男冥利

「龍馬は生きたいと思う?」


 ゆえに聞いてしまった。

 答えを聞くのがこわくて、気が付けば綾乃は彼の手を握っていた。

「突然じゃな、綾乃」

「答えて」

「────」

 幕末期の謎──坂本龍馬暗殺事件。

 犯人は誰か、目的は何か、何故──。

 さまざまな謎があるという。けれどそんなことはどうでも良いことだった。

 心から、この男を助けたいと思ってしまった。どうやらそれは葵も同じのようで、キラキラと瞳を光らせてこちらを見ている。よく言った、とでも言いたげに。

 緊張で唇が乾く綾乃をよそに、龍馬はとぼけた顔をした。

「わしは天に任せちゅうキ。天が死ねというのならわしは死ぬし──生きろと言うなら、生きる」

「…………ちがう」

 違うったら。そんな答えが聞きたいんじゃない。

 そう言いたくなるのをぐっとこらえて、綾乃は握った手に力を込めた。

「天が、選んでいいよって言ってるとしたら」

「ははは、ずいぶんと優しい天じゃな」

「笑い事じゃなくて!」

「痛い!」

「あ、ごめん」

「そがなことァ考えたことがない。生きるも死ぬも結果に過ぎぬ」

「だけど志半ばで、世界も見ずして、どこの誰ともしれない奴に命を奪われたら無念に思わない?」

「……何が言いたい」

「わけはいい。教えて龍馬、おねがい」

 高杉の死を看取って、ふたりの考え方は大きく変わった。

 芹沢を喪った葵はもちろん、これまで歴史が変わることへの恐怖心が強く燻っていた綾乃までもが、覚悟を決めた。

 しかし龍馬はそれでも、と袴の埃を払った。

「天がそうしろというならそうする」

「ッじゃあもしもわたしたちが、天だとしたら!」

 もどかしくて、思わず叫ぶ。

 彼から返ってきたのは、


「それなら生きるも死ぬも、おまんらに任せる」


 なんとも残酷な答えだった。


 ※

 慶応三年六月某日。

 盆地特有のじめついた暑さも、五年住めばすっかり慣れたものだ。

 坂本龍馬と話した日から数日が経った。葵は清水寺で餅を食べながら、綾乃の歴史講座を受けている。ここ最近の各派閥の動向と、これから先どうなっていくかの予習をするためだった。

 綾乃の説明はわかりやすい、と思う。

 いまも脳内にあるらしい歴史年表を追いながらソラで説明をしている。

 しかし、如何せんこの時期の政治的動きが複雑すぎる。聞いている間にうんざりとしてくることもよくあった。

「でもって坂本龍馬がこの時期に在京していたのは、薩土盟約を締結させるためなんだと思うんだ」

「また変な約束事が出てきた──」

 案の定、葵がうんざりしたようにつぶやく。

 さっきの薩土密約とどう違うのよ、と疲れた声を出すと綾乃は笑った。

「それはまた別。言ったでしょ、密約の方は武力討幕したい気持ち満々なの。でもこっちは違う。……こういう盟約の説明するときって、必ず背景も話さないといけないから面倒くさいんだよね」

「背景はいいよ、さくっと内容だけ教えてくれれば」

「それじゃあわかんないでしょ!」

「わかんなかったら質問するから」

「…………」

 綾乃は閉口したが、少し考えて納得したのか口を開いた。

「薩土盟約っていうのは、幕府を徹底的に叩き潰したい薩摩に対して、暴力喧嘩なしで日本の国家体制を変えようって土佐が提案して、薩摩がオッケーって言った約束事」

「ほおぉ、良かったね」

 脳みそを通さずに返事をした。なにが良かったのかは葵にもよくわからない。

「九月には無効になるけどね」

「じゃあ良くないじゃん」

 本当にね、と綾乃は餅にかぶりつく。

 先月の中頃に会った坂本龍馬は、土佐藩主山内容堂やまうちようどうの腹心である後藤象二郎ごとうしょうじろうとともに、薩摩藩の有識者と会談するなど、その盟約を締結すべく走り回っていた最中であったらしい。

「一度は締結されるんだけど、結局いろいろあってやっぱナシになる。それが九月ごろらしいんだよ」

 葵は、首をかしげた。

「土佐藩は、武力討幕をしたくないんだ」

「藩主の山内容堂と腹心の後藤、あと龍馬ね。彼らはあくまでも”いのちだいじに”派だから」

「でもさっき話してた薩土密約は討幕論なんでしょ」

 ああ、難しい。

 葵は綾乃ほど歴史を深く知っているわけではない。

 綾乃はイヤな顔ひとつせずに言った。

「さっき話した薩土密約は、”ガンガンいこうぜ”派の薩摩藩から、”戦になったら藩論云々にかかわらず土佐藩兵を出して薩摩藩に協力してね”っていう提案を受けた過激派土佐藩士が、山内さんを介さずにオッケーって約束したものなの。もちろん、事後報告はしたみたいだけど」

「ああ、それで盟約の方は藩主自らが薩摩藩と”穏便に行こうぜ”って約束したものなのか」

「そう」

 葵は餅をかじった。食べるのが遅いため、少し硬くなってきている。

「でも──薩摩藩だって一度は賛同したくせに」

「……本気でそれを考えていたのは、山内さんと龍馬くらいのもんだったってことだよ」

「えっ、後藤さんは?」

「後藤象二郎は、そうなってほしいけど難しいだろうと思ってたし、薩摩や討幕支持の土佐藩士は茶番劇だと思っていたみたい」

「…………」

 胸糞悪い話だ。葵はむすりと黙った。

 綾乃は苦笑して茶をすする。彼女は食べるのが早いのですでに皿は空だった。大学時代は『喋るダイソン』と称されたほどの早食いである。

「わたしが気になるのは、その盟約が破棄されるのが九月、大政奉還が十月、坂本龍馬暗殺が十一月にあるっていうこと」

「続くね」

「うん──」

 坂本龍馬暗殺については、はっきりとしたことがわかっていない。 

 慶応三年十一月十五日に、醤油商近江屋にて土佐の盟友中岡慎太郎とともにいるところを、何者かに襲撃される。

 坂本龍馬は即死、中岡慎太郎は襲撃三日後に傷がもとで息を引き取る──というのが、ふたりの世界で明瞭となっている史実だ。

「──生かすも殺すもわたしたち次第。……っていうよりは、わたしたちが天に勝てるかって話だと思う」

「どんなに阻止しても、天が強けりゃあらゆる方法で坂本龍馬が死ぬことになりかねない」

「そう。それに万が一龍馬が生き残れたとして、その後、坂本龍馬として生きることができるのかっていう心配もあるわけで」

 ──必ずしも生かすことが正義ではない。

 山南の言葉がちらつく。

 しかしもはや、ふたりの中で結論は決まっていた。

「もしも生き残って──その後が龍馬にとって相当辛い現実でも、わたしは龍馬に生きてて欲しいと思う」

「…………私も、死なせたくないよ」

 そう、決まっているのだ。

 しかしだとすれば綿密な筋道を立てなければいけない。

 じゃあさ、と葵が提案する。

「坂本龍馬は死んだと思わせることができれば、その後命を狙われることはない。──と考えたら、龍馬の死体はないといけないよね」

「中岡もいるよ」

「ああ、龍馬だけ助けるわけにもいかないか」

 葵は頭を抱えたが、まもなくハッと顔をあげて瞳を輝かせる。

「私たちがあの二人を連れ出して、近江屋にいないようにするのは?」

「でもそれは──いや。アリだな」

 と綾乃がわらう。

「……わたしたちが今生きてるのは、ここだもんね。龍馬たちの生命力に賭けてみるのもアリだ」

 そうと決まれば、と葵は元気よくうなずいて「段取りを決めよう」とはりきった。

「当日、龍馬は持病の瘧で熱が出てるはずなの」

「あんまり動けないんだね。なら、近江屋の造りがどうなっているかだけど、別室に龍馬と中岡を連れ出すっていう手もある」

「わたしが囮で部屋に残るから、その間に葵はふたりを安全な場所へ」

「それだと綾乃が危険じゃない。そんなのだめ」

 怒ったように言う葵に、綾乃は肩をすくめた。近頃、葵はよく感情を出すようになった──ような気がする。

 ついでに葵はねえ、と声をあげた。

「そもそも気になったんだけど、本当に暗殺犯の狙いって龍馬なの」

「ん?」

「私、ずっと気になってたの。怪我は中岡の方が酷い。龍馬も脳味噌やられて一発KOされてるけど、狙いが中岡だったとしたらついでに殺されただけでしょ」

 という葵の推理にうなずく。しかしすぐに綾乃は首を横に振った。

「狙いが龍馬だったから、確実に仕留められる脳味噌を狙ったんじゃないかな。中岡も、殺そうとはしたけどなかなか致命傷に当たらなかったとか」

「それか、やっぱり最初から二人とも狙われていた?」

「…………」

 わからない。それはそうだ。

 綾乃は顔をあげた。

「ただ、歴史に伝わる龍馬の装備として、高杉からもらったピストルは──寺田屋でぶっ壊しちゃったけど、またピストル持っているんだって」

「へえ、なんで反撃しなかったんだろう。寺田屋のときみたいに、威嚇で発砲するとかいくらでも出来たのに」

「────」

「…………え?」

 ふたりの中で、ざわり、と黒いものが胸を覆った。

 綾乃は眉をしかめて黙り込む。

 坂本龍馬という男は、良く言えば風雲児ではあるが、悪く言えば犯罪者だ。土佐藩を脱藩した上、寺田屋の際は発砲ついでに人を撃ち殺してもいる。

 まして、強く徳川家存続を提唱してもいる。徳川家を政界から徹底追放したい討幕志士からすれば邪魔な存在にだってなりうるであろう。

 彼のその人柄は、誰からも好かれるものであった。しかし反面、その行動は誰からも恨みを買われることも多いはずである。

 これでは暗殺者候補が多すぎる。

 葵は、後ろ手をついて空を見上げた。

「ま、なんにせよ──あと五ヶ月後にはわかるんだから。その時はその時だね」

「潔い」

「いい加減、潔くならなくちゃ」

 と葵はわらう。

 ふたりのなかに、もはや一切の迷いもない。


 ※

 少し戻った、慶応三年六月初旬。

 新選組に朗報が入った。

「幕臣へのお取立てが決まった?」

 米をといでいた葵の手が止まる。

 沖田が胸を張って報告してきた内容は、新選組の隊士一同が幕臣に格上げとなる──というものだった。

 なんでも、雇い主である会津藩主松平容保が、新選組のこれまでの功績に比べて現在の扱いが見合っていない、と判断したのだという。

 つまりは仕事を認められて出世する、ということだ。

 葵は喜び、飛び跳ねる。

「おめでとう。今日はお赤飯にしよう!」

「やったァ!」

 沖田もつられて飛び跳ねた。


 そうと決まれば、赤飯のレシピを聞かねば──と葵は立ち上がる。師匠はもちろん、井戸端会議をする主婦たちである。

 綾乃と一緒につくろう、と思ったが屯所内には見当たらない。そういえば今日は呉服屋バイトかと近くの井戸端へ向かえば、そこに婦人に混ざるバイト帰りの綾乃の姿があった。

「いたいた。綾──」

「そしたらあんた、ええ加減に土方はんに嫁にもろうてもらったらええやないの。壬生村のときからなんやろ」

 人参を洗う傘張屋の奥方、キヌが言った。

 葵は近寄って、綾乃の背中をつつく。

「あ、やっほ」

「どうしたの」

「いや──」

 綾乃の表情が、暗い。代わりに答えたのはキヌだった。

「組のだれかに聞いたんやて。土方はん、芸妓はんとの間にが出来たて」

「えっ!?」

 葵はハッと綾乃を見る。

「せやから、はよう綾乃ちゃんを正妻にしてもろて、その女は妾はんにでも──て話しとったんよ」

 キヌの隣人である松子も、井戸から水を曳きながら言った。

 壬生村にいたときから有名ではあったが、西本願寺に移っても、綾乃の土方に対するラブコールは町中に知られていた。

 このように井戸端会議に参加するたび、綾乃は土方との恋路についてちょっかいを出されることも多かったのだが、今回ばかりは綾乃が彼女たちに相談をしたようだ。

 葵はこそりと「それって誰のこと──」と問いかける。しかし、

「女がいすぎてわかりませーん」

 と間髪入れずに綾乃は言った。

 嗚呼、拗ねている。

 そろそろ本気で土方への気持ちに決着をつけるときが来たのかもしれない。第三者ながらに、葵は思った。

 恐々と綾乃を盗み見ると、彼女も深く思案しているようす。

「葵ちゃんはどうしたん」

「あ、あの──組の幕臣取立てが決まったそうなので、お赤飯にしようかと」

 思っていたのですが、と呟きふたたび綾乃を盗み見る。すると彼女は顔を歪めて「お赤飯!」と言った。

「そうね、そうよね。ややができたら赤飯よねえ。ああめでたいったらない」

「あああ──」

 面倒くさいことになってきた。

 主婦たちも、綾乃の不機嫌な顔色を悟ったのだろう。

 葵が赤飯のレシピを聞き終えるや、彼女たちは早々に井戸端から立ち去った。

 おかげで何故か葵が肩身の狭い思いをして、ひたすら吐き出される綾乃の愚痴を一身に受け止めることとなったのである。


 その日の夜。

 予定通り、幕臣取立てを祝っての赤飯がふるまわれた屯所内は、喜びに包まれた。

 この五年間の功績を松平容保が軽んじることなく受け止めていた──それだけで近藤は特に、天にも昇るような心持ちである。結婚して家庭をもった副長助勤たちも、珍しく屯所に会して飯をともにする。

「今日は夜通し宴会だ、酒を持ってこい!」

 案の定ドンチャン騒ぎのはじまりである。

 終わってみれば、座敷は酒乱の屍と化した男たちで埋め尽くされた。

 片付けに追われた女たちが給仕係から解放されたのは、とっぷりと夜が更けた頃のことだった。

「はぁ──こういうのがなければ楽な仕事なんだけど。あ、でも赤飯すっからかんだ。綾乃ちょっとは食べられた?」

 釜戸を覗きこむ葵に綾乃はうん、とうなずいてから「あんたは」と顔を向ける。

「けっこう食べた。……よかった、意地はって赤飯は絶対食べないって言うかと思った」

「この時代、意地で食いっぱぐれたら生きていけないからね。それに──君菊さんと子どもに罪はないし」

「…………」

 君菊、とは。

 土方が通っている北野の女である。

 実は現代でも、伝聞として聞いたことはあったのだ。残念なことにその子どもはすぐに亡くなってしまったというが。

 現代にいたころは、彼の直系遺伝子が残ってはおらぬのかとひどくガッカリしたものだが、いまはもはや話が違う。

「君菊さんなの」

「さあ──たぶん」

 それ以上は、恋仲ではないのだから、詮索権利もない。

「もう、聞いたらいいじゃん」

「なにを」

「好きの返事」

「…………」

 押し黙る綾乃をぼんやりと見つめ、葵は草履を履きなおした。

「ちょっと井戸で水汲んでくる」

「一緒に行こうか」

「大丈夫、待ってて!」

 携帯の時計は、夜中の一時をさしている。

 駆けていく葵の背中を見送って、綾乃は框に腰掛けた。

 早く寝ないと体調を崩すなぁと思いながら葵の帰りを待つ。

 この時代、夜は不気味なほど静かである。

 電灯のチカチカという音も、外を通る車の音もない。あっても、たまに聞こえる家鳴りのみ。いまでこそさすがに慣れたが、初めの頃はそれがどうしようもなく怖くて、夜は早くに布団をかぶっていたことを思い出す。

 当時、隣の部屋から聞こえてきた土方の動作音が、どれほど安心できたことか。

 綾乃は膝を抱えた。

(好きの返事──を、聞くのは、怖い)

 分かっていた。

 これまで好きと伝えながらも、返事を聞く前に逃げる自分がいることを。

 ここで断られたら、その先は?

 もう二度と伝えられないかもしれない。

 そうなるのはもっと嫌だった。

 好きと言い続けるのもツラいけれど、言えなくなることの方がもっとツラいだろうとも思っていた。

 ぐるぐる、ぐるぐる。

 時計を見ると、夜中の一時十分をさしている。

 遅いな──いや、水汲みは大変な労働だ。もう少し待とう。

 しかしふと顔をあげた。

(いや、まてよ)

 考えてみればこんな夜中に水を汲む必要はあるだろうか。いや、ない。

 明日にまわせる仕事ならばさっさと寝ようよ、と提案するため、綾乃が立ち上がったときである。

 カタン、と木戸の動く音がした。

 来たかと綾乃が振り返ると、そこにいたのは土方歳三であった。

「あっ?」

「はやく休めよ。明日にできる仕事ならまわしちまえ」

「あ、でもいま葵が」

 井戸に──と言いかけたが、被せるように土方が言った。

「ああ、だからその徳田が泣きついてきたんだよ」

「は?」

「あとはひとりでやるってお前がいうから、」

「えっ!?」

「俺から休むように言ってくれってよ」

「…………」

 知らない話が進んでいる。

 葵のやつ、そういうことか──と、綾乃は下唇を噛んだ。意地でもふたりきりで話す機会を与えたいらしい。

(勘弁してよ)

 綾乃は頭を抱えて、ちらりと土方を盗み見る。

 気だるそうにこちらを見つめている姿も、好きだと思った。

 末期症状である。

(もうしんどいんだって)

 最近、好きだと思えば思うほどに喉が詰まる。

 眠そうに垂れる瞳も、壁にもたれて揺れる髪すら綾乃の喉に蓋をした。想いは溢れるのに何重にも蓋がされて言葉にならない。こうなるともうなにも言えなくなった。

 行き場をなくした想いが眼から溢れそうになったので、綾乃は釜戸に向かってしゃがみこみ大あくびをしてみせる。

「ふあぁ、ねむい」

 目をこする。

 土方はなにも言わなかった。

「すみませんわかりました。もう寝ますから。おやすみなさい」

「…………ああ」

 ギシ、と床のきしむ音。

 部屋に戻るのだろう。それを待ってから自分も退散しよう、と釜戸をじっと見つめたまま動きを止める。

 しかし、そのまま続くと予想していた足音が聞こえない。音もなく立ち去ったか──と綾乃が後ろを向くと、

「ぅわっ」

 先よりもよほど近くに土方がいた。

 わざわざ框から土間まで降りてきたらしい。釜戸に手をついて、真上から綾乃を見下ろしている。

「なに、どうしました!?」

「釜戸を見るのがお前の仕事か?」

「ち……ちょっと顔を洗ってから寝ようかなって──土方さんがいなくなってからやろうと思ってたんですよ!」

「別にいてもいいだろ」

「なんで!?」

「なぜダメなんだ」

「…………」

 どうしたというのだ。

 こちらの寝る時間など興味ないくせに、今日に限って妙にしつこい。

 すっかり涙も引っ込んだ綾乃は諦めて立ち上がった。

「もういいや、明日洗おう──ていうか土方さん御自らわざわざ来てくださるなんて、明日は槍が降るかも」

「バカ言え。そのくらいの優しさは俺にもあらァ」

 土間蝋燭の火を消す。頼りの灯りは土方の持つ手持ち燭台のみになる。

 土方はふたたび框に上がってからほら、と綾乃の手を引いた。

 その眠そうな瞳に思わず笑うと、土方もなんだよ、とつられて笑う。

 ──不思議なもので、綾乃はこの瞬間に憂鬱な気分が吹き飛んだ。

 彼の、ほんの少し口角をあげただけの笑顔である。その笑顔ひとつで、綾乃はたちまち幸せに満たされた。

(ほんと気持ち悪いな──)

 と、ひとり苦笑した。

 暗い廊下を進む。灯りは手持ち燭台の蝋燭ひとつだけ。おまけに綾乃は鳥目である。

「土方さん」

「あん」

「好き」

「……知ってる」

 土方の右手は燭台が握られているが、左手は綾乃の手を引いていた。彼女が鳥目のため暗い道を歩くのが苦手なことを知っているからだ。

 そのさりげない優しさも、綾乃はたまらなく好きだった。

「いいの」

「なにが」

「好きでいて」

「──バカだな」

「なんで」

「ダメと言ったら変わるのか」

「それは無理ですけど」

「だったらそんな、バカなこと聞くな」

 土方はすこし怒ったように言った。

 なるほど確かに、と綾乃も冷静に考えて沈黙する。

 しかしよく考えてみれば別にふざけて言ったわけではない。少しむきになってじゃあ、と声をあげた。

「これからも嫌だと言われたって、どんなにいろんな女の人がいたって──わたしそばにいますよ。好きだから邪魔もする。それでもいいってんですか」

 半ばやけくそであった。今も、

(よくないくせに、フッちゃくれないんだから)

 と心のなかで悪態をついている。

 いつの間にか綾乃の部屋の前についたけれど、これ以上答えを聞かぬまま逃げるわけにもいくまい。綾乃は駄々っ子のように拳を握りしめて動かない。

「…………」

 その心持ちを察したか、土方が手持ち燭台の火を吹き消した。

 辺りが闇に包まれるや綾乃が緊張したように身体を強張らせた。鳥目ゆえか暗闇はあまり得意ではない。

「暗いんですけども!」

 ムードも考えずに非難する綾乃を無視して、土方はぼそりと言った。

「もともと変な話だろ。未来から来ただの、死んで戻るだの──」

「…………」

「こんなの長く続くわけがねえ」

 綾乃の手を握る左手に、力が込もる。

「いつかはまた戻るんだろう。そうしたらどうなる」

 そんなのは勘弁だよ、と土方は手を離した。

 綾乃はとっさにその手を掴みなおす。暗闇に宙ぶらりんになるのは勘弁だった。──というよりむしろ、土方を宙ぶらりんにしてはいけない気がした。

 だから綾乃は「そんなの」と彼の手を握る。

「生きればいいんでしょう。土方さんよりわたしがずっと長く」

「簡単に言うな」

「簡単ですよ。土方さんは人より死に急ぐんだから──」

 それに、と綾乃は胸を張った。

「わたしは滅多なことじゃ死なないから」

「死んだじゃねえかよ」

 土方は少し強い口調で言った。

 しかし綾乃はどこ吹く風だ。

「だけど労咳にはかからなかったでしょ」

「これから戦も増える。戦ってのは兵士じゃなくたって死ぬんだぜ」

「だったら戦に赴く土方さんのが死ぬじゃないですか」

「俺は滅多なことじゃ死なねえよ」

「は?」

 綾乃のこめかみに青筋が立つ。

 まったく、アホらしい会話なのだが、当人たちは真剣だった。

 どちらが先に死ぬか死なぬかという争いにまで発展しかけたすんでのところで、綾乃が我に返る。

「いや、まあいいやそんなことは……だから、ええとなんだっけ。そう、わたしは死なないっていう話だったんだ」

「千歩譲って死なねえとしても──死なねえからといって帰らねえとは限らんだろう」

「そんなん言ったら何もできないじゃないですか」

「だから、そういうことなんだよッ」

 土方は燭台を足元に置いた。

 視界が悪いためか衣擦れの音がよく響く。

「ハナっから壁があるんだよ──」

「ないです」

「あるんだよ!」

「ない!」

 綾乃が、土方の胸に顔を押し付けた。

 ぎゅうと背中に手もまわす。

 土方の身体が緊張したようにこわばるのがわかった。それでも綾乃は構わなかった。

「この世界に来るまであった壁に比べたら、そんなもん、ないのと同じです!」

「────」

 もう後には引けない。

 綾乃は深呼吸して、喉の蓋を取っ払う。声が掠れた。

「土方さんだったんです」

 と。

「……あ?」

「なんでこの世界に来たのかずっと考えてました。歴史を変えるとか、真実を知るとか、いろいろ考えたけどそんなのどうでもよかった。違うんです」

 綾乃は、泣いていた。

「土方さんと生きるために来たんです……」

「…………」


「女中でもいい、土方さんがだれかと契ったって奥さん娶ったって……嫌だけど、いい。ただ貴方のそばで、一緒に生きて、そばで貴方の笑顔を見ていたいんです──ただそれだけ」


 土方はうなだれた。

 すっかり参った。

 男の冥利、というものだ。 

 これほど真っ直ぐな想いをぶつけられ、いとおしく思わぬ男がいるのだろうか。

 黙ったまま綾乃の肩を抱き返す。

 この感情は、初めてのことだった。

 むかし武家娘に抱いた恋心でもなく、島原で女を抱くときの男心でもない。

(これは俺のものだ)

 ただ、そうおもった。

 顔が見たくて胸から離すと、暗いながらに彼女の鼻頭が紅いのが見える。

「三橋」

 と、土方は彼女の髪を撫でた。

「俺には新選組がある」

 濡れた瞳が土方を捉える。それすら、土方の鼻の奥がツンとした。

「これをどうするか……俺はそればかり考えている。ゆえに当分だれと一緒になることもない。そのあとのことだってなにも考えちゃいねえ。いねえがしかし──」

 お前に限っては、と土方は一瞬閉口して、髪を撫でる手を頬にすべらせる。

「向後、俺の身から離すつもりもない」

「────」

「もとよりそのつもりだ」

 これは恋ではない。

 恋よりも、深い。

 土方は、息をするのも忘れた彼女の唇に指を這わせた。


 ※

 慶応三年七月六日の夜のこと。

 英国軍艦イカルス号の水兵、ジョン・ホッチングとロバート・フォードが、長崎丸山の路上にて殺害された。

 長崎丸山といえば、丸山遊郭がある。

 水兵はおそらくその帰りに泥酔し、路上で寝込んでいたところを何者かに斬られたのだと思われた。

 被疑者に挙げられたのは、なんと海援隊。

 殺害時刻の数時間後未明に長崎港内より突然土佐の船が出帆したから──という理由であった。イギリス総領事パークスを筆頭に、徹底的に海援隊へ捜査が入るものの、まもなく完全な濡れ衣であることが判明。

 ふたたび捜査は振り出しに戻ることになる──。


「マジのサスペンスじゃん」

 葵はおもわず叫んだ。

 ここは、綾乃の奉公先である髙島屋。

 店番の手伝いを頼まれたため、綾乃とともに朝から入り浸っているのである。

「いまもまだ捜査中だってさ」

 納品分の反物を仕分けながら、綾乃が肩をすくめている。

「それで、ホシは挙がるの?」

「ネタバレ平気なタイプ?」

「わりと」

「挙がるよ」

「マジで!」

 事件発生から一年と三ヶ月。

 明治年間に入ってから検挙される容疑者は、筑前藩士金子才吉という男。

 金子は事件の二日後に自刃しており、委細不明のまま事件は解決を迎えるのだという。

「スッキリしないね」

「うん、だけど問題なのはそこじゃないの。前に薩土盟約の話をしたでしょ」

「うん」

「今回、海援隊が疑われたことで後藤象二郎とか龍馬とか、土佐の幹部たちが対応に追われることになるわけ」

「ふうん」

 よくわからないまま葵は呟いた。

 それがどうした、と思っているらしい。

「だからね。薩摩はずっと土佐の兵力に期待してて、後藤が土佐藩兵を引き連れてくるのを待っていたんだけど──後藤はそれで忙しいし、やっと落着したと思ったら今度は藩主の山内さんが倒幕思想やめてよ、とか言い出すしでもう後藤さんの胃に穴が開きそうな展開に」

 葵はえっ、と綾乃の話を遮るように声をあげた。

「まってよ。盟約はあくまでも平和的にやりたいって内容でしょ、どうして兵力が必要なの」

「薩摩は、どうせ大政奉還建白なんて幕府が反対してくるだろうから、幕府にプレッシャーをかけるための軍事兵力を集めたかったみたい」

「考え方もやり口も気に入らないよぉ!」

「だけど──最後はそういうやつが勝つのよね」

 といって、綾乃はようやく沈黙した。

 慶応三年に入ってから、綾乃の歴史講座で話される内容は、葵にとっては日に日に胸くそ悪くなるものばかりだった。

 新選組が幕臣となったこともあるのだろうが、とかく徳川徹底追放の思惑が張り巡る現状には我慢ならない。

「──小難しい話しよるなぁ」

 ふいに、葵の後ろから声がかけられた。

 髙島屋奉公人の泰助である。

「あ、泰ちゃん。納品終わったの」

「ああ。店番ご苦労さんどす」

「この二件は明日行こうか」

「せやな、今日はええわ」

 と、泰助はにこにこと笑みを崩さずに奥へと引っ込んだ。

「…………」

「泰助さんっていい男だね」

「でしょ」

 綾乃は苦笑した。

 一時は、クビになっているだろうと思ったこともあった。──無論、二度目の帰郷時である。

 葵の労咳を治すため三条大橋から自殺したのち、綾乃が死んだという噂は髙島屋二代目飯田新七の耳にも入っていた。しかしまもなく新選組隊士から「デマである、しばし待て」と言われたのだそうだ。

 どうやら隊務のため、長期間の遠出をしている──と説明を受けたのだとか。

 三月に綾乃が戻ったとき、変わらず「おかえり」と笑顔で迎えてくれた泰助に、綾乃がどれだけ救われたかわからない。

 本当にいい男だよ、と綾乃は再度つぶやいた。

「とはいえ、とうとう綾乃も土方さんに想いが届いたもんね」

「もはや夢だったのかと思いたくなるほど、その後なんにもないんだけど──」

「夢じゃないよ。ちゃんと動画撮ったでしょ、言質言質」

「ほんと生涯で一番いい仕事したよ、あんた。あれから三百万回は再生してる」


 というのも、あの夜。

 土方の指が綾乃の唇に触れたとき、襖の奥からピロリン、という機械音がした。

 ハッとふたりは我に返る。

 土方は音の出所を目で探していたが、綾乃にはわかっていた。明らかに携帯電話の動画撮影音である。

 暗やみのなか、一瞬見つめ合う。

 妙な気恥ずかしさを抱えたまま、

「よく休め」

 とだけ言って、土方は自室へと戻った。

「…………」

 まもなく綾乃が襖を開けると、布団の上で葵が動画を再生している。

 実は、部屋のなかで綾乃の帰りを待っていた葵が、襖の隙間から聞こえてきた会話に注目して一部始終を撮影していたのである。

「あんた──」

「ご、ごめん。……邪魔しちゃった?」

「────グッジョブすぎる、今日のMVPだよあんたって子は。なんで咄嗟にそんな素敵な判断ができたの? あとでその動画送って、百万回は再生するから」

「あっよかったァ」

 ──。

 ────。

 記憶に浸っていた綾乃は、やがて険しそうに眉を潜めて「これで」と口を開く。

「坂本龍馬暗殺を食い止めることが出来たら、言うことなしなんだけどな」

「私たちが頑張るしかない。がんばろ」

 葵は、からりと笑って言った。

 

 ※

 九月のことだ。

 土方が大石鍬次郎と井上源三郎を伴って、隊士募集のため江戸へ下った。幕臣になったことを示すため、紋付き袴での帰郷である。

 大石は、元々彦五郎から腕を見込まれて新選組に送り込まれたようなものである。つまり大石も里帰りだ。


 女ふたりは不在ゆえ、これも聞いた話である。土方歳三はたくさんの土産を持ち帰ったらしい。

 義兄である佐藤彦五郎には、佐久間象山の詩書を。

 体が弱く、奉公先でも結婚先でも実家に返されていた姪御のぬいには、島田髷、櫛に簪、絵草紙まで。

 ──かつてのバラガキが、こんなに気を使えるようになって。

 きっと佐藤彦五郎も姉のおのぶも、そう思ったことであろう。

 甥御の源之助は、後年、この帰郷時に遠駆けを一緒にしたと語っている。

 遠駆けとは、馬で遠くまで駆けてゆくもので、土方は源之助を井上の馬に乗せ、二頭の馬で走り出したという。

 勢いよく飛び出した馬を華麗に扱い、原っぱを二往復。

 土方や井上は掛け声をあげながら、凄い速さで佐藤家の表庭へ乗り込んだ。あまりの瞬間的な出来事に、源之助は大変怖かったと残している。

 源之助が、この遠駆けで一番心に残った情景──それはこのとき、にこにこと楽しそうに源之助を見る、土方の笑顔だった。

「はっはは、振り落とされずにすんだか。やっていきゃ慣れるさ。なあ、源さん」

「そうとも。源之助、少しでもお前の叔父上に近付けるよう、頑張れよ」

 なんて。

 井上はこう言ったが、その様子を陰から見ていたおのぶは、よくここまで成長したな、と思ったことだろう。

 ──俺は絶対ェ武士になる!

 そう叫んで箭竹を植えた、あのバラガキの頃。その成長ぶりに思わず涙ぐんだ。

 それから一ヶ月余り、三人は江戸に滞在。

 二十数名の新入隊士を引き連れて、京へと帰ることとなる。


 ────。

 十月十五日、二条城。

 徳川慶喜から大政奉還の儀が下された。

 大政奉還とは「政権を朝廷に返す」こと。そう、坂本龍馬らがなんとしても実現させようと骨身を削ったアレである。

 慶喜にとっても、苦渋の決断だったはずだ。

 なにせ三百年も握り続けた政権を手放すのだから。

 彼は、良く言えば少し頭が良すぎた。

 悪く言えば臆病者である。

 しかし坂本は、その決断を下した慶喜に対して尊敬の涙を流し「彼のためなら命を捨てることも惜しまない」と泣き崩れたという。

 それほど、今回の出来事は大きなことだった。


 薩長土肥は歓喜し、幕府側は落胆する。


 坂本はまもなく新政府名簿を作成したうえで、長州の木戸、薩摩の西郷と会合を開いた。

「やはり徳川家は残すべきですろう。今後の日本には必要じゃ──」

「徳川は徹底して潰すべきだ。後顧の憂は絶たねばならん」

「木戸さん、有望な人材は不可欠じゃ」

「おぬしは徳川の味方をするんかッ」

 と激昂する木戸孝允を、坂本がなだめる。

「味方とかそういう問題ではない、この国を思えばの話じゃき」

「まぁ、まぁ。落ち着きたもせ」

 薩摩の西郷隆盛が、小さく笑う。

 坂本は不服そうに首をかしげた。

「西郷どんはどがい思うとります」

「まだはっきりとはわかりもはん」

 と言うや西郷はおっ、と声をあげた。

「坂本さァ、この新政府名簿──おんしの名がありもはん。まさかここまでやっておきながら、表舞台から身を引くと?」

 西郷の言葉に、坂本はあッと顔をあげた。

「入れ忘れた」

「え?」

 ──と、いう会話があったかはわからぬが。

 現代において坂本は『政府などに興味はない』──というスタンスを貫いていたと言われているが、実はそうでもない。

 彼は、一応政府への介入も視野には入れていたという。

 おりょうにもその夢を語っていたと言うから、それなりに本気ではあったのだろう。

 しかし坂本は苦笑した。

「なんつって。いやはや、なんだかんだと考えましてな。──外交も、と思うたがやはりつまらん」

「つまらん、とは」

「国付きでは制約がありますろう。わしはわしで、好きにやらせてもらいましょう」

 なんの話だ、と木戸が眉をしかめた。

 部屋の隅で待機していた陸奥が、ちらりと坂本を見る。

 彼はわずかな小窓から射し込む夕日を眺めてほうじゃのう、とつぶやいている。

 ──この日、この時のことを、陸奥は生涯忘れなかった。


「世界の海援隊でもやりますかいのう」


 この人は、日本の器にはおさまらぬ。

 心の底から陸奥はそう思ったという。

 

 

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