏に出るぞ。準備しろ」

「はい」

 すると土方にしては非常に珍しく、往来のなかで手を握ってきた。

「どうしたの」

「手が、冷てえだろうと思ってな」

 と言うやすぐに離して、土方はふたたび店の中へと戻っていく。

 握られたところだけが妙に熱い。綾乃はぽろりと一粒、涙をこぼした。


 ※

 明治二年、二月某日。

 箱館の冬は厳しい。

 分かりきっていることだが、それでも体感すればそんな思いでいっぱいになってしまう。

「寒いなァ……」

「こうも寒いと、寝るに寝られないですね」

「ああ。──足に響きやがる」

 土方は顔をしかめて右足をさする。

「痛い?」

「いや」

 宇都宮城攻防戦にて負傷した土方の右足は、治癒したとはいえ、やはり前のようにいかないことも事実だった。

 小姓の市村鉄之助は気にする様子だが、土方がそれを許さない。

 心配をかけまいとしているのか、足を看てもらうのを嫌がるのだ。しかしそれも「老人扱いをするな」と不機嫌に言ってからは、市村のアプローチもあまりない。

「つってもさ。昨日写真撮ったとき、痛そうにしてたじゃんねえ」

 葵はけろりと言った。

 写真とは──平成の世に残る土方歳三の写真のことである。

 気だるげに椅子に腰かけた全身写真と、上半身を写したものの二枚を撮った。

 もともと写真は好まない。

 だからこれまでも撮ってこなかったのだが、箱館政府幹部陣が「撮りに行こう」と声を上げると二つ返事で乗ったのである。

「どうです、案外写真も悪くないでしょう」

「まあな」

「副長時代も撮れば良かったのに」

 と綾乃が言ったとき、廊下の外で市村の声がする。

 土方を呼びに来たようだ。

「そんな余裕はなかったよ」

 土方は笑って、部屋を出て行った。

「…………」

「なんかさ、すごいよね」

 不意に綾乃が言った。

「あの写真が百五十年も未来まで残っていて、土方歳三って人がいたことをずっと残し続けているなんて」

「そうだねえ。あの写真がなかったらこんな熱狂的な信者だって生まれなかったんじゃないかと思うと、ね」

「熱狂的で悪かったわね」

 と、むくれる綾乃を見て葵はクスクス笑った。

「もう二月だよ」

「……だね」

「早いね」

「うん」

「八木邸の前でさ、芹沢さんに拾われて──気がつけば明治だって。まさか箱館まで来るなんて考えもしなかった」

 綾乃が、葵のデジカメをいじる。中にある数々の写真や動画を見ては、クスッと笑みをこぼした。

 しかし同時に、涙腺がゆるんで涙もこぼれる。

「ああ──ダメだ」

「綾乃……」

「もうね、だめ。ダメだよ。……未来なんか、知らなきゃ良かった」

「…………」

「もう、やだ」

 綾乃は涙をぬぐう。

 彼女の頭の中にある年表が、刻一刻と胸をえぐる歴史に迫っていく。

 どれほど息が詰まることか。

 葵はあやすように綾乃を抱きしめた。


 ──。

 ────。

 翌月のことだった。

 これは、綾乃と葵が後から聞いた話である。

 新政府軍は八艦による箱館追討軍を編制。

 三月九日に江戸を発ち、途中の悪天候もあって十六日から二十二日にかけて宮古湾に集結した。

 あらかじめアメリカ領事から密告を受けていた旧幕府軍は、策を立てていた。

 回天艦長で海軍頭である甲賀源吾が発案した『アボルダージュ』である。

 アボルダージュとはいわゆる斬り込みのこと。

 まず二艦で両側から近付き、兵士が乗り移る。速力のある回天は他の敵艦を牽制し、制した後はそのまま箱館へ奪い去るというもの。


 三月二十日、夜半。

 回天、蟠竜、高雄の三艦に荒井、甲賀、土方や野村、相馬ら数名の新選組、彰義隊と遊撃隊のほか、神木隊や幾人かのフランス人教官が乗り込み、箱館を出発した。

「……敵の様子がわからない!」

「ここからじゃ無理か、どうする」

「嵐だ、危ないッ」

 船の上では、様々な声が飛び交った。

 嵐によって蟠龍とはぐれ、しばらくして高雄も機関故障により進まず。

 三月二十五日早朝、回天一艦のみで宮古湾に進入した。

 敵艦の左舷中央部に船首部から近付き、真っ先に一等測量の大塚波次郎、続いて野村が果敢に敵艦へ飛び移る。

 続いて土方が飛び移る体勢に入ったときである。


 ──敵艦甲鉄のガトリング砲が、火を噴いた。


 船内中を撃ち抜いたそれは、敵だけでなく味方も打ち払うほどであり、旧幕軍は大塚、野村、甲賀などかなりの人数が撃たれる。

 目の前で起こった暴挙に、弾を避けるため屈んでいた土方が耐えきれず立ち上がった。それでもなお、彼は乗り込もうとしていたのだ。

 教官ニコールが必死に引きずりおろす。もはや勝機がないことは、誰の目からも明らかだった。

 それでも土方は、何度も何度も船べりに足をかけた。

 たとえ一矢報いらざれども、せめて撃たれた仲間を引き取ってやりたかったのである。


 ──結局、三十分で回天は退却。

 自力で引き揚げていた蟠龍とともに宮古湾を脱出。

 最後の一隻である高雄は新政府軍に囲まれ、乗組員は捕えられた。

「…………」

 土方は、回天の中に座り込み、しばらく放心していたという。

 たったの一隻で、八隻もの敵艦を相手にしたという事実は、敵味方両方に大きな衝撃を与えた。が──、

「…………くそ」

 そんなこと、土方にとってはどうでもよいことだ。

 もう勝ちにいくのではない。

「クソォ──」

 土方は、早く楽になりたかった。


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