冬の日
平成二十三年の夏。
京都の七条油小路通りを歩いたことがある。
私が労咳に倒れ、やむなく帰郷したときのことだ。そこに行こう、と言い出したのは綾乃だった。
平成のそこは慶応期の面影などまるでなく、大してめぼしいものもない普通の車道があるのみ。通行人は、ここでかつて何が起こったかなど誰ひとり気にも止めずに道を征く。
「…………」
綾乃は、この場所に来てからずっと口を開こうとはしなかった。
ただじっと四ツ辻──平成の世では交差点というが──を見て、動かない。
おそらく。
私たちは恐れていた。
(…………)
これまでのどんな事件よりもなによりも、この場所で、これから過去で起こるであろう惨劇を。
※
慶応三年十一月十八日。
「本当は十五日あたりにやろうと思っていたんだよ」
土方は斎藤一にそう言った。
三浦休太郎の護衛から外された斉藤一もとい山口二郎は、近藤の要請によりわずか一週間足らずで呼び戻されたのである。
「しかし坂本龍馬の件でごたついたもんで、少し遅くなった。その件は聞いているか」
「事のあらましは軽く──内容の限りではあまり口軽く言うなと言いましたが」
「違いねえ」
土方は小さく笑った。
坂本龍馬暗殺事件改め近江屋事件は、またたく間に薩長土士へと知れ渡った。
おまけに、重体であった中岡の断片的な証言や事件現場の物的証拠などから、なぜか刺客は新選組であると唱える者まで出てきたのである。
その中で「現場に落ちていた刀の鞘が、新選組の原田左之助のものである」と奉行所に進言する者がいた。──それが、御陵衛士の伊東甲子太郎だった。
他にも、近江屋に残された下駄は新選組がよく使用する料亭のものだ、とか、「コナクソ」という言葉は伊予弁だから原田か大石という隊士だろう、とか。
あることないことを土佐藩連中に吹聴し始めたのだという。
それを聞いた原田は怒り心頭である。
「もはや討ち取るのみ」として、今宵、伊東甲子太郎を近藤の休息所で行われる宴に招き寄せるのだった。
伊東はいつになく上機嫌だった。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ。貴殿とはもっとゆっくり、たくさん話をしたかったものを、そうそう気安く出来なくなってしまったものだから」
「私も、近藤先生にはいろいろと御意見をお伺いしたかった」
そんな前置きから宴は始まった。
宴の最中、お互いが息をついたとき、伊東は問うてきた。
「……つい先日の、坂本龍馬暗殺の件についてですが──」
「はい」
「新選組ですか」
穏やかな声色だが、伊東の瞳は近藤の様子をうかがうように鋭く光る。
しかし近藤は、キョトンとした顔で伊東を見た。
「…………」
「いや、原田くんの鞘を見たのです。我が眼を疑いました」
「原田の」
伊東はうなずいてた。彼にはめずらしく下卑た笑みを浮かべている。
確かに原田は現場にいた。
その上、坂本龍馬の死体だとして処理された男を滅多打ちにしたという報告も聞いている。状況的に考えれば、坂本龍馬を殺したと言えなくもないが──。
何より、原田の名誉に関わることである。近藤は少しムッとした顔で伊東を見つめた。
「まあいいでしょう。今宵はとても実りある宴でした。是非また──お互いの先見を語り合いましょう」
近藤の脳裏に血潮を噴き出す伊東の姿がよぎる。
はい、と目を細めた。
笑顔のつもりだったが、いつものえくぼは、出なかった。
それは突然やってきた。
七条油小路から、百メートルほど南に下った先にある本光寺近くの木津屋橋通を歩く伊東の目の端に、キラリと光るものがあった。
「────」
なんだ、と確認した刹那。
横道から突き出てきた槍の穂先が、伊東の首を捉えたのである。
瞳を見開いてそちらを向けば、大石鍬次郎が嬉しそうにぺろりと唇を舐めている。
「ぐ、」
「油断大敵ですぜ、伊東センセイ」
大石はグリ、と槍を回した。伊東の呼吸が浅くなる。
しかしさすがは北辰一刀流免許皆伝と言うべきか、彼はすぐには絶命しなかった。
本光寺門前の台石の上によろよろと近寄り、足を震わせて座り込む。
焦らすように後を追ってきた大石を憎々しげに睨み付け、
「…………この、 か、奸賊ばら……!」
伊東は叫び、絶命した。
御陵衛士屯所、月真院に町役人からその報告が入ったのは、更に夜も更けた頃。
「伊東さんがやられたッ」
誰かの一言で、全員が立ち上がる。
「……い、伊東先生が」
「ちくしょう──新選組かッ」
「今、ご遺体は油小路七条に晒されているらしい。先生のそのような姿、公衆に晒すわけにはいかん。行くぞ」
「しかし、罠でしょう──」
「そうと分かっていても、正々堂々行くのが我ら御陵衛士ッ。斯様なことをする卑怯な新選組とは違う」
「…………」
篠原泰之進の言葉に、藤堂は唇を噛み締めて頷いた。
「駕籠を用意しろ」
当時、油小路にはおよそ四十名ほどの新選組がいたという。
角にある大阪屋という名の蕎麦屋二階には、永倉と原田を中心に数名が伊東の死骸を監視していた。伊東を引き取りに来る御陵衛士を一網打尽に討ち取れ、というのが今回の任務なのである。
「…………」
「……永倉よう」
「わかってる」
原田のか細い声かけに永倉は低く呟いた。
「平助だろ」
──。
────。
藤堂平助も斬るんですか──。
宴に出る間際、永倉は近藤にそう聞いた。
聞かずにいられなかった。
いつもならば「斬ろう」と言うであろう近藤も、今度ばかりは首を横に振る。
「平助はまだ若いし、それに──文武に秀でているし必ずや大成する男だ。亡くすには惜しいな」
言い訳を多分に含んだ答えだった。
(ようは生かしたいんだ)
と、永倉は胸が躍る。
近藤自らがそう言ってくれるのは、こちらにとっても非常にありがたい。永倉は「原田にも伝えます」と言って頭を下げた。
殺したくない。
殺すわけにはいかない。
だって彼は、やはり仲間なのだから。
「局長は生かせと言った」
永倉の視線は、伊東の死骸から動かない。
その落ち着いた声色に原田も瞳を輝かせる。
「そう、……そうか。そうか、よし」
「だがそれを平助が望むかどうかはまた別の話だぜ」
もしもそのときは、と永倉はようやく原田に視線を向けた。その先を言葉にせぬままじっと原田の瞳を見つめている。
そのときは、斬る──のか。
原田はぐっと唇を噛み、うつむいた。
「……でも、俺、斬れる自信がねえ」
「俺もだ、馬鹿」
永倉は視線をふたたび伊東の死骸に向けた。脳裏に、行きがけの際の情景がよみがえる。
綾乃と葵が、門出する自分を呼び止めたのだ。
彼女たちはひどく不安そうな顔でしきりに
「藤堂平助を生かすことを徹底周知しろ」と言ってきた。
無論そのつもりだったため、この場で待機する隊士にはすでに周知させている。
しかしそう伝えても、彼女たちの顔は冴えぬまま「平助を助けてくれ」と何度も言ってくる。その様子から、永倉もなんとなく意味が分かったので、
「心配するな。大丈夫だから」
と胸を張って言い切った。
なにせ近藤でさえ生かせようと言ったのだ。平助は死なない。永倉はそう信じている。──そう、信じたい。
「……なぁ、左之助よう」
「あんだ」
「──斬りたくねえなあ」
永倉の声は、暗い。
かつて藤堂に従っていた八番隊の隊士は、唇を噛みしめてこそこそと話している。
「……来るかな」
「魁先生だぜ。来ねえわけがねえ」
「俺、やだよ」
「…………」
新選組は、揺れていた。
「来た」
永倉のこの声に、何人の者が手に汗を握っただろう。
「行くぞ」
原田のこの声に、何人の者が逃げ出したくなっただろう。
「…………待っていろ、平助」
何人の者が──来るな、と願ったのだろうか。
御陵衛士が、きた。
涙ながらに伊東を駕籠に乗せた時、周りには数十名の新選組が既に囲っていた。
「……来たな、卑怯者どもめ」
篠原の唸るような声を合図に、七名の御陵衛士は抜刀する。
服部武雄がぎろりと目を剥いた。
新選組にいた頃。
あの沖田総司と剣の腕は引けを取らない、と言われた剣豪であった。
相対するは、原田左之助である。
「…………」
「でぇっ!」
気合いとともに原田は槍を突き出した。
服部が弾く。
その反動で、原田は肩に傷を負った。
しかし間合いを取り反撃を開始。
その戦いに参戦しようと、ほかの新選組隊士も集まってきた。
多勢に無勢。さすがの服部も動きが鈍くなったところに、原田は、重心を低くして槍を突き出す。
「────」
その一撃で、服部武雄は死んだ。
近くで闘っていた毛内有之助も、刀が折れたが最後、新選組隊士の餌食となり、絶命する。
──。
────。
「平助」
ここだけ、時が止まっているようだ。
現場に降りたってからずっと、永倉は藤堂の姿を探していた。ようやく見つけた。
「…………」
「…………」
しばらくの睨み合いののち、永倉は不自然に身体を避けた。
藤堂はハッとした。
それが、永倉の作る自分の逃亡ルートだと気が付いた。
「……永倉さん」
永倉はちいさくうなずく。
生きろ、という永倉の声が聞こえた気がして、藤堂は奥歯を噛みしめながら、一度、そちらに行きかけた。
しかし。
その瞬間、永倉が気付いた。
藤堂の後ろから、かつての八番隊部下である三浦が刀を上段に構えて駆けてくる。
「やめろ三浦ッ、平助、左に避けろ!」
彼が袈裟斬りに刀を振り下ろしたのと、永倉が叫んだのは同時だった。永倉の声で藤堂は身体をごろりと回転させる。刀の切っ先が横っ腹を掠め、着物が切れた。
「…………」
着物の切れ目を見て、藤堂は息を呑む。
三浦は永倉の怒号に驚いて、追撃せずに立ち止まった。どうやら彼には藤堂を生かせという命令が届いていなかったようである。
汗をぬぐい、永倉が他に行ってろと唸るように言うと、三浦はうなずいて他の加勢へと向かった。
「あぶねェ」
その姿を見届けてから、永倉はホッとした顔で再度藤堂を促した。
「さぁ早く」
けれど、今度は藤堂が動かない。
永倉の気が焦った。
「おい、早く行けッ」
しかし藤堂は、後ろから聞こえる斬り合いの音を聞いている。誰かが斬られ、どうと倒れた音がした。
唇を噛みしめる。
──いつもいつもそうだった。
「なんでいつも、あんたなんだ──」
声も震えている。
池田屋のときもそうだ。
額をやられた自分を庇い、命を張って守ってくれた。
手合わせのときだって、お前は額が弱点だと教えてくれた。
そうして、いま──。
互いに敵となり真剣を交える必要がある現場でさえ、彼は自分に刃を向けようとはしないのだ。
「平助ったら!」
「うるせえッ」
「────」
小さな身体で、藤堂は永倉よりも声を張り上げた。
永倉は戸惑った。
藤堂はふたたび叫ぶ。
「俺と闘えッ!」
「──平、」
突然、斬りかかる。
永倉はそれを刀で受け止めた。彼の刀身を通して殺意が伝わってくる。
「平助、なんで」
「もういいんです」
「…………」
「俺にだって、あるんだから」
鍔迫り合いのなか呟き、藤堂は笑った。
「俺だってもう、子どもじゃねえんだよ。永倉さん」
そんな言葉とともに、藤堂と永倉は今一度対峙した。
いくら目の前の刺客が盟友であろうとも。
藤堂は、おのれの武士道を捨てるわけにはいかなかった。
「俺を、誰だと心得る」
「────」
「御陵衛士の魁先生とは俺のことよ!」
これが、藤堂の意地なのだ。
その咆哮で永倉は目が覚める想いだった。
自分はなにも分かっちゃいない、とひどく己を恥じた。
自分が守るべきは彼の命ではなく、彼の意地だと。
そのためにできることはもう、ただひとつしかない。
それは、永倉にとってあまりにも残酷な選択だった。
「……相対するは」
だから、少しだけ声が震えたけれど。
「新選組二番隊隊長、永倉新八!」
平青眼の構えをつくった。
──それからはほんの十秒ほどの出来事である。
右足を踏み込んだ永倉の切っ先が、藤堂の額に迫る。
昔からここを攻められると弱かった。池田屋でも斬られたところだ。
しかし藤堂はそれをはねのけて永倉の懐に飛び込む。
「おっ、ちゃんと修行したな」
「はいッ」
藤堂は笑顔だった。
楽しかった。
今までのどの立ち合いよりも楽しくて、
「────」
悲しかった。
膝から崩れ落ちた藤堂に見向きもせず、永倉は刀を鞘に収める。
藤堂は側溝に顔を突っ込んだ状態で息絶えた。
「…………」
「平助ッ」
ようやく駆け付けた原田が、永倉と藤堂を交互に見て眉を下げる。成り行きを悟ったのだろう、原田は永倉を責めるようなことはなにも言わなかった。
ただ、あまりにも哀れに思ったか。
側溝に顔を突っ込んでいる藤堂を直してやろうと手を伸ばす。
「左之、いい」
永倉はひどく疲れた声を出して止めた。
「それは俺たちがやることじゃァない──」
その言葉が胸に刺さる。
原田はああ、と呟いて涙を流した。
伝う涙が頬を熱くさせ、吐く息が白い。そのとき初めて、今日が寒い日なのだと気がついた。
「今日はずいぶん──寒ィ」
こうして、後の世に言う油小路の変は終わりを告げた。
翌日早朝、綾乃と葵は現場に赴いていた。
明け方ごろ帰営した永倉に一言「ダメだったよ」とだけ報告を受け、居ても立ってもいられずに現場へと駆けつけてしまったのである。
「…………」
七条油小路は酷い有様であった。
そこかしこに服部、毛内、その他多くの御陵衛士の死体が転がっている。
藤堂の死体は、他より少し離れたところに斃れていた。
触れると、寒さで凍っている。
綾乃は躊躇なく側溝に突っ込んでいた藤堂の頭を出してやった。
刀を握り締めている右手は、もはや凍って開かない。
「…………」
何ひとつ、言葉にならなかった。
涙も出なかった。
ただわかったのは、
「──笑ってる。…………」
これが、友からの精一杯の餞だということ。
これが彼にとって、一番望んだ結果だったということだろうか。
慶応三年、十一月十八日。
伊東甲子太郎、藤堂平助、他御陵衛士志士死去。
彼らの遺体は、さらなる御陵衛士残党をおびき寄せるため、二日間ほど晒された。
しかしそれが罠であると分かっている彼らが引き取りに来るはずもなく。
その後、山崎らの手でひっそりと光縁寺に埋葬され、翌年、戒光寺へ改葬された。
※
坂本龍馬暗殺事件の犯人は新選組である、という噂は民衆にもまたたく間に広まった。
「…………」
不動堂村屯所を見る世間の眼は、一気に冷たくなり、こそこそとあることないこと呟く町娘も少なくない。
そんな状態に綾乃は、嫌気がさしている。
「言いたいことがあるなら、仰って。どうぞ!」
と、屯所の門前で仁王立ちをして、こそこそと話している娘たちを威嚇する。それが数日続いたため、土方も眉を下げて綾乃を止めた。
「おい、みっともねえったら」
「なにがみっともないですか。サノは龍馬のこと、暗殺どころか守ってくれたっていうのに、世間じゃ暗殺者扱いだよ。そんなの許せないじゃないですか。悔しくないんですか、わたしは悔しいですよ!」
「こんなのは──とうの昔から受けてたじゃねえか。今更どうってこと」
「どうってことある!」
「…………」
土方は苦笑し、小声でぼそりと言った。
「近藤さんが幕府のお偉いさんに呼ばれた。恐らくは坂本のことだとは思うが」
「……やっぱり、わたしたちだけでやるべきだった」
「────」
ふん、と土方は鼻をならす。
「馬鹿か、お前は」
「そうだ馬鹿だ」
それに便乗して、土方の後ろからひょっこり現れたのは、原田だった。
「俺がいねえで、坂本をどうやって助けられたんだ。お前等、絶対死んでたぜ」
「それは」
「気にすんな。世間からこう見られるのも仕事のうちだ」
土方の涼しげな顔に、しかし綾乃は胸がちくりと痛んだ。
一方その頃、若年寄の永井尚志に呼ばれた近藤は、案の定──坂本龍馬暗殺事件について聴取を受けていた。
「無論、新選組は関与しておりませぬ。隊士全員の居場所を逐一把握しているわけではありませぬが、なれど、もしも新選組が暗殺をしたとすれば、中岡さんを殺し損ねるはずはない」
「ふむ」
「それに、坂本龍馬に手を出すなと仰られたのはお上のはず。その命に背くことを、我々がするはずがない」
「だろうな。──これは土佐藩からの要請だ。なんせ新選組の、原田という男の鞘が見つかったという話であったからな」
「原田」
またか。
近藤の脳裏に、伊東の顔がちらついた。
何故だろうか。
その後に確認したが、原田の刀には大小どちらにも鞘はあった。
「それは、誰から」
「御陵衛士の伊東甲子太郎だ。まあ、彼も君たちの手によって殺されたが」
「…………」
やはり、伊東。
これではまるで、いかにも口封じのために新選組が伊東を殺したと思われても仕方ないことだ。
近藤は小さくため息を付く。
「まあ、よい。どうせもう土佐藩の者たちも、いずれ諦めるであろう」
「…………」
「よい、下がれ」
「ハッ」
と、一度は返事をしたものの、ふと近藤は頭を下げたままぽつりと呟いた。
「────見廻組は」
「なに」
「見廻組は今回のこと、なんと」
「…………」
近藤の一言に、一瞬の沈黙。
その後、永井はつっけんどんに「お前には関係ない」と突き放して部屋を出て行った。
それからしばらく、近藤はその頭を下げた状態のままじっと考え事を始める。
「……坂本龍馬」
なんてことのない男のため、幕府のお偉方や恐らくは薩長土藩の上士までもが、陰で動いていると見える。
九月頃に近藤は、後藤象二郎と会談をしたことがある。
彼の話したこの国の未来像は、大変目の覚めるような話で、ぜひまた話を聞きたいと思っていた。しかしその策も、もとを辿れば話の出元は坂本龍馬だったという話もある。
もしかすると幕府は、──いや、日本はとんでもない人間を失ったのではないのか。
鉛がつまったような胸の重苦しさを覚えながら、近藤勇はようやく顔をあげた。
そのときである。
「おお、まだ居てくれたか」
松平容保が座敷にやってきた。
「あっ、此れにて失礼を」
「いや──坂本龍馬のことで来たようだな」
「ハ、永井様に」
と言った近藤に、容保は眉を下げて小さくため息をついた。
「……実を言えば、刺客は把握しておる」
「は」
「土佐藩の要請でここまで徒労してもらった。が、見廻組であろう」
「……そ、それは──会津様のご指示で?」
聞かずにはいられなかった。
近藤の質問に一瞬、視線をさ迷わせ、会津の頭領は呟くように「いいや」と言った。
「坂本龍馬は寺田屋にて、幕吏をふたり短銃で撃ち殺している。佐々木が坂本を捕縛対象としていたことは知っておる」
しかし、と松平容保はうつむく。
殺すとは聞いていない、とでも言いそうな雰囲気である。
近藤はふたたび平身低頭の形になり、
「恐れながらこれは、私めの独り言に御座いますが」
と言った。
容保の動きが止まる。
「此度の坂本龍馬暗殺事件、我々新選組は事前に察知し、坂本龍馬を守りました」
「守った──?」
「坂本龍馬は、生きている」
近藤の言葉に、容保は目を見開いて近藤のそばに膝をつく。
「そなた──それは」
「無論、社会的には死んでおります。しかし坂本龍馬本人については、もうどこにいるかは分かりませぬが、死んではおりません──というのも、あの女たちが」
近藤が一瞬言葉をつまらせる。
容保は、近藤に顔を寄せ、囁くように言った。
「三橋と徳田、というおなごのことか」
「──そうです。彼女らが己の命を張りました。此度の件も、成し遂げたのはふたりが居てこそでした。しかしだからこそ、私は危惧しております。いつか、考えの浅い何者かに襲われてしまわぬかと」
「…………」
「この件において、見廻組が妙な気を起こさぬよう──願いたいものです」
近藤は、鋭い眼光を容保に向けた。
※
十二月は目まぐるしく過ぎていく。
まずは、七日。
紀州藩士三浦休太郎が宿をとる油小路花屋町下ルの料亭、天満屋でその事件は起こった。
陸奥陽之助(宗光)率いる海援隊士や中井庄五郎率いる十津川郷士が、三浦を狙って斬り込んできたのである。油小路の変ののち、ふたたび三浦の守備についていた斎藤一率いる新選組隊士が、これを迎え討つ。
「三浦、覚悟ォ!」
威勢のよい中井庄五郎が、抜きざまに斬りつけるも、三浦は間一髪のところで身をかわす。すかさず新選組が中井の腕を斬り落とし、場はたちまち乱戦となった。
斬り合いのなか、行灯の火が消える。
暗闇に紛れ、誰が誰を斬っているのかもわからぬ状態を逆手にとり、
「三浦を討ち取った!」
と、新選組隊士が叫んだことで海援隊士および十津川郷士は撤退。三浦は事なきを得た。
この事件によって、近藤の従弟である宮川信吉が死亡。三浦休太郎の警護任務は終わりを告げた──。
それから二日後の九日。
王政復古の大号令が発令。
この号令は、完全に江戸幕府を廃絶し新政府を樹立する──というものだ。
さらに坂本龍馬暗殺の嫌疑がかけられていた上、油小路の変まで起こした新選組には、廃止の声が相次いだ。
組織こそ存続したものの、新選組は三日間ほど、新遊撃隊御雇と名乗るハメになる。
十六日には、会津藩より伏見奉行所を屯所として使うように命を受け、前日に山崎と吉村に偵察させていた伏見へ、新選組の大移動が始まった。
全員が伏見奉行所へ移った翌日、体調不良の沖田が近藤妾宅へ一泊。その報を聞き、御陵衛士の残党が襲撃をしかけるも、沖田は一足先に屯所へ行っていたため空振りとなる。
悔しい思いをした彼らだが、その後──隊士を引き連れた騎馬に乗る近藤を発見。
一矢報いるべく、近藤の右肩を負傷させて再び残党は逃げ去った──。
※
慶応四年、一月三日夕刻。
鳥羽街道赤池小枝橋にて──西軍が砲を撃った。
それを合図とし、鳥羽伏見両方面で同時に戦が始まった。
これが、世に言う鳥羽伏見の戦いである。
「明けまして──おめでたかった二日前」
「もうおめでたくないね」
場面は、現在へと戻る。
葵のうんざりした視線の先には、新年早々甲冑を纏う新選組隊士の群れがあった。
江戸薩摩藩邸からの挑発行為により、徳川慶喜は討薩宣言をしたのである。鳥羽伏見の戦が始まるのは、目前だ。
おかげで、大きな戦ができる、と活気だつ隊士たちだが、その中枢に据えるべき人間が、いない。
「ふたりとも、大丈夫かな」
近藤と沖田である。
近藤は肩の傷を癒すため、沖田はいよいよ労咳の治療に専念するため、大坂奉行屋敷にて療養を取りに下ったのだ。
「わたしたちも、準備しておこう。たぶんすぐに近藤さんたちがいるところに向かうことになるから」
「病気が移るからだめって、怒られたよ」
「抗体があるから心配すんなって言っときな。それにこの伏見奉行所、焼けるからさ。ここにいるよりずっと安全だ」
「そうなんだ──」
納得して、葵も荷物をまとめる。
すると、甲冑を纏った土方がガチャガチャと音を鳴らして近寄ってきた。
「おい」
「あ、土方さん。お似合いです」
「知ってる」
「…………」
涼しげな顔で即答する彼に、綾乃はイヤな顔をした。
それからふて腐れたように荷物を見せる。
「大坂奉行屋敷へ行け、って言いに来たんですか。もしかして」
「なに」
「ご心配なく。こっちはそのつもりで準備しています」
「なんだ、やけに察しがいいな」
「向こうで待ってますからね。ちゃんとみんなで、帰って来てくださいよ」
「…………ああ」
綾乃が笑むから、土方もつられて微笑んだ。
その笑顔の応酬に、葵は唖然とした顔で綾乃を見つめる。いつの間に、表情で会話をするまでになったのだ──とでも言いたげに。
「さぁ、ここからは男の世界だ」
と、土方の低く興奮した声色に、男たちは盛り上がる。
新選組隊士は約百三十名、伏見奉行所を本陣として、行動を開始した。
「永倉」
「なんだい」
「伍長の島田と伊東鉄五郎、連れていけ」
指示こそ曖昧だが、永倉はピンときた。
「おお、先発か」
「頼むぞ」
「がってん!」
本陣から、二番隊率いる永倉が駆け出す。
塀をひょいひょいと越え、二番隊士十八名が地上に降り立つ。彼らは一斉に飛び出して敵の隙を狙い、戦場へと駆け抜けた。
土方は身を乗り出しながらその後姿を眺めている。
「ここはいけるな」
「おい土方さん、撃たれるぞ!」
と、原田が慌てて塀から手を伸ばすと、土方は涼しげに笑う。
「あいつらに行かせて、俺が内にいちゃ仕様がねえだろ」
「…………」
「大将ってなぁ、共に戦場に立つもんだ」
「────」
すると、原田も同じように土方の横に立った。
「…………」
「大将だけ上がらせて隠れてるなんざ、こっちの顔もたたねえんだよ」
そんなことを言ってる間に、永倉部隊が敵の野津鎮雄隊を後退させたようだ。
「さすがはてめえだッ、永倉!」
と、興奮したように叫んで、土方は後ろに控える部隊全てを共に出動させた。
しかし、その日は新政府軍と旧幕府軍の軍備の差が顕著に表れる。
薩摩の持つ銃火器に、刀で戦う幕府軍が勝てるわけもなく。
「刀の時代は終わったか──」
剣に生きた隊士の誰かがぼやくほど、この戦いは酷かった。
新選組は大坂への撤退命令を受けて淀方面へ退却することになる。しかし、その戦場には最後まで土方の姿があったと伝わる。
隊士や他藩の逃げる時間を少しでも稼げれば、と奮迅したそうだ。
────。
二日後の一月五日。
野宿も、ここまでくれば慣れたものである。
「このあたりが、淀千両松──なんとか敵の大砲ひとつぶんどってどかんと一発撃ち込みてえもんだぜ」
と、土方が眉間のシワを深くする。
それを聞いた井上は、ニカッと笑って「ようし、見てろよ」と言った。
このときは、土方も頼もしいな、なんて笑っていたのだが。
その会話をこれほど後悔することがあるとは──。
土方は、己の腕のなかで冷たくなりゆく井上を抱き締めながらそう思い、頭の奥が痺れていくのを感じていた。
一刻前。
淀千両松付近で、新選組は再び新政府軍と合間見えることになった。
そこでも武器の差は明瞭で旧幕府軍は押しに押される。程なく撤退命令が発令されたとき、土方はあまりの悔しさに地面を叩いた。
「ただで撤退なぞしてやらねえ。ちくしょういまに見てろよ」
「新政府軍だッ、後ろから来るぜ!」
「お前たちは撤退だ。俺は一発仕掛けてから行く」
永倉の言葉に叫んだ土方は、指をさす。
原田がその先を見ると、草むらの陰に一基の大砲が棄ててある。
「ありゃあ、敵さんが放棄した大砲──弾は」
「ありそうだ。確認した」
「なら、私が一発撃ち込んでやる。歳さんは先にもどれ」
と、息巻いた土方を押し退けて大砲に向かったのは、井上源三郎だった。
試衛館時代からのもっとも古株であり、とても頼もしかった兄弟子。京に上るまではあの土方でさえなにかと彼に甘えたこともあった。土方は「なにを」と突っかかる。
「いいから、君たちは先にもどれッ」
井上は土方の反論を無視して、原田や永倉、その後ろに続く隊士たちに叫んだ。永倉はうなずき、隊士をまとめて駆け出していく。──残るは、原田と斎藤、井上、土方のみだ。
さっそく、敵の死角で弾を込めるための準備をはじめた井上に、土方は再び突っかかった。
「おい源さん」
「まだいたのか──お前がいねえで、新選組はこの先どうなるッ。優先順位を考えろ!」
「な、」
「いいから、原田くん。歳をたのむ」
「あ、あぁ……けど源さんよ」
と、原田が言いかけたときである。
新政府軍が、バタバタと数人駆けてきて、先をゆく永倉率いた隊士たちの影を見つけたのか興奮したように雄叫びをあげた。
「そうはさせんぞッ」
井上は、迷わず火種に点火し、彼らに向けて大砲を撃ち込む。
五人の敵はたちまち衝撃で吹き飛ばされ、全員が地面に叩き付けられた。
斎藤が、近くに落ちた敵を確認し、頷く。
「しかしいまの音でまた来る」
「いまのうちだ。──私がここで撃ち込んでいくから、先に行けッ」
「ダメだ、あんたは死なせん」
土方が拳を握る。
井上は瞳を細めてにっこり笑った。
「──後からちゃんと行くから。いいか、みんな逃げた先でお前の下知を待ってるんだ。役目を忘れるな」
「…………」
「行け、歳」
「副長」
「────クソ、死ぬなよ」
と、原田と斎藤に引っ張られるようにして、土方はその場から駆け出す。
すぐそばまで来ていたのだろう敵に、井上が再び大砲を撃った音が轟いた。
「ちくしょう」
「大丈夫だ、源さんなら帰ってくる!」
刹那。
大砲ではない、発砲音が三発聞こえた。
土方は足をぴたりと止めて、振り返る。
シン、と静まる空気に、斎藤と原田もまさか、と顔を見合わせた。
心臓が、ドッドッと早鐘を打つ。
土方の脳内に警鐘が鳴った。
「源さん──」
土方の足は自然と駆け出していた。
止めることなく、原田と斎藤もその後を追いかける。
まだそんなに遠くない。
それなのに五里も十里も長く感じた。
「あッ」
そこには、ミニエー銃を構える新政府軍のふたり。
その銃口の先にいたのは、大砲を捨て、刀を抜いた井上が、いままさに草陰から飛び出すところだった。
「……やめろ」
土方が、駆けながら腰の刀を抜き、短く叫ぶ。──と、同時に響いたのは、井上の咆哮だった。
「新選組がくたばるかぁーッ!」
彼は、全身に集中砲火を浴びた。
どうと倒れる。
「源さんッ」
という声に気が付き、敵が土方に銃を向けた。
「こなくそッ」
後ろから駆けくる原田が土方の襟首を掴み、乱暴に後ろへ戻しながら槍を突き出す。
もう一人は、鮮やかに斎藤が首を落とした。
「…………」
ゴトン、と首が落ちる音とともに、土方はハッと我に返り、慌てて井上に駆け寄る。
「源さん、しっかりしろ」
「────」
井上は、すでに事切れている。
けれど土方は、その事実を認めようとはしなかった。何度も何度も話しかけては揺すってみる。
その姿があまりに痛々しくて、原田は井上を抱える土方ごと抱き込むと、震える声で叫んだ。
「やめてくれ──もう、死んどろうがッ」
はた、と揺するのをやめた。
土方は低く唸って、項垂れる。
その様子を見守りながら、斎藤は敵の気配を探った。ここに居続けるのは得策ではない。
原田の背中に触れて、斎藤は小さく首を横に振る。そのジェスチャーを理解したのか、原田は双眸から溢れる涙を乱暴にぬぐって、土方から身体を離した。
「……行こう。あんたは、生きなならん」
「────」
「たのむ副長。我々は、あんたの下知を待っている」
斎藤も、土方に手を差し伸べている。
「──…………」
名残惜しくて、悔しくて。
土方はようやく井上の死体から離れた。
「さ、はやく」
死体を連れていくことすら、原田と斎藤は許さなかった。万が一のときに、死体は荷物となる。
いまは、生きている命が第一優先だった。
慶応四年、一月五日。
井上源三郎、戦死。
その死体は、淀千両松付近に転がる幕軍や薩摩兵の死体とともに、寂しく転がったと伝わる。
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