光差す

「退く者は斬る」


 ──宇都宮城攻略に際し、土方は戦闘におびえて逃げ出そうとした従者をひとり斬り殺し、そう言ったという。

 土方指揮のもと宇都宮城は半日で攻略せしめるも、わずか四日後には新政府軍の奪還作戦により敗退。城を放棄する。

 この戦で、旧幕府軍の幹部陣──大鳥、土方、江上は負傷した。

 土方は足を撃たれ、江上は大砲の散弾により横腹を被弾。両人ともひとりでの歩行が困難となり、部隊は今市方面へと敗走する。


 旧幕府軍が日光に陣を張っていると聞き、一足先に日光東照宮に向かった綾乃は、道中で土方の負傷を聞く。

 部隊が戻るなり、綾乃は土方を探した。

 人の肩を借りて歩いてくる彼を見つけると、脇目も振らずに駆け寄った。

「ああ──」

 土方の顔が、ふと和らぐ。

 肩を借りた市村鉄之助に「ありがとう」と声をかけ、土方は綾乃の肩に体重を移す。綾乃は珍しく言葉少なに、彼を東照宮内の一室へと運んだ。

「足をやられた」

「聞きました」

「……うん。いッ」

「応急処置なんだからおとなしくしてください」

 怒っているのか、と土方がこわごわ顔を覗くと、綾乃は眉をしかめて丁寧に包帯を巻いている。鳥羽伏見の戦で学んでから、連日の戦によりだいぶ上達したようだ。

 手際の良い手つきに、土方はくっくっと笑った。

「お前に包帯を巻かれる日がくるとはな」

「なに言ってんのよ──」

 包帯を結び、綾乃はうつむいた顔を上げる。

 すると土方が思った以上に情けない顔をしていたので驚いた。

「どうしたんですか」

「ひとり、斬っちまった」

「え?」

「怯えて逃げ出したもんだから、斬ったんだ。まだ若い男だった」

「────」

「鉄之助に添われていた時にふと思ったんだよ。思えば……不憫なことをした」

 落ち込んでいる。

 歳をとったのだろうか、最近彼は涙腺が脆いらしい。綾乃の前ではよく、悔しいときや切ないときに涙を浮かべることも多かった。

 そんなとき綾乃は、励ますことはしない。

「今さら後悔したって遅いです。土方さんったらアドレナリンに任せるといつもそうなんだから」

「…………」

「お墓を建てましょう。こんな時勢ですもの。自分のお墓があるだけ贅沢なことですよ」

「うん……そうだ、そうしよう」

 今市にて、土方は日光東照宮の守備についていた土方勇太郎に金を渡し、涙ながらに従者の墓を建てるように頼んだ。

 そののち、土方は療養のため若松城下の清水屋に入る。


 宇都宮にて敗走してからの新選組は、戦。戦。戦である。

 負傷した土方に代わり、斎藤一もとい山口次郎が新選組の隊長となり、会津藩指揮のもと連戦連夜の日々を過ごした。

 特に激戦となったのは、白河城での攻防戦である。

 会津討伐のための本拠地として、新政府軍が二本松藩兵を駐屯させていたところを、会津軍が奪還を計画。

 閏四月二十日。

 新選組や会津先鋒隊、純義隊などの旧幕府軍が進発して翌日には落城に成功する。が、ふたたび奪還を狙う新政府軍の攻撃により、旧幕府軍は多くの犠牲者を出して、また敗退。

 七月に入ってもなお、白河城奪還にねばったが結果は敗戦。幕府軍は郡山へ陣地を移転するための準備をすることとなる。


 負傷にて不戦に終わった土方は、清水屋から宿を移した若松城下の東山温泉にて報告を聞くや、悔しそうに唇を噛む。

「おもしろくねえな」

「ここまでくると、最初の奪取が奇跡なくらいですね」

 綾乃は苦笑した。

「一度でもぶん獲れたのは斎藤の指揮も良かった。いずれ会えたら褒めてやる」

「土方さんが人を褒めた……」

 と言ってから「ふふ」と妖しく笑う。

「なんだよ」

「人を褒めることを覚えた土方さんに、朗報です」

「馬鹿にしやがって──なんだ」

「八月から動いてもいいって」

「なに、本当かッ」

 土方は飛び上がった。

 説得したんですよう、と綾乃は胸を張る。

 怪我をしてからずっと、ぶちぶち文句をぶつけてくるものだから綾乃もすっかり参ってしまって、担当医に懇願したのだ。

 土方がにやりと笑う。

「お前を責め立てる戦略が功を奏したか」

「は、腹立つゥー!」

 ムカつくので、塞がった傷口をえぐってやろうかと睨み付けたときである。

「あ」

 携帯に着信が入った。

 この世界で着信がくるのは、葵だけだ。

 あの日以来だった。

「はい、三橋」

『もしもし、私!』

 弾けるような声である。

『いま東山温泉?』

「うん、そうだよ」

 元気そうだ。よかった──と、綾乃はホッとした。

 すると、ドタドタと廊下から音がする。

 来客かと顔をあげたとき、電話口から葵の弾んだ声が聞こえてきた。

『今、東山温泉ッ』

「え?」

『だからぁ』

 そこまで言うと、すらりと襖が開いて「東山温泉ッ!」と元気良く言った葵の姿があった。


「えええ!?」


 なんてこった。

 自然と笑みがこぼれて、綾乃は腕を広げた。

「あおいっ」

「あやのォ!」


「会いたかったーッ」


 同時に声を出して抱き締め合う。

 そんなふたりに、土方も驚きやら嬉しいやら。

「お前、徳田──なんだってひとりで」

 ここまで、と首をかしげる土方に気付き、葵はあっと声をあげる。

「えっと」

 綾乃から離れ、懐から巾着袋を取り出して掲げた。

「…………」

「近藤さんの骨とサノの髪の毛と、総ちゃんの髪の毛が入ってるの。これを渡しに──」

「近藤さん?」

 土方がワッと身を乗り出した。

 流山で袂別してから近藤のことは思い出さないようにしてきた。それもあってか、土方はわずかに切ない顔をする。

「龍馬からもらったの」

「龍馬ッ?」

 今度は、綾乃が身を乗り出す番だった。

「上野で会ってね──そのときにはもう、近藤さんの骨を大事に持っていてくれたんだ。容保さんの長男の、容興くんが首を拾って、とか話してたけど忘れちゃった」

「それで──左之、そうか。左之の最期に会ったって言っていたもんね」

「意識朦朧としてたけど。最期が見られて良かったよ」

「…………」

 しんみりとした空気のなか、土方が「総司は死んだか」と重い口調でつぶやく。

 うつむく彼に、葵は寂しそうに微笑んだ。

「うん。──でも武士らしい最期だったんじゃないかなぁ」

「えっ」

 病気じゃないの、と綾乃は問う。

 葵はううん、と首を横に振る。それ以上話そうとはしなかった。

 しかし、傷が深いか──と眉を下げる綾乃に、葵は意外にも晴れやかな顔で「もういいの」と笑った。

「もう、大丈夫!」

「…………」

「それより」

 と、葵が再び綾乃を抱き締める。

「良かった──さらに北上する前に会えて。蝦夷地までひとりで行くのはさすがに心細かったから」

「すごく心配したんだよ、あれから連絡もなかったし」

「ごめん。積もる話はこれからたくさん話そう」

「そうだね、そうしよう」

 綾乃と葵は笑いあった。

 最近は、気持ちがめっぽう沈む報告ばかりだったからか、これほど晴れやかな気持ちは久しぶりだ──と、綾乃は無性に嬉しくなった。


 ※

 旧幕府軍部隊が若松城に戻るときいた。

 それを出迎えるため、土方は城内で待っていた。

 新選組部隊と顔を合わせるのは、宇都宮城の攻防戦以来、およそ四ヶ月ぶりである。

「…………」

 どかりと腰を据わらせて、土方はただ、待つ。

 四半刻ほどして、城下が騒がしくなった。

 ハッと腰をあげて門前に出る。


「あっ」 


 旧幕府軍部隊である。

 その先頭にいたのは、いまでは稀少な新選組古参であった。

「土方さん!」

 今のいままで疲れた顔をしていた彼らが、土方の姿を見るや晴れやかな笑顔となって駆けてくる。

 その姿に、土方は胸が熱くなった。

「苦労かけたな。島田、沢──野村も中島も。新選組をありがとうよ、助かった」

「副長……!」

 感激のあまり、皆みなも涙する。

「白河城攻略も、本当によく尽くしてくれた。そばにはいられなかったが──」

 活躍は逐次聞いていた、と笑う土方に、島田や野村は涙をぬぐった。

「申し訳ありません──白河では敗けを喫してしまい、土方さんに会わせる顔もなかった次第で」

「ばか野郎、なにを言やがる。またお前らの顔が見られただけで儲けもんだ」

 土方は温和になった。

 影から覗いていた綾乃は思う。その変わりようには葵も驚いて綾乃を見た。

「蔵に五寸釘と蝋燭を持っていった土方さんがウソみたい」

「うん──みんないなくなって、頼ることを覚えたみたい。あとは、戦線離脱して初めて気付いたことも……いっぱいあるんじゃないかな。攻守の方法とかもそうだけど、何が大切なのかとかね」

 綾乃は微笑んだ。

 島田魁、沢忠助、野村利三郎、中島登──もうひとり相馬主計はこのとき、新政府軍の捕虜となっているため不在──は、京で活動していた新選組から、これからはじまる箱館戦争までずっと土方のそばに付いて来る者たちだ。

 土方は家族のように新選組を愛していた。いまもきっと、子どものような彼らが愛しくて仕方がないのだろう。


「土方さん」


 後ろから駆けてきたのは、斎藤もとい山口だった。

 その姿に土方は瞳を輝かせる。

「斎藤、無事だったか」

「山口です──お元気そうで」

「お前が代わりにやってくれたからな。ゆっくり養生できたよ」

 と、笑う土方に斎藤はすこし驚いた顔をした。礼を言われるとは思わなかったようだ。

「いろいろ報告はあろうが、ひとまず身体を休めてくれ」

「──はい」

 と斎藤が頭を下げたとき、土方の後ろでわっと古参たちが盛り上がった。

 沢や中島が「お嬢!」と声をかけている。

 なるほど、綾乃とは四ヶ月、葵にいたってはおよそ半年ぶりとなる再会だった。

「おうい、ハジメちゃんも久しぶりッ」

「久しぶり!」

 綾乃と葵がにっこり笑う。斎藤は朗らかに微笑んでから、

「だから、次郎だって──」

 とつぶやいた。

「そうそうジロちゃん。馴染まないのよね」

 みながバラバラに別れてから、およそ半年。

 負け戦の続いた新選組含む旧幕府軍であったが、この日はみんな笑顔に溢れた。

 土方歳三という男がいるだけで、みな、勝てるという確証のない自信が生まれたのである。


 ※

 余談である。

 宇都宮戦後、負傷した土方の元に同宿であった幕臣の望月光蔵が訪ねて来たことがあった。

 土方は足首を怪我していたこともあって、──単に面倒くさかったからだが──寝ころんだまま面会した。

 望月は、文官として参加しているため、戦には疎い男だ。

「俺達と共に戦ってみてはいかがか?」

 兼ねてより机上の話ばかりをするこの男が、土方はあまり好かなかったこともあって、ついぽろりと嫌味を言う。

 その態度にムッときた望月は、対抗しようと少し上から物申した。

「自分は文官ですよ、戦場で刀を振るうことは慣れておりませんので」

「じゃあアンタ──何をしにこんな遠くまで来た。慣れてねえなら習えばいい。あいつだって今、銃の調練を始めたぞ」

 と、端で話を聞く綾乃に視線を送る土方の顔は、何故かどや顔だった。

 そう。

 会津戦争が勃発してから、綾乃も戦いたいと申し出たために、銃の調練に参加できるようになったのである。

 望月は、綾乃を睨み付ける。

「そ──宇都宮城を落としたとはいえ、すぐに奪われたではないですか。再び奪うことはもう無理でしょうし、率いたあなたもここにいる……あの戦で死んだ者に意味はあったのですか」

 と、語りはじめた望月。

 綾乃からすれば単なる頭でっかちな男にしか見えないが、土方はただでさえ戦線離脱による鬱憤が溜まっているのだ。

 当然ぶち切れた。

「黙れッ!」

 おまけに、枕まで投げつけた。

「なっ、何を無礼な」

「戦に出たこともねえ臆病者が、ぐだぐだと何をぬかしやがるッ。刀や鉄砲の下をくぐった連中が──どんな思いであの宇都宮を戦ったか、てめえにわかってたまるかッ。あんたの話を聞いてると俺の病床に触る。聞きたくもねえ失せろ!」

 と、一気にまくしたてる。

 気圧された望月は、すぐに部屋を出て行った。

 綾乃は苦笑する。

 転がった枕を渡すと、土方は鼻息荒く枕を乱暴に定位置に戻してボフッと再び寝転がった。

 ──まるで駄々っ子のようだ。

 と、綾乃はそう思った。


 幕府軍の夕餉どき。

 その話を葵にすると、枕を投げつけたところで歓喜した。

「スカッとしたァ!」

「駄々っ子みたいで笑っちゃった」

 しかし土方はぎろりと綾乃をにらむ。

「胸くそ悪ィ。望月の話はするな、傷が痛む」

「まだ療養が必要ですか」

「斎藤てめえ……」

「山口だってば」

 斎藤は諦めたように言った。


 感動の再会もそこそこに、八月も下旬のことである。

 二本松方面へ出陣するべく、湖南から猪苗代城下へと入った新選組は、まもなく母成峠での戦に入る。第三まで台場を築いたものの、結果は土佐藩士板垣退助率いる三千の兵に敗れた。

 新政府軍は城下に迫り、会津藩は迎え撃つため籠城戦を余儀なくされる。

 土方が米沢に入って援軍要請を行う間、新選組や大鳥率る旧幕府軍は城の北方にある村にいた。

「食糧も弾薬ももう後がない」

 大鳥は眉をしかめてつぶやく。

「かくなる上は──」

 幹部陣は、唇を噛んだ。

 そこから続く言葉が、容易に想像できたからだ。

 ──よもや会津からの撤退もありか。

 と。

「…………」

 しかし、それを聞く新選組隊長代理の斎藤が座を睨み付けて「誠義にあらず」と口を開く。

「山口くん──」

「会津の援軍として来ている我々が、よもや落城も時の問題であるからと撤退するは誠義にあらず!」

 しかし大鳥は「君たち新選組は」と冷静に言った。

「先だって会津藩預りとなったゆえ、その誠義も分からんではないが──しかしこのままでは東軍に勝機がないことも事実だよ」

「…………」

 斎藤は奥歯を噛みしめた。

 たしかに、新選組は特別会津に対しての恩がある。しかしだからこそ、最後まで会津のために命を尽くす──それが自分の役目であるとも思っていた。

「土方くんが戻ったら軍議を開く。もちろん、我々だってできることは尽くしてやるつもりだ」

 という大鳥の言葉で、場はお開きとなる。

(逃げるは誠義にあらず──)

 斎藤は、しかし諦めてはいなかった。


 綾乃と葵はけなげにも、新選組が宿陣する塩川村にまで文句ひとつ言わずについてきた。

 斎藤のなかにある葛藤に気付いてこそいたが、しかしなにを言うこともできない。

 もはやここまで来ると、かける言葉も見つからなかった。

 綾乃は、握り飯を作りながらつぶやく。

「……葵、そういえば龍馬は?」

「わかんない。すぐに後を追うって言っていたけど。──あれも嘘だったのかな」

「…………」

 時の流れは、早い。

 思えば新選組幹部にいた人間でここまで来たのは、土方と斎藤の二人になってしまった。

 永倉は元気だろうか。

 八木邸や前川邸、壬生村の村人たち。

 バイトをさせてくれたまさの店や高島屋の人たち、西本願寺の僧侶や、不動堂村で世話になった村の人たちも。

 この戦乱のなかでも負けずに生きてくれているだろうか。

 ──どうか元気でいてほしい。

 日々、誰かが死ぬこの状況に慣れてしまった反面、綾乃と葵は祈っていた。

 やはり、人が死ぬのは、さみしい。

 どうかみんな生きていて、と。


 ※

 幕府軍は、福島に行くという。

 それを受けて斎藤は「ならばここで」と袂別の意を唱えた。

「斎藤──」

「土方さん、あんたなら理解できるだろう」

「わかってる。わかってるよ、けども、……わかっちゃいてもやっぱり、心もとねえからよ」

「…………」

 土方の言葉に、斎藤は苦笑した。

 やがて深々と頭を下げる。

 斎藤のうなじを見つめてから、土方も頭を下げた。

「会津をたのむぞ」

「……はい」

「お前なら必ずや一矢報いると信じている」

 土方は斎藤を抱き寄せて、背中を強く叩いた。

「死ぬなよ、斎藤」

「…………山口、ですよ」

「俺にとっちゃお前は斎藤なんだよ」

 と。

 ふたりは寸の間のひととき、かわいらしく笑いあった。


 ──。

 ────。

 九月三日、土方は松島湾に現れた。

 山崎の海葬以来であった榎本武揚らと合流し、ともに青葉城へと入る。

 それからまもなく、旧幕府軍が福島に向かう間際の九月五日。

 在留を決めた斎藤率いる新選組部隊が、高久村如来堂の守備中に攻撃を受けた。

 ──部隊は壊滅。

 生き残りは皆無だと報告が入る。

 土方は珍しく狼狽し、その情報の正確性を何度も部下に問うた。

 斎藤が死ぬはずはない。

 しっかり確認したのか。

 おもわず部下を叱責した。が、部下とて情報を伝えに来たにすぎず、実際の戦況がどうだったかなど知るわけもない。

 ふと。

 別件を済ませてきた綾乃が、土方の剣幕にすっかり萎縮する部下に気付いた。なぜ怒られているのかは知らぬが、綾乃は哀れにおもって、適当な用事を申し付けた。

 あわてて立ち去る部下。見送る綾乃。

 ぎろり。

 と、険しい表情を綾乃に向けた土方だが、やがて拗ねた五歳児のごとき顔でうつむく。

「なんの話です?」

「──斎藤の部隊が壊滅した、と」

「それならさっき聞きました。みんな、やっと仲良くなった人たちばっかりだったのに……もう、どこに行っても新政府軍の掌中にあるみたいで、やんなっちゃう──」

「斎藤は」

「え?」

「死んじまっただろうか」

 消え入りそうな声だった。

 多摩から京へ上った際の、最後の仲間。まして斎藤はどんなときも、だれよりも、土方の腹心として動いた。

 道は離れても、どこかで生きているならそれでいい。それが家族というものだからだ。しかし──。

 士気が目に見えて低落する土方。

 なに言ってんのよ、と綾乃はそんな彼を笑い飛ばした。

「斎藤一が死ぬとおもってんですか」

「しかし現に死んだと」

「部隊はね。部隊は死んだかもしれない。立て直す余地なし。確かにそうかもしれないけど──斎藤一ですよ」

「…………」

「ハジメちゃんは、死なない」

 綾乃は力をこめてつぶやいた。

 これまで、土方は女たちから語られる未来話を真剣に聞いたことはなかった。未来で語られる史実になど興味はない。なぜなら、いまを創るのはいまを生きる自分たちだからである。

 しかし、今回ばかりは。

「……ほんとうか」

「うん」

「未来じゃ、斎藤は生きているんだな?」

「うん」

「ほんとうに──」

「カッコいいお祖父ちゃんになった写真が、残ってますよ」

「…………」

 綾乃はにっこりわらった。

 土方の胸を、不思議な安堵感が満たしてゆく。それとともに脆くなった涙腺から、涙がこみ上げてきた。

 まだ頑張れる。

 土方はおのれの胸をドンと叩き、気を奮い立たせた。


 一方。

 如来堂を命からがら脱出し、斎藤と数名の新選組隊士は会津藩兵とともに会津城外にて抵抗を続けた。

 城外はもちろんのこと、城内においても熾烈な籠城戦を繰り広げ、会津城はもはや瓦解寸前である。

 会津藩率いる若年志士にて形成された白虎隊が、遠くの飯盛山から城を見て、燃やされたと勘違いして集団自害を遂げるほど。

 それほどボロボロになっても、会津城では藩兵はもちろん、女子どもまでが力を合わせて戦った。

 しかし、終わりはやって来る。

 二週間ほど前に改元した明治元年九月二十二日。


 会津藩は降伏。


 降伏したあとも斎藤は城内にて、徹底抗戦を続けたと言われている。

 その後、松平容保の使者になだめられ、ようやく斎藤も降伏を決意。その際、彼は変名の一瀬伝八を名乗ったという。

 一瀬という姓は会津に多い。

 会津藩兵が、新選組という立場がバレるとまずいと気を遣い、名を与えてくれたのだろう。

 こうして、斎藤は新政府軍の捕虜となり、越後高田へと送られた。


 ※

 少し戻り、九月十二日。

 榎本は蝦夷への渡島を決意した。

 この頃、幕府には

  衛鋒隊、彰義隊、新選組、砲兵隊、

  伝習歩兵隊、伝習士宮隊、陸軍隊、

  遊撃隊、工兵隊、神木隊、中島隊、

  会津遊撃隊、軍艦隊、額兵隊、靖共隊

 等々。

 様々な名の部隊があった。

 十月十日。

 新選組は遊撃隊や伝習士官隊等の部隊とともに、大江丸という運送船に乗り込み、蝦夷地へと出発することになる。


 船の後尾で土方は、離れゆく本島をじっと見つめている。

 もう戻ることもないと思っている。

 立派にもついてきた女ふたりは、船の揺れにやられて船室で唸っているところだ。


「懐かしい顔だなぁ!」


 背後から声をかけられた。

 振り返ると、江戸の頃にとても仲良くしていた悪友の姿がある。

 土方は目を見ひらいた。

「八郎!」

「わっはは。やっぱり歳さんだ、久し振りだなぁ」

 伊庭の小天狗、伊庭の麒麟児──等々。

 天才男児であり駄々っ子のぼんぼん息子、江戸末期のグルメ王子として現代で名を馳せている、あの伊庭八郎だ。

 綾乃に江戸を案内したことは記憶に新しい。

 年は沖田と変わらないか、少し幼いくらいだが、試衛館にいた頃はともに、いろんな口実を作って近藤周助先生からお金をせびったものだ。

 土方は数々の可愛らしい悪行を思い出し、顔をほころばせた。

「おい懐かしいじゃねえか。あぁ?」

「全くですね。いやしかし驚いたな。アァ、驚いたら腹減った。鰻食べたい」

「──おい八郎、おまえ左腕どうした」

 伊庭の左腕は、肘から下がない。

 しかし彼はけろりと笑った。

「あぁこれ、肘下あたりに傷負っちまって、──そのままぶらぶらつけてても腐っちまうってんで、切り落とした」

「もったいねえな、お前手先器用だったのに」

「なに、まだ右手があるさ!」

 それより、と伊庭にやりと笑う。

「さっき乗船するときに見たけど、綾乃さんもいたよな?」

「なんであいつのことを知っている」

「エェ、聞いてないの。昔、江戸を案内してやったんだよ。まったく歳さんは人の話を聞いてるようでなんにも聞いてねんだから」

「お前、ほんと総司に似てるよ。そのちょっと腹が立つとこ」

「あんな腹黒くねえよ、オイラァ!」

 と伊庭が胸を張る。

 土方は思い切り吹き出した。クスクスと肩を揺らす土方を横目に、伊庭は懐かしそうに続けた。

「発句集だって、オイラはちゃんと歳さんに断りを入れた方がいいって言ったんだ。なのに沖田くんはさ、“平気平気。あの人ニブチンだから気付かないですよ、気付かれたって沢庵入りのぼた餅積んどきゃ機嫌治るでしょ”って言うからぁ」

「…………」

 土方はきゅっと唇を結ぶ。

 だから見ちゃった、と笑う伊庭よりも、もうこの世にはいないだろう沖田の不敵な笑みを思い出し、殺意を覚える。

「あのガキ──地獄で会ったら黒蜜かけたところてん口に詰めてやる」

「あっ、やっぱり歳さんも酢醤油だよな。ところてん!」

「京に来てあれを初めて食べたとき、俺は到底やっていけねえと思ったよ」

 けらけらと笑った伊庭は、はっと顔をあげた。

「で、その沖田くんは──」

「死んだよ。たぶん地獄にいるだろうぜ」

「…………」

 一瞬絶句し「ほかのみんなは?」と眉を下げる。

「近藤さんも源さんも、原田も藤堂も山南さんもみんな死んだ。永倉と斎藤は、別部隊で頑張っているだろうが」

「そ────そんな、かァ」

 軍畑で、友人の戦死はよく聞く話だ。

 しかし、その事実を受け止めるには時間が必要である。しかし土方は、暗くなった伊庭の背中を叩いた。

「もういねえもんは仕方ねえ」

 にやりと笑う。

「それよりこれからだ。まずなにしたい」

「何、──なんだろう。蝦夷についたら……まずはめしがうまい店を知りたいな。とくに鰻さ」

「また鰻かよ!」

「もう四年前かな、京の御城代屋敷の後ろの店で食べた鰻がうンまくってなァ──都一番だと思った」

「鰻狂いめ」

 くすくすと笑う。

 すると、船室から女ふたりがのっそりと出てきた。どうやら船酔いから復活したようだ。

 土方は頬を弛めた。

「よう、酔いはどうだ」

「最悪ですよ……てかさっき、土方さんも酔っていませんでした?」

「まあ、新選組はすぐに酔うやつばっかりだからな」

「なんでもう元気なの」

「海に吐いたから」

「…………」

 おかげで腹が減ったよ、と土方が笑ったとき、船内では夕餉を知らせる鐘が鳴った。

 

 その日の夜。

 船内では宴になった。

 酒にあまり強くない土方でさえ、杯片手に楽しそうにしている。

「えっ、綾乃と伊庭さんって面識あったの」

 と驚いた声をあげたのは、葵だった。

「言うの忘れてた。そうなのよ、でもまさか同じ船に乗っているなんて思わなかった」

「ほわぁ──」

 と感嘆のため息をついて、葵は伊庭をじっと見つめる。

「この人が、グルメ王子かつボンボンな上に道楽息子で駄々っ子だけど、開き直ると強いと言われる、あの──」

「それ誉めてる?」

「誉めてねえだろうな」

「だよね」

 土方の冷静な回答に、伊庭は頷いた。

「いや感謝してます。イバハチ日記のおかげで、この時代の京の物価がよほど江戸より高いかということがわかったし」

「鰻が美味しいってこともわかったし」

 と笑顔のふたりに、伊庭は体勢を崩した。

「なんでッ。なんでオイラの日記……えッ」

「御上洛なんちゃら──通称、征西日記」

「…………」

 思わず顔を真っ赤に染めて黙りこんだ伊庭を、土方は嬉しそうに覗き込む。

「なんだそれ。俺も見たい」

「だ、だめだよ歳さんは」

「なんでだよ。人の発句集読んだんだろ」

「あれは沖田くんが!」

「鰻と千枚漬け積んどいてやるよ」

「もうっ」

 伊庭は土方の背中を叩いた。

 すると、島田や野村、榎本、額兵隊の星恂太郎までもが周りに集まってきた。

「面白そうだからさ、こっち」

「榎さんなんか、いるだけで面白いから。気を使わなくていいんですよ」

 綾乃はすっかりフランクだ。

「どういうことだよ!」

「いやその髭、上向きすぎでしょ。ファッション髭の先駆者だよね」

「え?」

「こいつちょっとおかしいんです。すみません」

 と土方は笑った。

 それをうっとりと見つめて、田村や市村が酒をつごうと近付いてくる。が、綾乃は即座に止めた。

「ちょっと鉄くん(とは、市村鉄之助のこと)、土方さんにお酒つぐのはわたし」

「小姓は自分です」

「だからなによ。だいたいねえ──」

「あ、この漬け物おいし」

 葵は気にせず食事をとる。

 しかし今のいままで市村に絡んでいた綾乃は、突然葵の肩を組み出した。

「幕府軍部隊ゲーム!」

「うわ、酔っ払ってらこいつ」

「陸軍隊、ハイハイ」

 突然はじまった掛け声に、周囲はなんだかよく分からないままに笑いだす。

「遊撃隊! はいはい」

 伊庭もノリ出した。

「新選組! ハイハイ」

「額兵隊、ハイハイ」

 しまいには葵もノッてやる。

 そんな応酬に島田は笑い、野村もへべれけになってバシバシと膝を叩く。

 連中を見回し、榎本は溜め息をついた。

「──土方くんが連れてきた人間は、何かしら個性が強すぎる」

「私は関係ないですよ。あいつらがおかしいんです」

 土方は顔をほころばせる。

 野村や伊庭、島田や沢、みんなみんな酔っ払い、明るい笑い声が響く。

 これから戦場に突入するなど到底思えないような盛り上がりが、その日は明け方まで続いた。

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