乞願う

 平成二十三年、九月十六日。

「…………げっ」

 ──現実的すぎる。


 白泉大学エレベーター前。

 呟いたのは、女子大生三橋綾乃であった。


 そう、遡ることおよそ一週間強。

 溺死したのち、伏見に戻ってからのことである。

 酒屋の前でスーツケースのそばにへたりこんでいたふたりは、誰かに発見される前にその場を離れようと足早に立ち去った。

 人が少ないところまで走り抜け、葵は手を胸に当てて息を整える。

「葵、あんたこんなにガンダッシュして大丈夫だったの」

「ん。んん、んーあれっ」

「…………」

「うん」

「うん?」

「治った──」

「ぁあ?」

 一瞬にして、綾乃の顔が歪む。

「ほ、本当だってッ。喉も変な感じしないし、ずっとあったダルさもない──」

「まさかァ」

「ほんとほんと!」

 たしかに顔色も、溺死してからの方が格段によくなっている。葵は嬉しそうに笑った。

「治ったし戻ろうか」

「まてまてまて」

 綾乃はアホか、と唸った。

「不安だから一度帰ろう。それで病院行って。絶対ね」

「……うん、わかったよ」

 そんな約束を交わし、それから一日ほど京都に滞在。

 映画村へ行ってコスプレを堪能し──と言っても、町娘の格好は散々していたのだが──夜行バスで帰途についた。

 バスが明け方に到着した際、もう一度だけ、葵に病院を受診することを約束し、ようやく。

 体感二年の長い長い京都旅行に終わりを告げたのである。


 そして大学初日。

 あまりの非現実からいきなり現実に戻されたことで、綾乃は混乱していた。

(────)

 目の前で昇降する機械を見て文明の進化に感動しつつ、そのエレベーターに乗り込もうとしたときである。

 背中に軽いタックルを受けた。

「おはようっ」

 マスクをした葵だった。

「おはよう。病院行った?」

「うん。そしたらね」

 ──結果的には、どうやら結核菌にはわずかに感染していたらしい。

 医者には「よく受診を決意しましたね。自覚症状なんか、まったくないでしょうに」と驚かれたという。

 結核感染はしていたが、きっと身体の免疫細胞が守ってくれていただろう、とも言われたそうだ。

「しばらくは通院だって。ほら、乗って」

 と、急かされて乗ったエレベーターは、地下から一階で止まる。

「薬は貰ったんだけど、免疫細胞も頑張ってくれるから──そんなに強くなくて大丈夫らしくて、入院の必要はないって」

「そう」

 一階は、大学のホールともつながっている。必然的に多くの生徒が乗ってくる場所である。綾乃はボタンの前を陣取り、人々の行きたい階を聞き押した。

「すみません、四階お願いします」

「はい」

 最後の注文を聞いて、ようやくエレベーターは昇りはじめた。

 こうも人が多いと、話すに話せない。

 ──二階で女子大生が二人降りていき、さらに上階へ向かう。

 四階に到着すると、ふたりの男子生徒──ひとりは白衣を着ていることから、どうやら院生らしい──が降りてゆく。

 そのふたりに続くように、女子生徒四人と男子生徒が一人降りて、五階までの利用者は綾乃と葵のふたりのみとなった。

「もう長い間勉強していない気がする」

「勉強──」

 恐ろしい単語である。

 体感およそ二年間、ふたりはそれと離れた場所にいたのだ。

 チン、とエレベーターが五階についた。

 講義一限目は、宗教学である。


 ──無事に午前の授業を終えた。

 思ったよりもブランクは感じられず、ふたりは気分上々に学食へ向かう。

 いつもの定位置には、別授業を履修している数人の友人が場所取りをしていた。

「おはよ」

「あっ、きたきた」

 綾乃と葵がランチ定食を手に、席に着く。

 ちょうどガールズトーク真っ盛りだったらしい。京都でイイ人いなかったの、と友人のひとりである朝倉千春が話を振ってきた。

「人力車のオニーサンとかさ」

 彼女の一言で、友人である磯部和葉、佐倉日向もこちらを見た。

「いたよ」

「誰似のイケメン?」

「イケメンていうか……喧嘩がつよい」

「えっ」

 葵の言葉に三人はぴたりと止まる。

 てっきり旅行中に見かけたイケメンの話だと思っていたからだ。

「喧嘩を見たの?」

「うん、抗争ばっかりでさ」

 組の人だから、と言って生姜焼きを口に運ぶ綾乃に、和葉が絶句する。

 嘘は言っていない。

「内部抗争が多くてね、負けた方のトップが葵のこと可愛がっててさぁ。悲しかったな──」

 遠い目で話す綾乃に、葵は笑いを堪えながらうどんを啜る。しかし千春や和葉は真剣だ。

「え、負けた……ってことは」

「うん、死んじゃった──」

「死んじゃったんだ!」

 暗い顔のままつゆを飲む葵に、悲壮な顔をした千春はもはや箸を置いている。

 空気が暗くなったので、好きな人は生きてるよ、と弁明するように明るい顔で葵が顔をあげた。

「──京都旅行って、夏休み最後の一週間くらい前から、三泊四日って言ってなかった?」

「ずいぶん濃い旅行だったんだね」

「じゃあ──綾乃はどうなの」

「女好きで、わがままで俺様で──強引で男前で悪ガキで仲間思いでかっこよくて強くて自分勝手なんだけど引っ張ってくれる人に恋をしました」

 と、綾乃は目をハートマークにして言う。相当、惚れ込んでいる。

 日向が少し首をかしげた。

「……そ、それはいい、のかな?」

「綾乃の気持ちは知ってんの、その人」

「知ってるも何も、綾乃ったらいつも迫ってたよ。同衾しましょって」

「どうした!?」

 三人は同時に、綾乃にぐるりと首を向けた。

 葵は、ようやくきつねうどんを半分平らげたところである。油揚げが思いのほか大きく、口が小さいため一生懸命にかぶりついている。

「えっ、そんなキャラだっけ!」

「確かに変態だったけど──そこまでだったかぁ」

「でも全然靡かないんだもん。一緒のお布団入ったってなーんにもないし」

「一緒のお布団!」

 友人の反応の良さに、綾乃は吹き出してテーブルに頭を打ち付けた。

「なんで。どうしたの、ディープだね!」

「ディープといえば、佐久間くんは結局どうなったんだろう」

「ああ──そろそろ殺されるんじゃないの、ちょっと調子に乗りすぎていたし」

 と、つゆの一滴まで飲み干すと、葵は肩を揺らして笑った。

「えっ、それって笑い事じゃなくない?」

「調子に乗っていると殺されちゃうの、そういうもんなの」

 和葉と千春の問いに綾乃はうん、とあっさりと頷いた。その様子を見て、葵は眉を下げる。

「悪いやつじゃないんだけどね」

「父親の仇討ちしたいだなんて、結局口だけっぽかったしね」

「仇討ち!」

「────」

「…………」

 住む世界の違う話である。

 友人三人は、触れない方がいい話題だと判断したのか、それ以上の詮索を避けた。

 一瞬、沈黙が生まれる。

 沈黙を破ったのは、学食のテレビではじまったニュース番組だった。

 水の事故についての速報である。

 千春は、顔をしかめた。

「夏休みは、水の事故が多かったんだね。私なんかプールの監視員でバイトしていたけど、すごく注意しろって言われたもん」

「一昨日もあったよ。親が目を離した隙に、とか」

 と、和葉が身を乗り出して言ったのを横目に、綾乃がぼそりと呟く。

「溺死って辛いんだよね──」

 日向が、ポテトチップスを口に運びながら頷いた。

「ほんと、したくない死に方ナンバー3」

「目の前真っ暗になるもん」

「うんうん……」

「意識が遠退くまでが辛くてさ」

「──う……ん?」

 言葉の言い回しに若干引っかかるところがあり、三人はじっと二人を見つめる。

「葵なんか、ただでさえ肺が辛かったもんね」

「水に入っちゃえば一緒だよ」

「まってまって」

 とうとう、ツッコミの申し子とも呼べる千春が、ストップをかけた。

「もうあんまり聞きたくないけど──今度はどんな体験をしたんですか」

「あ、や、……溺死体験アトラクションっつーのがあってね」

「なにそれッ、3Dでもないよそんな死を待つのみの鬼畜ゲー!」

「いやァ、鬼畜鬼畜。仮死しないと帰れないっていう……ね」

「潰れろッ。お年寄りと子どもはそのまま還って来ねえわ!」

 ──と、和葉が叫んだところで予鈴が鳴った。

「また授業かぁ」

「よし、頑張ろ」

「信号無視をしたら切腹ッ」

「ご飯残したら切腹ッ」

「授業ふけたら切腹じゃーい!」


「…………」


 あの葵でさえ、ノリよくそんなことを言い出すとは。友人三人は、綾乃と葵を傍観して静かに微笑む。

 なんだか、住む世界が変わってしまったなぁ、としみじみ思いながら。


 ────。

 慶応元年閏五月十一日。

 世界は目まぐるしく動いていた。


 土佐勤王党として名を馳せた、武市瑞山が見事な三文字割腹を果たして、死亡。

 岡田以蔵含む土佐勤王党四名が斬首された。

 藩内の動きが活発になっていくなか、こちらも例外ではなかった。


「………遅い」

 呟いたのは、桂小五郎。

 ここは下関である。

 間もなく、第一回薩長会議が開かれようとしている。

「もうちっくと待ってくだされや。今、中岡が連れてくるはずじゃき」

 と言うは、坂本龍馬だ。

 自分の都合に良い国の在り方に出来るのならば、犬猿の仲である藩同士だって仲良くさせてしまう稀代のカリスマ──である。

 坂本は、むすっとした顔で胡座をかく。

(国が変わらんと、おちおち世界も見てられん)

 という考えから取った今回の行動は、非常に繊細な事だった。

 この島国の中でひときわ行動力と経済力、さらには逸材を秘める長州と薩摩の代表者を突き合わせ、手を結ばせ、事実上幕府にも勝るほどの武力を手に入れようという魂胆である。

 いま、土佐藩の盟友である中岡に西郷を連れてくるべく鹿児島まで出張ってもらい、ここ下関で落ち合うことになっている。

「遅いのう──すっと来やんと桂さんは気が短いキ、帰ってしまうぞ中岡」

 思わずぽろりとこぼれた。

 カリスマの本音に、桂は渋面を作る。

「聞こえとるぞ坂本くん。気が短こうて悪いな。しかし第一次、第二次と長州征伐に加担した薩摩となど、向こうの態度がよほど変わらん限りは、手ェ結ぶ気はない」

(しょうはしかい奴じゃ)

 愛想のないやつ、と坂本は呑気に思った。

 この男は、元々あまり喋る方ではない。

 大抵は心中でつぶやき終える。

 特に相手が桂のような、ねちっこく神経質な人間ならば尚更だ。

 下手に口を開くと必ず余計な一言も付け加えてしまうため、大人になってからは極力発言を控えよう、と自重することも覚えた。

「来んのう。ま、酒でも飲んで気長に」

「酒は結構。これ以上待たせるなら、」

 と、桂が言いかけたときである。

 ようやく、襖ががらりと開いた。


「龍馬ぁ!」


 飛び込み来るは、中岡慎太郎。

「おう、慎ノ字。西郷どんはどういたがや」

「すまん、龍馬──申し訳ない桂さん」

「────」

「佐賀関まで来ていきなり、やっぱり行きもはん、と言い出しおった」

 途端、坂本は頬杖をついたまま「はァ?」と凶悪な顔を向けた。

 桂もほれ見たことか、とそっぽを向く。

「薩摩となど相容れることはできんわ」

「あんの芋之助ェ……あ、いやまて桂さん」

 ころりと怒りの表情を和らげた坂本は、糸目を見開いた。

「いま長州にゃ金がない」

「いきなり無礼な」

「無礼とかいう問題ではない。知ぃちゅうぜよ、高杉さんが藩の金で軍艦二隻購入したと聞きましたぜ、ははは」

「あぁ……」

 いきなり身に覚えのない数億円の請求がきて、上の人たちは絶句したそうだ。

 桂は思い出して、胃が痛くなった。

「まあそんな感じで金がなかろう。しかし薩摩はがっぽり持っちょる。ここを利用しない手はなか」

 坂本の言いたいことは、こうだ。

 四国艦隊下関砲撃事件によって外国と絡みづらくなった長州が、幕府に勝つ武器を得るためには、何としても外国から武器を購入する必要がある。

 しかし今長州には金も人脈もない。

 ならば、外国にもいい顔をしている薩摩名義で、長州に武器を調達したらどうだ、というものだった。

 桂は眉をひそめる。

「なるほど。しかし交渉に必要なのは需要と供給──供給部分はどうする」

「長州には米がある」

「そうか」

「ああ!」

 中岡は、輝かしい笑顔で膝をたたく。

「今、薩摩は米不足で大変じゃき。長州が薩摩を救っちゃるっちゅうことじゃな」

「ほに、なかなかえい考えじゃろ」

 こうして、薩長の話し合いは延期となったが、なかなかの良スタートがきれそうだと、坂本は手応えを感じていた。


 数日後。

「坂本さんに中岡さんも──桂さんも。すみませんね、うちの先生なかなか腰が重いですけん」

 下関にて、坂本と中岡、桂が落ち合ったのは、伊藤俊輔──のちの伊藤博文となる人である。

 彼は高杉晋作への忠誠心が厚く、高杉の舎弟として率先して遣いに動いている。

 坂本はカラッと笑った。

「いやはや、高杉さんいっつも誰かから命狙われちょりますキ、なかなか良き頃合いちゅうがが見つからんのでしょう。短銃の礼は言うてくれましたかな」

「勿論ですとも。しかしそれはこちらも同じですよ。西に東に走り回っとる坂本さんを見つけて、捕まえらにゃあいけんこっちの苦労も考えてくださらんかのう」

「だははは」

 それはまさしく、その通りであった。

 国事を為すため、坂本はひとどころに落ち着ける余裕はなく、江戸へ、京へ、長崎へ──と四方八方を飛び回っている。

 伊藤は、眉を下げた。

「しかしすみませんな、うちの先生に何度も坂本さんに会うてみてくだされと言っとるんですが……」

「高杉さんの他藩嫌いは有名じゃき」

「ほんまスミマセン」

 高杉晋作という男は、実に柔軟でいて癖のある頭の持ち主だった。

 四国艦隊下関砲撃事件にて外国とドンパチをやった際に「こいつは無理だ」と、攘夷論を捨てた。

 そのことで、高杉は自分を裏切り者とした過激攘夷派の浪人たちからの暗殺を恐れ、身重の妻を藩に残し、愛人とともに国外逃亡も視野に入れて長崎へ逃げてきたのである。

 そこで頼りにしたのが、坂本の会社──亀山社中だった。

 しかしこの高杉。

 先も坂本が言った通り、他藩嫌いである。

 長州至上主義とも言えるその考え方は、さすがは上士の生まれといったところか。

 だからか、土佐メンツ中心に成り立つ亀山社中に信頼を置くわけもなく、直接会うような用事は全てこの舎弟、伊藤俊輔に任せきっていた。

 坂本が携帯する、高杉から貰ったというS&W2型32口径も、実は伊藤づてで貰ったものだったのだから、もはや歴史ロマンクラッシャーである。

「酒ばっか飲んどると聞いたぞ」

「ややっ、さすがに桂さんはお耳が早い。先生はそれはもう、長崎の酒を全て飲み尽くす勢いで飲んどりますけえ!」

「誉めとらん、誉めとらん……」

 はぁ、とため息をつく桂に、ニコニコと笑みを向ける伊藤。

 彼は高杉に心酔している。

 言ってもしょうがない、と桂は黙って首を振った。

 伊藤は、桂の胃痛などそっちのけで坂本に目を向ける。

「それより、坂本さん。京に上るちゅうんはほんまの話ですか」

「おう。この間の桂さんとの話、西郷さんに言うて、了解してもらわにゃあいかんキ」

「蒸気船もついでに買うてもろうたらええがで、桂さん」

 中岡──この当時は石川と名乗っていた──が、けらけら笑った。

「石川さんまで簡単に言うけんども、ほいほい買えるほどの品物じゃなァ」

「気にすな桂さん。この間来んかった方が悪い」

 と、自信満々に言った坂本だが、この日から数日後に中岡とともに西郷が向かったとされる京へと向かう。

 さらに三週間ほど経った頃のこと。

 稀代のカリスマが、念願の西郷と面談を果たす。

 そこでどのような話し合いがおこなわれたか──結果的に、坂本の提案した『長州軍艦要請』は、無事薩摩側より了承されることとなったのである。


 ※

 慶応元年、六月。

 京。

「土方さん、中村がお茶煎れたって」

「ああ」

「たまには、稽古も見に来てくださいね」

「ああ」

「隊旗、蟻通が虫干ししてくれましたぜ」

「ああ」

「────」

「…………」

「……ハァ」

「ああ」

「いや、なにも言っていないです」

 土方が、とても無口だ。

 永倉はそんな副長を見てしばし困惑する。

 ついこの間、変な容姿をした女がふたり、三条大橋から鴨川へ飛び降りた──という話を聞いた。

 正直、あの浅瀬で溺死出来るのか疑問ではあるが、とりあえず無事に彼女らの故郷に帰ることが出来たのだろう。

 というより、そう信じたい。

 それよりも今は、この男の変貌ぶりに驚きだ。


 幹部部屋に戻り、そんな様子であったことを原田と藤堂に打ち明ける。

「なんかすげえな。あんなに変わっちまって」

「なに言ってんだよ、永倉さん」

 藤堂がキョトンとした顔で、虫干しした隊旗を畳む手を止めた。原田も縁側に寝そべり、切腹の痕が残る自身の腹を太陽にさらしながら頷く。

「そうだぜ。土方さん、元々昔っからあんな感じじゃねえか」

「…………」

 ──嗚呼。

「そうだっけ」

「それよりも変わったのは総司だろ。あいつ、変に明るくなった」

 原田が怪訝につぶやいたその頃。

 当の沖田は、千代を清水寺に呼び出していた。


「あの──」

「すみません、こんなところまでご足労を」

 話があるんです、と言った沖田に、千代は少しだけ嬉しそうな顔をした。

「お話」

「ええ──」

 一瞬、沖田は言葉に詰まる。

 それから険しい顔を千代に向けた。

「あらためてお伝えしておきたくて」

「────」

 千代は、笑顔を僅かにひきつらせる。

 とっさに耳を塞いだ。

「聞きたくありません」

「ううん、聞いてください。私は貴女と」

「いやっ」

「一緒にはなれない」

 言葉は、届いた。

 千代の双眸からこぼれる涙で、沖田は確信する。

「知っているでしょうけれど、私には大切な人がいるんです」

「──イヤ」

 沖田は胸の痛みを堪えながら、耳を塞ぐ彼女の手を優しく取った。

 あの日から痛感したのだ。

 ──そばにいたいと願うのも、少しの間離れるだけで身体中を引き裂かれるような思いにかられるのも。

 沖田にとっては、ひとりしか思い当たらなかった。

「────」

「あのとき、私は逃げたかった」

 ぼそりと続ける。

「私は病で、人斬りで──どう考えても、一緒にいてあの人に得なことなんかないって思ってた」

 そんなときにあなたを思い出したんです。

 という言葉に、千代はうつむいた顔を静かにあげた。

「あなたはいつも真っ直ぐで──会うたびにいつも、嬉しそうにして。嬉しかったんですよ、私だって男だから」

「……なのに、駄目なのですか──」

 かすれた声で、千代は呟く。


「────駄目なんですよ、それじゃあ」


 沖田は、破顔わらった。

「武士道とか、男らしく、とか正直どうでもよかったけど。初めて心から、」

 男として護りたい人が出来たんです、と。

 ゆっくり千代に近付く。

「だから私は貴女にお礼を言いたかった」

「お礼?」

「こういうのは損得じゃないんだって、──あなたを見て知ることが出来ました」

 一途に、自分を想い続ける千代の姿は、それほど沖田には映えた。だからこそ、彼女には真っ正面から伝えたかったのである。

 しかし、千代は沖田の顔色をうかがってから「でもその方は」と言いづらそうにつぶやいた。

 ふたりの女が、三条大橋から飛び降りた。

 そんな噂が、いまや京中に広まっている。

 けれど沖田はフッと笑う。

「ええ、今はいないけど。──必ず帰ってくるから」

「帰って?」

「帰ってきます。元気になって」

 桜が咲く頃には、きっと。

 まったく確証などないのだけれど、沖田は心のどこかでそう思っていた。

 瞳を細めて空をあおぐ。

「そう、信じています」

 この空の続く場所にすらいない、彼女を想って。

 沖田の笑顔は今までで一番晴れやかなものだった。


 ※

 下関。

 慶応元年、十月十四日のことだ。

 下関新地の林家にて、坂本は長州の豪傑──木戸寛治(桂小五郎)、伊藤俊輔、井上聞多、そしてとうとうやってきた高杉晋作と会食をした。

 先般の流れを伊藤から聞いた高杉は、坂本とようやく会う気になったようである。初めこそぎこちなかったが、酒を一杯酌み交わせば、すっかり打ち解けた。

「坂本さん、四月ほど前に立てた社中、どげな感じですか」

 という伊藤の言葉に、坂本はにこにこと笑った。

「みな頼もしい奴らですキのう。しかしまさかここまでうまい具合に事が進むとは思うちゃせんかった」

「坂本さんッ、まだ終わっちゃねえですけえッ」

 と、いきなり大きな声を出すは、キレっぽいことでお馴染みの井上聞太だ。

「びっくりするけェ、聞太。急に大きな声出すな」

「ぬぅ、すんません高杉さん」

「いちいち怒りっぽいんだよ、君は──」

「ヅラさん──あ、違うた。もう木戸さんでしたっけ。木戸貫治」

「君たちがそうやって、ヅラヅラと変なあだ名をつけるから」

 もとはといえば、かつて三条木屋町にて手を貸してくれたあのふたりの女が発祥である。

 「ヅラと言われた」と憤慨して、いまは無き久坂に愚痴をこぼしたのが間違いだった。

 そこから瞬く間に、高杉や伊藤に知られてからは、一部のメンバーにだけあだ名として広まってしまったのである。

 はあ、とため息をつくヅラ──失礼、桂、もとい木戸を見ながら、井上はにやりと笑う。

「そげなことより聞いてくださいよ。この箒がですね」

 箒、と言って伊藤を指差す。

 伊藤は、相当な女好きだったそうである。

 女が掃いて腐るほどいる、というところから、あだ名が箒だったのだ。

「また知らねえ女侍らせて、グラバーと一緒にユニオン号を見せとったですよ」

「ユニオン号は、おまんの船やないろう」

「いや、あのときはですな──」

 言い訳をはじめる伊藤を茶化す井上に、笑う高杉。

 ──おもしろい、と坂本は思った。

 己が動けば動くほど、人の輪が広がり、それがやがては力となる。

 世の中には、自分が知らぬだけでこうもおもしろい人たちがいるなんて、としみじみ感じて、酒を一口飲んだ。

 そのときである。

 アッと高杉が膝を叩く。

「そうか、木戸さん。あの女たちに言われてから根に持っとるんじゃ、わははっ」

「ちが、元はそうかもしれんが、そもそもおぬしらに言ったせいで──」

 坂本は、キョトンとした顔で高杉を見る。

「あの女たち、とは」

「いやなに、京で一度だけ会うた女がおりまして。なんちゅーたらえいか、変に南蛮風情で落ち着きのない失礼な──」

「そりゃ、名前は」

「なんと言いましたかの」

「たしか──三橋と、徳田」

 木戸の言葉に、今度は坂本が膝を打つ番だった。

「わしも知っとります。綾乃と葵ちゅう名ァで、大層面白い女どもじゃった」

「坂本さんとも知り合いかよ、なんじゃあいつら。いやあ気に食わん女でしたが、言うたことはなかなかどうして当たっとりましてな──。して、その女たちはいまなにしちょりますか」

 といった高杉の言葉に、坂本は眉を下げて呟く。

「町の噂じゃ三条大橋からの投身自殺っちゅー話じゃキ」

「…………」

「…………」

「…………」

「えっ」

 木戸と高杉の箸は止まり、伊藤と井上は何の話やらわからぬまま、不安そうに木戸と高杉の顔を見比べている。

 木戸は、驚きの声をあげた。

「あんな浅瀬で!」

「いやそこやのうて桂さん、あいや、木戸さん」

 高杉は冷静にツッコミをかます。

「わしも信じられん。あのおなごたちが自らの身を投げ捨てるなど──」

「悩みなんか、これっぽちもなさそうな、どちらかといやぁ、"我が屍を越えてゆけ"とでも言いそうな奴らが」

「じゃあ何故」

 本人のいないところで、ずいぶんと失礼なことを言っている。しかし、だからこそ再びこの疑問に行き着いた。

「……そういやぁ、前に京で大火事があったとき、あやつらけろりと生きとった」

「なんだって」

「いや──寺田屋近くで大火事があったとき、あのふたりが子どもを助けるために、火の中に飛び込んだことがありましてな」

「見上げた女ですな!」

 何故か井上は、怒ったように褒めた。

「ほに。けんども、焼け跡にはなぁんも居らんくて──毎日見に行ったがだれも居らんかったです。にも関わらず、十日経ってまた行ったら馬鹿でかい荷物を引きずって……元気そうに叫んじょった」

 坂本は、懐かしそうに瞳を細めた。

 気味が悪そうな顔をして、木戸は身体を縮める。何の話、と井上は伊藤に振るが、当然伊藤が知るはずもない。

 わからん、と首を振った伊藤に鼻をならし、今度は高杉に顔を寄せた。

「誰のお話で」

「お前たちは知らんと思うが、変な風体の女ふたりよ。よう分からん素性で僕らに啖呵を切りよった」

「ぬぅ、いよいよ見上げた者たちじゃ」

 と、また怒ったように井上は褒める。

 どうやら、そう見えるだけで別に怒っているわけではないようだ。

「ほいじゃが、投身自殺だと」

「死んだのは確認されたんですか」

「死体はだぁれも見ちょらんです。しかし噂じゃ──長州育ちの浪人どもが彼女らを襲って逃げきれず、せめて捕まるくらいならと身投げしたっちゅー話もある」

「なんだと」

 木戸と高杉が、同時に叫ぶ。

「なぜ、うちの奴らがその女たちを。高杉さんのお友達じゃなァですか」

「しかし彼女らは、新選組に匿われていた」

 伊藤の疑問に、木戸はぼそりと呟く。

 その言葉に反応したのは、今度こそ怒りのこもった井上であった。

「おもっくそ敵やないですかいな!」

「いや、…………しかし新選組から僕を助けてくれたのも、彼女らだ」

「えェ?」

「如何せん、京への出入りを禁じられた我々には、確かめようが」

 と高杉は右手で顎をさすり、不服そうに唸る。しかし坂本は、

「いやあ、生きておるでしょう」

 と言った。高杉もくすりと笑う。

「ま、死にそうにないですけん。そら生きとるでしょう」

「…………そういう、もんか」

 首をかしげる木戸に、坂本はフッと微笑んで庭を見る。

 大きな桜の木が、そよそよと風に吹かれて葉を揺らしていた。


「あん桜の花が咲く頃にゃァ──会えますがよ、きっと」


 なんの確証もありはしない。

 が、しかし坂本のなかでは、そんな確信が生まれていた。


 ※

 ひとりの男の話だ。

 すこし戻り、慶応元年九月のことである。

 いまだ女たちが戻らぬころ、新選組の中では、哀しく、やるせない事件が起きていた。


 ──ここんとこ辻斬りが増えたはるわ。

 ──あそこの旦那はんも斬られたって。

 ──でもほらあそこは、……。

 ──嗚呼…………。


 松原忠司。

 今弁慶だ──と当時の人間に言わせたほど、松原はいかつくて坊主がよく似合う。

 しかし心はとても穏やかで、怒ることなどほとんどなかった。

 そんな彼の史実の最期は、病死か、あるいは切腹後の傷悪化によるものだったと言われている。仏の今弁慶が、切腹させられることになるとは、どういうことなのか。

 ──子母澤氏の創作によれば、酔いしれていた夜のこと。

 道中で絡んできた武士を切り捨てた松原が、「自分はなんてことを」と我に返る。

 その遺体を抱えて家まで送り届けたところ、そこの家の奥方があまりに美人だった。

 おかげで「私がやりました」と言い出せなくなり、ずるずるとその女房に入れ込むあまり、隊務に支障をきたしてしまったため、士道不覚悟という理由らしい、が。


「やぁ源さん、左之助くん。ここのところ、だいぶ暑さが和らいだのう」

 碁を打つ井上源三郎と原田左之助のもとに、松原がふらりと寄ってきた。

「朝番帰りかい。お疲れさん」

「とかいって──暑さは和らいだが、忠さんはアツアツなんだろう」

「うん?」

「知っていますぜ、近頃良いひとが出来たって。結婚も秒読みだろ?」

 原田はにやりと笑った。

 やはり創作は創作である。

 そんなドラマチックなことばかりが起こるわけでもなく。松原はひどく健全な出会いをした女と好い感じになっているらしかった。

 井上もうなずき私も聞いたよ、と笑う。

「どんな人なんです」

 松原は、井上の質問に頬を赤らめた。

「触れたら花のごとく散ってまいそうなほど儚うてな、なかなか……なんせ俺ァ、新選組だからよう」

「いや~ん、ポエマー」

 と、女たちがいたなら言っていただろう言葉を吐き出す松原に、

「ひゅう、言うねえ」

 原田は茶化した。

 井上がぱちりと碁を進める。

「しかもあの歳にして未亡人ときたもんだ」

「忠さんに惚れるのもわかるぜ、旦那亡くして辛いときに忠さんに優しくされたら」

「忠さんは人がいいですから、ねえ」

 ふたりはすっかり楽しそうだ。松原は嫌な顔をしながら、しかし少しだけ嬉しそうに「やんなっちゃうなあ」とつぶやいた。


 彼の女は、おりつという未亡人であった。

 未亡人といっても、そうなったのはおよそ二ヶ月前のこと。旦那は、屋号が松戸屋という金貸の二代目であった。

 あるとき通り魔に襲われて、必死に抵抗するもむなしく亡くなったのだという。その遺体を発見したのが新選組松原忠司であり、夜中に松戸屋へ駆けて旦那の死を知らせに行ったのだ。

 それ以来ふたりは何かと交流を深め、二ヶ月経ったいまとなっては自然と良い仲になった。

 松原が稽古に戻るのを見てから、原田はなあ源さん、と井上を見る。

「あの人の旦那って最近死んだんだよな」

「ふた月前だよ。辻斬りと聞いたがね」

「……松戸屋ってのがきなくせえ」

 浮かない顔でつぶやく。

 それには、井上も同感だった。

 松戸屋は高利貸で有名であり、裏では良くない仕事を斡旋しているとも聞いていた。そこから過激派浪士に繋がっている可能性は、大いにある。

「どうする」

「忠さんにゃ申し訳ねえけどもよ、ちと探りを入れるくらいにはいいんじゃねえかと思ってる」

「山崎くんかい」

「んにゃ、──こういうときは監察じゃねえ方がいい。局長たちには知られたくねえからな。俺は大石が向いていると思う」

 珍しく、原田は真剣な顔でそう言った。

 調査結果次第では、おりつをどうにかする選択肢だってありうる。その際に近藤と土方が絡んでくると、斬る以外はない。

「じゃあ、大石くんに頼んでみようか。──王手」

「あっ!」

「左之助はいつも、頭を使っているときに喋るとこうなるんだから」

「ああ……」

「さて、区切りもよいし行ってみるか」

 こういうことには消極的な井上も、今回はやる気らしい。ふたりは監察方所属の大石鍬次郎のもとへと向かった。


「っていうことだ、頼まれてくれるかい」

 原田と井上が内密な話がある、と言って茶屋に呼び出された大石は、怖い顔をしてふたりを見つめた。

 大石鍬次郎は、入隊前は縁あって日野の佐藤彦五郎の剣術道場に出入りしていたため、比較的幹部とは顔見知りであった。

 ゆえに、馴染みのある原田と井上は知っている。大石は顔こそ怖いが優しい男だということを。

「何故俺に──監察ではありませんが」

「俺は向いていると思ってるんだがなァ」

「……おりつってのは、ふた月前に旦那が殺されたっていう、松戸屋の」

「そうそう」

「そりゃ原田さん……松原隊長の」

「だからこそ、だ。疑念があるならなるべく近藤土方両人に知られる前に晴らしたほうがよかろう」

 原田はぐっと大石の肩を掴んだ。

 その意味は、大石にもわかる。だからフッと笑って分かりました、とうなずいた。

「……バレたら三人で切腹でもしましょうや」

「俺がやり方教えてやるよ、なんてったってこの腹ァ一度斬られて──」

「左之助に教えられたら、死に損ねるわい」

 がはは、と井上は豪快に笑った。

 なんだとう、と原田が眉をつり上げる。その様子に笑みを浮かべて「そうと決まれば」と大石が茶屋を出ていく。

 監察ではないが、大石のステルス機能も相当なものである。彼は足音もなく近寄ってきては、いつの間にか背後にいることもあるのだ。

 気配を消すことにおいては山崎にも引けをとらないと、原田は思っている。

「さて、いい報告で終わりゃァいいんだけどな──」

 井上とともに茶をすすり、原田は遠い目をした。


 ある茶屋の一角。

 肩を寄せ合う男女が二人。

 おりつと、江戸鈍りの男だ。

「いつンなったら聞き出せるんだ、てめえ」

「もうちょい待っておくれよ……なかなか手強いンだ、手も出してこないし」

「てめえの魅力が足りねえんじゃねえか」

「うるさいッ。とにかく、焦ったッてこういうことはうまくいかないもんなンだよ」

「まさかとは思うが、情が移った、なんてこたぁねえやな」

「──あるわけないだろ、そんなこと」

 おりつは、イライラした様子で爪をかじっている。

「とにかく、新選組の信用を失墜させるにゃお前ェにかかってンだから。忘れんなよ」

「何度も言うなィ。わかってるよ」

おりつは面倒くさそうに呟くと、そそくさとそこから立ち去った。


「完ッ璧なクロじゃねえか」


 大石の呟きに答えるものは、ない。

 静かにおりつの後をつけると、なんとまあ──松原が気の抜けたような笑顔でおりつにぶんぶんと手を振っているではないか。

「あーあ、デレッデレだ」

 ていうかあんたまだ、勤務中。

 大石は心のなかで突っ込みをいれる。

「おりつどの、まさかそちらから誘ってくれるとは」

「なに言うたはるの、会いたい思うんはうちだけどすのんか」

「な、は、や、そんなことは」

 うぶである。

 大石はつくづく、女は怖い、と背筋を正す。

「うち、今夜は忠さんと一緒にいたい……」

「いいとも。明日は仕事があるからあまり構っちゃやれんが」

「一緒におれるだけで幸せや」

「そうかそうか。い、いやしかし旦那に悪いだろうに」

「んもう、いっつもそれやないの。死人に遠慮してはったらいつまで経っても……」

「いや、ははは──」

(あーあー)

 むず痒い。

 大石はもどかしくて思わず指をとんとんと動かす。あれじゃあ今弁慶の名折れだ、と笑った。

 そこはガバッといっちゃえよ、と思うが、よほど松原が相手を大切にしていると見える。

「ほな、夜に……」

「あ、ああ」

 おりつがその場から去るのを見て、大石も静かに屯所へ向かう。

「…………」

 そのときの松原の顔色がゾッとするほど青白かったのは、大石の目では捉えることができなかった。


 屯所に戻ると、原田と井上、さらには土方が門前に立っている。

 副長がいるならば報告はあとにしよう、と大石が目礼して横を通りすぎたときである。

「大石ィ」

 と、原田が情けない声を出した。

「よぉ大石。覚悟はできてンだろうな」

「…………」

 もうバレたのかよ!

 叫びたいのを必死で我慢し、大石はおっかない顔にへらりと笑みを浮かべた。

「え、えと」

 サッ、と大石が青ざめる。

 これほど早く切腹の機会が訪れるとは思わなかった。大石の手が微かに震える。しかし井上は笑い飛ばして、大丈夫だよ、と言った。

「これはトシさんなりの冗談だ」

「はははっ」

 土方も無邪気に笑っている。

「…………は、ははっ」

 笑えねえよ。

 喉元まででかかったつっこみを必死に呑み込んで、大石はふたたびへらりと笑った。

 話は聞いた、と土方は腕を組む。

「俺も怪しいと思ったんだ、忠さんに特定の女ってのはどうにもな」

「誤解を招く言い方ですね」

 大石はつぶやく。

 バレた経緯としては、ちょうど屯所に帰ってきた井上と原田の会話をたまたま聞いたということだった。

 とはいえ、どうやら土方も松戸屋の女というところが気になってはいたようで、そのまま調査を続行してもらおうという話に落ち着いたのだそうである。

「何もなけりゃいいんだがよ、念のために頼むぜ大石」

 最近、副長はすこし優しい。

 永倉が「土方さんがぼーっとしておかしい」と、首をかしげているのを聞いたことがある。

 情緒不安定なのだろうか。

 それにしたって、今回のことは「相談もなく勝手にしやがって」と、一発くらい殴られるかと思ったのだが。

 大石は戸惑いながらもうなずいた。

「し、承知」

「さすがにまだなにもわかんねえよな」

「あ、いや」

 そして大石は「完璧にクロです」と言い切った。

「ほう、さすが大石。仕事が早いな」

「今宵動きがあるかと。引き続き調査します」

「さすが大石、頼れるねえ。一瞬でばれた俺たちとは大違いだぜ」

 やんややんやと持ち上げる原田を、大石は恨めしそうに見る。

 その横で土方は「大石よ」と言った。

「女は、分かってるな」

「…………」

 斬れよ、と目が言っている。

 原田と井上もハッと息を呑んだ。

「承知」

 大石はつぶやいて、部屋を出ていった。


 その日の夜。

 外は雨が降っていた。

「────」

 閨から雨音に混じって聞こえるのは艶かしい男女の睦言。ここは、松原の別宅である。

 大石と原田、井上は庭に潜み、二人の情事が終わるのを待っている。行為を終えたら、女は何かしら動き出すはずだと踏んでいた。

(結局)

 こうなるのか、と思った。

 仲間の女でも容赦なしである。なんせ新選組だ、これまでの内部粛清を思えば女だけで済んでむしろ軽いくらいだろう。

「なあ源さん、思い出さんかい」

 原田が地面の石ころをいじりながらつぶやいた。井上は黙っていたけれど、何事かの心当たりはあるらしい。

 なんともいえない顔をしている。

「…………」

「あン日もこうやって、雨のなか庭に潜んでよ。寝るのを待っていたよな」

「……ああ」

「ま、あのときの狙いは男の方だったが」

 入隊して一年ほどしか経っていない大石には、なんの話かはわからない。

 かつての任務でこういう場面があったのだろうか、と大石はじっと黙って話を聞いていた。

「終わったか」

 井上が顔をあげる。

 いつのまにか女の声がなくなって、松原の寝息が聞こえてきている。

 原田は石をひとつ空中へ放り、ふたたび手中におさめると

「行くぞ」

 と声をかけた。ふたりは頷いた。

 大石は衣擦れの音ひとつ立てず、家のなかへ侵入し標的がいる部屋の前で息を潜める。

「…………?」

 中からぼそぼそと声が聞こえる。

 まさか、二人ともまだ起きていたか。

 大石は一瞬焦ったが、変わらず松原の寝息は聞こえていた。原田と井上が顔を見合わせる。

 障子の隙間から中を確認すれば、涙を浮かべる女が松原に何かを呟いているようだった。

「…………」

「忠さん──忠さん、」

 名前を呼んでいる。

 松原は気付かない。

 女は愛おしげに彼の頬に触れた。

「好き……────」

 ぱたぱたと涙を畳に溢して、呟いた。

 まるで苦しみに喘ぐような言い方で。

 女は、簪を引き抜いて、松原の喉元に照準を合わせる。

 大石が片膝をじりと動かしたとき、隣で様子をうかがっていた原田が、手に握る小石を握り直す気配がした。

「────」

 女が、思いきり降り下ろした瞬間。

 原田は襖を開けて女めがけて小石を投げつけた。

「!」

 小石は女の側頭部に直撃し、女は悲鳴をあげて倒れこむ。

 松原が勢いよく起き上がった。

 女が慌てて庭に駆け出そうとするが、大石が背中から組み敷いて、捕獲する。

「なんだ、これは。──」

 任務か、と松原が低く唸るように呟いた。

 小石を拾い上げた原田が、首を振る。

「いや、三人で探っていた」

 女を押さえながら大石は眉を下げて呟く。

「松原隊長。あんたには本当に言いづらいことだが──この女は」

「わかっとる」

 松原が立ち上がった。

 女から離れるように大石を手であしらい、松原は女の手首を力強く掴む。

「……わかっとるよ」

 その表情は──見えない。

 おりつが肩を震わせて嗚咽を漏らした。

「今日、きっと殺しに来ることも──でもおりつが本気で俺のことを好いとることも、──わかっとる。なんせ俺ァ新選組だからよ」

「…………」

「でも、俺とておりつが愛しいから」

 それなら死のう、と。

 松原はようやく顔をあげて、笑った。

「俺もこいつを殺して、一緒に死んでやろうと思うた」

 井上はなにも言わず立ち尽くす。

 乱れた布団の上に、艶かしく着物をはだけさせたおりつを取り抑えて、松原はぐいと顔を近づける。

「堪忍して……かんにん」

「逃げるか──」

 松原はちいさく呟いた。

 女は戸惑ったように顔をあげる。

「え、?」

「もう逃げて逃げて逃げまくって、一緒にどっかでガキでもつくって」

「…………」

 小石を握る原田の手のひらに力がこもる。

「そんな未来がありゃァ」

 良かったんだけどなあ。

 と、呟いて。

 彼は敷き布団の下に隠し持っていた脇差で、おりつの背中を刺した。

「忠さ──ッ」

 大石が、声をだす。

 突然のことで足が動かなかった。

 松原は無言で脇差をさらに深く押し込むように力を入れる。

「おい忠さんあんたっ」

 井上が慌てて、松原の手から脇差を引き剥がした。

「ち…………………」

 忠さん、と呟きたかったのだろうおりつの口から血がごぽごぽと溢れる。

 声を出そうにも、彼女の言葉は血のこぼれる音に紛れて聞こえない。

「女、しっかりしろッ」

 大石が声を荒げる。が、彼女は事切れた。

 脱力する女の身体を支えて、ちがう、と大石はつぶやく。

「こんなのは……」

 こんなのは違うじゃないか、と叫んだ。

「あんたはあのまま、女の手を引いて──俺たちはあんたの小指の一本でも手土産に、屯所へ帰って……それで、それでぜんぶ」

「なんせ」

 松原は、落ち着いた声で呟いた。


「なんせ、俺は新選組だからよう」


「…………」

「……でも、好きだったんだろ。──この女のこと、なぁ。忠さんよ」

 原田が、喉から絞り出すような声で聞くと、彼はおりつの傷を愛しそうに撫でる。

「ああそりゃあ──好きだった」

 もう一度。

 ぐしゃぐしゃに顔を歪めて、彼は好きだったさ、と呟いた。


 翌日、屯所の一角で、腹を切って死んでいる松原が発見された。

 傷はかなり深く、出血多量が死因だと思われた。

「自分の失態です」

 大石は副長室にて、土方を前に土下座をした。こうでもしないと、己のなかの気持ちに整理がつかなかった。

 しかし土方は首を横に振る。

「いや、大石はよくやった。──よくやったよ」

「…………」

「忠さんがこれを望んだんだ。だったらもう、それでいい」

「……すみません、──ッすみません」

 すみません。

 大石はしばらくそう呟いていたが、土方はなにも言わず、ただ黙ってそれを聞いていた。


 慶応元年九月一日。

 松原忠司、自害。

 遺体は、光縁寺へ埋葬された。


 その後、町中を一斉捜索し、大石が見かけたおりつとつながる男を捕獲。

 拷問して問い質せば、本来の目的は松原殺害ではなく、ここ最近の辻斬りの犯人という汚名を、松原に着せるために仕組まれた行動だったと発覚した。

 松戸屋はそのまま強制的に営業停止となり、事件はやがて風化されていった。


(…………)

 いつぞやの、綾乃の言葉が原田の脳をよぎる。


 ──自ら死を選んだ人に同情はしない。

 ──わたしたちはまだ生きてるんだもん。同情してほしいのはこっちよね。


 松原忠司という男の人生に、同情などは必要ない。

 ないがしかし、この言い知れぬ感情を。

 この胸くそ悪い自責の念を、お前ならばどうする。

 潰されそうな胸の痛みを抱えた俺に、お前ならなんと言ってくれる。

(──本当に)

 同情してほしいのはこっちだ、と。

 原田はとある秋の空を眺めて、泣いた。

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