桜還り
──自分に万一のことあれば、今後の新選組は土方に、天然理心流五代目宗家は沖田に任せる所存です。
という手紙を、近藤が郷里に宛てて書いたのは、慶応元年も十一月に入った頃のことである。
この頃、幕府は第二次長州征伐に向けて動き出していたところだった。
長州訊問使として幕府大目付永井尚志が長州の方まで派遣されることとなり、近藤も同行を願い出たのである。
理由は当然、敵を知るため。
禁門の変以降、不気味なほど大人しい長州が何やら不穏な動きを始めているように思えてならなかったからだ。
しかし、長州に行く──それすなわち敵陣へ乗り込むといっても過言ではない。
冒頭に記した手紙を近藤が出したのも、一種の覚悟があってのものだったのだろう。
「近藤さん、縁起でもねえこと言うなよ」
「備えあれば憂いなし、というだろう。もちろん生きて帰ってくるつもりだよ、しかしもし何かあればとな」
「ったく──」
土方は眉根をひそめながら、小さくため息をついた。
しかし。
この広島旅行は、入国申請の時点でおじゃんになってしまった。
そりゃあそうだ。
長州藩が、宿敵である会津預りの新選組を自国にいれるわけもない。しっしと門前払いのごとく追い返されてしまったのである。
ともにこの旅行をした伊東、尾形、武田はやれやれというように首を振り、このむなしい旅路をあとにする。
────。
平成二十三年。
白泉大学の図書館で、綾乃と葵は頭を突き合わせている。鴨川にて溺死ののち、伏見酒屋前で目覚めてからおよそ二ヶ月。
葵の結核は、この時代にもどってみたら影もかたちもなく。とはいえ念を入れた安静期間として、ふたりは逆に慣れぬ大学生活を送っている。
さて、手元には数冊の書籍。
いずれも幕末年表が記された歴史書である。
「わたしの脳内年表が間違っていると困るから、ここらですこし復習しよう」
綾乃が小声で切り出した。
うん、と葵もちいさくうなずく。
「わたしたちがあの世界で死んだときは、慶応元年の五月。次、向こうに行けたときいつの時代になるかは分からないけど、あれから順を追って見ていくよ」
「そうだね」
葵は慶応元年のページまでめくっていく。
五月から先に指を滑らせたなかで、9月の項目に目が止まる。
「……松原忠司、死亡?」
「うん、────」
「どうして?」
「それは、史実で定かにはなってないんだ。向こうに戻ったら……聞いてみようか」
「…………」
葵は無言でうなずいた。
ふたたび指を滑らせて、長州訊問使のところで指を止める。
「長州に行ったの?」
「結局追い返されちゃうみたいだけど」
「……伊東さんも一緒に行ってる」
「────」
伊東甲子太郎は、佐幕の一途をたどる新選組に対し疑問を持っていた藤堂が、江戸で勧誘してきた勤王思想の志士である。
新選組の在り方を変えるためにやってきた彼が長州へ赴いたことに、葵も不安に思うところがあるらしい。不満そうに「だいたい」とつぶやいた。
「新選組っていったいいつから佐幕派になったわけ?」
新選組は、幕府ではなく会津に忠誠を誓っている。
それは、壬生浪士組の頃から拾ってくれた恩人であり新選組の名付け親でもあることからも当然だろう。
その会津が幕府に尽くすべしと言っているのならば、新選組だってただそれに従うのみである。
「とはいえ『幕府が攘夷に消極的である』というのが新選組としての誤算かもね」
と、綾乃は渋面を作った。
違和感を覚えながらも忠誠のため付き従う近藤や土方の気持ちなど、途中参入した伊東らにわかるはずもないのだ。
そうして、幕府が破れる時代の先に待っているのが、結局攘夷論を打ち捨てて外国と貿易を始めるという、かつての長州が掲げた方針とは最も真逆な結果であることなど、いったい誰が予想しただろうか。
「皮肉な話──」
黒船が来航したあの日。
人々は圧倒された。
一瞬にして悟ったはずだ。
勝てない、と。
しかし万年反抗期であった血気盛んな侍たちは、我が国が負けるはずはないと奮迅した。
「だけど長州は分かったんだよ。あの四国艦隊下関砲撃事件で、現状で攘夷を敢行するのが本当に無謀なことなんだってこと」
だからかれらは選んだのだ。
一時の開国により諸外国の知識を集め、国力の強化を図る道を。
それにより必ずやその先でふたたび攘夷を果たすことを。
「じゃあその次──」
葵がページの上で指をすべらせる。
慶応二年、一月一日。
坂本龍馬は、下関地方町年寄福永某の家にいた。
「坂本さん、もうすぐ印藤さんがここに来るがやろう。誰か連れて」
「ほに、名ァだけ聞ききましたが、たしか三吉慎蔵ちゅう男らしい」
印藤聿(いんどうのぶる)──かの坂本龍馬が薩長同盟を結ぶにあたり、誰か同伴者を紹介しとうせ、と手紙でお願いした長府藩士である。
今日、元日に何故か福永某の家で待ち合わせをしていた。
「でも、なにゆえ急に同伴者を」
「薩長秘密攻守同盟……あしは此度の同盟をそう名付けたい。それが叶ったら必ず気に食わんと思う奴らもおるキ、用心棒ですわい」
言いながらひょいと玄関先に目を向けると、ちょうどがらがらと引き戸があいて印藤ともう一人、品のある男が入ってきた。
「やあ、坂本さんお待たせした」
「なんの、明けましておめでとさんです。印藤どの」
坂本は寒そうに袷を寄せる。
「そっちの色男かや、おまさんが言うてたがは」
「そうですそうです。三吉くん」
「はい」
そう言ってしずしずと進み出た男は、にこりと笑って名を名乗った。
「長府藩士、三吉慎蔵と申します。此度の話には、是非にと引き受けさせていただいた次第で」
「坂本龍馬と申す。以後よろしゅう」
「槍を少々かじっとりますけぇ、用心棒となれば少しは役に立つかと」
三吉が、槍を構える仕草をして再びにこりと笑う。
坂本はこの誠実そうな青年に大変好感を持った。
その日はそのまま福永某の家へ宿泊し、翌日のこと。
「坂本さんここにおると聞いたけんども、おりますかいの?」
ひょっこりと現れたのは、伊藤俊輔である。
一体、どういう道筋でここに坂本がいるという情報が手にはいるのだろうか。
「伊藤さんか」
「おや三吉くんまでおる。坂本さんあのですね、高杉さんからあずかってまいりました」
と、伊藤は懐からあるものを取り出した。
それを見るや坂本は瞳を光らせる。
「こりゃあ、ぴすとるちゅうやつですね」
三吉はえぇっ、と驚き伊藤はそうですそうです、と嬉しそうに頷いた。
この時に渡されたこのピストルが、坂本龍馬の人生のなかで初めて人を殺すことになる寺田屋事件で使用されたピストルである。
なるほどね、と葵がうなった。
「このときに龍馬はピストルを手に入れるんだ」
「そう、一方この頃亀山社中で──」
綾乃の手がページをめくる。
────。
「坂本さん、ちくとよろしいでしょうか」
その日の昼、長岡兼吉が眉を下げてたずねてきた。
亀山社中の同志である沢村惣之丞らが、近藤長次郎に対して立腹しているというのだ。
「長次郎がグラバーと仲ようしとるからって、謀り事じゃろうかと疑うとるって? いやそらァ、いくらなんでも早計ではなかろうかのう」
「今度わしらは長崎に戻るけんども──グラバー殿が自国に帰ると言うちょるもんで、それに長次郎さんが同行しゆうがやろうか、と沢村さんが目を光らせちゅうがですよ」
長岡は、ただでさえ気弱そうな表情をさらに曇らせて肩を落とした。
このときはまだ、それほどの問題ごとであるとは思わなかったのであろう。坂本は笑って言った。
「たとえそうだとしても、揉め事は起こしちゃならんぞ。わしは長崎にゃゆかぬからの、くれぐれもな。──」
────。
ああ、と葵は手をたたいた。
「それは聞いたことある。でもそれってつまり留学したかったんじゃないの?」
葵はぺらりとページをめくる。
「沢村さんは許さねーんじゃねーの。皆でならまだしも一人でってのはね」
「そんなんで貿易やろうなんてよく言うね」
憤慨する葵に、綾乃はまあねと苦笑した。
しかし史実では。
正月から十日ほど経った頃、グラバーに手配を依頼した船に乗り込み、ひとり密航を目論んだ近藤長次郎は、亀山社中盟約書に違反したとして坂本不在のなか切腹をしたという。──
無力感とともに綾乃は机に肘をつく。
「そんでもって、新選組はこの頃二回目の長州出張をするわけよ」
前回、門前払いを受けた永井尚志ら使節は続いて老中の小笠原長行らを筆頭に再び長州へ。近藤らも、それに同行する形で広島へ出立した。
この長州出張では、武田に代わり篠原泰之進を加えて近藤、伊東、尾形の四名が参加した。
篠原の同行は、伊東が腹心を同行させたいという希望を出したゆえらしい。
広島に到着した一行は、二手に分かれて長州人と接触を図ることになる。
この出張の間。
伊東は得意の弁舌で、諸藩の代表と面談してきたのだそうである。
その際に、
「尊王攘夷をリードしてきた長州藩に、なんの罪があるというのでしょうか。長州に罪はない、ということを論じてまわってみせましょうぞ」
と、言ったそうである。
この旅行から徐々に伊東の考え方が組内にも顕著に出てきはじめたのだった。
「あっ、この年のこの月はもう一個事件がある」
葵はページをめくって声をあげた。
慶応二年一月。
この頃、坂本や中岡の並々ならぬ尽力(主に中岡が走り回っていたが)のおかげで、薩長同盟が誓約された。しかしそれから間もないころ、坂本は槍遣いの護衛である三吉とともに寺田屋にて伏見奉行所配下の者等に襲撃される。
龍馬と内祝言をあげたおりょうの機知により、すんでのところで暗殺をまぬがれた坂本と三吉は、どうにか逃げる算段を模索していた。
「ほれほれ、わしらに逆らうと鉛玉がずどんと、おまんらの胸を撃ち抜くぞう」
坂本は、正月に伊藤からもらったピストルを携えて叫ぶ。
「坂本さん何やってるんです、いいから逃げましょう!」
「ちっくと待てや、こいつを一度使うてみたかったキ」
「んな呑気な──」
「ほたえなや……あれ?」
と、その場で発砲。
ひとりの胸を貫いたところで弾が切れた。
さぁ逃げよう、と三吉が坂本へ視線を向けると目の前に敵がいるにも関わらず弾を込めようとピストルをわざわざ分解し始めた。
「ちっ」
「ちょっと何やって──危ないってほら!」
「あれェ、ないのう」
「いや本当に何やってるんですか。いい加減にしてくださいよ、ちょっと!」
三吉が、敵の一太刀を槍にて防ぐ。
緊張感のない坂本に痺れを切らした奉行所の者たちは、ピストル分解中の彼に斬りかかる。
すんでのところで、坂本はそのピストルの一部でガードをする。
──したはいいものの、坂本は親指と人差し指の間をざっくりと斬られてしまった。
「し、しょうない……ずらかるか」
「はやく……だぁもう散らばった部品を集めないッ。行きますよ!」
「すまん高杉ィ」
「いいからッ」
それからは、大逃走劇である。
近くの木材小屋にて身を隠し、やがておりょうの通報によって京都薩摩藩邸に匿われた。
彼女の手当ての甲斐もあり、坂本の手の傷は治ったものの、しばらくは破傷風にかかったり、包帯を替える度にだだをこねたりと大変だったようである。
「……これが有名な寺田屋事件ってやつね」
「ウン。ま、っていうところまで見ておいたらいいか。いったいどの時期に戻れるんだか見当もつかねーけど。とにかくやるしかない」
「がんばろう」
綾乃と葵は本を閉じ、立ち上がった。
※
──慶応二年三月。
「んっ」
早朝、三条大橋付近を巡回中の十番隊隊長原田左之助が、ふいに辺りを見回した。
後ろをつく隊士のひとり、加藤民弥が鍔に手をかける。
「どうしました」
「いや──匂いがしねえか」
「はあ、干物を焼く匂いですねえ。香ばしい」
「そうじゃねえよ。なんか懐かしい匂いだ」
なんだっけ、と原田は川に身を乗り出したり桜の木を眺めたりと、忙しく動き回る。
「匂いってなんの……」
「あ、隊長ッ」
隊士のひとり、矢田健之助がふらふらとその近辺で何かを見つけたらしい。
ほら、と指を指す。
そこには多くの蕾のなかで、たった一輪咲いた桜の花弁があった。
原田は顔をほころばせた。
「おお、──桜が」
咲いた、と呟いたとき。
突然春一番が吹き荒れた。
※
「まさか、女をころしにいくとは言えないだろう──」
三橋綾乃はつぶやいた。
司馬遼太郎著『燃えよ剣』の一節である。
のぼせたような声色に、友人の徳田葵がうんざりとした顔をした。
つぎは、三条京阪──。
バスのアナウンスがつぎの停留所を告げる。
「なるほど、この男の恋は猫に」
「もうええわ」
葵がさっさとバスの降車ボタンを押す。
平成二十四年、二月某日。
JR京都駅から市バスでおよそ十七分。
『三条京阪』停留所にふたりの女が降り立った。
「……あんた」
葵が、リュックからマフラーを取り出して首に巻く。
「夏から一ミリの成長もないね!」
「気持ちが高ぶるとあの名節が出てくるんだもん、しょうがねーじゃん」
季節はすっかり冬である。
無事に大学一年目の単位を取り終え、春休みを迎えた葵と綾乃は三条大橋へとやってきた。
葵はにっこり笑う。
「帰ってきたね」
「なんか懐かしいな。こうやって最初は壬生寺道にたどり着いたんだよな」
「本当、あれから半年しか経ってないはずなのに……もう二年も三年も経った気分だよ」
夢の中のお話か、はたまた本当に体験してきた世界だったのか。
それは未だにわからない。
ただひとつ確かなことは、自分たちを待っている人がいる、ということだけだ。
「戻ろう、あの世界へ」
「────うん」
平成の三条大橋から鴨川を眺める。
「ここからどうやって帰ろう……」
「飛び降りる」
「こんな寒空のなかを⁉」
「だけど──それしかないし」
と、深刻な顔で川を見つめるふたり。
寒風吹き荒ぶなか、一歩間違えればいまにも心中をしてしまうのではないか、という絵面だ。
案の定、心配で通報したのか向こうから警官が二人と近所のおばさんが慌てて走ってくる。
「はやくはやく、こっちよッ」
「こら君たち、早まるのはやめなさい!」
「行こう」
凛とした葵の声に、綾乃はにやりと笑って頷いた。
「よっしゃ」
その時である。
未だ二月の寒空の下で、強風が吹いた。
その瞬間に、二人は橋を越えて川へ跳ぶ。
ふわりと鼻をくすぐる春の薫りに、綾乃は瞳を閉じた。
──戻ろう。
強く、強く念じる。
落ちゆく感覚のなか、綾乃は一瞬にして意識を失った。
────。
慶応二年の三条大橋である。
周囲の視界は一瞬にして砂埃にまみれた。
「うわ、クソッ」
「ああっせっかく一つだけ咲いた桜が」
埃から目を守る原田の横で、矢田が慌てて桜の枝に手を伸ばしたときである。
突如ふたりに何かが重くのし掛かった。
「ぐえっ」
その何かに押しつぶされ、桜の真下にいた原田と矢田はバタッと崩れ落ちる。
風が治まって、加藤がその異常事態に気が付いた。慌てて駆け寄り、動きを止める。
「あっ?」
砂埃が治まって視界がクリアになっていく。そこにいたのは、およそ信じられないものだった。
「……お」
なんと、綾乃と葵である。ふたりともぎゅっと目を瞑っている。
「お嬢!?」
「──あ、」
加藤の声で、葵は目を開く。
目前、心配そうな顔の加藤民弥に気がついた。
「か、──加藤民弥!」
驚きのあまり、フルネームを叫ぶ。
その声で状況を理解したか、綾乃は勢いよくそちらに顔を向けた。
「うわァ」
と大袈裟なほど驚いて顔を見合わせる。
「わ、わたしたち」
「──うん、か、かえっ」
帰ってきたぁ、と手を取り合い喜ぶ二人を見て、加藤もようやくその状況を理解したらしい。
「隊長、隊長ォッ」
下敷きになっている原田と矢田を引きずり出して、加藤は言った。
「お嬢たちのご帰還です!」
と。
──。
────。
「近藤さん、ただいま帰りました」
「遅くなってごめんなさい」
すぐさま原田の手で屯所へと連行されたふたりは、たどり着くや真っ先に近藤の部屋へと連れていかれた。
行きがてら、行き往うた隊士がみなおかえりなさい、と声をかけてくることに感動を覚えながら、ふたりはおよそ十ヶ月前の局長命令を果たしにやってきたのである。
「…………」
頭を下げたふたりに、近藤は黙ったまま正座していた足を崩して近寄った。
ふたりの肩を抱き、良かったとつぶやく。
「よく帰ってきたな──待っていた、待っていたぞ」
「ありがとう近藤さん」
「おいおい」
様子をこっそり覗いていたらしい土方と永倉が苦笑して入ってくる。
「そうしんみり泣かれちゃ、こっちも挨拶の一つだって出来ませんよ」
「──スマン」
土方が目線を合わせるように屈んでくれた。
「よく帰ってきた」
「お前たちがいねえと、若干新選組も暗くなるもんだ」
という永倉に土方は「少しだけな」と笑った。
ずっと、ずっと焦がれていた人に会えた。
綾乃はわっ、と土方に抱きついた。
それから部屋を出ると、いったいどこから聞き付けてきたのだろうか──目の前には見慣れた隊士たちが並んでいた。
「お帰りなさい、お嬢!」
「待ってやしたぜ」
鍛練の途中で抜けてきたのであろう隊士や、夜番の準備を終えた格好の隊士。
ざっと三十人を超える人数が、出迎えに顔を出してくれたのだ。
「みんな、────すごい」
と綾乃の口から思わず漏れる。
「信じていました。絶対に戻ってくると!」
「山野くん──」
「お百度参りじゃねえけど、もうほんと、それくらい願掛けしておりましたぜお嬢」
「金ちゃん」
山野八十八や、中村金吾も。
ふたりは胸がいっぱいで、おもわず涙がこぼれそうだった。
※
遠い、遠い時の果て。
永く互いを想い合ったふたりの時間も、いまとなっては愛しいものだ。
沖田は、葵とともに清水寺にいた。
「諸々お話しする前に──葵さんにね、見てもらわなければいけないものがあるんです」
と、切り出した沖田の第一の使命は、かつてひとりの男が遺した書状を渡すことだった。
「──これは」
「野口くんが遺した、もうひとつの文です」
「え?」
「あのとき、私も土方さんも、貴女にとっては形見となるだろうあの不名誉な文を、燃やしてしまえと言いました。──これがあったからなんです」
「────」
葵は、いきなり予想外の事実に、ただ黙って書状を眺める。
たしかに、包みには『葵江』と書いてあるのがわかる。
「なぜ、今まで黙っていたのかは──別に意地悪ではなくて。私なりに考えたことだった」
「──読んでもいい?」
「ええ」
おそるおそる包みを開けて、中の書状を広げると、墨の匂いがした。
もう、二年以上前のものであろうに、書状だけは時が止まっているかのようで。
葵はふ、と瞳を伏せた。
「あの、ごめん」
「はい」
「崩し字がすごくて読めない」
「────」
読みます、と沖田は書状を受け取った。
清水寺の石垣に葵と隣り合って腰掛ける。
そして小さな声で読み上げた。
「葵へ」
「…………」
「最期まで言葉に出来ず候故、ここに記したく。──葵殿、」
そこから沖田は、続きを読み上げる際に葵にもよく分かるように、話し言葉で訳してくれた。
──見も知らぬ処から、
俺の居る処へ来てくれて有難う。
あの日から、
お前がそばにいることだけが
俺の支えだった。
しかしそれもこれまで。
さようなら。
「────」
「私は、この書状を読んだとき、──あ、一応検閲という意味で読みました。すみません。──読んだとき、許せなかったんです」
読み終わって、沖田は手紙に目線を落としたまま、呟くように言った。
黙って聞いていた葵は、泣くでもなくホッとするでもなく、ただ複雑な表情で空を見つめていたが、許せなかったという言葉に反応する。
「許せなかった、って?」
「無責任だと思ったんです。こんな言葉を遺して、あのときの葵さんがこれを読んだらきっと、もっと自分を責めてしまうと思った」
「────」
「言葉は時に呪いにもなる。この言葉が、葵さんをずっとずっと、責めてしまうと思ったから、──渡せなかったんです。ごめんなさい」
沖田が、そういって頭を下げた。
その姿に葵は胸の奥がきゅう、と狭くなる。
無性に、彼に触れたくなった。
「沖田くん」
だから、そっと手に触れてみる。
沖田はゆっくりと顔をあげた。
「────」
「ありがとう。教えてくれて、その──言いづらかっただろうに、気を遣ってくれて」
「いえそんな」
「でも、どうしていま教えてくれたの」
「それは」
と、沖田は言いよどんだ。
微かに頬を紅くしている。
「もう、大丈夫だと思ったから」
「あ、私が」
「ううんそうでなくって。今なら葵さんが、この文を読んで苦しくなっても」
と沖田は身体を葵へ向ける。そして、自分の手に触れている葵の手を取り、言った。
「そのたびに私が、そばにいるから」
「────」
「だから、」
吸い込まれそうなほど、まっすぐな瞳。
「お互いの命ある限り、そばにいてくれますか」
「…………、……」
葵は、今度こそ泣いた。
それが嬉しいという感情なのかもわからないまま、ただただ、胸のうちが震えるのを感じるばかりで。
頭が混乱しているなか、たったひとつ、言葉をこぼす。
「私──この世界の人じゃ、ないよ……いいの?」
沖田は、目を見開いてからわはは、と笑って、葵を思い切り抱き寄せる。
「なんだそんなこと!」
「そ、そんなこと──って」
「だっていまは、ここにいるんだから。それでいいじゃないですか」
「────」
「ねえ、返事は?」
「…………」
低く、甘く響いた沖田の声に、葵はゆっくりと身を離して微笑むと、大きく何度も頷いた。
沖田と葵の逢瀬について事の顛末を聞き、綾乃は心から喜んだ。これは奇跡だと涙すら浮かぶ。
時を超えて生まれる恋もあるものか、と。
妙にしみじみしてしまって、寝室へ向かう道中も思い出し泣きを繰り返した。けれどそれもよい。
屯所が西本願寺に移されてから寝室が物置部屋ではなくなったため、土方の寝室を経由することもなくなった。
初めはすこし寂しく思ったが、いまではすっかり慣れた。
「三橋」
寝室への襖に手をかけたとき、土方が奥から歩いてくる。途端に綾乃の顔には花が咲く。
「あっ土方さん!」
「布団は捨ててねえぞ」
「あは。ありがとうございます」
クスクス笑いながら襖を開けようとした綾乃の手に、土方は己の手を重ねた。
「…………」
「つぎ、あんなにいねえ日が続いたときは」
布団はねえからな、と呟く。
感動の再会にそんな話か、と綾乃は眉をしかめて顔をあげた。しかしその思いはすぐにたち消えた。
顔が、情けないほど憔悴していたからである。
「風邪引いたり怪我したり、そんなのはなんだっていいからよ」
彼は綾乃の手を握る。
「死ぬのはもう、勘弁してくれ」
「────」
とある春の夜。
綾乃は初めて、堪えきれぬほどの愛が自身の内から溢れ出てくるのを感じた。
それは涙となって外に溢れようとするものだから、あわてて両の手のひらで顔を覆う。
「好き。ホント好き、会いたかった──すっごく会いたかった」
「…………」
「ああ、土方さんだ──」
なんだそりゃ、と笑う土方に抱きつきたいけれど、そうしたらきっともう抑えられない。このまま寝室にまで引きずり込んでしまうにちがいない。
この時代、肉食女子は流行らない。
けれど触れたい。この手で。
いつの日か、斎藤が言った言葉の意味を理解した。せめてぬくもりを感じようと、遠慮がちに土方の胸に顔を押し付ける。土方のリアクションが出る前に、綾乃はあわてて「おやすみなさい」と部屋に入った。
「…………」
胸元に温もりを残した土方は、ぽり、と頭をかく。
四半刻前のことを思い出す。
自室の机に向かって仕事をする土方と背中合わせに座る沖田は、思い出し笑いをした。
「なんだよ、いきなり気持ちが悪いな」
「いいや、──ちょっとおふたりのことを考えてて」
「ふたり?」
「貴方と綾乃さんです」
「…………」
土方は、聞こえよがしに大きなため息をついてふたたび黙った。
「土方さんに、こんなにも相手にされていないのに──妙に説得力があるから。不思議な人だなぁ、と思って」
「説得力ってなんだよ」
「うーん」
沖田は、一瞬唸った。
「誰かを想い続けることへの自信というか」
「────」
「想い続けることで自分は必ず幸せになるっていう。分かんないかなぁ……まぁ、土方さんには分からないでしょうけれど」
そこが彼女のいいところです、と沖田がにっこりと微笑む。
すると、土方は寄っ掛かっている沖田の背中を背中で押し返し、知ってるよ、と言った。
「えっ」
「お前に言われなくとも、そんなこと」
「────」
少し、不機嫌な声色でそう言って、土方は立ち上がる。
「……おい総司。徳田と祝言あげるなら、おミツさんも連れてこいよ」
「ばっ──」
「照れるなよ。はははは」
と高らかに笑って、土方は沖田を残して部屋を出た。
いてもたってもいられなかった。
この気持ちがなんなのかは分からぬが、とにかくいまは彼女に伝えたかったのである。
生きて居ろ、ということを。
──。
────。
(いかんな)
土方は己の手をぼうと眺める。
先ほど胸元に飛びついてきた瞬間、彼女の肩をかき抱いてやろうと、両の手がうずいた。
(いかん)
土方は足早にその場を立ち去る。
(だめだ)
耳が熱い。
いよいよ綾乃を女と意識する自分を、自覚した。
(第二章 完)
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