帰郷す

 十日が経ったいまもふたりは戻らない。

 近藤はまもなく、

「生存の望みなし」

 と結論を出した。


 壬生浪士組時代からともに過ごした初期メンバーはとくにショックが大きいようだった。

 原田がすん、と鼻をすする。

「明日、葬式だとよ」

「いやだなあ」

 藤堂は呟いた。

「死体もねえのに葬式なんざ────やりたかねえやな」

 という永倉の背中を、土方がばしりと叩いた。その顔にはめったにお目に掛かれない笑顔が浮かんでいる。

「辛気くせえな、あいつらはどんちゃん騒ぎで送り出してやった方が喜ぶだろうぜ」

「甘いよ土方さん。あいつらのことだ、自分たちの葬式のときに泣かねえやつは祟り殺すとでも言うに違いないですよ」

「ハッハッハ、恩着せがましい奴らだ」

 土方は声をあげて、笑った。

(異常だ)

 と、永倉は思う。

 彼がこれほど他人にたいして、表立って感情を出すことがあっただろうか。

(いや──)

 彼なりに悲しいのかもしれない。

 そう思えば、この男もただの人の子なのだと永倉はすこし親近感を覚えた。

「明日は嘘でも、泣いてやりましょう」

 と言えば、土方はにやりと笑って自室へと戻っていった。


「静かだな──」

 彼は自室へ戻り、一言つぶやく。

 あの日から、物置部屋を覗く癖がついた。

 もういないことはわかっているのだけど、ガラリと開ければ「冗談ですよ」なんて笑ってそこにいる気がして。

「わけねえや」

 と、苦笑して閉める。

 ──よほど、辛かっただろうと思う。

 少年の話によれば、炎の中であの二人が命をかけて守ってくれたのだという。

 きっと、熱かっただろう。

 痛かっただろう。

 苦しかったかもしれない。

「────」

 そばにいてやれなかったことを、これほど後悔したことはなかった。

 ふ、と脱力して畳に腰を落としたとき、襖が開いて沖田が入ってきた。

「土方さん入りますよう」

「そういうのはあける前に言うもんだ」

「────」

 小言をぶつけるが、いつものおちゃらけた様子はない。

「なんだよ、陰気臭い顔しやがって」

「……こんなときに太陽のように笑えってんですか、無理ですよそんなの」

 沖田は怒ったように言って、懐に手を入れる。

 それからめずらしく、

「としさん」

 と言った。

「──としさん、私ね。あの人たちはどこか特別だから、きっとこんなお別れはしないって思って」

 懐にいれた沖田の手が震えている。

「それで──」

 彼の懐にあるものを想像した。

 かさりと紙の音がする。文だ。

「…………」

 そうだ、沖田は野口から葵に宛てた文を預かっていた。それを渡せなかったことを悔やんでいるのか。

 土方は無言のまま沖田を制した。

「わかってる」

「……あの人たち、いつも隊士の誰かが死んだら泣いたんです。たった三日ほどしかともに過ごさなかった阿比留さんのときでさえ、泣いていたんだ」

「ああ」

「私、なにが悲しくて泣いているのか分からなかった。けれど、けれどいまはね……」

 沖田はそれっきり口をつぐんでしまった。

 土方は億劫そうに文机に向かい、

「せめて、未来とやらで死んでくれりゃあ」

 気にすることもなかったのによ、と自嘲した。


 ※

 熱い。熱い。熱い。

 ──火が迫る。

 ゴウゴウと燃え盛る音が耳を、黒く煤けた煙が視界を覆った。

 瓦礫が崩れ、少年に覆い被さる綾乃と葵の頭に落下したところで、ふたりの意識は途切れた。


 ──。

 ────。

「あっちィッ」

「いッて!」

 ふたりは、同時に飛び起きた。

 その拍子にぎしりと音が鳴る。

(…………)

 だくだくと汗が背中を伝って、ぴりついた肌を冷やした。──いや、ぴりついたように感じたのは一瞬で、落ち着いてみると肌を刺すような熱はなく、むしろひんやりと冷気が身体を包む。

 頭は不思議としゃっきりして、周囲の様子がよく見えた。おかげで綾乃は戸惑う。

 身じろぎをすると、ふたたびぎしりと音が鳴った。

 寝床と思ったそこは、赤いフェルト生地の布をかけた長椅子のようである。

 首をめぐらせ、うしろにいた葵を見た。

 彼女は自分の後頭部をしきりにさわって、

「あれ?」

 と、手のひらを確認している。

「あ。──おはよ」

「うん──おはよ」

 互いにそれだけ言って、黙った。

 建物の外でブォン、というエンジン音が聞こえる。車が通過したのだ。

「…………」

 車?

 綾乃と葵は同時にその車の行方を覗く。

 ふと気が付いた。

 周囲は、ショーケースに入った饅頭や新選組グッズが陳列され、店員が客を相手にレジスターで平成紙幣の計算をしている。

(え?)

 綾乃と葵は無言で、お互いの目を見た。

「あぁ良かった。大丈夫ですか、八木邸前のそこにおふたりが倒れとったもんやから、ここに運び込んだんですよ」

「えっ」

「熱中症かねえ。大丈夫?」

「────」

 どういうことだ。

 無機質なそよ風が頬を撫でる。そうだ、この冷気はクーラーだ。

 ふたりは、三度お互いの顔を見合わせてようやく、ここが平成の世であることを認識した。綾乃は立ち上がり、外を見る。

 寝起きでぼうっとしていると思ったか、店員はくすりと笑った。

「お茶と屯所餅、召し上がり。八木邸見学はそれも含めて千円やからね」

「と──屯所餅?」

 と葵が首をかしげ、ハッとした。

 そうだ。京都旅行で八木邸に訪れたのだ。

 すこし割高な拝観料だが、屯所餅と呼ばれる壬生菜の混ざった餅を食べることができる、と受付で聞いたような──。

 なるほど、ここは八木邸横の和菓子屋、鶴屋鶴壽庵であるらしい。

「すぐお持ちします」

 店員は奥へと引っ込んだ。

 ふたりは沈黙のまま屯所餅を待つ。

 お互いに夢の話をしていいものかと悩んでいるのだ。

(…………)

 葵は、意を決した目で綾乃を見た。

「綾乃、すっごい変な夢見た」

「へえ──どんなの」

 綾乃は再び長椅子に腰掛ける。


「幕末にトリップして焼死した夢」

 そして、長椅子から転げ落ちた。


 ※

「じゃあ、綾乃も焼け死んだんだ!」


 屯所餅を食べ、葵が弾んだ声をあげた。

「うん、死んだ。死んだと思ったけど──夢だったのかなぁ」

「うーん」

「とりあえず、観光するか」

「うん」

 鶴壽庵には丁重に礼を伝え、ふたりは新選組のマグカップと湯呑みを購入してから店を出た。

 体感、八ヶ月ぶりの平成である。

 初めは排気ガスの臭いが慣れなかったが、三十分も歩けばすっかり慣れた。

 おまけに、身が軽い。

 着物の重みに慣れたふたりにとっては、洋服など空気を纏うような快適さである。

 綾乃は空を仰いだ。

「洋服ってやっぱり文明開化よね」

「本当、開放的な気分」

 葵もぐぐ、と背伸びをして脱力する。

 ふと、綾乃の肩口を見た。

「ちょっと綾乃どうしたの。その火傷」

「えっ」

 まだ新しい。

 自分で見るのが難しい場所にある。葵はデジカメで撮って見せてやった。

「ほら」

「うわ」

「痛くない?」

「気付いたら痛くなってきた」

「ご、ごめん」

「いいけど──」

 綾乃がデジカメを覗きこみ、

「あっ」

 とタッチパネルを操作する。

 デジカメの画面に出てきたのは、驚いた顔をした芹沢鴨と土方歳三であった。

「これ、……あの世界に行ったばかりのときに、葵が撮った写真!」

「ど、どういうことなんだァ」

 葵はしゃがみこんだ。

 肩口の火傷に加え、写真まで残っているとなると、つまり夢ではなかったということになる。

 本当に、いったい──。

 葵はあわてて立ち上がった。

「まず私たちが、八木邸で何をしたら芹沢さんに会えたかを思いだそうよ!」

「もう八ヶ月も前のこと覚えてないよう」

「デジカメになにかヒントないかなぁ」

 という言葉から、ふたりの写真観賞会がはじまった。


 一時間経過したころである。

「なにこのショット。わたしすごい不細工に写ってる消して──あっ、この土方さんの睫毛の影が頬にかかってる感じセクシーだからやっぱり消さないで。次」

「────」

「このサノ、彫りの深さが際立ってほぼギリシャ彫刻じゃん……前頭葉保存。次」

「────」

「うわ筋肉美。ふふ、島田さんとサノに挟まれるとアンタ囚われの宇宙人みたいだね。アッハッハ!」

「いちいち偏見と性癖を垂れ流すのやめろ!」

 ヒント探しのはずが、先程から一枚表示するたびに綾乃が口を開くため、八百枚以上ある写真の確認作業が八十枚ほどしか進んでいない。

 綾乃は唐突に顔をあげた。

「飽きた。観光しよ」

「あんた、まだ十分の一しか見てないじゃない!」

「ほらそれ、八坂神社の相撲興行の写真でしょ。近くに晴明神社もあるし、行こうよ」

「いや、ま、いいけどさ──」

 まったく自己チューなんだから、と葵がため息をつくと綾乃はわらった。それからそのまま顔を伏せた。

「どうしよう」

「え?」

「戻れなかったら」

「…………」

 葵は眉を下げる。

 なにを言っているんだ、とおもった。

「戻れなかったらって──私たちが戻るべきはここであって、向こうじゃないでしょう」

「それはわかってるよ。だけど」

「まあでも、確かに一度は行ったんだから。行きたいと思っていたら意外とすんなり行けるかもしれないね」

 めずらしく、葵が楽天的なことを言った。

 おどろいて閉口する綾乃の顔を、デジカメでパチリと撮って、

「大丈夫、なんとかなるよ」

 と笑った。


 ────。

 旅先での一日は早いものだ。

 歩き通しで疲れた脚をホテルで休ませ、ゆっくりと風呂につかる。

 バシャバシャと贅沢に湯水を使い、およそ八ヶ月ぶりとなるベッドの上で睡眠を取った。


 翌日は朝から電車で伏見まで。

 揺られる車内で、寝不足の目を擦りながら、さらには昨日のハードな行程による筋肉痛を引きずりながら、会話もなく外の景色を眺める。

 足元には、スーツケースも連れて。


《伏見桃山、伏見桃山》


 目的地である。

 今日は自分たちが命を落としたであろう酒屋付近に向かっていた。

 場所は、寺田屋の近く。

 途中にある伏見奉行所跡の石碑を写真に納めるとまもなく、寺田屋を発見した。

 いまでも旅篭として経営しているという寺田屋を見て、ふたりはジンと胸の奥が熱くなった。

 さて、死に場所へゆく。

 寺田屋からすこし進んだところにそれはあった。

 当時よりもはるかに大きい蔵だが、間違いない。あの酒蔵だろう。

「さて、と」

 綾乃がスーツケースの上に腰掛けた。

「現場検証といきますか」

「どこら辺で死んだっけ」

「ここからそっちの、その辺りだと思う」

 スーツケースを引っ張りながら、酒蔵へ続く階段をあがる。不審者のような動きでうろうろと周辺を見て回る。

 そのとき。

 不意に漂ってきた、燻したような不快な臭い。

「くさっ」

「なんだろ」

「燻製──にしては焦げ臭すぎる。葵、おならした?」

「どんだけのもん食ったらこんな臭いするのよ。しないよこんな焦げた──私の尻が焦げてるとかならまだしも」

「こ、焦がしたことあるの!?」

「例えだよバカ!」

「その例えもどうなの──ああっもう臭い、臭すぎる!」

 綾乃は、堪えきれずに階段を駆け降りた。

 地についた足がぐしゃりとなにかを踏む。

 葵もあわてて階段を降りると、最後の段で

「あっ」

 と足を踏み外した。

 そのまま地面に尻餅をつく。

「ちょっと、大丈夫──あれ?」

 近寄ろうとスーツケースを引っ張ると、地面が凸凹していてうまく進まない。

「ギャッ最悪。煤だらけっ」

「は、煤?」

「あれェ寒くない?」

 葵はぱたぱたと服をはたき、はっと気付いたように再び綾乃を見た。

 綾乃は、顔をしかめて鼻をつまむ。

「ていうか、臭いが強くなっ──」

 焦げ臭い。

 焦げ臭くて適わない。


「へっ」

「あれェ」


 気が付けば、焼け野原が目の前に広がっていた。



「──こんなもんしか、あげられんが」


 焼け跡に向かって、坂本龍馬は花束を添えた。

 彼女たちの焼死から十一日。

 初めのうちは気丈に振るまって、寺田屋にて火事の現場を事細かに話した坂本だが、日が経つにつれて気分はどん底にまで落ち込んだ。

 なにせ彼女たちが駆けていく最期の姿を見たのだ。何故止められなかったのか、と幾度己を責めたかわからない。

 そんならしくもない姿に、寺田屋の女将、登勢とせが「しっかりおしよ」と励ました。

「坂本さんがそんなんどしたら、その子たちも報われまへん。不思議な子たちでしたんどっしゃろ。それやったらまだ死んどらんかもわかりまへんえ」

「…………」

「仏さん出とらへんのやろ。どこかで生きてて、お医者にかかったはるんと違います?」

 登勢は言う。

「いや、今日が葬式だと聞いた。……香典を届けてやらにゃあ」

 と、言っていくうちに坂本はじわりと涙が出てきたので、あわてて寺田屋を飛び出した。


「────」

 べつに、それほど親しかったのかと言われればそうでもない。祇園祭や神戸で交流したくらいである。

 けれど、坂本は結構気に入っていた。もっと話を聞きたかったし、ともに語り合いたかった。

「う、」

 それなのに何故。

 双眸からぽろりと涙がこぼれる。

 それをぐいとぬぐった坂本の前に、馬鹿でかい箱をガラガラと引きずる彼女たちの姿があった。

「おお……切望のあまり幻覚まで見える」

 幻覚の女ふたりは、そこらの燃え残った角材などを蹴飛ばしている。

「くさっ。マジヤベェ──臭いもそうだしなんかすげェ寒いし……吐きそう」

「火事のあとってこうなるんだァ」

「オェ、はやく移動しようよ!」

「あの少年、大丈夫だったかなぁ」

「葵ってば!」

 ──いや違う。

 彼女たちは、本物だ。

「あっ」

 自分を見つけて笑顔で駆け寄ってくるあの姿を幻というのならば。


「坂本龍馬!」


 俺は現実なぞ信じないぞ。

 坂本はそう思って、震えた。

(なんてこった、こんなことが)

 慌てるあまり声を出すことも忘れて、足をもつれさせながら駆け寄る。

 たまらずふたりまとめて抱き締めると、綾乃は嫌な顔をした。

「オェ、龍馬もくさい──」

「ぐるじい龍馬ァ」

「やかましいっ」

  坂本は、珍しく怒声を放った。

「馬鹿もんがぁ」

 けれど坂本の双眸に光る涙は、何よりも坂本の心情を物語っている。

 葵はしゅんとうなだれて「ごめんなさい」と呟いた。綾乃は鼻をつまんで頭を下げている。

「本当に──無茶苦茶しよって。なんだ、その格好は。寒いだろう!」

「ごめんなさい……」

 葵はいまにも泣きそうだ。

 あわてて坂本がふたりから離れ、じろじろと上から下まで流し見る。ぼけっとした顔をしている綾乃に、眉尻を下げて言った。

「大丈夫か。怪我は、しちょらんか」

「うん。ちょっと肩に火傷があるくらいで」

「ほうか──そんだけか」

「うん」

「あの火事で、そんだけか?」

「うん」

 この男は、自分たちが未来から来たことを知らない。

「ほえー、運がええなァ」

「まあね」

 綾乃は、んなわけねえだろと心で思う。

 しかし坂本はふと首をかしげた。

「ではどこにいた」

「え?」

「新選組には戻っておらんと聞いたぜ」

「…………」

 ふたりが顔を見合わせる。

 返答に困ったのだ。まさかこの男に、未来に帰っていたとは言えない。

「それで、今日が葬式だとも」

「葬式?」

「だれの」

「おまんらふたりのに決まっとろうが」

「…………」

「…………エッ!」

 まさか、そんな。

 ちょうどこれから香典を届けてやろうと思っていた、という坂本へ丁重にお断りをし、ふたりは別れを告げた。

 再会を約束し、ふたりは京市街へ向かって駆け出す。お互いに洋服のため非常に目立つが仕方がない。

 坂本によれば、あと一刻ほどで始まるだろうという。

 スーツケースを引きずりながら、ふたりは息を切らして屯所を目指した。


 ※

 線香の煙がくゆる。

 壬生寺には、黒い隊服をまとった男たちがぞろりと集まった。みな沈んだ顔で、煙が立ち上るのを見送っている。

「はぁ──さみィな」

「おい藤堂くん、泣いてやれよ」

 永倉がにやにやと笑いながら言った。

「うん……でもさすがに十日も経っちゃあ、慣れるよな」

「ははは、祟られるぞ」

「えっ!」

 藤堂の顔が青ざめる。

「だ、だからか。あの日からおれどうも寝覚めが悪くて──この間なんか下駄の鼻緒が切れてさ」

「祟りだ祟り!」

「うわあ、綾乃ォ。許してくれェ!」

 と、その場に土下座をしはじめた藤堂に、永倉は爆笑した。平隊士も、わるいと思いつつ口許が弛んでいる。

「…………」

 と。

 いう仲睦まじいようすを、壬生寺山門の柱の影から暗い目で睨みつける綾乃。

 となりでは葵が腹をよじって笑い声を堪えている。

「あんた祟ると思われてるじゃん」

「は、腹立つゥ」

 さて。

 なんとか葬式前に間に合ったふたりだが、これからいったいどのように登場すればよいかを決めかねていた。

 普通に「生きていました」と出ていくのも芸がない。かといってそのまま葬式を始められるのも居心地が悪い。

「どうしよう」

「でも早くしないと、みんな香典の受付始めちゃってるよ」

「うん──」

 おい、と後ろから声をかけられた。

「なにボサッとしとるんだお前ら。早く着替えて中へ入れェ」

「あ、はーい」

 原田左之助。

 綾乃と葵は、壬生寺に入っていく彼の後ろ姿をじっと見つめる。

 彼はまもなく立ち止まって、ぐるりとこちらを振り向いた。

 その目は、カッと見開いている。

「…………」

「────」

「…………」


「あれ……今日ってだれの葬式?」


 原田の言葉に、ふたりは吹き出した。

「あ──ゆ、幽霊」

「生きてるよ!」

「ただいま」

「…………」

 ふたりは精一杯の笑顔を浮かべた。

 途端、彼はふたたび前を向いて走り出す。

 やがて壬生寺全体──いや、壬生村全体に轟くような大声で、

「葬式は中止だァーッ!」

 と叫んだ。


 ────。

 綾乃と葵は、畳の上に額を擦り付けるほど深く土下座をした。

 目の前には近藤、土方を筆頭に彼女たちの事情を知る助勤隊士がずらりと揃っている。

 みな黙って女たちの言葉を待っているのだが、ふたりはふたりで彼らの視線に圧されて口を開けずにいた。

 心情察したか、口火を切ったのは永倉だった。

「ふたりともそんなに肩を出して──寒かろう。初めて会ったときもそんな着物を着ていたよな」

「……あ、あっちの季節が夏だったの。初めてここに来たときは、こっちも夏が近かったから良かったんだけど」

「と、いうことは──」

 突っ込んで聞こうとした永倉を、近藤が手で制止した。

 ふたたび沈黙がはじまる前に、意を決して綾乃が顔をあげる。

「本当に、すみませんでした!」

「お葬式まで準備してもらっちゃって、遅くなって──また戻ってきて、ごめんなさい」

 葵も、ひどく申し訳ない様子で続ける。

 近藤は厳しい顔で首をかしげた。

「あの火事から、どうしていた」

「死にました。死んだと思ったら未来に帰っていて」

「死んで、帰郷を」

「うん」

 綾乃がうなずく。

 もはや、未来と過去を行き来することに関しての突っ込みは、ない。

「よく分からないんですが、──気が付いたらまたこの世界に来ていました。今回は、伏見に」

「伏見に?」

「向こうの世界で、戻る方法を探そうと思って自分たちが死んだ場所に行ったんです。そうしたらいつの間にか」

「さっぱり分からんな」

 葵の言葉に、近藤は首をひねった。

「私たちにもさっぱり分かりません」

「でも、でもさぁ」

 藤堂が言った。

「またこっちに来てェと思ってくれたってことだよなァ。なんだか嬉しいな」

「…………」

 ──尊い。

 ふたりの顔が歪んだ。

 正直、どんな罵倒が飛んでくるかと身構えていたふたりにとって、予想外の言葉に涙腺がゆるむ。

 しかし近藤は胡座の上に置いた拳を震わせて、厳しい声で言った。

「とはいえ──どんな理由があったにせよ。火事のなかに入るなんて無謀な真似は二度とするんじゃァねえ。約束しなさい」

「……はい」

「お前たちは隊士ではないにせよ、新選組の一員なのだから。いいな?」

「はい」

 その一言ののち、近藤は頬をほころばせてふたりの肩を抱いた。

「本当に、よく帰ってきた。待っていたぞ」

 嬉しくてちょっとこそばゆい。

 綾乃と葵はにっこり笑って「はい!」と返事をした。


 この会合のなか、沖田はまばたきもせず食い入るようにふたりを見つめていた。おかげで少し充血して白目が紅くなっている。

「葵さん」

「うん?」

 会合が終わったとき、沖田はすぐさま葵を呼び止めた。

 懐に手を突っ込んでもじもじとしている。

「どうしたの、厠?」

「違います」

 と言ってから沖田はくるりと踵を返して、

「や、やっぱりなんでもないです」

 と言った。

「えっ」

「それより本当に、もう此度のような無茶をするのはやめてください。こっちだって心の準備とかいろいろありますから」

「あ、は……心の準備?」

「怪我。怪我はないんですか」

 沖田はふたたび葵へ顔を向けた。

 どことなく落ち着かない様子である。

「う、うん。綾乃が肩に火傷したくらいで」

「綾乃さんが──可哀想に。葵さんもどこか痛いところとか」

「いや、ないよ」

「良かった」

 子犬のような瞳である。

 身体はうんと大きいくせに、彼は情けない顔をしてその場にしゃがみ込んでしまったので、葵は困り果てた。

 そもそも、こちらからすれば単に一日過ぎた程度である。聞けばあの火事から十日以上が経過していたらしい。

 死んだと思わせたのは申し訳ないが、まさかここまで心配してくれていたとは。

 葵はなんだか照れ臭くなって「ありがとう」とつぶやいた。

 すると沖田はふたたび立ち上がり、そろりと葵の肩に手を置いた。

「…………」

 何をするのか、と葵は硬直した。

 沖田は終始無言で己の胸に引き寄せると、非常に遠慮した手つきで彼女を柔く抱きしめた。──抱きしめたといっても、身体がくっつかない程度のひどく消極的な抱擁である。

「へっ」

「良かった」

 二度、言った。

 葵の動悸が速くなる。

 しかし先にギブアップをしたのは、沖田の方だった。

「はー、慣れませんね。こういうことは」

「はっ」

「恥ずかしいったらないや。でも、うん。──良かった」

 三度。

 沖田は恥ずかしそうに、しかしどこか達成感のある顔でにっこり笑って、

「おかえりなさい」

 と一言、言った。


 さて、心中穏やかでないのがもう一人。

 斎藤一である。

 ふたりが生きていた、帰ってきたと壬生寺のなかが大騒ぎになった最中も、斎藤はその姿をただひたすら探し続けた。ふたりが笑う姿を見たときは、柄にもなく腰が抜けそうになったほどである。

 いつかの綾乃の言葉がよぎった。

 ──わたしがいなくて寂しかった?

 と。

 あれは、彼女が反物屋へ修行をしに行ったときに聞いた言葉だ。

 あのときは、

(ばかやろう)

 と鼻で笑いたくなったものだが──今回の”事”は、斎藤にとって大きかった。

「…………」

 会合が終わって、原田や尾形俊太郎に声を掛けられている綾乃を見つめる。

 こういうときに気軽に声をかけにいく性格ではない自分をすこしうらんだ。が、まもなく笑顔の綾乃が駆けてきた。どうやらひとりひとりに声をかけているようだ。

「ハジメちゃん!」

「──前も、そう呼んでいたな」

「だって同い年だし。イメージ怖めの人だから呼び方だけでも可愛くしたいなっと思ってさあ。ぶっちゃけ、この世界に来て斎藤一の本物に会うまでは勝手にそう呼んでて」

「おかえり」

 言っている意味の半分も分からなかったので、斎藤はぼそりとさえぎった。

 一瞬ぽかんとしたけれど、綾乃はふたたび嬉しそうにわらって「ただいま」と言った。

「わたしたちがいなくて、寂しかった?」

「…………」

 まったく反省していない顔で、綾乃はこそりと聞いてきた。

 斎藤は、あきれた。

 しかしそれもいい。

「寂しかったよ」

「はははは──、えッ!」

「寂しかった」

 綾乃の驚いた顔を見て、斎藤はにやりと笑う。

 やがて自身の羽織を脱ぎ、

「寒かろう。着ておけ」

 と綾乃の肩にかけた。

 廊下の奥で、山野八十八やまのやそはちが「祝い酒をもろたで」と触れ回っているのが聞こえる。

 どうやら夜は、宴会のようだ。


「ふあぁ、────」

 宴も終わり、就寝のため廊下を歩く。

 欠伸をしてから綾乃は襖にかけた手を躊躇した。

 愛しい愛しいあの人が待っているはずのこの部屋に、いまいち勇んで踏み込むことができないのには、理由があった。

 ──帰還したと聞いたときも、会合のときも、一言も声を出さなかったこの部屋の主。

 夜の宴のときですら、斎藤の羽織を身につけた綾乃を見るや向けてきたのは信じられないほどの冷たい目。

 そのあまりの冷たさに、綾乃は背筋が凍り「ご心配をおかけしました」の一言を喉から絞り出すだけで精いっぱいだった。

 何故あれほど怒っていたのか、と頭を捻ったがわからない。

「────」

 入りづらい。

 胃痛までしてきた。

 どうしよう、と立往生をしていると、すらりと目の前の襖が開いた。

 そこには問題の男、土方歳三が立っていた。

「あ、は──こんばんは」

「なにをしていやがる。入れ」

「あ、はいっ」

 綾乃は身をこわばらせてすごすごと入る。どういうわけか、いまは怒っていないようだ。

「あの、改めて本当にご心配とご迷惑をおかけして──そしてまた戻ってきて御厄介になることとなり、その、申し訳ありませんし……よろしくお願いします」

 その場に正座をして、三つ指をついた。

 土方は文机の前にどかりと腰を下ろしたが、身体はこちらを向いていた。

 頭を下げる綾乃を黙って見つめている。

「もう、さすがにあんな無茶なことはしませんッ。土方さんに誓って!」

「…………」

 彼から反応はない。

 そろりと顔をあげると、いまだに土方は綾乃を見つめている。

 その眼を見て綾乃は息を呑んだ。

 想像以上に優しい目をしていたからである。

「あ、あの」

「どうしようもねえじゃじゃ馬め」

「────」

 嗚呼。

 彼は、怒ってなどいなかった。

 いま放たれたその声が、とても優しく、せつなく響く。

「意味のわからねえことしたっていい、うるさく騒ぎ立てたってたまには許してやるから」

 土方はふっと眉を下げた。

「俺のあずかり知らんところで、勝手にいなくなるんじゃねえ」

「……は」

 ぷつん、と。

 綾乃のなかの糸が切れた。これまで張り詰めていた緊張の糸だった。

 そうだ、怖かった。

 怖かったのである。

 じわりと瞳に涙が浮かび、綾乃はあわてて立ち上がった。

「も、もう寝ます」

「あ──いや」

 物置部屋への襖を開けたとき、土方は奥歯にものが挟まったような言い方で切り出した。

「その、なんだ──お前に言わなきゃならんことがあってだな」

「なんですか。プロポーズ?」

 と頬をゆるませながら綾乃が物置部屋を見ると、いつも視界に入るものがない。

 なにか物足りない。

 なんだっけ──と瞳を細めて思案する。そうだ、いつもここに確か──。

「あれ?」

 あるはずの布団一式が、何もない。

「────」

「嗚呼」

 土方のため息が聞こえた。

 まさかこの男、死んだと思って物置小屋の中身を片したか。

 あの時の冷たい目はもしや、既に死んだと思ったから布団を捨てたのにまさか帰ってくるとは、という焦りの目だったのではないのだろうか。

 綾乃は、ちらりと土方を見た。

 震えている。

 小刻みに震えている。

 土方の肩が。

 おまけに少しだけ笑い声が漏れ聞こえてくる。

「…………」

「…………」

「……わたしの布団、捨てました?」

「すまん」

 ふい、と土方は目をそらして立ち上がって自分の布団を敷きはじめた。

「明日にでも質屋から戻してくる。ほら、斎藤の羽織があったろう──寒さはそれでしのぐとして、今日は板敷で我慢してくれ」

「────」

 もうすっかり「おやすみなさい」という一言を言う気も失せた綾乃は、だまって物置部屋へと引っ込んだ。

 隣の部屋から行灯の火を消す音、そして布団に入る音が聞こえる。

 幸いにこの部屋は物が多いため寒さは少ない。

 綾乃はごろりと横になる。が、すぐに起き上がって再び隣室へと戻った。

 部屋は真っ暗である。

 手探りで土方の布団へと向かいごろりと横になった。

 布団にこそ入ってはいないが、出会って八か月。念願の同衾である。

 当然、土方は慌ててがばりと起き上がった。

「おい、なにをしていやがるんだお前は」

「怖かったんです」

「は?」

「あのとき土方さんに」

「────」


「あのとき、目が覚めて、もう土方さんに会えないのかと思ったら、……焼け死ぬと思ったときより怖かった」


 土方はもう、何も言えなかった。

 当の綾乃は身を縮こませて、それ以上口を開くことはなかった。

 ふ、とため息をついて土方が布団に倒れ込む。

(さすがに、情のひとつも移ったか)

 土方はおもう。

 毎日、物置部屋の空っぽの布団を見るたびに、いやになったことも。

 いっそ布団をなくしてしまえばいいと思ったことも。

 会合のあとに斎藤が放った「引きませんぜ」という言葉に、不覚にもどきりとしたことも。

 きっと、毎日ささやかれた彼女からの愛の言葉にほだされたからに違いない。

「……まいったな」

 土方は瞳を閉じた。

 明日、質屋に行かねばと思いながら。

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