春の訪

「惣次郎ッ」

 姉の怒声が轟いた。

「また悪戯したわね。源さんが何にも言わないからって!」

「し、知らないよ姉上。わたし知ィらない」

 ──記憶か、幻か。

 どちらにしろ、これは夢である。

「嘘おっしゃい、わかってるんだからねッ」

「ごめんなさいごめんなさいっ」

 壁に落書きをして、姉に怒られた記憶だ。

 その情景を夢で見ている。

「おい惣次郎。稽古の時間だ」

「あっ、トシさん」

「歳三さん邪魔しないでッ」

「俺があとで叱っとくから、勘弁してやれよミツさん。行くぞ惣次郎」

「あ、ちょっと!」

 呆れる姉の声を背に、自分は隣にいる兄貴分の背中を追いかける。いつかこの人の背を抜かせるかな、なんて思っていたっけ。

「トシさん。今度はいつまで日野にいるの」

「うーん、ひと月後くらいまでかな」

「そっか……」

「寂しいか」

「違うやい。トシさんいないと、こっぴどく打ちのめせる人がいないなって」

 兄貴分はごつん、と拳骨をいれてきた。

 痛い。

 頭をさすって薬は売れてるの、と聞く。

 この兄貴分は薬屋の倅だ。

「まあな。こっちが滅茶苦茶に道場破りして、薬はいかがってなぁ具合で差し出しゃ、チョロいもんよ」

「悪い人だァ、あれ効かないんでしょう」

「効くと思って飲めば効く。病は気からだ」

「それじゃあ薬の意味がないよ」

「いいんだよ、効く奴にゃ効くんだ」

 ────。

 ──。

 場面が変わった。

 ここは、自分の一番大切な場所。

「惣次郎、お前また腕を上げたな」

「そうですか、近藤先生」

「うん。重心がよりしっかりしてきた、鍛えてるのか」

「姉上との喧嘩でいつも逃げ回ってるから」

「ハッハッハ。そうか、そうだったな」

 この人はいつも、自分を褒めて伸ばしてくれたっけ。

「ね、先生。私の剣って、やっぱりみんなと違う?」

「──ああ、違うよ。なぜ」

「変かなあ」

「なんだ、また何か言われたな。気にするな、みんなは違うからいい、ということに気付いていないだけだ」

「違うから、いい」

「おうとも。みんな同じ剣ではつまらないだろ。お前は得意の突きがある。それを長所として伸ばしてゆけばいいさ」

 先生は、自分の頭を撫でてくれた。

「もっと自信を持て、惣次郎。お前は一等、自信を持つべき男だぞッ」

 大きく節榑だった、自分とは大違いの手のひらで。


 ──じ。

 ────うじッ。

「総司よぉ!」

「────」

 がばり、と身体を起こした。

 夢の中ではかつての幼名を呼ばれていたものだから、総司と呼ばれるのが新鮮で一瞬呆けた。

 大丈夫かよ、と声の主は言う。

 原田だった。

「あ、お、はようございます」

「ああ、おはよう。珍しいな、非番とはいえお前が寝坊なんて」

「あはは、きっと土方さんがいなくて気が抜けたのかも」

「ハッハッハ、違いねえ。さっさと掃除しちまおうぜ」

「はいッ」

 懐かしい夢を見た。

「ふふふ」

 幾度も今日の夢を反芻する。

 井戸で顔でも洗おう、と外に出ると、塀の向こうに千代がいた。もじもじと恥ずかしそうに辺りを見回している。

「あ」

 そういえば、彼女が幾度も屯所に来ていると聞いたことがある。遭遇したのは初めてだ。

「千代さん」

「あっ!」

「おはようございます。どうされました」

「──沖田様が、いらっしゃるかと思って。すこし覗いただけです」

 ここ通り道だから、と恥ずかしそうに答える。

「へえ。通り道っていうと、ここからどちらまで行くんですか」

「祇園のほうに知り合いがいるのです」

「ああなるほど。近ごろは物騒ですからね、お気をつけて!」

「はい。──ま、また」

「ええ、また」

 沖田は井戸に向き直り、水を引く。

 その後ろから「おいおい」と口角をあげて原田がやってきた。

 あの子は何の用だったんだよ、とはたきを持って笑っている。なんと、この男にしては珍しく真面目に掃除をしようとしているらしい。

「たまたま通りがかっただけだって」

「どこの娘なんだ」

「さあ」

「知らねえのか」

「だって──」

「…………」

 呆れた視線を向けられたので沖田は笑って、誤魔化すようにバシャバシャと顔を洗った。


 それから数刻後のこと。

 祇園で大火事が発生したという。

 新選組は、太夫らの避難先導のため祇園へと出動した。

 到着した頃には、既に祇園中が火の海と化していた。その光景にゾッとして、沖田は器用に数人の大夫たちを先導しながら、町の中を見渡す。

「千代さーんっ」

 火事と聞くと、いやなことを思い出す。

 沖田の額にじわりと汗が浮いた。

 他の隊士は、大夫の手を引いて嬉しそうにしているが、沖田の瞳はただひたすら、千代の姿を探している。

「っ、あ」

 半町ほど進んだころ、家屋にもたれかかり浅く息をして苦しそうに呻く千代の姿を見つけた。

「千代さんッ」

 大夫をほかの隊士に預け、慌てて駆け寄り抱きかかえる。千代は意識を失っていた。

「くそ」

 小さく悪態をつく。

 沖田は千代の身体を支えて歩き出した。


 ※

 さて、江戸である。

 葵はお茶と茶菓子を前に固まっていた。

 正座した足はすでにしびれて、感覚がない。

「あ、あのお姉さん──お構いなく」

「お"義"姉さんだなんて。照れるじゃない、ミツでいいわよ」

「あ、じゃあおミツさん」

「んー、やっぱりお義姉さんがいいな」

「────」

 マイペースな人である。

 ミツは湯呑みをそっと両手で持ちながら、総司は、と小さく問うてきた。

「元気かしら」

「──えっ」

 幼なじみの勘というやつだろうか。

 先程の土方の声色で、ミツはなにかを感じたようである。

「勝っちゃんから、あまり総司の体調がよくないとは聞いてたのよ。だから」

 心配はしていたの、お茶を一口飲んだミツに葵は慌てて言った。

「大丈夫です。そ、総司さんはもうすっかり元気になってます」

「……そう、ならいいんだけれど」

 あれ以来、喀血をしたとは聞いていない。

 隊務にも復帰しているあたり、大丈夫なのだろう。

 ミツはじゃあ、と話を変えた。

「トシさんが言っていたのは、本当?」

 総司とは良い仲なの、と楽しそうに聞く。

 葵は頬を染めた。

「えっ、あ。いえ──私が、総司さんを……その、好きっていうだけです」

 言葉にすると、いっそう照れた。思えばこうして口から想いをこぼしたのは初めてかもしれない。

「あら、かわいらしい。でも、トシさんの言い方だと総司も満更でもなさそうだわ……」

 と、ミツは煎餅を一枚かじる。

「──あの子を慕う娘さんがいるなんて、嬉しいわね。それにしたって、江戸までの道のりは辛かったでしょう。よく頑張りましたね」

「ありがとうございます……」

「ね、葵ちゃんって呼んでいい?」

「は、はい!」

「ふふ、かわいい」

「…………」

 恥ずかしい。

 照れくさくて、葵は己の膝上で握った拳をじっと見るようにうつむいた。


 一方その頃。

「何度も言うが、俺はお前と夫婦になる気はない。お琴」

 と、厳しい表情で言い放つは土方歳三。

 彼が対峙するは、目鼻立ちの整ったひとりの娘。戸塚村の琴という。

 彼女は土方が上京する前から決まっていた許嫁であった。

 事の起こりはついさっき。

 沖田家からの帰途、後ろから

「歳三さま」

 と女の声で呼ばれた。

 反射的に振り向くと、琴が泣きそうな顔をして立っていたのである。

 ──げっ。

 とは言わないが、土方はひきつった顔でその女を見た。

「お、お琴。情報が早いな」

「もう石田村は当然、戸塚村も歳三様の話で持ちきりです!」

「……そうかい」

 あぜ道の真ん中、田圃からは虫の声がこだまする。色気のねえ、と土方は心の中でつぶやいた。しかし対彼女においては色気が出たら困る。

 なぜなら土方は、上京前からずっと幾度も結婚は考えられないと断ってきたのだが、それでも彼女はいまだに『自分は土方歳三の許嫁である』と辞さないのだ。

 この道をゆけば、まもなく佐藤家である。

 なんとしても彼女をこの場で引き返させねば、と土方は先の言葉を繰り出したのだった。

「同じことを何度も言わせるな。いいか、俺は、だれも嫁は取らん」

「……琴は、ずっと待っておりましたのに」

「だから上京前にもう待たなくていいと言った」

「そんなの、納得できません!」

「琴」

「ひどい!」

 琴は、わっと泣き出した。

 元はといえば、同村内の女は恋愛対象ではないからと、他村の女を漁っていた頃に出会った仲だ。当時は甘い言葉をいくらでも囁き、女に期待させることをよしとしていたこともある。土方に責任があるのは間違いなかろう。

 しかしいまとなっては、たちまち身体を震わせて、頭を振る彼女の仕草すら何故か鼻につき、土方は心底ぶん殴ってやろうかと思うほどになっている。

 近頃、涙を武器に振りかざす女がどうにも鼻につくのだ。

 もとより土方の恋心は武家のような凛とした女に向く傾向があった。しかし遊ぶ女は別である。こういった、恋い慕ってくる女たちがどうにも可愛かったものだが──。

 歳をとったか、と冷静に自己分析をしていると、琴は泣き腫らした瞳で土方を睨みつけた。

「こういうとき、前は、抱いてくださいましたのに──」

「…………」

 そんなこと、と反論しかけて、黙る。図星だった。

 女を泣き止ますには一番手っ取り早い方法なのだ、と心の中で言い訳をする。

「前の歳三はもういねえ。頼むからもうあきらめて帰ってくれ」

「あ、わかった」

 女だわ。琴はめげずに呟いた。

「そうなんですね、そうだわ。きっとそう」

 と言うなり、哀れな許嫁は土方など目もくれず、佐藤家へ歩き出した。

 ちょっと待てと言えども彼女の足は止まらない。結局そのまま、琴は佐藤家の敷地内へと入ってしまった。


「あら、お琴ちゃん」

 のぶは笑顔で迎え入れた。そのうしろに控える弟の渋面など、知ったことではない。

「お久しぶりですおのぶさま」

 琴は頭を下げる。

 座敷には斎藤と綾乃、そしてのぶの子どもたちである。土方は斎藤をちらりと見た。

 その視線に面倒な雰囲気を感じ取ったか、斎藤は腰をあげてそそくさと厠へ逃げていく。

(あのヤロウ)

 逃げやがった、と土方は斎藤の背中を目で追った。

 座敷に残ったのは子どもの遊び相手をしてやっていた綾乃だけだ。

「──この方は?」

 やはり、琴の視線は綾乃に向いた。土方は渋柿を食べたような顔をする。

 しかし綾乃はいま男装をしている。そのうえ高い座高から高身長であることもうかがえる。

 案の定、琴は彼女を中性的な男と思ったようだ。すこししなをつくった。

 綾乃はといえば、先ほどから苦悶の表情を浮かべる土方を見ていろいろ察し、居住まいを正して深く頭を下げた。

「三橋です。どうも」

 あくまで男性を装うため、低い声を出す。

 顔をじっくり見られたらバレる。女性と知られたら敵意を向けられる可能性が高いだろう。おなじ女としての勘である。

 ゆっくり頭をあげてからすぐ、まとわりつく子どもたちを後ろから抱きしめて盾にすることで、顔を極力隠した。

「私は戸塚村の琴と申します。歳三さまの許嫁です、どうぞ宜しくお願いします」

「あ、どうも──」

「ほらどうだ、女なんかいやしねえだろう。いいからお琴。さっきの話の続きだ、外に行こう」

 綾乃の機転により、すこし強気な姿勢になった土方が強引に琴を外へ連れ出した。

 その後姿を眺めて「女なんかいやしねえだと?」と綾乃がつぶやく。

「……ご苦労だな」

 いつの間にか戻った斎藤が、言った。

 綾乃は源之助を後ろから抱きかかえたまま、それほどでも、と不機嫌全快で呟いた。


 ※

「大体なんだ、俺の女みてェなツラしやがって。そろそろキレるぜ」

「そんな言い方!」

「その通りじゃねえか。俺はお前を娶るつもりは今後一切ねェんだ。早いところほかを探せ」

「じゃあ京にいるんだわ──!」

「だとしても、お前には関係のねェこったろう。いいからもう二度と俺の前に姿を見せるな」

 苛立ちも隠さずにそう言った。

 彼にしては珍しいことだが、これは琴を思ってのことでもある。

 土方は新選組をどうしていくか、この時勢の行く末がどうなっていくのか、そんなことしか頭にはない。この時勢が落ち着いた暁には結婚しよう、などと言えるほど平和な頭ではないのだ。

 琴はその眼に涙を浮かべ、土方を睨んだ。

「…………」

 彼の心を汲んだか、はたまたこれ以上の説得は無意味と思ったか──琴はただ黙って、戸塚村への道を駆け出した。

 その背中にすこし胸は痛むが仕方ない。これでよかったのだ。

「……はあ」

 残党狩りよりも体力を使うぜ、と土方は汗をぬぐった。


 中に戻ると、爽やかな笑顔で、子どもたちと遊ぶ綾乃の姿がある。

 一連の騒動を気にしてやしないかと思ったが、大丈夫のようだ。

 安堵するやすっかり機嫌もよくなって、パンッ、と膝を叩く。

「よしお前ら。久しぶりだ、風呂に入ろう」

 どうだ、と弾んだ声で甥っ子姪っ子を見わたす。が、子どもたちは途端に笑顔を固めた。

「えっ、」

「叔父さんと風呂──」

「なんだよ、いいだろう」

「や、やだぁ」

「やだーッ」

「歳三叔父ちゃんと入ると、熱湯に閉じ込められるんだッ」

 口々に否定的な言葉が飛んでくる。

 好き勝手に言われた土方は「鍛練だろう!」と意味のわからない理屈を言っている。

 本気で嫌がる子どもたちに、綾乃は優しくわらった。

「ねえ、どうせならわたしが、みんなをいれてあげる」

「え」

「わぁ」

 困惑する土方を差し置いて、子どもたちは大層喜んだ。

 男装はしているものの、先程から優しく遊んでくれたお姉ちゃん。そんなお姉ちゃんと一緒に、お風呂に入れるだなんて。


 ──などと。

 ──明るい光を瞳に浮かべた子どもたちはいま、死んだような目で湯に浸かっている。


「熱湯に身を沈めるは、男の勤めじゃァッ」


 なにせ、湯船に身を押しつけられた上に、蓋をかぶせられて、その上に綾乃が座っているのだから。

 実は相当気が立っていたらしい。

 甥っ子たちの叫び声に気付いた斎藤が駆けつけてくるまで、綾乃はしばらくそこから動かなかった。


 ※

 多摩には、すこしの間滞在した。

 帰る日にはすっかりなついた子どもたちが寂しそうな顔で見送りに出てくる。

 源之助、力之助、漣一郎、彦吉、ぬい──みな歳三叔父さんの寵愛を受けて育ったために、別れ際の寂しさもひとしおである。

 源之助が途中まで送るという。

 途中の辻ではミツが風呂敷包みを片手に、一行を待っていた。どうやら葵へかんざしをプレゼントしたかったらしい。

「お姉さん、かんざしをありがとう。また会いにきます!」

 葵が大きく手を振ると、ミツは涙ぐみながら手を振り返した。

「きっとよ、葵ちゃん。今度は総司も一緒に来なさいな!」

「はーい」

 少し、進む。

 石田村を出たところで、土方が立ち止まる。視線を感じたようだ。

 微かに殺気を出して鯉口に指をかけた。

「コソコソ隠れていねえで出てこい、誰だ」

 振り向かないまま土方が呟くと、女がひとり申しわけなさそうに出てきた。

 琴だ。

「……お琴」

「…………」

 土方の顔に、驚きと不機嫌さが漂う。

 ──しかし、琴は不意に頭を下げた。


「お身体、お気をつけて」


 声を詰まらせ、琴はただ小さくそう呟く。

 許嫁としてではなく、土方歳三を恋い慕う女として琴はどうしてもそれが言いたかった。

 女は、こういうところがやはり、可愛い。

 土方は緩む口元を隠すように再び背を向けて小さく「達者でな」と言った。

「…………」

 見ているこちらが照れ臭くて、綾乃は静かに目を伏せる。

 すると、琴が駆け寄ってきた。

「あの──」

「は、はい」

 とっさに声を低くする。

「あの……歳三様のこと、──あの」

 もじ、と躊躇してから、

「お願いします。きっと、無茶するから」

 と琴は顔を真っ赤にした。

 思わぬ言葉に、綾乃はキョトンとする。

「それを、何故わたしに」

「だって──三橋様、女の子でしょ」

「────」

「だから」

 きっと、悔しいのかもしれない。

 幼い頃から知っている婚約者を知らぬ女にとられる、と思っているのだから。

 それでも土方を想えば、そばにいるべきは自分ではないとも分かっている。

 琴は、賢い娘だ。

「お琴さん──たしかに、わたしは土方さんが好きです。けど、お琴さんが思うような相手なんかじゃないんです。本当に」

 声をいつも高さに戻して、綾乃はわたしだって悔しい、と続けた。

「お琴さんが羨ましいです。昔のこともよく知っているし、素直だし、それに」

 綾乃は口をつぐんだ。そこから先は口には出せなかった。

(彼と、同じ時を生きている)

 そこからして、綾乃は負けている。

「だからね」

「三橋。なにやってんだ、早く来いッ」

 遠く先を行く土方の怒声が響く。

「あ。じゃ、また会えたら」

「みつはしさ」

「あやのだよ」

「え?」

「なまえ!」

 と、綾乃は笑顔で手を振った。

 琴は嬉しそうにわらう。

 わらって、ゆっくりと頭を下げた。


「なんだお前──お琴と仲良くなったのか」

 手を振る綾乃に、土方は驚いた顔をした。

 女は、こういうところがよくわからない。土方は思った。

「同じものを好きになる人とは、話も合うし仲良くもなれるもんです」

「あっそう」

「はぁ。また何日もかかって帰るんだね」

 うんざり、と葵は小さくため息をつく。斎藤は、無表情でごそごそと手荷物をいじっている。そのなかに、草鞋の替えを見つけた綾乃は、ケラケラ笑って斎藤の肩を叩いた。

 うむ、と土方は頷く。

「この先にある内藤新宿の先で、新入隊士たちが伊東と一緒に待っている──から、とりあえず休むか」

「えっ?」

 どうしてそうなる。

 と、葵の顔はそう言っている。

「待っているならさっさと行った方が」

「なんで俺が、伊東のために急いでやらなきゃなんねえんだよ」

「えぇ──」

(ガキだ)

 顔をしかめる葵とは対照的に、斎藤と綾乃は無表情のまま、どうやら同じことを思っている。

「ここら辺に俺の知人の家があるんだ。そこで少し休もう」

 彼はさっさと源之助とともに、大和屋とかかれた家に上がり込んだ。

 が、斎藤がわずかに顔をしかめる。

「いま伊東は新入隊士らと一緒にいる。我々がいない隙に、新入隊士を手駒にとる可能性も」

「使いを出す。その者たちにもうすぐ俺たちもつくから待ってろ、と伝えてもらえ。関門の役人にゃ会津肥後守預りの新選組、土方歳三の供だと伝えろ」

「はい」

 と、斎藤が下がる。

 すぐさま大和屋の子飼い二人を遣いに出して、一行はしばしの休憩をしていたのだが。

 ──しばらくして戻ってきた遣いは、しょんぼりしている。

「なんだ、どうした」

「……伊東という方に会うために、内藤新宿の関門を抜けようと、言われたとおり役人に名乗ったのですが──」

「主人も一緒でなければ通せぬ、との一本張りで」

「あ?」

 遣いを睨む。

 睨まれた子どもたちは、ヒッと息を呑んだ。

 斎藤は、冷静に「こやつらに非はない」と突っ込んでいる。その後ろ、ごろりと寝ころがる綾乃が頭だけをむくりと起こした。

「何それ、頭かたァい」

「おいおめえら出発するぞ」

「叔父さん──」

 すっくと立ち上がる叔父歳三に、源之助は不安そうな顔を向ける。

「源之助は内藤新宿の関門まででいい。……そんなにお望みなら望み通り本人が行ってやろうじゃねェか。なにされても文句言うなよ──」

 笑顔が凶悪だ。

 土方御一行は大和屋に挨拶をした後、例の関門へたどり着いた。


 土方は、立腹している。

 含み笑いを浮かべて関門の役人に近付いていく。

 役人も偉そうに丈の高い土方を見上げた。

「何者だ、名を名乗……」

「拙者は、供の申し述べた土方歳三である!」

「…………」

 美人の怒り顔は迫力がある。

 そのうえよく通る美声と見下ろされる威圧感。仁王像のような立ち姿は、戦意を失うには十分なスパイスだった。

「────」

 役人はひ、と腰を抜かす。

 さらに土方は大刀を手に座敷へ上がり込み、上役に直談判をした。

「偽者と思うなら、上役殿を宿所まで同伴しよう!」

 軽く鯉口すら切る勢いで土方が迫るものだから、役人は一気にしおらしくなって「どうぞ通られい」と小声で情けない声色を出したのだった。

 源之助は、見たこともない叔父の姿に瞳を輝かせる。叔父の顔をうかがうと、彼は大笑い。

「役人の眠気を覚ましてやったんだよ、源之助」

 と、源之助の頭を優しく撫でた。


 ────。

「伊東だ」

 斎藤の言葉に全員がそちらを向く。

 ずらりと並ぶ新入隊士たちが、こちらを向いて待っていた。

「待たせたな、伊東さん」

「お待ちしておりました」

「しかし、よくここまで集まったもんだ」

「我々の尽力の賜物です。京でお待ちの局長を喜ばせることができるでしょう」

「ふん、でしょうな」

 土方は源之助へ顔を向ける。

「源之助、お前はここでお別れだ」

「…………はい」

「そうしょぼくれるな。江戸で立派な男になるのを、俺ぁ楽しみにしてるぜ」

「──はい!」


 一行は、新入隊士を率いて歩き出す。

 源之助はその姿が見えなくなるまでその場に立ち尽くしていた。

 こうして江戸旅行は早くも終わりを告げ、五月十日、無事に帰京を果たす。


 ※

「まさかあなたのお家がお医者だったなんて!」


 五月中頃のこと。

 沖田は快活にわらった。労咳の経過を看てもらうため医者を訪れたところ、そこの娘が先日祇園で助けた千代だったのである。

 ほんとうに、と千代は深々と頭を下げる。

「その節はありがとうございました。沖田様がいなかったら、私……」

「いや、あれも仕事のうちです」

「ほかの方々から伺いました。私の名前を呼んで、必死に探してくださってたって。あの日……沖田様に会いに行って良かったと思いましたもの」

「やだなあ、知り合いを心配するのは当たり前でしょう。何よりびっくりなのは、医者を呼んだらそれが千代さんのお父上だったことですよ。あははっ」

「うふふ」

 祇園の大火事から、千代を助けたのち。

 呼んだ医者が千代の父親だった、という縁もあり、ちょくちょく自身の体調を看てもらいに来ていた。

 しかし、ここのところ居心地が悪い。

 沖田は相手が自分に好意を持っていると感じると、恐らく彼は無意識なのであろうが、その相手と距離を取りたがる。

 この千代にも、また然り。

 そろそろこの娘とも縁を切るべきだ。

 沖田は頭のどこかで、そう思っている。

「ね、沖田様。私」

「あ、っといけないすみません、今日はお薬を貰ったらさっさと帰らなきゃいけなくて。お話は、また今度」

「そうですか。お忙しいですね」

「千代さん」

「はい」

 気配りもよく、手際もよい娘だと思う。だからなおさら心苦しかった。なによりも、一切の興味関心を彼女に抱くことができない自分が情けなかった。

 と、いう思いはなにひとつ伝えられぬまま、沖田はにっこり笑う。

「──なんでもないです。それじゃあ」

 千代の制止する声を無視して、沖田は屯所への道を駆けもどる。


「戻りましたぁ」

 葵が、井戸から汲んだ水を桶で運んでいたときである。すこし息を切らした沖田と鉢合わせた。

「おかえりなさい、早かったね」

「持ちますよ。どこまで?」

 ひょい、と桶を受け取って沖田は首をかしげる。葵は台所を指定した。

 初めて会った頃よりも、心なしか彼の上背ががっしりとしたような気がする。それに気が付いた途端、葵はひとりで頬を染めた。

 気を散らそうと、病気どうだったと尋ねた。

「今は形を潜めてますからなんとも。いつものとおりですよ、安静にって。それより江戸はどうでしたか、なかなか良い町でしょう」

「うん。それに、おミツさんもすっごく良くしてくれた」

「姉上、元気でした?」

「とっても。今度は総司と一緒に来なさいって」

「もう、姉上ってば──」

 不思議なものだ。

 恥ずかしそうに頭をかく沖田から目が離せない。ずっと見ていたい気すらする。

 気が付けば飽きるほど土方を見つめる綾乃の気持ちが、いまではよくわかった。

「あの、沖田く──」

「沖田さまァ」

 葵の声をかき消すように声が響いた。同時に振り返る。千代が走ってくる。

「あれ、千代さん」

「沖田さんたら、薬を忘れたはりますよ!」

「あっ、ありがとうございます。すっかり忘れていました!」

 沖田は照れたような笑みを千代に向けた。

 さっき葵に見せたような笑顔である。

「…………」

 が、不思議なものだ。

 今度は一瞬たりとも彼の姿を見たくなくなった。いまだ談笑する二人を一瞥してから、葵はひとり台所へ向かう。

 胸のなかにもやがかかる。

(いやだな……)

 それに、喉にも分厚い壁が塞がったかのようにうまく呼吸ができず、息苦しい。

「葵さん待ってくださいよ」

 沖田が水の入った桶をフラフラと持って、台所にやってきた。どうして先に行くんです、と不満そうに言いながら桶を置く。

 どうやら千代を早々に帰したらしい。

 しかし葵が返事をしないので、彼は不思議そうに顔をあげた。

「…………」

「どうしたの」

 よほどひどい顔をしていたのだろう。

 沖田が戸惑っている。

「ねえ」

「なんでもないよ」

 葵は、この感情の名前を知っている。

 だけれどそれを彼に伝える術を知らない。なんと言葉にすればよいのか、わからなかった。だから、

「お水ありがとう──ごめん」

 と、肩を震わせてその場から逃げ出した。

 残された沖田は、その行く先を見つめてただ呆然と立ち尽くすのみであった。


 ──のを、すこし離れた草影から見守っていた男女がいた。

「ッアァもどかしい。イライラすんなぁ」

「言ってやるな」

 綾乃と斎藤である。

 気持ちに正直な二人にとって、葵の葛藤と沖田の戸惑いとは無縁の境地にいるのだろう。

 綾乃はよし、と立ち上がった。

「ちょっと行ってくるわ──ハジメちゃん、葵の様子を見てきてくれる?」

「俺が……?」

「おねがい」

 と言い捨てて、いまだ時が止まっている沖田に近寄っていく。

 斎藤は、こういうことは不向きだと呟きながらしぶしぶ葵の後を追った。


「悩んでおるな、青少年」

 からかうように言った。

 沖田はハッと顔をあげて、どこからかやって来た綾乃の顔をじっと見つめる。

「綾乃さん……」

「なぁに、なんでも言ってごらんよ」

「綾乃さんはいつもいろんなことを図々しく、かつ好き勝手にしていますよね──どうして平気なんですか。もしかして綾乃さんがおかしいだけ?」

「んん~? 想像してたのとちがうな」

 沖田は真剣な顔でこの間も、と続ける。

「江戸行きの件、もともと留守番の予定だったのに。結局ついていったでしょ」

「あれは──葵の付き添いもあったし。土方さんのそばに居たかったし」

「だから、そういうところですよ」

 沖田は「私にはわからないです」と顔をひきつらせた。

「なんで?」

「いやなんでって」

「わたしには、土方さんに好きだと伝えたいって信念があるから。ま、そこに土方さんへの配慮ってたしかにないけどね」

 ないんだけど、と続けて、

「──仕方ないじゃん、好きなんだもん」

 綾乃はわらった。

 沖田は、唸る。

「ていうかひとつ聞きたいんだけど」

「……はい」

 沖田くんって、と綾乃はかまどの蓋を開けた。

「葵のこと好きなの」

 飯の薫りが土間に立ち込める。

 沖田の目は見開いていた。

「えっ」

「葵のこと、好きなの?」

 二度聞いた。

 かまどの蓋を閉めて、綾乃は沖田に向き直る。その視線は射抜くように鋭い。

「知れば迷い知らねば迷わぬ恋の道」

「……それは」

「恋をしたことあるか聞いたよね。あの時、沖田くんはこの意味が分からないみたいだったけど、いまは?」

 わかるの、という綾乃に圧されるように、沖田は土間に膝をついた。その頬は、みるみるうちに紅く染まっていく。

「…………」

「葵のこと、好きなのね?」

 三度。

 綾乃の顔は笑っている。なにも苛めたくて言っているわけではない。ここをはっきりさせないことには、これから先なにひとつ進まないのだ。

 彼にはそろそろ、自覚してもらわねばなるまい。すると沖田は頭を抱えた。

「好きだとして分からないんです」

 なにをしたらいいのか、とつぶやく。

「何をするか考える前に、なにがしたいのかを考えなよ」

「……なにを……」

「恥ずかしくねーから言ってみな」

 男前に胸を叩く綾乃。

 沖田はうなずいて、先程感じた気持ちをどうにか言葉に込めてみる。

「たとえば」

「ウンウン」

「葵さんが泣いていたら──イヤだ。笑ってほしい。でも、じゃあどうすれば笑顔になるのかがわからない」

「────」

「たとえば夕陽がとってもきれいだったとき、葵さんに一番に教えてあげたい。でも、じゃあなんて教えたらいいのかわからない。それとか」

 と、沖田の口が紡ぐ言葉をうけて、綾乃はきゃあと叫んだ。

「恥ずかしーッやめてやめて!」

「さっき恥ずかしくないって言ったじゃないですか!」

「だってそんな言葉が出るなんて──あぁああぁかゆい」

 まるで、熱烈なラブレターだ。

 綾乃は頬の熱を冷まさんと手で扇ぐ。それから、いまだ土間に膝をつく沖田の視線を合わせるように座った。

「あのさ」

「うん」

「とりあえず好きって伝えてから悩んでくれる?」

「…………」

 えっ? と沖田は泣きそうな顔をした。

 なんてことない、と綾乃はわらう。

「人を斬るよりずっと簡単だよ」

「好き──」

 言葉にすると、ストンと落ちた。

 彼のなかにある何かに、終止符が打たれた瞬間だった。


 しかし、事はわずか四半刻後に起きる。

 屯所に斎藤が駆け込んできた。その腕にはぐったりとした葵が抱えられ、口元は赤黒く染まっている。

 縁側に葵を横たえた斎藤は、

「帰営途中に喀血した。局長と副長を呼んでくる」

 と駆け出した。

 すれ違いざまに呆然とする沖田の頭を殴っていく。

 葵が浅い呼吸を繰り返すが、意識はあった。綾乃を見て困ったようにほほえんだ。

 最近──と綾乃がつぶやく。

「形を潜めてると思ったのにね」

「……うん」

「え?」

 沖田の顔が歪む。

「いつからですか」

「正月あたりで一度喀血してるの。葵」

「────」

 ひゅうひゅうと辛そうに息をする葵をみて、私のせいだ、と沖田は頭を抱えた。

「……私のがうつったんだ」

 まもなく、近藤や土方が駆けてきた。

 後ろからついてきていた永倉は、

「とりあえず医者をッ」

 と叫ぶ。

 しかし「いいの」と返したのは、葵だった。

「なんでだよ!」

「いいから……」

「死んじまうんだぞ。わかってんのか!」

 だから、と笑う。

「一回死んで、治して、また、帰ってくる」

「な──」

 周りの男は絶句した。

 綾乃は葵を支えて、うなずく。

「わたしたちの時代なら、この病気はきちんとした治療を受ければ九割九分の確率で治るものなの」

「…………」

「もとよりそうするつもりだったし」

「それで」

 またここに戻ってくるんだろうな、と言ったのは意外にも土方だった。綾乃をギロリと睨みつける。

 視線が一瞬交差する。

 とうぜん、と綾乃は葵の腕をぐいと引っ張り、

「戻りますよ。だから」

 布団は捨てないでね、と茶化すようにわらった。

 季節はすっかり夏である。

 射し込む陽射しが強い。

 セミの声を背に、ふたりは勇ましく立ち上がる。

「帰ろう葵」

「ん──」

 その姿に、みなはかける言葉が見つからない。なにせ彼女たちはこれから、なんらかの方法で死ぬつもりなのである。

 沖田でさえ口を開けど声は出ず、その姿をじっと見つめるだけだった。

 ただひとり、近藤だけは轟くような声で、

「局長命令だ」

 と突然叫んだ。

 周囲にいた男たちが驚いた顔をする。

 彼が、これまで女たちに局長命令として下したことなどない。

 綾乃と葵も、おもわず立ち止まる。

「いいか!」

 近藤の声に驚いたか、周囲のセミも鳴き止んだ。


「必ず元気になって、帰ってこい!」


 局長命令だぞ、と、近藤はふたたび言った。

 その一言で、男たちは一気に笑顔になって「そうだそうだ」と声があがる。

「待ってるぜ!」

「がんばれよ」

 思わぬ声援に女ふたりは吹き出した。

 吹き出して、

「わかりましたぁ、局長ォ!」

 と、大きく大きく手を振った。

 こうして、ふたりは二度目の帰郷を果たすべく、死に場所を探しに出掛けるのだった。


「……とは言ったものの」

 それからすぐ、京市内のどこで死のうかと、二人はひととおりを歩き回る。

 初めて知ったことだが、死に場所を求めて歩くというのはあまりいい気分ではない。しかし葵はそれほど悲観していないようである。

「前回は焼死したから、次は溺死かなあ」

「まあ、火といったら水だけど──」

「大丈夫、ただの里帰りだよ」

 葵は息苦しさに耐えながら、

「どこら辺で帰ろうか」

 とゆっくり歩みを進めた。

 前回のことを踏まえて考えれば、この世界に戻ってくるとしたら、己らの死に場所からという可能性が一番高い。

「そうだな──次に戻ってこられるのがいつになるかわからないから、西本願寺にも、次の、幻の屯所と言われる不動堂村にも近くなのがいい」

「じゃあ、そんな遠くは行かない方が良さそうだね」

 綾乃の答えに、葵がうなずいた。

 その時である。

「お前等──その髪、出で立ち。間違いねえ、新選組の囲ってる女たちだ!」

 と、変な男に囲まれてしまった。

「えっ」

「ここでこれかい!」

 葵は、ただでさえ青い顔色をさらに青ざめさせ、綾乃は苛立ちのあまり額の部分が紅くなる。

「こっちは病人だってのに──」

「そのわりに元気だよね」

「やかましい」

「こいつらを人質に、新選組の奴らをおびき寄せるぞッ」

 ひとりが襲いかかってきた。

 綾乃はその動きを目で捉えながら、楽しそうに葵へ問いかける。

「あおちゃん」

「なにっ」

「ここで斬り殺されるのはイヤ?」

「袈裟斬り一発でもなさそうだから、イヤ!」

 葵は、即死がしたいらしい。

 聞いておいてなんだが、綾乃も“他殺で死んだ際でも、この世界に戻ってこられるのか”という視点は定かではないため、望ましくない。

 意見は一致だ。

 仕方ないね、と綾乃は言った。

「もう三条大橋からのダイビング自殺しかない!」

「ようし」

 ふたりは三条大橋へ駆け出す。

「ブゥオエッ、ゲホ、グハッ!」

「葵ィ!」

「わ、私……重病人だった──」

「オメー馬鹿だろ!」

 と、わらいながら。

 同時に三条大橋から鴨川へと飛び込んだ。


 ──。

 ────。


「ブモゥッ」

「ゲホッ、」

 目覚めた先は、伏見の酒屋前だった。

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