果報者

 少しばかり時は戻り、四月十一日。

 勝海舟と西郷隆盛の談判により、江戸城無血開城は成立した。

 この頃、土方は会津藩の秋月登之助と出会い「幕府歩兵奉行の大鳥圭介さんが歩兵大隊を率いて会津へ向かうが、土方さんはどうする」というようなことを言われた。

 出来れば一日も早く来てほしいということだったため、土方は快く了解する。


 近藤と別れてから、十日ほどが経っていた。


 この頃、散り散りにだった新選組は斎藤や相馬が率いており、総寧寺には見知った顔がほとんど集まっている。

「よく集まってくれた。遅くなってすまなかったな」

「なに、土方さんが死ぬはずもねえ。そりゃあみな信じて待っていますよ」

「……斎藤、お前口悪くなったな」

「あんたのそばにいりゃ悪くもなる」

「なんだと、このやろう」

「いてっ」

 なんとも珍しい、土方と斎藤のじゃれ合い現場である。

 思わずにやりと笑った綾乃は、慌てて口元を隠す。

 ひとしきりじゃれついたところで、土方はコキッと首を鳴らした。

「どうやら市川にて軍議をやるらしい。俺は五臓六腑が捩れるほど嫌だが、行かなきゃならん。その間、また斎藤、相馬、島田も組を頼むぜ」

「お一人で行かれるんですか」

「すぐそこだ、危険はあんめえ」

 と危機感どころか、表情には余裕すら浮かべる土方をうっとりと見つめて、綾乃はバシャバシャと写メを撮っていた。


 市川での軍議は、会津や桑名藩兵など二千人を率いるのは誰か、という話から始まった。

「土方くんがやればいいと思うよ」

「…………」

 大鳥の意見に、周りはおぉ、とどよめくも、一人土方は眉根を潜めて周りからわからない程度に下から上に睨み付ける。

「なっ」

「いや、なって……私は洋式での実戦にはまだ不慣れですよ。ここは大鳥さんがやった方がいい」

「……私か」

「…………」

 すこし、自信なさげに大鳥は呟く。

 嫌なのか、という目を向けてから、土方は「助言はしますよ」と上から目線で言った。

「じゃあ土方くんは参謀格だ。他に何か意見はあるかな。戦略についてこうした方がいいとか、他には──」

「じゃあ参謀からひとつ言わせていただくが」

 再び土方は下から上に睨み付けるように大鳥を眺めて、鼻で笑った。

「一刻も早く軍議を終えて、出陣することですな」

「…………」


 部隊は「東照大権現」という大旗を靡かせ、土方は仏式洋服を着して愛刀、和泉守兼定を帯刀し、肩からは連発拳銃を吊っていた。

 そう、平成の世に見る写真の彼そのものである。


「ちょっと! 土方さんヤヴァイ。かっこよすぎるヤバイ鼻血でるなう!」

『ねえちょっと、電話中に会話ぶったぎって興奮しないでくれる』

「ごめん、だって……ごめん! だってさぁ!」

『わかったよ、もう!』

 ここから土方は、大鳥たちと二股で分かれ、大鳥は第一大隊と桑名士官隊を率いて下館へ。

 土方は回天隊、新選組、衝鋒隊を率いて鬼怒川沿いへ向かった。

 途中、小山には前に幕府を裏切った彦根藩、須坂藩兵が守備していたが、土方は一蹴。

 ここから、下野戊辰戦争が始まる。


 楽々と小山を攻略した旧幕府軍であったが、また再び大鳥と土方が言い争いを始めた。

「宇都宮はかなりの街道が集っている。新政府だって馬鹿じゃねえ限りは、ここを攻略するはずだ」

「それは暗に私を馬鹿と言っているね」

「否定はしないが、とにかく宇都宮城はおとすべきだ。さもねえと行く手がなくなる」

 土方はさっさと戦の身支度をはじめた。その様子に、大鳥は眉を下げて弱気な声を出す。

「しかし無理だ──」

 無理?

 土方は笑う。

 彼の辞書に無理という言葉はない。

「兵三百と砲二門、拝借しますぜ」

「そ、それだけでおとす気かッ」

「俺なら行ける」

「……君は、やはり私を馬鹿にしている」

「否定はしないが」

「このやろ!」

 新選組隊旗に掲げられた一字は『誠』である。

 言うを成すという言葉の通り、土方は有言実行。

 このわずかな兵で出陣し、見事半日で城を落とすのだった。


 ────。

 四月二十四日。

 葵は身支度をしながら宇都宮城落城の旨を沖田に伝えた。

 案の定、沖田は大喜びで布団を転げ回る。

「うわあすごい、半日で。げほ、さすがは土方さんだ」

「その四日後には穫られちゃったみたいだけど」

「ええッ」

 土方歳三率いる新選組は、この宇都宮城攻防戦にて並外れた戦闘力を見せた。

 とはいえ新政府軍もバカではなく、第二次、三次、四次と続いた宇都宮救援隊なるものと大激戦となる。大鳥圭介の部隊は銃弾を使い果たし、土方や江上──以前は秋月と名乗っていた会津藩士である──などの幹部陣も負傷したため、宇都宮城を明け渡し、日光に向けて退却を余儀なくされたのだという。

「土方さんが怪我を……」

 沖田はつぶやく。

 土方が怪我をするなど、よほど熾烈な戦いだったのだろう。

 漠然とした不安に駆られて、先ほどから出かける準備をしている葵を見た。

 ──さん、どこにいくの?

 と、彼女に呼び掛けようとした沖田は、不意に眉根を潜める。

「…………」

 あまりにも急なことだった。

 目の前にいる女の名前が、分からない。

「……あ?」

 ど忘れにしてはタチが悪すぎる。

 本当に突然、頭からそこだけが抜き取られたかのごとくぽっかりと、分からなくなってしまったのである。

「どうしたの」

「────」

 あっ、葵さんだ。

 彼女の声をきっかけに、沖田はまた唐突に彼女の名を思い出す。

 たらりと背筋に汗が流れた。

「………い、今ね。あの」

「ん?」

「あの、いや──葵さん」

「うん」

「葵さん、そのう。筆と紙をくれますか」

「いいよ」

 はい、と渡すと、沖田はおもむろに葵の名前を書き出した。

「どうしたの」

「あ、一応綾乃さんのも書いとこう……」

「えっなに、なんの呪い?」

 葵の表情は浮かない。

「よしできた!」

 これを枕元に置いて、沖田は満足げに笑った。

「どうして名前書いたの」

「な、なんとなく」

 と笑う沖田だったが、心中穏やかではない。

「それよりも葵さん。どこに行くの?」

「板橋」

 しかしこちらもまた、心中穏やかではなかった。

「板橋って、どうしてまた」

 明日、新選組の近藤が処刑されるらしい──。

 そんな噂が巷で流れている。葵は、なんとしてでも見届けなければならないと思った。

「ちょっと遅くなるけど、待っててね」

「…………」

 沖田には、最後まで言えなかった。

 今まで貯めたお金を切り崩し、駕籠を呼ぶ。

 明日の昼、近藤は死ぬ。

 自分が見ずして誰が彼の最期を見てやれるのか。

 葵は駕籠に乗り込んだ。


 近藤の最期は、武士としてあるまじき終わり方であった。

 悔しさに唇を噛み締めながら、葵は江戸に向かって頭を下げた近藤を、涙をこらえて見続ける。

 助けようにも、ドラマのように颯爽と救い出すことができるヒーローでもあるまいし。覚悟をはらんだ彼の目を見ればその気も失せた。もはや、その瞬間をただ焼き付けるのみである。

「────」

 首が転がったときは思わず目をそらしたくなったけれど、それでも奥歯を噛み締めて見続けた。


 ──。

 ────。

 その首が京の三条河原橋に梟首されたのは、閏四月の八日から三日間あたりのこと。

 十日の朝。

 首の前に、十歳ほどの男子が一人、笠を深く被り立ち尽くす。

「…………」

 彼は、おもむろに首級に触れた。

 頬骨の張った近藤勇の顔は、間抜けともとれるほど穏やかである。

 少年は、奥歯を噛みしめる。

「それ盗ったら賊軍ぜよ」

 声がした。

 ハッと伸ばした手を引っ込める。

 ぐるりと後ろを見ると、こちらもまた目深く笠を被った、でかい男がいる。

「だ、誰だ」

「まあハナッから賊軍なら、それも関係のないことじゃ」

 男はボロボロの身なりで髷も結わず、天然パーマの髪の毛を伸ばし放題にしている。

 少年は叫んだ。

「名を名乗れ!」

「名ァを名乗るがはおんしからが礼儀じゃ」

「貴様官軍か。それは土佐の言葉だなッ」

「土佐っぽは土佐っぽじゃが、もう死んどる身ィじゃき、心配すな。ほれ、名乗らんか」

 飄々とした態度を崩さない。

 負けじと少年はぐっと胸をそらした。

「──会津藩主松平容保が長兄、容興」※時期別小話参照。

「なんだと。……」

 一瞬、目を見開いた男は「ほうかほうか」としみじみうなずいた。

「わしは死んどる身ィじゃろ。名ァを名乗るがはあの世の御法度ゆえ」

「話が違う」

 容興は、ふとその顔に見覚えを感じた。

 一度城内で見かけた顔だ。

「あ」

「…………」

「土佐の坂本龍馬」

「あん?」

 男は、細い目をさらに細める。

 それからチッ、と顔を背けた。

「──有名人も困りもんじゃ」

「死んだはずでは」

「ほいじゃき、幽霊でも見とるっちゅうことにしといてくれんかねャ」

 坂本は苦笑した。

 少年もさして気にしていないのか、再び近藤の首級に視線を移す。

「新選組は、我々会津のために働いてくれたと、父上は感激しておった」

「ふむ」

「斯様なところに晒しておくは気が済まぬ。せめてこの首を埋めてやりたい」

 気丈に振る舞ってこそいたが、彼もまだ子どもである。いまにも泣きそうだ。

 なにゆえ父親と一緒ではないのか。

 坂本の問いかけに、容興は「乳母と逃げていた」とつぶやいた。

「どうせ次代にも用のない私だもの。父のそばにおるのは弟たちでよい」

「…………」

 坂本の心がぐらりと揺れる。

 次代に用がないのは、わしも同じだ──と言いそうになったのである。しかしこれ以上関わるのもよくない、と思ったか突如踵を返し、

「まあ、ふんばれや」

 と後ろ手を振る。

 容興はあわてて言った。

「いずこへ」

「江戸」

「江戸──」

 いま、江戸には父がいる。

 容興は逡巡した。

「いかがする」

「えっ?」

「おまんも、行くかえ」

「…………」

 坂本はふたたび容興を見る。

 容興はホッと口元を緩ませた。

「ゆく──私もゆくッ」

「…………うむ」

 次代から取り残された者同士、悪くない。

 坂本はふたたび苦笑して近藤の首級を手に取る。

 どこかで焼いてやろう、とつぶやくと、容興は嬉しそうに賛成した。


 一方で。

 もうひとり、江戸へ向かう決意をした男がいた。

「江戸へ行く」

 原田が永倉に告げたのは、少し戻って四月も終わる頃。

 靖共隊としてともに動いていた原田が、ここに来ていきなりそんなことを言い出すものだから、永倉は驚いた。

「何を言っているんだ、お前。──幕府軍はみな、会津に行くと言っているぜ」

「……ウン」

「江戸に行ってどうするつもりだ」

「会いたい奴がおるんだ」

「あ────会いたいやつ」

 永倉が反復する。

「会津に行ったら、もう江戸へは戻れんだろ」

「戻る気なんかねえよ。華々しく散ってやるっつってたのはお前だろ!」

「約束なんだ」

「……や、」

「華々しく散るは、約束果たしてからでもええだろう」

 今まで、ずっと一緒にやってきた。

 しかしその戦友がいま、何を考えているのか分からない。それが悔しくて、永倉はムスッと後ろを向いた。

「悪い──」

「…………」

 原田の申し訳無さそうな声にまたムカついて「さっさと行けよ」と呟く。

「新八」

「……おう」

「またな」

 原田の涙声に、永倉は唇を噛み締めた。

「また──」

 やがて泣き出す原田を、永倉は振り向いていきおい良く抱き締めた。

「莫迦やろう。寂しいぞ、ちくしょうッ」

「すまねえ、すまん──」

「行ってきやがれ。約束破んのは男じゃねえぞ!」

 永倉も、泣く。

 原田は涙をぬぐい「また」と言いかけて、苦笑した。

 また会おう、なんて叶わぬ約束だ。

 お互いの背中をばしっと叩き、

「達者でな」

 という一言だけを交わした。

 これまでずっと、背中を預けあってきたふたりには、これで十分だった。


 ※

 五月。

 雨が降っている。

 会津藩主松平容保はすでに会津にて徹底抗戦をしている──と、上野で聞いた。

 数日前に江戸入りをしてかき集めた情報だった。容興はすこし肩を落とす。

「……いないのか」

「どがいする」

「会津に行きます。父に会わねば」

「ほうか」

 会津まで、と坂本は呟く。

「一人でゆけるか」

「行けるとも!」

 江戸でも戦は激化していた。

 旧幕府軍側には彰義隊が結成され、恭順中である幕府に代わり、江戸を牛耳っていたと言っても良い。

「すっかり荒れたな、江戸も」

 坂本はつぶやいた。

 近藤勇の首級は、途中の野で焼いて骨を砕き、巾着袋に入れた。さすがに頭蓋骨を持ったまま移動はできない。

 袋は容興が肌身離さず持っていたが、坂本と別れるとなったいま、小さな布に骨の欠片を包みだす。

「なんしゆうか」

「こちらの巾着袋は、坂本さんが持ってください。私はこの布を持って行きます」

「…………」

 坂本さんはここでお別れですから、と容興は寂しそうに笑う。布にくるんだ骨の欠片を大事そうに握りしめた。

「──これを父に届けます。私の役目だ」

「さようか、ならば、仕方ない」

 坂本も困ったように笑った。

 たったひと月ほどの間に、容興はとても大人びた。人の子の成長は早いものだ──と感慨深くなる。

 名残惜しむ暇もなく、颯爽と立ち去る彼の背中を見つめてから、坂本はぐるりと周囲を見渡した。


「さてと」

 江戸の地で、会わねばならぬ男がいる。

 ここにいま、いるのかどうかは知らないが、なんとなく近い気がした。

 こういうことにおいて自分の勘は昔からよく当たるのだ。

 坂本はゆっくりと歩き出す。

 辺りは陰惨たる有様だった。


 五月十五日に、上野戦争が勃発。

 無血開城に不服を唱えて上野の寛永寺に立てこもった旧幕府軍の彰義隊と、長州藩大村益次郎率いる薩長の新政府軍が衝突したこの戦は、大村部隊によりわずか一日で鎮圧された。

 大村の戦術により彰義隊はほぼ全滅。

 話に聞いたとおり、死体がゴロゴロと転がって、周囲の家屋は焼けている。

 数年前の江戸と比べると見る影も無い。

 新選組は会津に行ったと聞いたから、自分の待ち人もこの死体の山には見つかるまい。──それを思えば、坂本は少し気持ちも軽くなった。

「あれ」

 ふいに、後ろで誰かが声をあげた。

 己のことではなかろうな、と坂本は声のしたほうにちらりと視線を寄越す。

 すると、どこかで見かけた女がいるではないか。

「…………」

「あっ。やっぱり龍馬──龍馬だッ」

 葵だった。

 この場に全く似つかわしくない彼女だが、何ゆえここにいるのか──。

 坂本は目を見開いて「葵かっ」と叫んだ。

「うわすごい、本当に──会いたかった!」

 葵は興奮を隠すことなく駆けてきた。

 ほとんど手ぶらの彼女に、坂本は首をかしげる。

「おまん、こがなところで何しゆうか。綾乃は?」

「あ、えっと……この間話したときは会津だって言っていたよ。いまもそこにいると思う」

「会津か──よう聞く名だ」

 遠い目をしてから、パッと顔をあげて葵を見る。

「ほんでおまんは」

「千駄ヶ谷に沖田総司くんがいるの。それについてきた」

「新選組は会津におるのではなかったか」

「労咳なの」

 葵は呟いた。

「だから静養のために」

「労咳……ほうか」

 以前に会ったときは暗がりでよくは見えなかった。

 が、確かに肩を支えてくれたときは瘦せぎすだったな──と坂本は心で思う。

「龍馬は?」

「うん。原田と江戸で会うっちゅう約束を、この間ふと思い出した。原田は会津におるのだろうが──もしやと思うて来てみたのよ。なれどこの様子じゃあ人探しどころでもなさそうじゃキ」

 と言っていくそばから、葵の顔が沈んでいく。

 そういやァ、と坂本は笑った。

「上野はまだ危険というに。おまんいったい何しに来たがか」

「……龍馬といっしょよ」

「えっ」

「私も、左之に会いに来たんだよ」

 たくさんの死体をゆっくりと見渡して、呟く。

 坂本の胸がどっと脈を打った。

 まさか。そんなバカなことが。

「しかし」

 戸惑ったように言葉をこぼす。

「新選組は会津へ」

「左之は新選組を離れた。そして江戸にくるの──」

「それは」

「私の知っていた歴史だよ。原田左之助は江戸で上野戦争に巻き込まれる。そして彰義隊とともに戦って、それで」

 そこまで言うと、一度口をつぐんで葵は眉をしかめた。

「それを確かめに来たの」


 雨足が弱くなってきた。

 坂本と葵は、脆く崩れた瓦礫を掻き分け、進む。

 ふたりの間に言葉はない。ただ、その目はあちこちに転がる死体に向けられている。見知った顔はいないか──と、坂本は凝視した。

 ただでさえ近視のためにぼやける視界を、必死に目を凝らして探す。

 いなければいい。

 きっと、いない。だって新選組は会津に。

 坂本が視線を移したときだった。

 長槍が目に入る。

 瓦礫の陰に隠れるように、男の足がちらりと見えた。

「…………原田」

 ふと、声が漏れた。

 まばたきも忘れて瓦礫の陰を覗き込む。

 煤にまみれた真っ黒い容貌は、大変凛々しい、見覚えのある顔だった。

「は、原田。原田ッ」

 声をかけると、微かに男は呻いた。

 坂本はその場に膝をつく。

 ボロボロに朽ちた袖章に『誠』と書かれている。間違いなかった。

「原田──」

 後ろを歩いていた葵が慌てて駆け寄ると、原田はビクッと腕をびくつかせて、必死に立ち上がろうとした。

 しかし、もはや体力は限界だった。

 諦めたように息を吐く。

 目を閉じたまま「おお」と呟いた。

「坂本、やっと、来たか」

 うわ言だった。

「約束だったもん、なァ」

 原田は呟いて虚空に手を伸ばす。

 どうやら夢うつつのようだ。

 慌てて坂本がそれを握ると、原田は焦点の合わない瞳を開けて、微笑む。

 涙がこみ上げたので、坂本は明るく叫んだ。

「わしだけやのうて、──葵もおるぞ。わかるか、原田ッ」

「…………」

「はらだ!」

「……あおい、?」

 息も絶え絶えに、原田はそう言った。

「おお、そうぜよ!」

「……誰だそりゃあ────おまえの、女か」

「な、」

 なにを言っているんだ、とふたりは絶句する。

 しかし葵は既視感を覚えた。同じような場面に出会ったことがある。

 そうだ、あれは──。

「あ、────え?」

 混乱したように葵が呟いた。

 しかし、原田は嬉しそうに坂本の手を弱々しく握って「会えてよかった」と呟いたが最期、静かに息を引き取った。


 しばらくふたりともその場を動くことができなかった。

 が、やがて坂本が脇差を抜いて、原田の遺髪を少し切り取る。

 懐の巾着袋へいれると、再び大事そうに胸元へ忍ばせて原田の顔についた煤を優しく払ってやる。立ち上がった。

「──沖田くんに、会わせてくれるか」

「…………もちろん」

 葵は涙をぬぐい、笑った。


 明治元年五月十五日。

 原田左之助、戦死。


 ふたりは、千駄ヶ谷で待つ沖田のもとへと力ない足取りで向かった。


 ──。

 ────。

 一方で、千駄ヶ谷。

 違和感を覚えていた者が、もう一人。

「…………?」

 自分の字で書かれたふたりの名前に、沖田はぼうっとする。

 いったいこれは誰の名か。

 胸には焦燥が走るのに、それが何故かもわからない。

「あ」

 ドクン、と心臓が大きく鳴った。

 その瞬間に彼はその名前の人物を当然のごとく思い出す。

「…………」

 怖い。

 刻一刻と、何かが沖田の記憶を蝕んでいっているのは、確かであった。


 ※

「すごい偶然だぁ」

 坂本を見るや、沖田は痩けた頬をめいっぱい持ち上げて笑った。

 元気であれば飛び上がっただろう。

 それほど喜んだ。

「坂本さんが元気そうでよかった!」

「沖田くんは、随分痩せたのう」

「あまり食べられないんです」

 けほ、と咳をひとつ。

 うつりますよ、と沖田が眉を下げるも「いまさら労咳に怖がる人生でもない」と坂本は気にせずにくつろいだ。

 あの日からこれまで、積もる話も多そうだ。葵はにっこり笑って

「お茶淹れてくるね」

 と部屋を出ていった。

 その後ろ姿を眺めて、坂本はにやにやと笑みを浮かべる。

「すっかり夫婦のようじゃねャ」

「からかわないでくださいよう」

「いんやまっこと──こちらが弱ったときの、おなごの介抱ほど胸にくるもんはない」

「坂本さんもそんなことが?」

「昔にな」

 坂本は苦笑した。

 言うほどのことでもない、と首を振る。

「あれから坂本さんはいったい何を」

「長崎に行った。そこで龍女の顔をみて──ああ、もちろん声はかけとらん」

「…………」

「なんぞ虚しいもんでな、日本を一周しておった。世界に行きたいと思いながらも、まだまだ日本ですら知らぬことばかりじゃった」

 西を周ってようやく江戸へと足を向かわせることが出来た、と坂本は言った。

「知り合いには、バレませんでした?」

「ふふ。長岡兼吉という海援隊士がおってな、奴は真面目な良い男じゃ。わしもよう可愛がっておったゆえ、ちくと悪戯をしようと」

 奴の枕元に忍び込んだ、と言うや坂本は自分で笑い転げた。その状況を思い出したのだろう。

「この通り身なりもひどいゆえ、本物の幽霊とでも思うたみたいでな。夜通しわしは長岡と話をした。いろぉんなことを。ほんで翌日、海援隊の仲間に坂本龍馬が夢枕に立った──なぞ興奮しちょって」

 くっくっ、と肩を揺らす。

 沖田もつられてケラケラと笑った。

「それは、長岡さんもさぞ嬉しかったに違いない」

「ほうじゃのう──長岡もそうかもしれんが、なによりわしも楽しかった。あれほど友と語らうのが楽しいとは思わなんだよ」

 とはいえ、今は今でそれなりに楽しいのだ、とも言った。

「旅先で会うた者と語らうのもなかなかおつでな、もうすっかり新たな人生で友人ができた」

「それは坂本さんのお人柄ゆえでしょう」

 と、沖田が言ったと同時にお茶をもった葵が戻ってくる。

「お待たせ」

「ほいじゃき、いまは坂谷龍太郎と名のっちょる。おまんらも坂谷と呼んでおくれ」

「坂谷さんね。慣れないなぁ──あ。お茶、ありがとうございます。……」

 沖田はお茶に手を伸ばす。

 ──ありがとうございます、◯◯さん。

 と続くはずの言葉が詰まる。

 まただ。

 また、忘れた。

「あ──」

「葵は、」

 坂本がふいに言った。

「茶を淹れるんがうまいのう」

 と、音をたてて茶を飲み干す。

 それによって三度、沖田の記憶に彼女の名前が戻ってきた。

「…………」

「おまん、こがなうまい茶ァを毎日飲んどるがで。羨ましいのう」

「褒めすぎだよ、もう」

 葵が照れ笑いを浮かべている。

 しかし沖田は、顔を青ざめるばかりで口を開こうとしない。

「沖田くん、どがいした」

「…………あ、いえ。なんでも」

「具合悪い?」

「い、いいえ。大丈夫。あの──」

 それより、と沖田は坂本を見上げた。

「どうしてふたりとも上野に行ったんですか。葵さんなんて、どこに行くんだかなにも教えちゃくれないんですもの。上野なんていま、戦で危ないところでしょうに──」

 と呟く沖田に、坂本はおもむろに懐から巾着袋を取り出す。

 穏やかな口調で言った。

「原田を看取ってきた」

 と。

「え?」

「彰義隊に混ざって、──全滅じゃと」

「…………」

 沖田の顔がさらに青くなる。

 思い出したのだろう、葵はうつむいた。

 一瞬流れる沈黙。

「────ぶぇっくしょん!」

 ──を、派手なくしゃみでぶち壊してから、原田のやつ、と坂本がボケッとした顔でつぶやいた。

「最期はちくとおかしかったねャ」

 と。

 葵は「そうだね」とだけ呟き、それからは閉口したまま喋らない。

 どういう意味だろう、と沖田が坂本を見ると、彼は唇を尖らせた。


「葵のことを忘れとるようでな……」


「…………」

 ドキン、と沖田の心臓が鳴る。

 おもわず壁に貼った葵の名前に視線を移す。大丈夫、まだ覚えている。

 手が震えはじめた。

 頭から汗が出て、沖田の顔はいっそうあおくなる。

「総ちゃん、どうしたの。総ちゃん!」

「医者を呼ぶか」

「いえ──ちがう、違います。大丈夫」

「なにが大丈夫なもんかェ。こがな汗だくで」

「大丈夫ですったら! 私はまだ覚えてる──忘れない、忘れるわけないッ」

「…………」

 やがて、沖田はばたりと倒れて意識を失った。

 葵と坂本は慌てたが、医者がいうには血虚(貧血)だという。

 いきなり興奮して血圧が上がったからかもしれないな、と葵が眉を下げて沖田の額を手拭いでぬぐう。

(嗚呼)

 もはや、葵にも伝わった。

 これまでにないほどの重い鉛が、ずしりと胸に積まれた気分だった。


 ※

「怖い……もう、怖いんです」

 沖田が叫ぶ。

 それは、彼が目を覚まして葵を見た瞬間であった。

 その葛藤を聞いたとき、葵のなかでは、パズルのピースがぱちりとはめられたような気がした。

「記憶がなくなる──」

「ただのど忘れとは違うがか」

「違うッ」

「…………」

 叫んでから、沖田は布団の上で頭を抱える。

「なんで一番、忘れるわけない人のこと、忘れなきゃならんのですか。今も、葵さんの顔も──名前の紙も見ねえと、覚えていられるか不安なくらいなんだっ」

 そして、沖田は泣き出した。

 どういうことなのか、いまいち理解しきれていない坂本は、眉を下げて沖田の背中をただ擦る。

 ただひとり、葵は愕然とした。


 ──沖田から自分が消える。

 

 聞いてみると、綾乃に関することも消えはじめているという。

(あの時と同じ──)

 ずっと葵の胸にあった違和感。

 それは、高杉晋作が臨終の折に言った言葉である。

 ──はて、だれにだったか。

 と。

 つい、先ほどまで話していたというのに、まるでその事実そのものがなかったかのような態度であった。

 思い返せば、山崎烝の最期も。

 ──まだ、夢か。

 と、彼は葵をみてそう言った。

(本当に”そう”なら)

 葵は袂から携帯を取り出す。

 己のなかにあるパズルが形を成してくるにつれ、それがあまりにも残酷なものだから。

(綾乃は……知らないはず)

 葵は震える手で電話をかけた。

 三回目のコール音が途切れて、

『もしもし』

 という脳天気な声が聞こえる。

 葵は、ホッとして涙がこぼれそうになった。

「…………綾乃」

 声が震える。悟られぬように小さな声で「そっち、なにかあった」と尋ねた。

『なぁんも。今は、土方さん足を撃たれちゃったから、療養のために東山温泉にいるんだけど。その間はジロちゃんたちが新選組率いてくれてるし、こっちは温泉三昧だし、むしろすごくゆっくりできてる』

 電話の奥から「三月も戦線離脱なんかしてられるかッ」という土方のぐれたような声が聞こえる。

『で、どうしたの。なんかあった』

「──土方さん、忘れっぽくなってるとかないよね?」

『若年性健忘症? ないなぁ』

「…………」

 思った通りだ。

 葵のなかでひとつの結論にたどり着いたような気がした。

 沖田はすがるような目でこちらを見ている。その視線から逃れるように目を伏せる。

『葵?』

「総ちゃんがね、」

 たまらず部屋を出た。

 これから話すことを、沖田に聞かれるわけにはいかなかった。

「私たちのこと忘れちゃうんだって。────それが怖くて、しょうがないって」

『…………』

「今日、左之が死んだの」

『えっ』

「そのときもそう。もう私のこと、知らないみたいな反応だった。──覚えてるよね、高杉のときもそうだったこと」

 わかるでしょ、と葵はその場にうずくまる。

「もうすぐ死ぬ人は、みんな私たちのことを忘れていくの」

 どうしよう、と葵は言った。

「綾乃、どうしよう。嫌だよこわいよ」

『…………』

「ねえ……」

 葵は板張りの廊下に膝をつく。

「こんなのってないよね──ねえ」

 なにか言ってよ、と。

 黙る綾乃に、葵は泣き崩れた。

 不安、悲しみ、全てをぶつけるように泣き、葵はうずくまる。

 すこしの沈黙ののち、綾乃はぽつりと言った。


『……後悔してる?』


「…………」

『ここに来て、みんなと出会ったこと後悔してるの?』

 綾乃の口調は強かった。

『あんただってどこかでやっぱり、って思ったんじゃないの。こういう可能性を考えなかったわけじゃないでしょう』

 しかし、声色はいまにも崩れそうなほどに脆い。電話の奥にある彼女の表情が、安易に想像できた。

『そりゃあ怖いよ、いやだよ。忘れられたくないよ──だけど』

 きっと自分以上に、情けない顔をしているのだ。

『たくさんもらったじゃない──』

「…………やだ」

『夢から覚めたって最初には戻らない。わたしたちには残ってるよ、ちゃんと』

「……嫌だァ──」

 こらえきれずにこぼれ落ちた涙が、膝に落ちた。

『葵、』

「っいや!」

 と葵は思わず電話を切る。

 部屋に戻るや、沖田に無言で抱き付いた。

「…………葵さん」

「嫌だ……」

 坂本は、唇を噛み締める。

「イヤだよ──」

 大好きな人から、自分との全ての記憶が無くなっていく。

 それが、これほどまでに辛いことだとは。

 これほどまでに、恐いことだとは、思わなかった。


(…………)

 スン、と鼻をすする。

 携帯を握る手はふるえていた。

 電話を切られた綾乃は、退屈のあまりゴロゴロと芋虫のように転がる土方を見た。

「なんだよ」

「…………いえ」

 視線を感じたか、うつ伏せに転がって上半身だけをむくりと起き上がらせた土方は、不機嫌そうに綾乃を見る。

「……土方さん」

「なんだ、お前からあのやぶ医者に、療養期間を早めるよう頼んでくれるか」

「違いますよ、そうじゃなくて」

 綾乃の中で湧き上がる、恐怖と不安。

 自分も、この人にいつかは忘れられてしまうのか、と思うだけで、胸が握りつぶされるようだった。

 だから綾乃は土方のそばにぺたりと腰を下ろして、ふわりと髪の毛をさわる。

「土方さんって、忘れんぼうだからなぁ」

「あ?」

「──でもわたしはちゃんと覚えてるからね」

「なんだ、なにを忘れるって?」

 土方はキョトンとしている。

「……土方さんがわたしのこと」

「俺がお前を? 耄碌しているとでも言いてえのか」

「そうじゃなくて」

「忘れねえよ」

 正座をする綾乃の膝に頭をのせて、土方は笑った。

「お前なんざ、忘れたくても忘れられるか」

 と、無邪気にわらう。

 その笑顔を見ても、綾乃の心はなおさら、辛くなるばかりだった。


 ※

「はい、チーズ」

 パシャ、という機械音が部屋に響く。

 しかしそれも沖田と坂本は慣れたものだ。

「はははっ、坂谷さん変なの!」

「ほれ葵もこっち来ィ。撮っちゃるキ」

「えっ、龍馬ってばデジカメ使えるようになったの?」

「ここ押すだけろう。わしにもそんくらいはできる」

 と坂本はキラキラした目でデジカメを見つめた。最近は動画モードまで使いこなすようになったとか。


 あの日から、ひと月。

 もう六月も終わる。現代では五月三十日が命日と言われていた沖田も、まだ生きていた。

 ──想い出を残そうと決めた。

 葵はデジカメでたくさんの写真を撮ることにしたのだ。いまでは、いろんな場面で笑い合う三人が、デジカメのなかにたくさん残っている。

「調子はどう、総ちゃん」

「悪くないよ。はやく戻って、土方さんが……空けておいてくれている、ッゴホ、一番隊に戻らないと」

「うん」

 坂本も、すっかり植木屋平五郎と仲良くなって、一緒に居候をしている。

「買い物行ってくるから、お留守番お願いね」

「心配すな、わしがちゃんと見ちょるキ」

「ありがとう。行ってきますっ」

 と。

 元気よく出ていく葵の後姿を眺めて、沖田は坂本へ視線を移す。

 唐突に言った。

「葵さんを、ゲホッ──会津へ向かわせようと思うんです」

「なに」

「あちらには、土方さんも……綾乃さんもいる。ここに、いて、労咳がうつるより──安全だから」

「ほやけど、あいつが行かんろう」

「……実はネ」

 と寂しそうに笑ってから、ゾッとするほど青白い顔で、虚空を見つめ、呟いた。

「……葵さんを見るたびに──視界がぼやけて、……ゲホ、ゲホッ。彼女が、見えなくなってきているんです」

「なっ」

「このままだと、本当に本当に、忘れてしまう──…………」

 そんなのは嫌だ。

 沖田は、微かに笑った。


「……だから、忘れる前に死にたい」


(ああ)

 その時、彼が何を求めているのかを、坂本は一瞬にして理解した。

 それが彼にとって最善の選択肢であることも、わかった。

 だから、

「介錯をお願いできますか」

 という沖田の真っ直ぐな瞳を前に、もはや断る勇気など、なかったのである。


 ──。

 ────。

 買い物を終えた葵に、沖田は自分の髪の毛を切るよう頼んだ。

「土方さんは、短髪になったと言うじゃないですか、私もそうなりたいなぁって」

「いいけど、上手くできるかな……変になってもご愛嬌ってことで許してね」

「もちろん」

「よし、じゃあやってみよう。そこ座って」

 楽しそうに、縁側で髪を切り出す葵を、坂本はしばらく黙って見つめていた。

 が、やがて笑顔を向けて問うた。

「おまん、それ切った髪の毛はどうする」

「坂本さ……坂谷さんの持っていた巾着袋に入れてください」

「だけどその袋って──近藤さんの骨と、左之の髪の毛が入っているんでしょう。総ちゃんの髪の毛入れたら死んじゃうみたいで縁起悪くない」

 少しだけ、不安そうに呟いた葵に、沖田はとびきりの笑顔を浮かべて言った。

「何を言いますか、土方さんは私がいないとダメだから、……私が復帰するまで持っててもらおうと思って!」

「えっ」

 笑顔を絶やすな。

 己を鼓舞するように、沖田はやせっぽちの手でぎゅう、と己の着物を握りしめた。

「葵さん、ッゴホ、会津の東山温泉まで、届けに行って貰えますか」

 沖田の言葉に、葵は目を見開く。

「なっ、なんで私が──嫌だよ」

「会津なんて、土佐人がたくさんいるんですよ。坂谷さんが行くわけにいかんでしょう。……それに、向こうには綾乃さんたちもいるのだから、心強い」

「…………」

「私もすぐに追いますから」

「ほりゃあええ。わしも、出来るところまでは沖田くんに付いていくキニ」

 坂本は明るく言う。

 ふたりの様子は、至って自然だった。

 自然だったからこそ、葵は口許をひきつらせて、うつむく。

「────そ、」

 沖田と坂本は、笑顔を繕ったまま葵の反応を待った。

 すると葵はうん、うん、となにかを納得するように頷くと、そうしようッと笑った。

「久し振りに綾乃にも会いたいし。行くか」

 ホッとした。

 お願いします、と沖田は嬉しそうに頷く。

(────)

 坂本は縁側に散らばる沖田の髪の毛を集めるふりをして、俯きながら、溢れる涙を見られぬように必死に顔を背けていた。


 七月に入った頃。

 葵は旅支度をして、沖田に手渡された巾着袋をしっかりと胸元へ納めた。

「お願いしますね」

「まかせて」

「すっと追うキニ、待っといとくれや」

「うん」

 こうして、葵は千駄ヶ谷の家を出発した。


 ──見送りの際、最期まで名残惜しげに繋いだ手を離さなかった沖田は、

「寂しくなったら、カメラをごらん」

 と囁いた。

 ゆっくりと手を離す。

「行ってきまァす」

 すこし進んでは振り返り、手を振る。

 角を曲がって見えなくなるまで見送って、沖田は笑った。

 部屋へ戻り、着物を脱いだ。

 坂本が用意した白装束へと着替え、短刀を前に深々とお辞儀をする。骨ばったうなじを見つめて、坂本が口を開いた。

「何か遺したいものはあるか。最期じゃキ──遠慮はいらんぞ」

「…………」

 ぼうっとした顔で虚空を見つめる。やがてにっこり笑って首を振った。

「特にないかな」

 もう十分に楽しんだ。

 思い残すことなんか何もないくらい。

「ただ、ありがとうと──それだけです」

「……ほに、なれば、よし」

 沖田は居住まいを正して短刀を手に取る。

 息を止め、深々と腹に突き刺し横へ引く。

 その間、一声も漏らすことはなかった。

「御免ッ」

 坂本は、沖田の首を、落とした。


 慶応四年、七月初め。

 沖田総司切腹。


 道中、呼ばれた気がして葵は振り返る。

 気のせいかと再び前を向いた。

 けれど、足が動かなかった。

 彼らの思惑に気付いていたにも関わらず、止めなかった自分に苦笑し、その場にへたり込む。


 手に持つデジカメからは、再生された動画に映る、いつまでも楽しそうな笑い声が響いていた。


 ※

 ──ゴホン、いいですか。撮ってる?

 ふふ、緊張するな……。

 ええっと──はい。

 拝啓葵さま。って、文じゃないのにおかしいかしら。はははっ。

 ゴホン。

 えーそろそろ、秋の香りを感じるようになってきました。──。

 あの、会津まで。

 突然頼んでしまって、御免なさい。

 気付いていたでしょう。下手な芝居だったろうに、有り難う。


 私ね、今まで、武士の生き方なんてどうでもよかったんです。

 自分の納得するものならば、それでいいと思っていました。


 けれども、あなたと出会って、そばにいて──。

 この人のために生きたいと思った。初めてでした。

 …………。

 それなのに、これから先、生き続ければ私はそれを忘れてしまうという。

 あなたの顔も、声も、想い出も。

 全部忘れてしまう、と──。

 ゴホッ、ごほ。


 だから私はね、早く死にたかった。

 あなたがいたことを忘れてまで、生きたくはなかったんです。

 身勝手だと思うでしょう。

 御免なさい。

 本当に。


 でもわかってほしい。

 人の、一番の不幸って、大切な想い出が消えることだと、私思うんです。

 だから──。


 あなたが私の知らない場所へ帰って、ほかの誰かを好きになったとしても。

 最期まであなたを慕っていた男がいたことを、忘れないで。

 いろんなことで悩んで、泣いてしまったときも、いつだってそばに私がいることを信じていて。


 いつまでも、いつまでも想っていますからね。


 ──沖田総司でした。

 ふふ。


 ──。

 ────。

「…………」

 照れ笑いを浮かべた沖田で、動画は終了した。

 坂本が撮影したのだろう。

 手ブレはひどく、画面外から坂本がすすり泣く声も聞こえてくる。

 咳き込みながら懸命に想いを込めた二分足らずのビデオレターを、葵は旧幕府軍の連絡船の中で数え切れないほどの回数を再生した。

 何度もなんども、声をあげて泣いた。

 やがて涙も枯れたころ、沖田の声を子守唄に眠りにつく。

 夢の中で、自分は世界一の果報者だ、と笑う自分がいた。

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