足掻く

 慶応三年十一月十日。

 朝、不動堂村屯所に貼り紙が出された。


 『副長助勤斎藤一氏、公用を以て旅行中の処、本日帰隊、従前通り勤務のこと』──。


「なにこれ」

 綾乃は愕然とした。

 斎藤一が、ここ半年ほど不在にしていた理由を、綾乃や葵ははっきりと聞いたわけではない。史実を考えて、御陵衛士に行ったのでは──という予測は立てていたが、しかしそれもあくまで推論の話だった。

 彼が間者として高台寺党御陵衛士に参加したことを知るのは一部の助勤隊士のみであり、女たちにでさえもその事実は伏せられていたのだ。

 突然の帰隊報告に、綾乃は喉の奥から押し出すような声を出した。

「ナンジャソリャ──」

「長らく見ぬ間に女になったな」

「ヒエッ!?」

 耳元で拾った声に、綾乃は目を剥いた。

 噂の斎藤一本人がいるではないか。

「は、ハジメちゃん!」

「これよりは山口二郎と呼んでもらおう」

「なんで」

「斎藤一は追われているから」

「なんで!」

「……いや……」

 彼がすこし言いにくそうな顔をする。

 綾乃は苦笑して首を振った。

「まあ、とにかくまた戻ってきてくれたんだ。ありがとうハジ──じゃなくてジロちゃん」

「その二郎だが、今宵からまた当分戻らない」

「エッ」

「今度は要人警護の任をまかされた」

 山口二郎は、苦笑する。

「ふざけんな!」

 綾乃は叫んでいた。

 いくらなんでも人使いが荒いだろう。

 ──と思ったが、話を聞けばそれは土方の気遣いなのだという。


 昨夜未明、土方の部屋に客が来た。

 なんでも高台寺党御陵衛士に潜入していた斎藤が戻った、と井上源三郎が報告してきたのである。

 寝巻きのまま襖を開けると、井上はにこにこと笑って待機していた。後ろには、斎藤が控えている。

「斎藤──よく戻った」

「ご無沙汰を」

「達者で何よりだよ。まあ入れ」

 斎藤を部屋に招き入れる土方に、井上は「局長はいかがします」と声をかける。今、近藤は休息所に詰めており、不在なのである。

「だれか遣いを向かわせよう。それより今日は永倉がまだいるはずだ。あいつは心待ちにしていたろうからな、連れてきてくれるかィ」

「はい」

 井上は上機嫌に頷いてすぐに辞した。

 さて、と土方が胡坐をかく。少し楽しそうな顔をしている。

「どうやって脱けてきた」

「御陵衛士の金をすこし」

「拝借したのか」

「返すつもりはないですがね」

「はっはっは。お前が金策に困るタマかよ、よくやったな」

 どうやら斎藤は、あくまでも金に困った末に隊の金に手を出して逃げた──という体を装ったのだそうだ。

「それよりも仕込みの方が骨が折れた」

 という斎藤に土方は「どういうことだ」と首を傾げた。

 なんと、これまでも常に女癖を悪く見せ、女に金をつぎ込んでいたどうしようもない男という印象を植え付けさせたというのである。土方は感嘆のため息をついた。

「お前のソレは一種の才能だな。天性の間者能力だ」

「歓迎しませんな」

 クックック、と笑う斎藤に、しかし土方は少し真剣な顔を向けた。

「それだとお前ェ、躍起になって探し回られているんじゃねえのか」

「でしょうな。しかしこちらも目を光らせる時が来たようだ」

「なんだって」

「伊東が、近藤先生を消すという」

「…………」

 それを掴んだゆえに脱けてきた、と言った。

 大方そんなことだろうとは思っていたものの、土方は渋い顔をしておし黙る。

「もしかすれば、そう遠くないうちに仕掛けてくることもありうる」

「──藤堂の野郎はどうだ」

「変わりません。心酔しきっている」

「そうかい」

 これも、想定した答えだ。

 土方が険しい顔をしたときである。

 襖の外から「永倉ですッ」と珍しく弾んだ声がした。クスクスと笑う声も聞こえる。どうやら複数人で押し掛けてきたらしい。

 土方がにやりと笑って「入れ」と言うや、

「おい斎藤ッ」

 と、襖がスパンッと開いた。

 永倉新八である。

 後ろで笑っていたのは井上だった。

 嬉しそうに斎藤の肩を抱き「なんだよ」とにこにこ笑う。

「やっと帰って来やがった」

「永倉さん」

「待ってたぜ、みんな」

 という永倉の視線を追って、斎藤は驚いた。襖の外で待機していたのは井上だけではない。かつての部下、三番隊隊士も集合している。

 彼らは、隊長が御陵衛士に間者として潜入していたことを知っていたようだ。

 部下たちは瞳を輝かせて──中には瞳に涙すら浮かべて──ウズウズと部屋の外から様子を窺っている。

 土方と永倉は、にやりと顔を見合わせて立ち上がり、部屋の隅へ移動した。

 その心遣いに気付いた隊士は一斉に斎藤へ駆け寄り、手を取り膝をついて歓迎の言葉をしきりにかけ始めたのである。

 斎藤はその勢いに気圧される。

 元来、馴れ合いには慣れていない。

 必死に首を伸ばして「いや、ちょっと」と、隅でにやにやと笑っている土方を見た。

「ちょっと待っ──土方さん、土方さん!」

「なんだよ」

「斎藤一を匿うとなると、御陵衛士が黙っちゃいない」

 しかし土方はニヒルに笑う。

「こちらから黙らせりゃァいいだけの話だ。──とはいえ、そうすぐに殺るわけにもいくまいな」

「…………」

「そうだな。近藤さんとも相談だろうが、ちょうど一件要人警護が入っている。帰って早々悪いが、お前は名を変えてしばらくそちらに潜伏しておくのもいい」

「三浦さんのところか」

 永倉は、眠そうに垂れた瞳を見開いて言った。


「三浦さんって三浦休太郎のこと?」

 時は戻る。

 綾乃が言った。

 三浦休太郎──紀州藩士であり、有力な佐幕派志士でもある。彼は、海援隊の陸奥宗光より目をつけられているという。

 彼が海援隊と接触をもったのは、以前起こったいろは丸沈没事件。

 そう、坂本龍馬が賠償金をぼったくったあの事件だ。

 紀州藩代表として海援隊代表の坂本と交渉したのが、この三浦休太郎だったのだ。

 多額の賠償金を支払う結果となった彼が、海援隊に対して恨みを抱いていてもおかしくない──という陸奥の懐疑心もあったのだろう。三浦は、海援隊から命を狙われているのではと恐怖し、己の身辺警護を新選組に依頼したのだという。

「なるほどね──ハジメちゃんも大変だ」

「二郎」

「そうそう、ジロちゃん」

 綾乃は笑った。

 山口はじっとその顔を見つめる。彼の視線は通常時でもするどいので、綾乃は背筋がヒヤリとした。

「な、なあに」

「妬けるな」

 と、山口は口角をあげて綾乃の髪に触れる。なるほど、この半年の女好きという仕込みは伊達ではない。

「な──なにに妬けてるの」

「俺の知らぬところで女になったことだ」

「もともと女だけど……」

「試してみようか」

「…………」

 キャラチェンジか──?

 と、綾乃が身じろぎひとつせずに山口と見つめ合う。するとまもなく彼の口角がにやりと上がった。

 その視線は、綾乃の背後に向けられている。


「ずいぶん仕込んできたな」


 土方歳三である。

 いつも通りのニヒルな笑みだが、すこし頬がひきつっているように見える。

「もともと、若輩の時分はこんなもんです」

「油断も隙もあったもんじゃねえな」

「距離を置いて正解だったでしょう」

「…………」

 山口二郎はちらりと綾乃を見て笑う。

 その視線を苦々しく見つめて、土方は「長州よりもよっぽど危険人物だぜ」とつぶやいた。


 ※

 慶応三年十一月十五日、早朝。

 冷えた空気が下がっているからだろうか、なんともスッキリとした朝だった。

 しかしふたりの気持ちは晴れない。

 今日──坂本龍馬が死ぬというのである。

 

「相討ち覚悟で、坂本龍馬を助ける──?」

 沖田が目を見開いた。

 縁側に寝転がる綾乃は、動物のような唸り声で返事をする。ついでに叫んだ。

「だって犯人候補をあげようとしても──対象が坂本龍馬と中岡慎太郎じゃ、すべてが敵になるんだもん!」

 あれから、綾乃と葵は何度も話し合い、いくつものシミュレーションを重ねた。しかし、分からない。

 なんせ徳川家を残すか潰すか、その意見を坂本、中岡の二人がそれぞれ持っているのだ。敵が減るどころか、二人が一緒にいれば、全ての志士たちを敵に回すことになりかねない。

 ましてやいつの時代にも、表裏の顔を使い分ける人間は多くいるものだ。大事を成すとなればなおさらのこと。

 もはや、誰を信じればよいのかすら、分からなくなってきた。

「だけど、そんな危険なこと許すわけにはいきませんよ。私もついていきます」

「沖田くんは激しい運動ダメだよ」

 葵は洗濯物を干しながら厳しい顔をした。

 そんなあ、と沖田が眉を下げる。

「しょうがない。敵が見えないのが一番怖いが」

「体当たりでやってみよう」

「うん」

「────」

 ふたりの決意は固い。

 沖田は、自分がこれ以上なにを言っても変わらぬ、と思ったかおもむろに立ち上がる。

 わかりました、と言う彼の声は低かった。

「私はもう止めませんよ、止めませんが……貴女たちを死なせるつもりもありません」

 近江屋に外泊、と意味深につぶやいて、沖田はこちらを見向きもせずに立ち去った。

「……怒った?」

「大丈夫だよ、たぶん──」

 心配そうな葵に、綾乃は腹筋を使ってむくりと起きた。

「まあでも、これで死んだら怒るだろうな。沖田くんも──土方さんも」

「そうだよ。もう死ぬのは許さんって言われてるじゃない」

「だってしょうがないでしょ、」

 死なせたくないんだから……と、つぶやく綾乃に、葵はもうなにも言えない。己もそう思っているのである。


 その日の昼のこと。

 綾乃は動きやすいように男装し、葵は髪に挿した簪をしきりに気にしている。いざとなればこの簪で、一矢報いる覚悟である。

 しかしまもなく醤油商近江屋についたふたりは、そこにいた人物に驚愕した。

「さ、サノ!」

「どうしてここに──」

 原田左之助であった。

 目深く笠をかぶり、腕を組んで近江屋の軒下で佇んでいる。

「遅ェじゃねえか。待ちくたびれたぜ」

「待ってたの?」

「なんのために俺がこげなとこまで出張ってきたと思うとるか」

「なんのためって──」

「坂本龍馬」

 原田はボソリとつぶやいた。

 ハッと口をつぐむ綾乃をひたと見据えてから、口角をあげる。

「守るんだって?」

「…………」

 どうやら、沖田が根回しをしていたようだ。


 数刻前。

 沖田は土方に報告──という名のチクリをした。

 報告を受けた土方は当然怒った。

 なにに怒ったかといえば、綾乃や葵が自分にひとつの相談もなく強行しようとしていることに、である。

 憤りを隠すことなく、すぐさま中庭へ向かう。そこで槍の練習をしていた原田を見るや、ずかずかと近付いて「原田ァ」と肩を抱いた。

「オッ、なんすか」

「仕事だ」

 ピリピリしている。

 と、思いながらも原田はどこ吹く風だ。槍の矛先をいじって「ひとり?」と驚いた声を出す。

「まあ、そうだ。特殊任務だよ」

「──頭を使うんは苦手ですぜ」

「そんなことで、俺がお前を助っ人に頼むと思うか」

「違いねえ」

 ケラケラと笑う。

 土方もつられて頬を弛めた。が、すぐにひきつった顔をすると、周りの目を憚るように小声でささやく。

「──近江屋は知ってるな」

「ああ」

「そこで坂本龍馬の警護をたのみたい」

「…………」

 唖然とする。当然だ、坂本龍馬といえばこれまで、取締り対象だったほどの男だ。しかし土方は、

「詳細は三橋が知っている」

 と原田の肩を叩くだけで、あとは目をじっと見つめたままなにも言わない。

「それは──」

「では言い換えよう」

 反論を悟った土方は首を振り、ふたたび原田の瞳を覗くように見た。

「坂本龍馬を警護する、女たちを守れ」

「…………」

 そのアイコンタクトで何かを悟ったか、原田がちっと舌打ちをして三度うなずいた。

「分かった、分かりましたよ」

「お前は話が早くて助かる」

「そりゃあね、新八なんざにお願いしたらひでえよ。──理由を滔々と語らされて、しまいにゃ断られるなんてこともありうる。目に浮かぶぜ」

「それだけじゃァねえ。頼りにしてるんだよ、お前ェを」

「ったァく、そう言ってりゃいいと思って!」

 と、原田が嘆いたように叫ぶと、土方はにやりと笑って「違ェのかい」と言った。

 こうして、原田左之助はまもなく近江屋に向かうこととなったのである。


「──話は大体わかった。が、そもそもどうしてお前たちがここまでやるんだ」

 今宵、この近江屋で何が起こるのか──付き合いの長い原田はさすがに理解も早い。

 しかしどうにも納得までには至らなかったようである。

 綾乃は、男装のために身につけた袴をいじりながらどうもこうも、と言った。

「坂本龍馬を守りたいってわたしたちが思ったからだよ」

「んなこた分かってんだよ。ならこっちに任せれば良かったじゃねえかって話──」

「入っていいってッ」

 と、明るく近江屋から出てきた葵。

 坂本龍馬に会いに来た、と近江屋の主人に伝えてきたらしい。

「行こう」

「大体、なんでお前は男モンの袴なんざ履いているんだ」

「動きやすいから。いいからほらっ」

 背中を押されつつ、笠を目深く被った原田は女二人とともに部屋に通された。

 目当ては階段を登りきって廊下を右に曲がった、奥の部屋のようだ。

「葵です」

「おう、よう来たよう来たックシュン」

 すらりと襖を開けると、そこには坂本がひとりでいた。風邪を引いているらしく鼻をすすりながら火鉢を弄っている。

「誰だ、その後ろの」

「龍馬の護衛」

「…………」

 むす、とした顔で押し黙っている大男を見上げて、坂本はなんとか顔を見ようと笠のなかを覗き見ようとする。

 しながら、坂本は不満そうに呟いた。

「一昨日の客も、昨日の客にも似たようなことを言われた」

「客?」

「一昨日は高台寺党の伊東甲子太郎、昨日は寺田屋のお登勢さんじゃ」

「お登勢さん!?」

「伊東──?」

 原田が微かにつぶやいた。

 新選組にいたころから、原田は伊東がどうにも胡散臭くて嫌いだった。その伊東が巨魁浪士である坂本龍馬に会いに来たとなれば、どういう了見なのかが気になるところだ。

 聞けば、伊東は執拗に「近江屋は危険だから土佐藩邸に移れ」と忠告をしてきたという。

「なにゆえ、伊東があんたにそがいなことを」

「知らんわい」

 生憎その日は機嫌が悪く、坂本はツンとした態度のまま聞き流していたそうだが、さすがにお登勢がやってきたときは、驚いた。

「いやはや、わしも名が売れたもんぜよ」

「阿呆を抜かすなィ。それで命が狙われているんだぜ」

「うん──ただまあ、」

 それでもここを動かなかったのは、おそらく彼のなかで「どこにいても死ぬときは死ぬ」という気持ちがあったゆえか。

 坂本は子どものように身体をゆすって、それより、と原田を見上げた。

「おまん笠くらい外せばええ。名は」

「…………」

 鼻声である坂本の問いかけに、原田は笠を外してふてぶてしく「原田」と呟いた。

「原田──おまん、えい男やのう」

「…………なんだって?」

「男前じゃと言うた」

 と、鼻をずるずるとすする坂本に、原田は途端ににっこりと表情を崩して、がははと笑う。

「なんだよ。土佐っぽなんて聞いてたからろくでもねえかと思ってたが、そこそこいい奴じゃねえか。えっ」

「土佐っぽじゃ土佐っぽじゃ。しかしおまんのその訛りも……伊予か」

「おう、伊予男児だ」

「あんまり変わらんぞ。はははは!」

「違いねえ。はははは!」

 単純な原田も原田だが、さすがは人たらしと呼ばれる坂本である。

 ふたりはとたんに意気投合した。

「馬鹿の馴れ合いは早い──」

 葵がぼそっと呟く。

 すると外から、下男の山田藤吉がふすま越しに「石川殿が参られました」と言ってきた。

 石川清之助と変名を使っている、中岡だ。ちなみに坂本はいま、才谷梅太郎と名乗っている。

「おお慎……いや、石川」

「す、すごい数の客だな」

「俺の友人じゃ。綾乃、葵、原田という。原田は俺の護衛らしい」

「らしいとは」

 と訝しげにじろじろと原田を見る中岡に、原田は片膝立てて怒鳴り散らす。

「んだてめえ。文句あんのかゴラッ」

 石川清之助もとい中岡慎太郎は、ゴテゴテの倒幕思想を持っている。こんな状況でなければ、引っ捕らえてやったのに──と原田は恨めしそうに綾乃と葵をにらんだ。

 しかし坂本は咳き込みながら、

「みな、わしの友人だと言うとろう」

 と笑った。

 今日は殊更に寒い。

 あまりにも鼻水を垂らすので哀れに思い、原田が己の羽織をかけてやる。

 その行動ですこし警戒が解かれたか、中岡は無言でその場に座った。友人があまりにも苦々しい顔をするので、龍馬はケラケラと笑う。

「寺田屋で、お登勢さんと俺が話しているときも、おりょうがそがな顔をしゆう」

「細君と一緒にするな」

「おりょうさんってな、寺田屋にいた?」

 と、不意に原田が顔を上げた。

「おう」

「おりょうさんってうちの──あぁいやいや、新選組局長の近藤も前に簪を贈ったってぇ話だ」

 原田は慌てて言葉を濁して、言った。

「ははッ。鬼集団の頭領も女には弱いかえ」

「こっぴどく振られたらしいけどな」

「やっぱりおまん、新選組か」

 くすくすと、酒を飲みながら笑う坂本に原田はしまった、という顔をしてちらりと女ふたりを見る。

 特段、隠しているわけではなかった。

 が、原田は居心地が悪い。

 居住まいを正して喉から絞り出すように「まあ、うん」とうなずく。

 案の定、中岡は目くじらを立てて刀の柄に手をかけた。

「龍馬、こやつッ」

「慎ノ字まて」

「清之助だ」

「うむ──ならば清之助。先も言うたやいか。こいつはわしの護衛よ。むしろ新選組から護衛が来るなんざ、頼もしかね」

 坂本は嬉しそうに肩を揺らす。護衛が新選組でも、そう気にしていないと見える。

 良かった、と葵は安堵の息をついた。

 それからしばらく、座は三条制札事件にて捕縛された宮川助五郎の引き取りについてどうするか、という話で持ちきりだった。

「…………」

 原田はその事件で宮川を捕縛した張本人だ。

 しかし、うずうずと口を挟みたくなるのをこらえてだんまりを貫く。

 中岡も初めは新選組隊士の前でこの話をするのは──と言っていたが、あまりにも坂本がベラベラと話すので、もはや諦めたようだった。


 ガタン、と階下で音がする。


 綾乃が肩を揺らした。

 下男の山田がふすま越しに「岡本殿が」と言ってきた。

 思わず綾乃と葵は身構えるが、心配をよそに坂本と中岡は「通せ通せ」と嬉しそうにはやし立てる。

 その言葉で、綾乃がひきつった笑みを浮かべた。

「──岡本さんは、大丈夫」

「そ、そう」

 綾乃は、頭の奥がしびれるような感覚で、深呼吸をする。

 一分一秒が永かった。


 岡本健三郎が来て、しばらく経った。

 時刻は夜の八時頃だったろうか。

 「軍鶏鍋が食いたい」と言ったのは坂本だった。

 すっかり馴染んだ原田が、おっと嬉しそうにうなずく。

「いいねえ軍鶏」

「原田は食う、と。石川は」

「もちろん、食う」

「おまんら二人も食うかぇ」

「いや、わたしは」

「私も……いらない」

 正直、緊張で物なんか食える気がしない。

「ふむ、岡本は」

「私は用事があるので帰る。軍鶏は誰が買うてくる?」

「峰吉に頼もう。おーい峰吉ぃ」

 と、そう声を張り上げれば、近所の書店『菊屋』の五男、峰吉はすぐに階下まで走り寄ってきた。

「はーい」

「ちくと、軍鶏ぉ買うてきてくれんかねャ」

「はい!」

「ならば、私も峰吉と途中までともにしよう」

 岡本が階段を降りて、その後に峰吉とともに近江屋を出て行く音が聞こえた。坂本は、その音を聞いてから満足げに夜着を寄せて身を震わせる。

「風邪か」

 原田がぼんやりと眺めて、聞いた。

「持病の瘧じゃ。ようなる」

「なるほどな。あんたの隠れ家にしちゃ、随分と無防備すぎると思ったぜ。大方、ここなら暖が取りやすいってことだろ」

「まあな。死ぬときはそんときじゃ。しょうないわ」

「…………」

 無意識に。

 綾乃と葵が青い顔をして、間にいる原田の裾をキュッと握る。

「…………」

 それに気付いた原田は、一瞬左右に目線を配ってから、ふたりの頭をぐいと己の胸に寄せた。

 そして、にっこりと笑う。

「────」

 だ い じ ょ う ぶ。

 口パクで言った原田に、葵はぐ、っと唇を噛み、綾乃は情けない顔をして笑った。

 その表情を見て原田は、

(そろそろか)

 と察した。

「おい坂本、あんた、もう一枚くらい夜着着ておけよ。葵、離れに坂本連れていってやれ。そこでたらふく着せてこい」

「う、うん」

「えェ、立ち上がるのも億劫じゃ」

「いいからいいから」

「しょうないのう」

 がはは、と笑う原田に急かされて。

 よっこらせ、と立ち上がった坂本は、葵に支えられながら部屋を出て行く。

「…………」

 その後ろ姿を見守って、原田は真剣な表情で中岡に目線を移す。

「おい、お前も離れに行けよ」

「なにゆえわしが離れに。用ないわ」

「いいからいいから」

「阿呆を抜かせ」

 中岡は、坂本ほど原田を信頼しているわけではない。しばらく問答が続いたが、やがて折れたのは原田だった。

「チッ、己の身は己で守れよ」

「どういうことじゃ」

「腕は立つな?」

「だからどういうことだと聞いておる」

「べつに、ただの用心──」

 そのときである。

 階下で、音がした。

 綾乃の背筋がぞわりと冷える。

「さ、さの」

「火を消せ、行灯」

「うん」

「囲炉裏もだ」

「はい」

 てきぱきと綾乃が火を消す。

 外の月明かりも入らず、部屋は闇に包まれた。

 原田が息を静める。音は、一拍置いて一気に騒がしくなった。


 ──。

 ────。

 一方、離れでは夜着をさらに二枚ほど着込んだ坂本が、その中にすっぽりと葵を抱えるように息を潜めていた。

「……母屋が騒がしい。ちくと見て──」

「ダメ、龍馬は動かないでっ」

「…………」

 葵の悲痛な声色に、坂本は口をつぐむ。

「しかし」

「向こうには左之もいる。大丈夫」

「…………」

 タイミングを見ないことには、外に出る際に見つかってしまう恐れがある。

 上でなにが起ころうと、絶対に動くわけにはいかない。

「これは、どういうことじゃ──なにゆえ原田を連れてきた。なにがしたい?」

「……なにがしたい、って」

 葵はぎゅっと夜着を握る。

「龍馬を守りたい」

「守る?」

「────」

 緊張と不安、そして恐怖。

 いろいろな感情がごちゃ混ぜに押し寄せてくる。

 そう。自分が彼を守るのだ。

 そう思えば思うほど、からだが震えてくるのがわかった。

 心細くて泣きそうだ。

 葵の震えを止めるように、坂本は背中を丸めて葵をさらに深く抱き込んだ。

「どういうことじゃ」

「前に聞いたでしょう。私たちが天だとしたら──生きたいかって」

「うん……まさかほんに天か」

「ううん。そんな大層なもんじゃない」

 まばたきをした拍子に、涙が落ちた。

 それを契機に瞳からポロポロとこぼれてくる。

「私たちは、天の邪魔をしてるの」

「…………」

「……龍馬にとって、なにが龍馬のためなんだかわからなくて──だから、私たちがしたいことをしてるの」

 ごめんなさい、と葵は夜着で涙をぬぐった。坂本はすこし黙っていたが、やがて葵のつむじをぼんやりと見ながらつぶやく。

「それは、生かすも殺すも──ちゅうことか」

「うん」

「そして、おまんらは俺を生かすと」

 葵の肩は震えている。

「うん……」

「…………」

 小さな背中だ。坂本はフフッと笑って葵の頭を撫でた。

「なにを言う。人の命を助けて、ごめんなさいはおかしいぜよ」

 前から思っていた。

 この女たちはどこか不思議だ、と。

 いまだって。

 抱え込む背中は小さいのに、その背には天に抗う宿命を背負っているのだ。

 坂本は、震える葵を宥めるように、何度も何度も頭をなでた。

 

 その頃、母屋では山田が三度部屋へやって来て「十津川郷士と名乗る方が」と名刺を渡してきた。

 その名刺をじっと見つめるも、中岡は首を横に振る。

「……知らんな」

「知らねえのか」

「恐らくは、龍馬も知らん」

 名刺を返すと、山田は階段へ向かった。

 それを横目に、綾乃は坂本の刀一式を自分のそばに手繰り寄せる。何もないより、使えずともある方がましだ。

(…………)

 闇のなか、綾乃は中岡の袖を引く。

「中岡さん、刀をそばに」

「石川じゃ」

「はやくっ」

「…………あ、ああ」

 中岡の声色に動揺が混じる。

 綾乃は彼の袖をぎゅっと掴み、たのみます、と言った。

「生きて」

「────」

 闇に慣れた中岡の目は、綾乃の瞳を捉えた。彼女は泣きそうな顔をしている。

 なにか声をかけてやらねば、と口を開いたときだった。


「────!」


 階段の方が騒がしい。中岡はそちらに顔を向けた。

 原田が「ほたえな(騒がしい)ッ」と土佐弁で叫ぶ。離れにいる坂本たちから気を逸らすためだろう。

 まもなく、襖が細目に開かれた。

 こちらを窺う気配がある。綾乃は坂本の刀を左手に持ち、右手で柄を握った。

 万が一は、これを抜いて闘わねばなるまい。でなければ、死ぬ。

 失礼、と襖の外から声がした。

(……きた)

 歯がふるえる。音が鳴らぬように綾乃は下唇を強く噛んだ。

 部屋を訪ねた者は声を殺してこそいたが、低く通る声で


「坂本先生はおられるかな」


 と言った。

 綾乃が細く息を吐く。

 中岡が声を出そうとするのを手で制止し、原田はゆっくり片膝を立てた。

 低く、

「坂本はこの俺よ。どなたか」

 とつぶやく。

「────」

 相手の動きがふと止まる。

 よく通る声の男は、後ろにいたのだろう連れから提灯を受け取って部屋を照らした。

 その灯りに照らされ、提灯を持った男の顔が一瞬浮かび上がった。

 原田がアッ、と息をのむ。

 刹那。

 ふたりの人間が闇雲に斬りかかってきた。

「こなくそッ」

 原田が叫ぶ。鞘も投げ捨てた。

 息つく暇もなく、大柄な男の額をかち割って、背中を向いた男の右肩から袈裟斬りにする。

 しまいに男が倒れるや、頭を狙って滅茶苦茶に斬りつけた。

 一方綾乃も、原田が乱戦をするなか、取っ組み合いの末にひとりを窓から落とす。

 自分のポテンシャルに驚く暇はない。後からまたひとり襲いかかってきた。その刀を、坂本の鞘で防ぐ。──しかし力の差は歴然である。相手の勢いに圧されて綾乃の足が畳に食い込んだ。

 ひとりを斬り伏せた中岡が、

(いかん)

 と顔をあげる。

「坂本はここじゃァッ」

 中岡は叫んだ。

 綾乃は、いけない、と思った。背後から原田の悪態も聞こえる。

 そうして綾乃を助けようと、中岡が背にしていた壁から離れた。瞬間。

「ぐあッ」

 後ろから後頭部に一太刀を浴びた。

 間髪いれず二太刀目に腰をやられ、三太刀目、四太刀目、と斬られる。

 壁にかかった掛軸に中岡の血が飛んだ。

 それを見た綾乃は「邪魔だッ」と、男の金玉を蹴り飛ばした。

「ぅぐォッ、──」

「坂本は討ち取った!」

 闇のどこかから声がする。

 原田が声色を変えて叫んだようだ。

 その声を皮切りに「もうよい、もうよい」と声がした。

 刺客は一斉に引き上げた。

「…………」

 は、は、という綾乃の短い呼吸だけが、部屋に残る。

 全てが一瞬の出来事だった。


「綾乃、怪我は──」

 息も乱さずに、原田が綾乃の身体をくまなく見る。あれほどの乱闘だったのにも関わらず、綾乃は傷を負ってはいなかった。

「よし、石川はどうだ。無事か」

 と原田が部屋のなかを見回す。

 が、しかし中岡がどこにもいない。

「左之!」

 綾乃が小声で叫んだ。

 窓へ向かって血が引きずられたような跡がある。自力で、隣家の屋根に逃げたようだ。

 慌てて原田が屋根を覗くと、倒れている中岡の姿があった。

「石川!」

 ガタガタと原田が屋根にあがった。

 中岡は力を振り絞るように、

「……新助ッ、医者を呼べ!」

 と近江屋主人に声をかけて、まもなく沈黙する。死んだか、とあわてて顔を覗きこむと、どうやら気を失っているようだった。

「くそ、下手に動かせねえな」

 と言いつつ袖を破って止血を施す。

 それを部屋から見ていた綾乃は、胸が恐怖に押し潰されそうだ。

「さ、ど、どうしよう──死んじゃう!」

「大丈夫だ。心配するな」

「だ、だけどわたしのせいで中岡さんが」

 屋根から部屋に戻ってきた原田は、動揺する綾乃の腕をがしりと掴んだ。

「人の生き死にに誰の責任もねえ」

「────」

「誰が斬ったか斬られたか、それだけだ」

 その言葉に閉口した綾乃をひたと見据えてから、部屋のなかに視線を投じる。そこには一体の骸が転がっていた。

 原田が滅多討ちにしたものだ。

 彼は、自分の斬り倒した死体を検分し、

「脳天をやってたか」

 と冷静につぶやいている。

 その背中を見つめていた綾乃は、やがて手から力が抜けて、これまでずっと握りしめていた坂本の刀を床に落とした。

「…………龍馬の刀……」

 綾乃はそれを拾い、呟く。

 鞘から刀にかけて深々と斬り込みが入っている。

 その形や深さが、あまりにも史実で残る斬り込み跡と酷似しており、綾乃はゾッとした。

 あと少しでも圧されていたら危なかった。

 あのときの、中岡の機転があってこその命と言ってもいい。綾乃の瞳に涙がたまる。

 すると、原田が突然顔をあげてアッと叫んだ。

「そうだ。坂本はどうした、葵は」

 言いながら刀を鞘に収める。

「無事だろうな……!」

 屋根を覗き、中岡の容態を確認してから、原田は綾乃を連れて離れに向けて駆け出した。


 その少し前のこと。

 離れ──土蔵にいた坂本と葵は、刺客が去っていく音を聞いていた。

「葵」

「なに」

「ここから裏の寺に出られる梯子がある。そこから逃げるぜよ」

「……うん」

 物音を立てずに梯子を伝い、裏手にあった寺の境内に飛び降りる。

「龍馬、動ける?」

「おう」

「よし」

 支えながら、ゆっくり歩き出す。

 しかし夜目の効かない坂本は、体調不良も相まってひどく歩きづらそうだ。

 このままどこへ行けばよいのか──と葵が途方に暮れたとき「無事でしたか」と、闇のなかから声がした。

 この影は、見覚えがある。

「お、沖田くん?」

「副長に頼まれました。様子を見てこいって」

 と沖田は坂本の逆側の肩を支えた。

 葵の負担が軽くなる。

「……ありがとう」

 途端、どっと安心したのか葵は膝から崩れ落ちた。葵さん、と慌てる沖田の声を頭上に聞きながら、じわりと涙もにじんでくる。

 坂本は沖田の腕を己の肩から外した。

「俺のことはええ。葵に添ってやれ」

「はい」

 沖田が葵に寄り添い、改めて坂本を見上げる。

「沖田総司です。──坂本さんですね」

「おう」

「どこか怪我をされましたか」

「いんや、熱が出とるだけじゃ」

 とにっこり笑う坂本に、沖田はよかったと笑み返した。

 が、すぐに口を閉じる。

 足音が聞こえたからだ。しかしまもなくその顔は弛んだ。

「あ……大丈夫。味方です」

「おいっ」

 と原田と綾乃が駆けてくる。

「無事か!」

「おお、おまんらも……石川はどがいした」

「太刀をだいぶ浴びた。下手に動かせねえからそのままにしてきたが、まだ息はある。新助が土佐藩邸に知らせにいっている」

「…………ほうか」

 暗闇で分かりにくいが、坂本はわずかに青い顔をしている。葵はようやく立ち上がり、ふたたび坂本の背中に手を添えた。

「たれが刺客だったんです」

 沖田が、原田を見た。

「お前、なにゆえここに」

「原田さんと同じです」

「ああ。──刺客。刺客な、」

 原田は複雑な表情を浮かべる。

 一瞬、提灯の灯りに照らされたあの顔。

 あの顔には見覚えがあった。

「……見廻組だ」

「えっ」

「佐々木さんだったよ」

 新選組に並ぶ治安維持組織、幕臣の京都見廻組──組頭の佐々木只三郎。

「…………」

 綾乃の膝がかくん、と折れる。

 いまさら気が緩んだようだ。

 平成の世に聞く坂本龍馬暗殺の謎──。

 その真犯人は、すでに通説となっている、見廻組の犯行説そのものだったのである。


 ※

 あの後、近江屋には主人が呼んだ土佐藩の人間が駆けつけた。

 そこに残っていたのは、隣家の屋根で苦しむ中岡と階段の手前で斬られていた山田藤吉、また、顔が分からぬほど滅茶苦茶に斬りつけられた男の死骸だった。

 土佐藩の人間は、それが誰かは分からなかったようだが、中岡の意識朦朧とした中での「……龍馬、龍馬は……」という呟きから、その死体を坂本龍馬だと判断したらしい。


 坂本を連れた一行は伏見まで真夜中の行動を徹底し、逃げた。

 逃げている最中、綾乃は坂本にすべてを説明した。

 未来から来たこと。

 坂本龍馬は、この近江屋での事件で暗殺されているはずだったこと。

 けれどどうしても生きてほしくて、手を出してしまったこと。

 いま、坂本龍馬は世の中から死んだことになってしまっていること──。

 坂本は初めこそ驚いた顔をしたが、ただ静かに聞いていた。

 船着場にて、長崎方面へゆく船を待つ。

 諸々の合点がいった、と頷く坂本に原田は首をかしげた。

「これからどうする。このまま死んだって噂を貫くのか」

「当分はな。その方が安全じゃキ、かえって好都合かもねャ。あとは折を見て、別の名ァでも使うて生きてみらぁ」

「……これで、本当に良かった……?」

 涙声で呟く綾乃に、坂本は穏やかに微笑んで頭を撫でる。

「さぁ。しかし、生きてりゃなんでもできる。一度長崎に行って、おりょうの顔でも見て──それからはまたそこから考えりゃあええ。これからは世界だって、見に行っちゃるキニ」

「…………」

 本当にこれで、よかったのだろうか。

 綾乃の心は何度も同じ疑問を繰り返す。

 この世を生きる、というのは、とてもとても大変なことだ。

 まして、これまで培ってきた坂本龍馬という人生が、世間から消えたなかで生きていかなければならない。

 それがどれほど大変なことか。

 綾乃は、その罪悪感に胸が押し潰されそうだった。

「坂本」

 原田は笑った。

「俺たちたぶん、時勢が落ちつきゃあ江戸に戻るんだよ。だからお前もやることやったら江戸で待っててくれや」

「…………」

「そして飲もうぜ。あんたに紹介してえ男もたくさんいるんだ」

 と明るく言った原田に、坂本はくっくっと肩を揺らす。

「そら楽しみじゃ」

 夜明けごろ、船が来た。

 坂本は後ろ手を振りながら乗り込んだ。

 こうして、坂本龍馬暗殺事件は女ふたりの介入と原田の援護により未遂に終わった。

 一方の中岡は、それから二日間は回復の兆しを見せていたものの、体調が急変。

 仲間たちに

「早う討幕に立ち上がれ。急がんと逆に幕府にやられてしまう」

 と言って、まもなく息を引き取った。


 慶応三年、十一月十七日。

 中岡慎太郎横死。


 世間では、この事件の当事者は新選組であるとして、反会津の気運が高まっていくこととなる。


 ──。

 ────。

「見廻組の佐々木?」

 土方は原田を下から睨み付けた。

 それはまことか、と目で問うている。

「それはおかしい」

「と言われてもこの目で見たんだもんよ」

 という原田も、腑に落ちていない様子である。綾乃は首をかしげた。

「なにが不思議なの。至極まともな結果だと思ってるんだけど」

「──俺たち幕臣は、坂本を見逃せと聞いていた」

「えっ、だ、誰から!」

「お上に決まってんだろ。……俺たちよりもよほどお偉い見廻組に、その話がなかったとも思えねえ」

 土方は皮肉ったようにつぶやいた。

 新選組という素浪人がつどった烏合の衆とは違い、見廻組はもともと武士で形成された集団である。身分格差などもあって、新選組は見廻組とはあまり仲が良くない。

「どうして一浪人をお上が気にかけるのよ」

「それほどのことをやったということだ。──まして徳川存続の意を持ちながら薩長ともうまく渡り合うなんてェ輩は、幕府からしたら貴重なんだろうさ」

 原田はたしかにいい奴だった、とうなずいている。となると、実行犯が見廻組だとしても後ろに指示した人間がいるはずだ。

 どうやら、と沖田が割って入る。

「中岡──いや石川という志士は、十一カ所ほどの太刀を浴びていたそうですね。駆けつけていた人に聞きました」

「で、坂本は」

「長崎に行ったんじゃないかな。そこに愛妻を残してきたようで」

 あまり体調がよくないのか、沖田は一言、二言を喋ってふたたび沈黙する。

 その言葉になにを思ったか、葵がふと顔をあげた。

「見廻組は、まだ龍馬が生きてるって知ってるよね。仲間が近江屋で斬られて、その死体が坂本龍馬として扱われているんだもん──探すかな」

 しかし綾乃は首を横に振った。

「大丈夫だよ。生きていたとしたって、もう死んでいると結論付けられたんだから。龍馬がなんやかやと口を出さなくすれば良かったんだし、結果的に目標は達成したんじゃない?」

「あ、そっか」

 それも──と、沖田は小声でつぶやく。

「怨恨の可能性を捨てれば、ですけれど」

 怨恨。物騒な言葉である。

 しかし見廻組が坂本龍馬に個人的な怨恨を持つことがあるものだろうか。原田は天井を仰ぎ見た。

「そもそも、見廻組はなにゆえ殺したんだろうなァ──捕縛なら分かるけども」

「佐々木が動くなら、会津様が?」

「それはねえと、思うけど」

 お手上げだった。原田は口をへの字に曲げて、ばたりと後ろに倒れる。思考を停止したようだ。

 それを見て、土方は丸めていた背中を伸ばしてパンパン、と手を叩く。

「さぁ、推理ごっこはしまいだ。あとは、新選組には関わりねえことだろう。仕事に戻るぞ」

「土方さんったら真面目ですねェ」

 と沖田はつまらなそうに呟いて立ち上がる。そのときかすかにふらついたのを、土方は見逃さなかった。

「おい総司──おまえは、はやく寝ておけ。身体に無理をかけすぎだ」

「いや、私よりも原田さんとかの方が」

「原田はかてえことが自慢だろう。お前は万全じゃないんだから、はやく寝ろ」

 と土方は沖田を寝室へ引きずっていった。

 その後ろ姿を眺めて、原田は口を尖らせる。

「俺だって、人間だし──疲れるわい!」

「そうだよね。ありがとう、助けてくれて」

「いや──いいけどよ」

 何故か、綾乃の言葉に照れ臭そうにそっぽを向く原田。そのときである。

 うわぁ、と叫ぶ声が屯所に響き渡った。

 原田は柄に手をかけ、襖をすらりと開けて様子をうかがう。どうやら、悲鳴は先ほど土方と沖田が歩いていった方からのようである。

「な、なに、なにどうしたの」

「見てくる。お前たちはここにいろ」

 なんだか、最近原田が頼もしい。

 と、葵は感心しながら綾乃をちらりと見ると、何故か額を紅く染めていた。

「……綾乃ってさ、前から思ってたけど」

「なに」

「照れると頬っぺたじゃなくて、おでこが紅くなるよね。なんで?」

「えっ、なにそれ」

「いやそれはいいんだけど──左之のこと結構好きでしょう。いまもおでこ紅いよ」

「照れておでこ紅くなるとか病気かよ、気のせい気のせい」

 べしっ、と額を叩きながら、綾乃はケラケラと笑う。

 照れたっていいのよ、人間だもの。

 と、心のなかで呟きながら、葵は微笑ましく綾乃を見つめた。


 原田は、そう時間もかからずに戻ってきた。

「沖田が、また血ィ吐いたんだと」

「えっ!」

「副長が今、面倒見てる」

「最近、普通に隊務もやってたからね」

「絶対安静が必須なのに……」

 バタバタと沖田の寝室へ行ってみると、張り紙に「副長と医者以外出入禁止」と書いてある。

「は?」

「なんで」

 ふたりは、なんの躊躇もなく襖を開ける。

「えっ、な」

「沖田くん、大丈夫?」

「張り紙見ました!?」

「あぁ、これ?」

 綾乃の手には、無惨にもくしゃくしゃになった張り紙の残骸が。

「……あぁぁ」

「一度なったし、大丈夫」

 と笑顔でそばに座る葵を、とても嫌そうな顔で見てから、沖田はゆっくりと身体を起こす。

「信じますよ──?」

「信じてよ」

 和やかに微笑み合う。

 それを遠目に眺めて、土方は小さく笑った。

 前に、沖田が倒れたとき。

 隊務が終わるや藤堂が一目散に駆けつけたっけ──と、思い出している。

「ずいぶん、静かな屯所になったもんだ」

「…………」

 土方は綾乃の手を引いて、部屋を出た。

 なにか、聞かれたくないことでもあるのだろうか。

 そう思って身構えた綾乃に、土方は寂しそうに一言、

「明日、伊東を殺るよ」

 とだけ言うと、あとはなにも言わずに綾乃を見つめた。

(…………)

 その視線に含まれた意味を、綾乃は読み取る。

 伊東、の中には、御陵衛士の志士たちも入っている。──つまり、藤堂平助も殺る気だということだ。

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