疑心は
『寒くなってきたけれど元気ですか。こちらはみな元気です、安心してください。
二十一日に、
長い間手紙も出さず申し訳ないが、私が書くような手紙では京の情勢は書ききれない。出したいとは思いながらも出しませんでした。
この気持ち、察してくださいね。
最後ですが、小島家の両親をはじめとして皆さんにどうぞよろしく。松平肥後守お預かりになった新選組は、日々活気づいています。捨助より詳しく聞いてください。それでは』──。
文久三年十一月頃。
土方歳三は郷里にこんな手紙を送っている。
彼らしい、家族への愛が詰まった手紙だ。
しかし小島鹿之助宛に、もう一通送った手紙がある。
『松平肥後守預かり土方歳三より、小島兄さんへ。
俺たちが報国の士だってのに目ェ付けちゃ女が寄ってきて、もうモテまくって手紙に書き切れねえよ。
とりあえず京には島原の花君太夫に、天神や一元、祇園じゃいわゆる芸妓って呼ばれる女が三人ぐらいいて、 北野にゃ君菊や小楽という舞子、大坂新町に行きゃあ若鶴太夫の他にも二、三人。もう困りますよ。
北の新地じゃたくさん過ぎて書ききれないんで、とりあえずこれだけ。
報国の 心を忘るる 婦人かな
(報国の志も女にばっか気がいっちまって忘れちゃいそうだよ)
なーんて。
さて、近ごろの天皇様は、
朝夕に 民安かれと 祈る身の
心にかかる 沖津しらなみ
(毎日国民の平安を祈ってる私は、外国の脅威が気になるところだよ)
だとさ。
追伸 志のある強者がいたら、すぐに京都に向かわせてくださいね。じゃあまた』
彼は、この手紙を送りつけ、一人殊更にモテることをアピールしていた。
「酔ってたんですか。酔ってたんですね?」
「────」
まさか小島鹿之助子孫が後世、全国に公開するとは。
綾乃に聞かされた予想外の事実に、土方は自室で小さく唸る。
「あれが酔った勢いで書かれた手紙だったとはなァ!」
「うるせえな」
ほろ酔い気分で筆を取った土方が、苦吟がてらしたためた手紙だった。
ゆえに正直、綾乃が原文を朗々と語るまで何を書いたかなど、本人も記憶になかったのだが。
土方はムスッとして綾乃をにらむ。
「それより最近、俺の机のあたりが荒らされている気がする。お前じゃねえな」
「知らない。気のせいじゃないですか」
「──だといいが。まあいい、いじるなよ」
「わかってますよ」
という返事に頷いて、土方は退出した。
「…………」
「──ふう、危ない危ない」
のそり、と綾乃の寝室から出てきたのは、葵と沖田である。
「見つかるんじゃないかってヒヤヒヤしましたけど、大丈夫でしたね!」
「沖田くん何度も咳するから、バレるかと思っちゃった」
「すみません、最近咳が出て」
「──で、とうとう見つけたのね」
「もちろん」
沖田はにやりとわらう。
なぜこの二人がここにいて、こんなことになっているかと言うと、それは四半刻前に遡る。
「葵さん、面白いものを見せてあげます」
「面白いもの?」
そう、面白いもの。
と、沖田は葵を連れて土方の部屋へ。
たまたま物置部屋から出てきて、土方の私物をナメるように見ていた綾乃に、
「土方さんが来たら私たちそっちに隠れますから、それまで土方さんを足止めしていてくださいね」
と言うや机の周辺を荒らしはじめたのである。
「彼、何してるの」
「さあ」
葵にもわからない。
彼は、
「ここら辺にいつもしまってあるんですけどねえ」
と一カ所を重点的に探す。
まもなく沖田があっ、と声をあげた。
「ありました、これですこれ──あ」
嬉しそうに手にあるものを掲げた。──が、それも束の間。
あるものを元に戻すや、葵の手を取って綾乃の寝室へ身を潜めた。すぐさま察した綾乃は部屋から出て、前から歩いてくる男の手をとり、身体を寄せ、さりげなく進路妨害を試みる。
「土方さァん、もうどこに行っていたんですか。待ちくたびれましたよ」
と。
「なんの話だ」
「ええっ、覚えていないんですか。ひどい、最低。この間ベロンベロンに酔っ払ったとき、今日は同衾希望するって言ってたのに(言ってない)」
「ばかやろう。どけ、部屋に入れん」
「──酒が弱いくせに飲むから、あんな礼儀知らずな手紙を書くんですかねェ」
「は」
なに、という土方の視線を無視して、中の様子をさり気なく確認してから襖をあける。
「おい、なんだ今のは。聞き捨てならねえ」
「有名ですよ。手紙をもらった小島おじ様の御子息様がご丁寧にも”新選組副長、土方歳三からの手紙“って公表したんです」
「なにィ」
「土方歳三宛ての恋文の数々もしかり。置き場に困るほどの量だったんですって?」
「…………」
「しかも、女にうつつを抜かしているって内容の句の下に、帝の句を書いてましたね。報国の士がとんだザマですね」
「…………」
「あの手紙が面白すぎて原文ママ覚えたから声に出して読んであげましょうか。えっ?」
「…………」
という話を進めた結果、冒頭に至る。
「本当、助かりました」
「それでお目当てのものっていうのは?」
沖田が同じところを漁って見せてきた。
その表紙に書かれていたのは、
『豊玉発句集』──。
後世において『鬼の副長』と恐れられた土方歳三だが、彼にも趣味があった。
それは俳句を詠むこと。
豊玉宗匠と俳号までつけ、若い頃より苦吟しては一冊のノートに作品をまとめあげていたのである。
その出来はといえば。
「梅の花、一輪咲いても梅は梅──」
お世辞にも上手いとは言えないものであった。
ここから、綾乃を講師に据えた沖田と葵の豊玉発句集講座がはじまった。
まず葵が疑問を呈したのは、さきの一句。
「これはどういうこと。梅は梅だよってことが言いたいの、当たり前じゃない?」
「ちがうちがう。たとえば──紅葉が一葉だけ色付いてもぱっとしないけど、梅は一輪咲いただけで存在感があるし、春も感じるでしょ。そういう梅の花の美しさ、偉大さを説いてる句なの」
「はぁー」
葵は感嘆のため息をついた。
「おもしろき夜着のならびや今朝の雪──これは?」
「朝に雪が降っている光景を、だれかわからないけど数人が夜着を着て縁側にならんで見てる。その後ろ姿が面白かったよっていう句」
「はぁー」
「綾乃さんって、ほんとうに土方さんのこと大好きなんですねえ」
沖田も感心したようにつぶやく。
「すき。マジかわいい。ギャップ萌え」
「ねえ、じゃあこれは?」
葵は楽しそうに指をさす。
彼女の示す句は、
“しれば迷ひしなければ迷はぬ恋の道”
「────」
修正という意味であろう、赤い円がつけられており、隣には”知れば迷ひ知らねば迷ふ法の道“と書かれている。
「それは──」
沖田と葵はドキドキした。
この土方狂信者が、かつて土方が抱いたであろう本気の恋を匂わせるこの句に、いったいどんな答えを返すのか期待していた。
「ひときわ下手だね、」
「えっ」
「だけど血が通っててすきだよ」
「下手なのはわかってるよ。意味は?」
「そのまんま」
「えー、それだけですか」
口を尖らせた沖田に、綾乃はわらった。
「恋をしたことある?」
「え……私?」
「うん」
「いやあ、」
ぽかんと口を開ける。
「葵は?」
「いやあ……」
こちらも、首をひねる。
綾乃は豊玉発句集を取り上げて言った。
「じゃ、まだ教えない」
「えー!」
それから綾乃は笑顔をうかべ、部屋を出て行った。
「なんですか、あれ……」
「────」
「…………」
「あれ、持っていきました?」
「持っていきましたね」
「…………」
沖田と葵の顔が、サッと青ざめる。
そのとき襖がすらりと開いた。
「忘れ物した──あ?」
土方である。
「アッ」
「何をしている人の部屋で。逢引きか?」
「いや──その方がまだ良かった、ですね」
「…………」
口ごもる沖田に首をかしげてから、土方はちらりと机の横に目を向けた。
そこにあるはずのものが、ない。
「はは、は」
「…………」
つぎにこちらを振り向いた彼の顔は、見たことのないほどに凶悪であった。
前川邸の庭にて。
山南と原田、藤堂が素振りをしている。
縁側に腰かけた綾乃は、にっこりと句集を掲げた。
「これ近所の子が作ったんだって。批評してあげて。玉川に鮎つり来るやひがんかな」
「馬鹿でえ」
「”や“を別のものに変えた方がよいね」
「さすがガキとは違うな、山南さん」
原田は腹をバチッと叩いた。
「ふふっ、──春の草五色までは覚えけり」
「はは、覚えの悪ィやつだな。だれだ読んだの」
「素直でいいと思います。子どもらしくて」
「おれもまだ三色までしか覚えとらんぞ」
「ぶはーっはっはっ、腹痛い。じゃあ、年礼に出て行道やとんびだこ」
「ふつう」
「子どもらしい句だと思いますよ」
「さっきからなに笑ってるんだ、綾乃──」
瞬間、襖の陰から殺気にも似たおぞましい気を感じた。藤堂はおののき、原田と山南は刀を引き寄せる。
「詠んだのが、元服むかえた大の男で悪かったな」
その場の空気が、止まった。
後ろの襖から顔を半分だけ出して、鬼がそこに佇んでいる。その後ろには、頭をさする沖田の姿があった。
「ひ、土方くん」
「まさか」
「この句────」
頬をひきつらせ、三人は後ずさりをする。
「ガキの出来で悪かったな、覚えがわるくて悪かったな。なあ原田くんに藤堂くん」
「ひい」
「ごめんなさいっ」
と原田と藤堂が逃げ出した。
途端、韋駄天のスピードで土方が追いかけてゆく。山南は息を詰めて存在感を消していたが、やがてゆっくりと綾乃を見た。
「ひ、人が悪いですよ綾乃さん。土方くんのだと言ってくれれば」
「言ったら忖度するでしょ」
おもしろくないじゃない、と綾乃が言ったとき、遠くで原田の叫び声が聞こえた。
さすがの野生児も、韋駄天の速さには敵わなかったようだ。
一方その頃。
沖田を生け贄に、騒動からひと足先に抜け出した葵はひとりで茶屋へ逃げ込んでいた。
「おまさちゃん、お汁粉ひとつ」
「はいな」
ここの茶屋は新選組御用達で、この半年でとてもよく遊びに来た。看板娘は菅原まさというむすめで、大変可愛らしい十五歳。
くわえて原田の彼女でもある。
──葵は、ぼんやりする。
芹沢の死からふた月。
こうしてひとりになっては、なにが正しかったのかを考える。答えは出ずとも、考えることがある種の贖罪だとおもっていた。
「…………」
「葵ちゃん、また小難しい顔してはるよ。はい、お茶」
「ありがとう。──ごめんね、連日入り浸って」
「なに言うたはるの。毎日来て」
「うん」
がらりと店の戸が開く。
「あらァ」
と、いうまさの声が遅れたタイミングで、葵の前にかたりと腰掛ける男が一人。
「…………?」
顔をあげると、見慣れた顔がいた。
「よっ」
野口健司。
前川邸にうつった芹沢一派最後のひとり。
彼は、芹沢とともに浪士組に参加したとはいえ、比較的前川邸の面々とも交流が多かった。とくに永倉とはたまに話しているのを見たことがある。
そのため、藤堂や土方の配慮で、事件当日は八木邸に一切近付かせないようにしていたそうだ。
「あ、野口さん」
「他に席が空いてないんだと。相席でわるいな──あっ、汁粉ひとつ」
気がつけば満席になっている。
葵ならば相席でも問題ない相手だ、とまさが判断したのだろう。
「…………」
「いやだった?」
「ううん。ようこそ」
「ははは、なんだいそりゃ」
汁粉がくる。
野口は笑いながら一口食べた。芹沢の死から、彼とこうして笑い合うことすらなくなっていたような気がする。
葵は明るくいった。
「野口さんって、永倉さんと仲良いよね」
「うん──俺と永倉さんは神道無念流の同門だから。前から知ってはいたんだよ」
「そうだったんだ!」
知らなかった。
派閥が違ったとはいえ、昔からの知り合いだとおもわせるような素振りはなかったからだ。
「芹沢先生の手前、なかなか話す機会がなくてさ。だからあの日の夜はめずらしく、永倉さんとけっこう盛り上がったんだぜ」
「……あの日の夜?」
野口の目が鈍く光った。いままでに見たことのない顔をしている。
葵は妙に緊張した。
「俺はゆるせないな、──芹沢先生と平山さんをころしたやつらのこと。……」
「ち、長州だっていってたね」
「さあ、勝者はなんとでも言えるからね」
(勝者。……)
言い方に引っかかった。しかし、そのことばで葵は分かってしまった。
野口は、近藤一派をうたがっている。
そういうことだろう。
妙に乾く上唇をぺろりとなめた。
「永倉さんは知らなかったようだよ。きたねえよな、郷里の仲間にさえ打ち明けないなんてさ」
「ど、どういうこと」
「未来でも──芹沢先生をころしたやつは長州藩だって言われているの?」
「…………」
「俺は、そうは思えないよ」
野口は汁粉を呑んだ。
(どうしよう)
葵は危惧する。
彼の抱える憎しみが近藤一派に向けられたところで、いまの彼らを止める者などいない。
下手をすればこの男も、芹沢と同じ道を辿りかねない──と。
「の、野口さんったら考えすぎ。まさかみんながそんな」
「いまにわかるさ」
と、席を立った野口の瞳に、いつもの穏やかな光は見えない。
しかし声をかけることばは見つからず、葵はただ拳を握りしめることしかできなかった。
※
空気がめっきり冷え込んで来た十二月。
綾乃が夜着を三枚ほど着込みながら、
「ひま」
と、言った。
師走、と呼ばれるくらいだ。
町中はせわしなく、いろんな商屋がツケの取り立てに奔走している。
けれど、綾乃や葵はいつもその場で支払っていたものだから──というよりは、ほとんどが隊士のおごりだった──、追われるような取り立てもなく平和に過ごしていた。
「そういえば思ったんだけど、私たちっていつも何してるの」
「え?」
「現代にいた頃はさ、学校に行ったりバイトに行ったりしていたよ。いま何やってんの」
「──そりゃまあ。ニート?」
一応、屯所内の女中として、掃除や洗濯、お買い物などをして駄賃をもらうことはある。
しかしそんなものは、小学生がやることである。
葵は頭を抱えた。
「だよね、これってニートだよ。思うに、ここから何か脱出しないといけないのよ。なにか」
「そうか、仕事か」
綾乃が至極嫌そうな顔をした。
というわけで、二人は近藤に相談することにしたのである。
「わたしたちも、外で働きたいんです」
近藤と山南が将棋を指している。
その横から相談してきたものだから、ふたりは目をぱちくりとさせた。
「そうか、仕事か」
うむ、と近藤は真面目にうなずき、山南はくすりとわらう。
「金食い虫のなんたら野郎と、ご自分で仰ってましたけど、気にしているんだね」
「マジで生きている価値すら見出だせなくなってきたので──」
この世界に来て早半年とすこし。
現代にいたころは、男所帯でさぞ汚いだろうと思われた屯所内であったが、ふたりは彼らの生活力の高さに驚かされた。
「ここ、ご飯は賄方がつくるし、掃除は起床後すぐにみんなで取りかかるでしょう。わたしたちって結局、簡単な手伝いしかしていないんです」
「では、なにをする。まさか住み込みでいくわけではあるまい。そんなことしたら、寂しいぞ──」
「まさか、接客とか通い奉公ですよ。そんな言葉があるのか知らないけど」
山南があっと声をあげた。
「この間、おまさちゃんのいる茶屋のご主人がぼやいておりましたよ。人手が足りないと」
ふたりは顔を見合わせる。
──つまり茶屋の看板娘か。
二人は顔を見合わせて、それだっ、と声をあげた。
「おまさちゃん」
「あらいらっしゃい」
前掛けで手を拭きながら、おまさがやってきた。長椅子に腰かけ、声をひそめる。
「実はご相談がありまして」
「なァにあらたまって」
「ここ、人手が足りてないって聞いたんだけど、働ける?」
いま仕事を探しているの、と葵は半ば泣きそうな顔で手を合わせた。
「まあ、旦那はんにお話ししてみたらどうやろ。待って」
と、彼女は店奥にひっこむ。
まもなく恰幅のいい親父を連れてきた。
「なんや、ここで働きたいって?」
旦那──次郎兵衛というらしい──はにっこり笑って、
「そうか、山南の旦那にぼやいとったら早速来てくれたか」
と嬉しそうに言った。
「しかし雇えるんはひとりなんや──あっ、せや。この近くに呉服屋あるやろ。そこで人手が足りひん言うとったわ」
「呉服屋って、烏丸松原の」
珍しく、地理の名前が綾乃の口からでた。
葵が「知ってるの」と尋ねると、彼女はただ小さくにやりと笑うのみだったが。
「そや、そこの髙島屋はん」
「葵、あんたここで働きなよ。わたしそっちに掛け合ってみるから」
「ええっ、いいよ。私も一緒に行く」
「いいのいいの。あそこの二代目とは仲良しだから」
というや綾乃は店を飛び出した。
「二代目ッ」
米商髙島屋のとなりにある、呉服商髙島屋にたどりつくなり、綾乃は弾んだ声で店を覗いた。
「綾乃やないか。今日はまたどうした」
二代目、飯田新七。
とても人当たりがよく、頼もしい男だ。
そう、ここは未来の世界で知らぬものはない高級百貨店、髙島屋の前身なのである。
そんなところと、何故綾乃が知り合いなのか──それは以前、隣の髙島屋本家である米屋に用事のあった綾乃が、野次馬根性で呉服商髙島屋の店を覗きこみ、盗みと間違われかけたところから始まる。
「あんときはほんまにすまんね、綾乃」
「いいんですよう。変な体勢で店を覗いたわたしも悪いし」
「はははは」
「なに、綾乃来たんか」
二代目の笑い声につられて嬉しそうに出てきたのは、若い奉公人の出で立ちをした男。
この呉服屋に勤める
「あ、泰ちゃん。この間はお団子ありがとう」
「なんの、喜んでもらえたなら良かった」
泰助はガシガシと頭を掻く。まっすぐ綾乃に向けられる凛々しい瞳には、わずかに照れが浮かぶ。二代目はニヤニヤ笑みながら「で、」と続けた。
「どうしたん」
「あ、あの。仏光寺のとこの商屋さんあるでしょ、菅原某」
「おまさちゃんがおるところかい」
「うん」
「ああ、もしかして人手不足のことやろか」
「そうです、そうっ」
思ったよりも話がよくわかる。
綾乃の目は輝いた。
「なんや、綾乃が来てくれるんか」
「大丈夫そうですか」
「当たり前や。ありがとなぁ」
「わ、ありがとうございます。頑張りますっ」
と頭を下げると、泰助は「水臭い」と笑って彼女の手を引く。
「中、見てみぃ。いろいろ教えたる」
「うわ、髙島屋前身のお店見ちゃっていいのか!」
「働くんやから見なあかんやろ」
「それはそう」
こうして、無事に二人は働く場所をゲットしたのであった。
「ってことで私たち、働くことになりました」
晴れてニート脱却。
土方に事後報告すると、書類から目を離すことなく、さして興味もなさそうに「ふーん」とだけ言った。
綾乃は口を尖らせる。
「なんか反応薄くないですか。せっかくこっちが血肉を迸らせて職にありついたっていうのに。土方さんの鬼っ、おーに!」
「うるせえな。こっちも新しく採った隊士の名前と顔を覚えるのに必死なんだよ。特に一人、妙に覚えづれェ顔のやつがいてな」
土方は眉間を揉み、ため息をつく。葵がぴくりと顔をあげた。
「新しくとったんですか」
「土方さんって、マネジメント、企画、現場だけでなく、人事もやってるんですね。配属先まで考えるなんて──リソース少なすぎて草生えるんですけど」
「だからこうして必死に名前や特徴を頭に叩き込んでいるんだろうが。今なら、さっき入隊式が終わったから、近藤局長の部屋にいる。見たいなら見てくればいい」
「────」
ならば、と。
ふたりが近藤の部屋へ向かうと、ちょうど部屋から数人の男が出てくるところだった。
「あれだ」
「おー」
近藤が、にこやかに声をかけている。
「入隊試験の剣術、実に見事であったよ武田さん」
「ありがとうございます」
人が集まってよく顔が見えない。
けれど葵の目はすでに、確実にひとりの男を捉えていた。
「林くんは林信太郎の従兄弟と言うじゃないか。それによると長巻が得意だそうだね」
「はい。刀を差したいがためにこの武士の道を目指そう思うたんですが、実際は刀より長巻の方が得手でして。信太郎に誘われて、参加しよう思いました」
「はははっ、君は医学にも関心があるとか」
「家が針医者やもんで、かじっとる程度で」
「うむ。そちらの──尾形くん。キミは実に頭がいいと聞いた。恥ずかしいことに、この組を立ち上げた当初の人間たちは山南さんや藤堂くんを除いてみな学がない。宜しく頼むよ」
「私にできることでしたら、なんでも」
尾形と呼ばれた男が頭を下げる。
すると、新入生の中の一人がこちらに気付き「あっ」と声をあげた。
武田と呼ばれた男だ。
「おお、先程話したおんなたちだ。いろいろと頼りにするといい」
しかし数人の隊士は驚いたように目を見開いている。やはり、葵の髪色はかなりのインパクトなのだろう。
ひとりひとり、自己紹介がはじまった。
その名を聞いて綾乃は
(きたか)
と思った。
この一次募集で、今後の新選組を担う男たちが入隊した。
「あ、」
「やっぱりまた、お会いしましたね」
さいごのひとりは、ついこの間浪人から葵を助けた町人髷の男だった。
※
翌日、前川邸。
朝から永倉と野口が眉をひそめ、綾乃の肩をたたいてきた。
「綾乃──あれどうした」
「あれって」
その先には、縁側で鼻歌をうたい、笑顔で雑草を引き抜く葵の姿が。
「ああ、あれ」
「うん──お前よりあいつがおかしいなんて珍しいじゃねえか」
「おっと喧嘩売った?」
「なにかあったの」
「あったね。──…………」
綾乃はにやりと笑ってから、野口を見た。
先日の発句集騒動の日、葵が沈んだ顔で帰ってきた。わけを聞けば、なにやら野口が危ういという。
このままでは芹沢の二の舞になるのではないかと、危惧してるようだった。
たしかに彼は芹沢、平山両人殺害の犯人として、近藤一派をうたがっているらしく、近ごろは永倉とつるんでいるところしか見ていない。
「見ていれば分かるけどね……」
と、綾乃が口ごもった矢先、
「お取り込み中、失礼します」
「!」
追い討ちをかけるようにあの男が登場した。
林烝改め、山崎烝。
入隊早々に副長助勤兼監察方に選ばれた実力派隊士である。
本名は林姓のようだが、監察方ということもあり、紛れやすいよう大坂や京に多い山崎という名前を土方から与えられたらしい。
「あ、はやしさ──山崎さん。ずっとお礼を言いたかったんです。この間は本当にありがとうございました」
「ああその節は──その後は、何も?」
「ええ、大丈夫」
「それは良かった。副長にお二人を呼んでくるよう頼まれとったんです。副長室まで、お願いできますか」
「もちろん」
と綾乃が葵に目を向けると、先程とは打って変わってしおらしく俯いている。
「徳田さん、よろしいですか」
「あっ、──はい」
「────」
二オクターブほど上がった彼女の声に、野口と永倉、綾乃は思わず葵を見つめる。
「ほな参りましょう」
「あっ、──はい」
「────」
なにこいつ、だれ?
と腑に落ちない顔で、綾乃は葵とともに副長室へ向かった。
「失礼します。お連れいたしました」
「ああ、ご苦労」
新選組の中ではめずらしく礼儀正しい山崎に、土方は満足げに頷いた。
「それでは」
「いや、お前もここに残れはや──山崎。近いうちお前とともに動いてもらう可能性もあるからな」
「は、彼女たちがですか」
「ああ」
「何それ聞いてない」
「あっ、──はい」
「おまえもうそれいいから!」
土方はつづける。
「──最近、隊内に芹沢の死について噂が出回っているらしい。長州ではなく近藤が殺した、と」
「え……」
違うの、という意味できょとんとした視線を綾乃が送る。
土方は目を逸らして山崎を見た。
「これが広まれば、ただでさえ烏合の衆である新選組は近藤への不信感で崩壊する。それはなんとしても避けたい。芹沢がこの新選組を続けるためにしたことがすべて無駄になってしまうからな」
いかにも、芹沢の死を惜しんでいるという言い回しである。
「お前らを呼んだのは、この噂を広める人間を知っているかと思ったからだが、どうだ」
「知りませんよ。平隊士の人たちだって、わたしたちに対してそういう話をしたら……上に筒抜けとか思ってるんだろうし」
「……私も、知らない」
葵はうつむいた。
土方が、ぐるりと山崎に身体を向ける。
「では山崎、お前に根元の特定を頼む。芹沢のことは知らねえだろうが──」
「芹沢鴨の噂はかねがね」
「まあ、だろうな」
「了解しました」
「む、」
ちいさくうなり、ふたり見る。
「お前たちはもういい。ご苦労だった」
山崎のみ残るように、と言った。
彼女たちが障子の向こうに消える。
しかししばらく土方はむっつりとだまったまま動かなかった。この男がなにを考えているのかがわからず、山崎はただじっと沙汰を待つ。
たっぷりと間を置いて、土方がつぶやいた。
「おおよその予想はできている」
「は、」
山崎は膝を詰める。
「野口健司。──こいつの動きを、あのふたりに知られぬよう、逐一俺に報告しろ」
と。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます