どこへ

「この反物は五条綾小路のお菊さんとこ。一緒に届け、行けるか」

「はーい」

 髙島屋で働きだして、二週間。

 綾乃の毎日は充実している。

 まずは朝八時ごろに出社、メーカーから届いた反物を確認する。昼前にその品物を納品するという流れだ。

 支払いは、ツケが多い。

 年数回の支払時期に払われることが多いため、それまでは商屋が逼迫状態になることもままあるらしい。

「その場での金銭取引はしないの」

「あそこはツケとるんよ。一見さんの場合はいただくこともあるけど、まあ大体見知った顔やしな。信用売りっちゅうこと」

「へえ、おもしろーい」

「面白いか」

 泰助は、とてもよく世話をしてくれた。

 にこにこ笑って、困ったときはいつだって手助けをしてくれる。

 綾乃のことは箱入り娘なのだろう、という認識らしい。

「この反物、結局仕立屋に出すんでしょう。ここで仕立てられる人を雇ったらいいのに」

「ああ、そういうことをやりはじめたタナもあるみたいやな。まあ、うちの二代目には二代目なりのやり方があるんやないか」

 反物を片手に店を出る。

 この納品業務は、綾乃がひとりで行く、と言っても未だに泰助がついてくるのである。

「今度七日間、うちに住み込むて聞いたで。仕事みっちり覚えたい言うたんやて? 二代目、嬉し泣きしてはった」

「そうそう、よろしくね。だからこの納品だって、もうわたしひとりで行けるんだよ。道だってさすがに」

「アホ、何かあったらどないすんのや」

「何かって」

「ここ最近は物騒やし、女子がふらふら出歩いてはったら危険や」

「────」

 やあ、立派。

 ちらりと顔を覗きこむと、泰助は少しばかり眉をひそめて、

「綾乃」

 と言った。

「なに」

「──もし、お前を妻にしようと思うたら、新選組の局長さんに言えばええんか」

「────」

 なんだって?

 聞き間違えたかとおもって、「うん?」と笑んだ。

「いや、──もっぺん言うの照れるやんか」

「あ、ごめん。聞き間違った、なんだ。局長に相談がどうしたって?」

 泰助が、精悍な顔つきを少し弛めて綾乃を見つめる。


「夫婦になってくれんか、綾乃」


 桟橋で。

 朝日を受けながら聞いたフレーズは、綾乃の思考回路を一切停止させるものだった。



「はあああ?」

「────」

「え、っえ、は──はあああああ?」

 葵の声は、壬生村中に響き渡った。

 ふたりの休みが被ったこの日──前川邸の縁側でお茶をしていたときのことである。

 珍しく真剣な顔で呼び止めるから、なんの話かとおもったら。

「桟橋で、朝日をバックに、ぷ、プロポオズ」

「もう、納品の反物川に落とすかと思った」

 思い出す綾乃の顔面から、汗がふき出す。

 なに、新選組のところへタイムスリップしておいて、ちゃっかりよそで歴史的にはモブ扱いとなるだろう知らない男とよろしくしているの、とか、どんな人、とか。

 聞く余裕はない。

「こ、」

 言葉につまった葵に目を向け、綾乃はぎょっとした。

「ことわったよね」

「うわっ」

 葵の顔は、紫色になっている。

「葵、血流の具合が」

「ことわったよね?」

 怒りをこめて肩を掴む葵。

 めったに見られぬ友人のようすに、綾乃は恐怖のあまり口ごもった。

「土方さんがいるでしょッ」

「あ──えっと、泰ちゃんには」

「たいちゃんッ」

 悲鳴のような声だった。

 まるでムンクの『叫び』である。

「ていうか、綾乃が普通の女の子みたいな扱いされているのがまず怖いんだけど。やっぱりおかしいよ、やめた方がいい。美人局の男バージョンかもしれない」

「あんだとテメー」

「だめ。そういう当て馬いらない」

「当て馬って」

「それに未来から来たなんて意味わからない女、嫁にもらう方だって気の毒だよ!」

「う、うん」

「…………私が、」

 葵は立ち上がった。

「あんたと会う前から、あんたがずっと土方さんのこと好きだったって知っているから──なんの因果か、あり得ないのに、こうして土方さんと会えたんでしょう。それなのに他の男なんて……納得いかないッ」

 吐き捨てて。

 葵は、八木邸へ駆けていってしまった。


「────」

 

(いや、納得いかないっていうか)

 綾乃はごろりと縁側に寝ころがった。

 さて、どうするか。

(そうだ)

 明日から一週間、髙島屋に住み込みで働くための荷造りをせねばなるまい。

 綾乃は重い腰をあげて、部屋へと向かった。


 その日の夕げ。

 明日に備えて、すこし早めに就寝した綾乃不在の席にて、沖田は味噌汁に噎せた。

「ええっ、綾乃さん求婚されたんですかっ」

 なんて面白いことになっているんだ、という目をしている。

 原田は驚きのあまり漬物をぽろりと落とした。

「返事もしていなさそうだったし、明日からの七日間だって、絶対花嫁修行だよ──!」

「はっははは、あいつが花嫁修行ッ」

「新八さんッ、笑い事じゃない!」

「はははーっはっはっ、わりぃわりぃ」

 まったく悪いと思わぬ顔で、永倉は白飯をかっこんだ。その隣で、藤堂が眉を下げてちらりと土方を見る。

「でもあいつ、土方さんのこと──」

「泰助さんのこと、泰ちゃんとか言って妙に馴れ馴れしくて……」

「泰助ェ? あの反物扱ってるとこの」

「そう」

 永倉はあちゃ、という顔をして小さく唸る。

「ありゃいい男だよ。いくら土方さんのことがうんたらっつったって、当人が靡かねえんじゃぐらつくよな」

「そんなにいい男なの?」

「おう。ありゃ実直だし顔もいいしさ、たっぱもあるから見映えもする。土方さんよりひょっとするといいかもしれんぜ」

 くすくすと笑いながら言った永倉の言葉に被せるように、土方が箸をがちゃんと置いた。

 一瞬にして、場が冷える。

「──明日は今朝言ったとおり、朝番以外鍛練だ。忘れるなよ」

「は、はーい」

 冷や汗を垂らし、原田が小さく返事をした。気の抜けた返事が不服だったか、土方はぎろりと座を睨んだが、さっさと立ち上がり自室へ戻っていく。

「あの眼光で三人くらい殺せるんじゃねえか」

「これまで自分に好き好き言ってたやつが、ほかの男と自分から結婚しようってんだもんな。そりゃあ腑に落ちねえよ」

「でも、土方さんが言わせとくだけで放っておいたからこうなってるんじゃん」

「いやま、そうなんだけども」

「おかしいよ、そんなの」

 せいぜい後悔するがいいわ、と葵はかつて見たことのないほど歪んだ顔をして呟いた。

 しかし、原田は少しばかり曇り顔だ。

「そうか──綾乃は人のもんになっちまうのかァ」

「なるわけないでしょ。それ以上クソふざけたことぬかしたらその歯全部引っこ抜いてやるッ」

「こっ、こええ──!」

「綾乃は土方さんが好きなのよ、ずっと、ずーっと、これからもそうなの!」

 なにがそこまで彼女をこだわらせるのか。

 葵は麦飯をかっこみ、立ち上がった。


 ※

 綾乃が住み込み、四日。

「算盤ムリ。帳簿記帳とか電卓使おうぜ──」

 うんざり顔のゆとり世代からの発言に、泰助はぽかんとした。

「でんたくってなんや」

「算盤パチパチするより早いから。マジで」

「ふうん……?」

 綾乃はため息をついた。

 そのとき、携帯が震えた。

 本日二十三通目のメール着信である。

 数日前から、携帯が怒り狂った通知を訴えてくる。いい加減に無視もできまい、と綾乃は不機嫌な顔で携帯を手に取った。

「こないだっからブルブル震えとるあれ──綾乃のやろ。気になっとったんやけど、あれなに?」

「南蛮のからくり」

「へえ、綾乃は南蛮にも精通してはるんか。すごいな」

「まあね」

 未来から来たことは言っていない。

 言う必要もないと思っている。

 恐る恐る携帯を覗くと、葵から怒濤のお叱りメールラッシュが目に映る。

「ひえこわっ──ほんと通信どうなってんのこれ」

「なに」

「いや、……矢文がすごい」

「は?」

 矢文を探す泰助を無視して、綾乃は外へ出た。この時間帯は、人通りもまばらになっている。

 葵に電話をしようとしたときだった。

「三橋」

「はい、え?」

 後ろから声をかけられ、綾乃は反射的に返事をする。ふり返って視認した相手の姿に固まった。

「は、ひ、?」

「よう、ここかお前の修行場は」

 土方歳三、その人だった。

「修行?」

「花嫁修行しているんだろう」

「────」

 綾乃は口を開けた。

「なんですって?」

「しっかりやっているかと見に来た。まぁ、親心ってやつか」

「は、──は?」

「良かったじゃねえか。ここいらじゃまれに見る大店だ。玉の輿だな」

「──── 」

 むか、と綾乃は眉間が寄る。

「冷やかしなら、帰ってくださいよ」

「冷やかしじゃねえよ。一応気になるだろうが、俺のことをさんざ好きだと言っていた女がけろっと落ちるなんざ、どんなやつかと」

 土方は店を見る。

 泰助の横顔を見る土方の表情は、こちらからはうかがえない。

「あの男、好きなのか」

「は……はは」

 ぶち。

 堪忍袋の緒が切れた。

 脳幹が冷えたと思ったらカッと熱くなって、気がつけば土方の胸ぐらを掴んでいる。

 店の奥からその様子に気がついた泰助が慌てて飛び出してきた。

「なにしとんか綾乃ッ──あ、?」

「…………」

「…………」

 綾乃は土方を見てから泰助に視線を移す。

 そして不機嫌な声で言った。

「あ、これ……新選組の副長」

「あっこれは──どうも、いま綾乃さんに仕事を覚えてもらうために来てもろうて。ほんまに助かっ…………いや、どないな状況やねんこれ。副長はんの胸ぐらつかむなや!」

 泰助はあわてて綾乃の手を土方から離す。

 袷を整えながら、土方は泰助をじっと見つめる。

「いやすんまへん。なんや気性荒くて」

「知ってるよ」

「え?」

「そんなじゃじゃ馬を嫁にもらおうというのだから、これから大変ですな」

「────わはッ、それを貴方が言わはるんや。嫌味かい」

 泰助の瞳にすこし怒りの色が宿る。

「あんたその気にないんやったら、ほんまにもろうてしまいますよ」

 ぎらりと二人の視線が交わる。

 しかしそれは一瞬で、土方は訝しげに首をかしげた。

「だから、そう言ったろ」

「…………いや、だから。あれ綾乃、言うてへんのんか」

「は?」

「俺のことフッてる、て」

「…………」

 土方が綾乃をにらむ。

 が、いやいやいやと綾乃は首を大きく横に振った。

「そもそもわたし、泰ちゃんと結婚しますなんてだれにも一言だって言ってないしプロポーズのことだって葵にしか」

「ぷろぽ……?」

「徳田が飯の席でおおっぴらに花嫁修行だと言ってたぜ」

「あのアマ!」


 ──あの日、桟橋で。

 納品の反物を落としそうになるのをなんとかこらえて、綾乃は「ありがとう、ごめんなさい」と返した。

 自分には心に決めた人がいることも、泰助の気持ちは嬉しいしこれからも働き続けたいと思っていることも。

 未来から来たということ以外は、自分の想いをすべて伝えた。

「あんときは押せばいけるか思うたけど、こんだけ色男が相手とは……勝ち目なしや」

「なにいってんの。人として比べたら泰ちゃんの方が何倍も男前だよ。これを見てよ、応える気もないくせに自分のことが好きかどうかを確認しにくるんだから──」

「でも好きなんやろ」

「…………」

 余計なことを。

 と言いたげに綾乃は泰助をにらんだ。途端、土方はフッと鼻で笑う。

「おっと、仕事の途中だったんだ。じゃあな、住み込みでの仕事もあと三日だろう。からだに気を付けろよ」

「お気遣い痛み入りますゥ」

「あんたも、こんな口の悪い女よりいい女を見つけた方がいいぜ。二言目には罵倒かシモだ」

 ククク、と肩を揺らして大通りの方へと歩いていく。嗚呼、蹴りたい背中──。

 こうして、はた迷惑な花嫁修行騒動は落ちついた。

 土方より、勘違いという報を受けた永倉や沖田は「なんだつまらん」とがっかりし、葵は飛び上がって喜んだ。

 原田はにっこり笑って、葵を見る。

「よかったな」

「うん!」

「でもなんでお前ェ、あんな怒ってたんだよ。綾乃だっていつかは、土方さん以外に惚れることもあろうに」

「──綾乃の恋は、私の希望なの」

「は?」

「ちょっと変だし、恋の仕方はだいぶ気持ちわるいんだけど。でも──あれを見るのが好きなの」

「ははっ、お前ェもたいがい変ぞな」

「っへへへ!」

 葵はわらう。


「…………」

 カァ、とカラスがひと鳴き。

 冬の空は日暮れが早い。

 落日を背に佇む男が、ぎり、と歯ぎしりをした。


 ※

「士道不覚悟により、切腹を命じる」


 ──覚悟の上だったのかもしれない。

 野口健司が、白の装束をまとい、刀を腹に突き立てる今から約二日前。

 事は、突然に起きたのであった。


「──ここのところ、顕著に出たはります。露骨に助勤の方を避け、つるんでも永倉先生のみ」

「それほど芹沢や平山を慕っていたようにも見えなかったがな。いまさら正義漢気取りか」

「それは……やはり徳田さんが大きいかと」

「…………」

 山崎の報告に、土方は口許をゆるめた。

 笑っているのか──しかし瞳には殺意が沸いている。山崎は喉を鳴らした。

「いい機会だ」

「──は、」

「腐りかけの水菓子は、早めに処分しなけりゃなるまいよ」

「…………」

「徳田を見ていろ、野口がとち狂った場合に危険なのはあいつだ」

「承知しました」

 山崎は頭を下げた。


 ※

 修行最終日である。

 夕方、帰営する道すがらに斎藤と出くわした。

「あ、ハジメちゃん」

「…………」

 聞き慣れぬ言葉にとまどい、斎藤は挨拶をし損ねた。代わりに、綾乃が抱える荷物をひょいと受け取る。

「ありがとう。わたしいなくて寂しかった?」

「屯所が平和だった」

「…………」

「平和でなかったのは、お前の花嫁修行騒動のときくらいだ」

「や、それは葵がわるいでしょや!」

 斎藤はフ、とわずかに口角をあげた。


 帰営し、久しぶりの面子と飯を食う。それから湯浴みを終えて部屋に戻った。

 今日は、十二月二十五日である。

 現代ならばクリスマスだなんだと騒いでいる頃だろう。

「あぁ、疲れた」

 部屋に入る。

 土方が険しい顔で刀をいじっていた。めずらしく顔をあげてにやりと笑う。

「よう」

「うす。和泉守兼定ですか?」

「よく知っている」

「土方さんのことですからね」

 さらりと言われ、土方は黙った。

 刀の具合を丹念に見回してから、慣れた手つきで刀を鞘にしまう。

「でも、この間のときに思ったんですけど」

「あ?」

「土方さんもけっこう好きですよね、わたしのこと」

「…………」

「あはははは!」

 渋い顔をした土方に、綾乃はケラケラと笑う。そんな彼女をたっぷりと見つめてから、土方は暗い顔でうつむいた。


「野口がしぬよ」


「ははは、は────。え?」

「山崎に依頼していた件な、あれァやはり野口だった」

 芹沢平山両人暗殺の件だ。

 綾乃の顔がさっと青ざめる。そうだ、何故忘れていた。史実の野口健司は、たしかに──。

「これも、お前らの知るとおりか」

「…………」

「避けたいことだったが、──残念だ」

 と、いった土方はじっとりとした視線を綾乃から一分もそらすことはなかった。

 彼の癖だ。

 彼は嘘をつくとき、こちらの瞳の奥を覗くように見つめるのである。

 綾乃は唇をなめた。

「じゃあ、────」

 すこし湿った唇から出た言葉を聞いてようやく、土方は視線を外した。

 

 ────。

 気にくわなかった。

 彼女は自分と同じだと思っていた。

 芹沢と平山を殺害した人物が近藤の仲間だということは、隊士たちとて口に出さねどわかっていることである。

 だから、葵もきっと彼らを憎むだろう。

 そう思っていた。

 しかしここ数ヶ月、彼女は彼らに囲まれるなかでどんどん笑顔になっていった。

 それを見ていたら、無性に。


「裏切られた、と──思っちまったんだと」

 野口の供述である。

 聞き出した土方は、複雑な顔をしてつぶやいた。それに聞く耳を持つは綾乃だけ。

「それで徳田の寝込みを襲おうとしたところを、山崎がおさえたんだ。もちろん徳田は寝ていたから知らねえが、──」

 徳田には言うなよ、と土方は付け加えた。

「頼まれたって言えません」

「ああ、お前はそうだよな」

「…………」

 

 その日、野口健司は切腹。

 介錯は安藤早太郎がつとめた。


 ──覚悟の上だったのかもしれない。

 野口は小さく笑った。

 隣室から、葵の泣き声が聞こえる。

 刀を前に据えて野口は呟いた。

「武士に、──」

(武士になりたかったのだろうか)

 声を出さずに、自問自答をした。

(いや、ちがう。それは格好つけだ)

 結局ほしかったのは、────。

 野口は自嘲した。

 土方は表情を曇らせて、介錯を務める安藤に目を向ける。安藤は、表情を固くして微動だにしない。

「逝きます」

 凛とした声で、野口は言った。


 ふすまの奥から聞こえた言葉に、葵は唇を噛み締める。

 生々しく、肉を切る音が聞こえて、野口のくぐもったうめき声がした。やがて葵は「御免ッ」という安藤の言葉で、全てが終わったことを悟り、涙した。

 震える葵をあやすように、彼女の肩を抱いていた沖田がゆっくりと身体を離して、

「終わった」

 と言った。

「────────」

 葵は手をさ迷わせた。

 が、やがてぽとりと自分の膝に落とす。

 部屋の隅にいた綾乃は、目をそらした。

 ──じゃあ、また葵が泣くじゃないですか。

 クリスマスの夜、土方に言った自分の言葉を思い出す。

「…………」

 喉に鉛が詰まったように、息苦しかった。


「葵さん、野口くんが文を遺していきました」

 沖田が懐から書状を取り出す。

 内容は、形骸的なものだった。

 切腹理由や士道不覚悟にいたる所以など、ただひたすらに懺悔を綴った手紙。

 そのなかには一言も、葵に関することは触れられてはいなかった。恨み言のひとつでも書いてくれたらよかったのに。

「────」

「燃やせ」

 いつの間にか後ろにいた土方が、短く言った。沖田もうなずく。

「うん、それがいい」

「どうしてッ」

 葵の、悲鳴のような訴えに、沖田は眉を下げる。

「残すほうが惨めだもの」

「────」

「武士らしく死んだ、残るのはそれでいい」

 土方は言い捨てて部屋を出ていく。

 この手紙は、当然のことながら現代には現存していない。

 しかし。

 彼がもし、己の行動に恥ずべき想いを残さぬ意思を手紙にしたためていたら、あるいは。

 綾乃は、

「この世に、読まれて燃やされていった手紙は一体、どれほどあるのかしら」

 なんて言って、寒い寒い夜をずっと葵のそばで過ごした。

 葵は、明け方頃になって、ようやく眠りについたようである。


 その日の夜。

 永倉が部屋に来たとき、沖田は文を懐へとしまうところだった。

「野口から、もうひとつ預かったんだろ。ちゃんと葵に渡したのか」

「渡してませんよ」

「渡してやれよ」

「渡せませんよ、こんなの」

 永倉は沖田を見つめた。

 めずらしく不機嫌になっている。

「言葉は、ときに呪いにもなるんです。こんなもの──今の葵さんには渡せない」

「でも、──想いを告げることが書いてあるんだろうに」

「言葉だけ遺されたところで、返す相手がいないならそれは──ずっとずっと、背負っていかなけりゃならないんですよ。これから先、葵さんを生涯支えてやれる人が出てくるまで、」

 私が預かっておきます、と。

 沖田は少しだけ怒ったように呟いた。


 十二月二十七日、野口健司切腹。

 この日、芹沢一派の最期の粛正が終了した。


 ※

 年が明け、元治元年に突入した。

 野口切腹後すぐ、精神的なものにより体調を崩した葵であったが、沖田や綾乃、八木の奥方や息子たちの励ましに、近ごろは回復の兆しを見せ始めていた。


 そんなときである。

 京伏見付近に、坂本龍馬が来ているという噂を聞いた。

 ゆえに今日は葵の快気祈願も併せて、伏見付近までお出かけをすることにした。

「葵、お腹すいてない?」

「うーうん、大丈夫」

「すいたら言うんだよ。最近食べてないんだからね、アンタ」

「うん。ありがとう」

 綾乃は首をめぐらせる。

「確か、寺田屋に──」

 つぶやいたときである。

「火事やァッ」

 屋根に登って叫ぶ男たちがいる。

 周囲には「消し口をとれぇ」とはしごを抱え、水の入った桶を運ぶ男たちがいる。

「なに、なんだ」

「寺田屋近くの酒屋で火事だよ」

「ええーっ」

 近くにいた野次馬の情報に、綾乃は眉を下げる。

 でかい声をあげながら消し口の屋根に登り、纏を振り回すは、どうやら町火消しの人間らしい。

「おおっ、チャ、チャ──よう!」

 寺田屋から飛び出してきたらしい坂本が、二人に駆け寄ってきた。

「あ、まじで龍馬いた」

「火事か」

「うん」

 町火消しは、家屋を破壊していく。

「ええか、こっから崩すで。野次馬は水かぶって遠くへ逃げぇッ」

「うわー、かっこいい」

「この時代じゃアイドルだもんねこの職業」

「かっこいいもん、アイドルにもなるわ」

 葵は見惚れている。

 が、その後ろから、野次馬の波を押しのけるように出てきたひとりの女が、叫んだ。


「待ってまだッ、まだ中にうちの子が──」


「えっ?」

 喧騒にかき消され、火消しには届かない。こうしている間にもひたすら家屋を破壊していく。

 どうやら近くにいたふたりにしか聞こえなかったようだ。

「嘘でしょ」

「ヤバくない?」

「お願いッ、お待ちやす──」

「────っ」

 綾乃は目だけで周囲を見る。近くに水の入った桶を見た。それを見つけるや駆け出して、頭からかぶる。

 同時に、葵も別の桶を見つけていたか、躊躇なく頭からかぶった。

「こらそこッ──ちょっと待っ」

 二人は、制止の手をかいくぐって燃えて朽ちゆく建物の中へ飛び込んだ。


 ※

「…………」

 焼け落ちた酒屋跡で、捜索活動がはじまった。

 原田が、木材で瓦礫を退けていく。

 瓦礫はいまだ高温のため、素手で触ればたちまち火傷してしまう。

 そう、瓦礫でこれだけ熱いのだ。

 火に呑まれたらひとたまりもないだろうに。

 原田の瞳がじわりとにじむ。

「そっちもさがせッ」

 うしろで、永倉の怒声がとんだ。


 新選組が、

『壬生の女中らしき女たちが火事物件に飛び込んだ』

 という一報を聞きつけたのは、火事発生から一刻半経過したころである。

 駆けつけたときにはすでに鎮火していて、酒屋は完全に焼け落ちていた。

 年明けの冷え込んだ夕方、立ちこめる熱気にあてられて汗が垂れる。原田はそれを乱暴にぬぐった。

「────」

 捜索から半刻経過したころである。

「おい、誰かいる!」

 と、藤堂がさけんだ。

 不自然に丸まっている子どもであった。

 気を失ってはいるが、呼吸をしている。

「まだ生きてらァ」

「医者ァ」

 待機させていた町医者を呼び、治療に当たらせる。しかし町医者は驚いたように目を見開いた。

「傷が少ない! 町医者四十年やっとるが、焼かれたのにこんなん見たことないで」

 町医者が首を傾げるほど、子どもは状態がいい。煙を吸い込んだことから呼吸器への異常は心配だが、他の外傷はほとんどないといって良かった。

 その言葉に、さんざ泣き叫んでいた母親は強く強く息子を抱きしめる。

 ──しかし。

「おい、本当にあいつらまでここに入ったのか。影も形も見あたらねえよ」

 原田は苛立ったように汗をぬぐった。

 横で小さな瓦礫を投げ飛ばした永倉が、からりと笑った。

「こりゃ、あれだ。野次馬の野郎どもがとんだ法螺吹きやがったんだよ、きっと。俺たち嫌われもんだから、こうやって手間をかけさせようって魂胆でよ。きっとあいつらのことだから夜にでもフラッと屯所に帰ってくるよ」

「そう、かなぁ。そうかもしれねえな──おい土方さんよう」

 明るい声で原田が駆け寄る。

 惨状をしばらく見つめていた土方は、その仮説にうなずき踵を返した。

「帰営しよう」

「土方さん──」

 沖田が不安げな顔をする。

「夜まで待とう。今宵は外泊許可までは出してねえからな、焼け死んでなきゃあ帰ってくる」

「帰ってこなかったら?」

「…………」

 土方はじっとりと沖田を見つめてから、踵を返した。

 ざわざわ、ざわざわ。

 沖田の胸のあたりがざわつく。

「や、やっぱりまだ探します」

「もういい」

「いやです」

「もういいと言ってる!」

「だって帰ってこなかったら、──」

 沖田はぐっと口をつぐむ。それ以上は言葉にできなかった。

 土方は、下から睨みつけるように彼を見上げる。

「生きている保証はねえが、死んでいる保証もねえだろ」

「────」

「屯所に、戻るぞ」

 それから間もなくして新選組は帰営した。

 が、その日の夜、とうとう女たちが帰ってくることはなかった。


 翌日、母親に連れられて少年が屯所を訪ねてきた。

 焼け跡から発見された子どもである。

 応対したのは島田と永倉であったが、少年はふたりの顔を見るなり泣き出してしまった。

「ごめんなさい、ごめんなさい──」

「おいおい、なんだぁ」

「永倉さんの顔が怖いんじゃないですかァ」

「それをいうならてめえのツラだろッ」

 と、いうふたりのやり取りに母親はあわてて首を振った。

「あの、そちらの女中はんがうちの子を助けてくれはったて聞いて──どうしてもお礼が言いとうて」

「え、ああ……」

 永倉の眉が下がった。

 少年は、涙をぬぐいながらつぶやく。

「お姉ちゃんたちな、大丈夫やいうてな、守ってくれはってん……平太の頭抱いてな、──」

「そ、そりゃあ本当かよ」

 となれば、彼女たちは本当に火事物件へと飛び込み、亡骸ひとつ残さぬまま消えたということになる。

 永倉は顔を曇らせたが、すぐに笑顔で少年の頭を撫でた。

「……ちっと、いまは雑用でいねえんだ。きちんと伝えておくからよ、心配するなよ」

「あい──」

「ほんまおおきに」

 親子は早々に引き上げていった。

 いまの会話を始終聞いていたのは、永倉と島田だけではない。いつの間にか屯所に残っていた隊士たちも聞き耳をたてていた。

「そんな、じゃあお嬢たちは」

「まさか本当に死──」

「おいてめえら、仕事に戻れッ」

 土方の怒声が響く。

 朝からピリピリしていた彼は、いまの会話でさらに不機嫌になっている。

 これ以上雷を落とされたら敵わん、と隊士は一斉に散った。

「土方さん、こりゃあ──覚悟が必要かもわかりませんな」 

 永倉がつぶやく。

 土方はぎろりとひとつ睨みつけて、しかしなにを言うでもなく外を見つめた。

(わかっている)

 土方は拳を握る。

(わかっていらァ、そんなこと)

 けれど、恐らくこの場にいた人間の誰よりも、土方はその事実を認識するのが怖かったのである。

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