始まり


 この時代の日本は、まるで根暗な箱入り娘である。

 ひきこもっていたせいで、ろくに友達も出来ぬまま、ただ漠然と『外国』にマイナスイメージを持っていた日本。

 ある日、見たこともないほど大きな黒船に乗って、ペリーという男がやってくる。男はよくわからない言葉で「付き合おうぜ。お前の意見はほぼ聞かないけれど」と言った。

 ひきこもりの主人公の家の前に、突如リムジンが停まり、中から俺様外国人が強引に求愛してくる──という、さながら少女マンガのような展開である。

 当然、根暗な主人公は恐怖のあまり玄関の戸を閉めるだろう。

 同じように、日本もすっかり怯えてしまって、『尊王攘夷そんのうじょうい』という、『幕府は頼りないから、うちの親玉(=天皇)の意の元に、ニュータイプの人種は追い払おうぜ』という思想が広がっていくことになる。


 文久三年二月。

 清河八郎きよかわはちろうという男も、この『尊王攘夷思想』を叫んだうちの一人だった。

 彼は、この国を守るための英才教育が必要だ、と幕府に呼びかけ、

「身分は問わず優秀な人材をあつめ、乱れた京の治安を回復するとともに、将軍家茂いえもちの上洛警護も任する“浪士組”を結成する」

 という名目で、人材募集をはじめた。

 そこに集まったのが、のちの壬生浪士組となる芹沢、近藤らを含めた二百三十四人の男たち。

 彼らは意気揚々と、江戸から京へとやってきた。

 しかし、清河には本来、別の目的がある。


 それは「尊王攘夷の先陣を切ること」──。


 話がちがう、と怒ったのが数名いた。

 『尊王攘夷』思想の発信地・水戸の出身である芹沢と、元々幕府への厚い忠誠心が根にある多摩地方にいた、近藤や土方などの道場仲間。

 ふたたび江戸へ帰る二百人を背に、京にとどまった彼らが結成したのが『壬生浪士組』だった。

 浪士組が京での活動拠点として与えられたのは、二家の家屋である。ひとつは平成の世で観覧した八木邸。もうひとつが『前川邸』である。

 ※人数が増えるにつれ、のちに南部邸、新徳禅寺にも分宿する。


 八木邸には、芹沢を筆頭とする水戸浪人の五名が。

 前川邸には、近藤を筆頭とする天然理心流試衛館剣術道場の仲間が。

 それぞれ他人の家を間借りしているわけである。


 ────。

 しかして、ここ前川邸。


「にわかには信じがたいことだが……でじかめか。これはすごいな」

「不思議なこともあるものですね」

「壬生寺で顔合わせをしてきたんですって? 大変だったでしょう」


 綾乃は心臓が張り裂けるかとおもった。

 まず、原田に連れられてやってきた一室で将棋を指すふたりの男を見た。ひとりはえくぼが可愛い角ばった顔の男。もうひとりは始終柔和な顔で将棋の盤を見つめる男──。

 さらに、お茶を持ってきた男がまたひとり。

 原田は、給仕のマネをする男を座敷に引っ張り込んで、さらには将棋盤の上に手をついて、

「近藤さんに山南さん、井上さんもちょっといっしょにええか」

 と綾乃を紹介したのであった。

 未来から来た──という話に一同は多少なり怪訝な顔をしたけれど、綾乃のデジカメを見るや、疑念もそっちのけでデジカメをいじくりまわす。そうして先のことばを賜ったわけである。


近藤勇こんどういさみと申す。以後よろしゅう」


 角ばった顔の男は、そう言ってえくぼを見せた。

 この男こそ、のちの新選組局長となる男──近藤勇。

 曲がったことが大嫌いで、何事にも純粋。これだけの男たちがともに多摩から京へ上ったのも彼がいたからにほかならない、といわれるほど人望の厚い男だったと聞く。

 彼の顔を見て、綾乃は心底納得した。

 この人はまっすぐだ。よくもわるくも、道を曲がることを知らぬ顔をしている、と。

「この御仁が俺たちの頭だ。よう覚えとけ」

 なぜか原田が得意げに胸を張った。

「よろしくお願いします!」

 しかし聞くほど鬼瓦には似ていない、とおもいながら、綾乃は笑顔で頭を下げた。

 つづいて挨拶を受けたのは、給仕をしていた男だった。

 井上源三郎いのうえげんざぶろう──試衛館からやってきた者たちのなかでは、一番の年長者である。

 試衛館道場の古株であり、天然理心流の弟子のひとり。天才肌であった沖田とは違い、免許皆伝も少し遅かったようだが、その人の良さゆえ周囲からは大変慕われていたとか。

 近藤と将棋を指していた男は、山南敬助さんなんけいすけと言った。

 浪士たちの中では突出して賢そうな面構えをしている。

 彼も、他流ながら天然理心流の道場に通いつめ、自身の剣術の腕を磨いていたという。壬生浪士組となった今では、新選組のブレインとして、土方と同じ副長職についているとのことだった。


(夢を見てるみたい)


 綾乃はおもう。

 まるで現実とは思えぬ怒涛の展開に、前川邸に入ってから五回はつねった頬をふたたびつねる。しかし頬は痛み、胸はじんと熱くなった。

(べつに夢でもいい。もういっそ、一生覚めなくたってかまわない)

 原田の雄々しい背中を前に、綾乃はそんなことを考えている。

 それからは、島田魁しまだかい阿比留鋭三郎あびるえいざぶろうといった平隊士たちとも挨拶をした。

 その中で印象に残ったことといえば、島田が懐から金平糖を取り出して、少し分けてくれたことだろうか。大きな身体に釣り合った大きな手のひらにちょこんと乗った金平糖が、いやに可愛らしく、輝いて見えた。


 ──その頃、八木邸。

平間重助ひらまじゅうすけです、どうも」

「ど、どうも」

 まさか、水戸派と仲良くなろうとは。

 平間のちょこんとした目と口を眺めながら、葵は口元を引きつらせて笑みを浮かべた。

 水戸派──それは、近藤一派とは別に、芹沢鴨率いる水戸から来た集団のことである。

 芹沢が浪士組に入るまでの人生は、確かなことはあまり分かっていないという。ただ平間は芹沢と同郷のようで、彼の道場で神道無念流剣術を学んだとかでかなり長い付き合いらしい。

 葵は、平間の隣にいた男に目を向ける。

平山五郎ひらやまごろうだ。なんか大変だな、イロイロとよ」

野口健司のぐちけんじです、すげえ髪の毛だァ」

「よ、よろしくどうぞ」

 平山は左目に傷があり、見えていないようだった。

 そういえば以前、綾乃から「平山は花火の暴発で左目をやられた隻眼の獅子だ」と熱弁をふるわれたことがある。

 なるほどこういうことか、と思った。

 対して野口は、とろんとした垂れ目が、より一層気弱な雰囲気を強くさせる。

 しかしこのなかで、一番話しやすそうなのも彼だろう。彼のグッズは平成の世でもほとんど見かけることはない。ゆえに特段意識したことはなかったが、これを機に水戸派を学ぶというのも悪くない──と、思った。

「あとは、新見というやつがここにいる。が、いまは出かけているようだな」

「…………」

「八木の奥方がもうすぐ戻る。それまでそこいらでくつろいでおけ」

「は、はい」

 葵は部屋を見わたす。

 ふと目にとまった、例の鴨居。

「…………」

 まだ傷はない。

 ここの世界に来る直前の記憶を思い出し、葵の胸はざわついた。


 元来、葵は口達者な方ではない。

 動物園のように観察されるのもイヤなので、一人早々にこの場から退散しようと玄関口でスニーカーを履いていると、上から声が降ってきた。

「その履き物じゃ、不便でしょう」

 パッと顔をあげる。

 沖田が不思議そうに靴を眺めている。八木邸の主人に、頂き物の饅頭を届けに来たらしい。

「お、沖田さん」

「それにその格好も、あまりにも目立ってしまいますよ。頭は──どうしようもありませんが、せめて着物くらいは着替えた方がいい」

「ですよね──あっ?」

 その言葉で、はたと気付いた。ここでをするということに。

 生活する以上は日用品が必要になるのである。さて日用品といえば、朝、ホテルへのチェックインにはまだ早いということで、駅のコインロッカーにトランクごと預けてきた。

 さいあくだ、と葵がひとりぼやく。

「あ、綾乃はまだあっちにいますか」

「はい。原田さんが連れ回しているんじゃあないかな」

「ちょっとお邪魔してきますッ──」

 と。

 葵が立ちあがったちょうどそのとき、門前から原田と綾乃が歩いてくるのを見つけた。葵の顔がパッと華やぐ。

「綾乃!」

「あ。葵、良かった。相談したいことがあってさ」

「私もだよ。よかった、おんなじこと考えてたんだ」

「マジ? わたしはここ来て両手の生命線がブチ切れたんだけど。葵も両手だった?」

「ごめんちがった。話変えるけど、私ら日用品どうする?」

「えっ。日用品? 手相じゃなくて?」

「手相はいまどーでもいいだろ!」

 綾乃はハッと目を見ひらいた。

「ああ。そういやコインロッカーにしまったんだっけ」

「それだけじゃないよ。着物とか、この時代に馴染む努力もしていかないと──」

 葵が自身の服装を見下ろす。

 こういうときに限って、ちょっと原色系の服を着てしまっているものである。全体的に色の褪せたこの時代にはあまりに発色が良すぎる。対する綾乃は黒いシャツにホットパンツという一見すると地味な色合いだが、なにせ脚の露出が著しい。

 とくに彼女はモデルのように脚が長いので、その肌色が目を惹いてしまう。

 まあいいや、と綾乃は楽観的な声をあげた。

「近藤さんに頼んでみるよ。なんか、いいアイデアくれるかも」

「いや待て」

 原田が手を挙げた。

「そういう決めごとは土方さんの方がええぞ。あの人は細かい。どうせ着物のことだけでなく、寝起きする部屋や決めごとなんぞもあろう?」

「そうですよ。きっと親身に相談乗ってくれるんじゃないかな──あ、こっちのことなら芹沢さんにね。八木さんならご家族もいらっしゃるし、そちらに相談してみてもよろしい」

 と、沖田もうなずく。

 なんてやさしい人たちだろう、と葵は泣きそうになった。

(でも、だめだ。泣き言なんて言ってられない)

 いつ戻れるかなどわからない。

 見えぬ未来に期待する暇もない。

 いま、生きているのだ。

「ありがとうございます!」

「ねえ、それでわたしの生命線なんだけど」

「よーし。やるぞ!」

 葵はぐっと拳を握りしめ、ふたたび靴を脱いだ。


 八木邸内がさわがしい。

 どうしたのかとようすをさぐると、野口が布団一式を別室に運ぶところに遭遇した。なんでも八木の主人が余っている布団を提供してくれたのだそうな。八木家子息や奥方が寝ている部屋へ持っていくらしい。

 葵は恐縮する。

「皆さんはどちらで──」

「俺たちはみんなあっち。それよりむこうじゃ祭りだよ、はやく行った方がいい」

「祭りって」

「芹沢さんが大荷物こしらえてきた」

 え?

 と聞く間もなく、葵は平間に呼ばれた。


「──葵さんが、着の身着のままここに来たのだろうからって先生が方々からお古をかき集めてくれたですよ」

 平間が手をひろげる。

 目の前、フリーマーケットのように広がる物々を見て、葵は驚愕した。すこし古いが着物や履物、いったいなにに使うのか分からぬ小物まで、畳二畳分に敷き詰められているのである。

 厠からもどった芹沢が喧しい笑い声を立て、

「お前のものじゃ、好きに使え」

 フリマのひとつである着物を葵に手渡した。

 ──花葉色の着物だった。

 帯は黒地に裏が白色で、黒衿までついている。

 これを着たら髪色を除けばさぞや町娘らしくなることだろう。

「こ、芹沢さんこんなもの、私が──」

「おぬし以外に誰が着る。八木の奥方にはちと若いぞ。がはは」

 と、芹沢は豪快にわらった。ところどころほつれた糸を見るかぎり、どこぞの家からお古を出せと脅迫したのだろうか。

 しかし葵は感激した。

「あ、ありがと──ありがとうございますっ、ありがとう!」

 その後もまるで孫ができた好好爺のように、次から次へともらい物を披露する。櫛にかんざし、扇子に手ぬぐい──どれもこれも欠けや色あせが見て取れる。いったい何件の家に押し入ったのだろう、と葵は苦笑した。

 平成の世で流布する彼の悪評は、葵の中ですっかり形を潜めた。もちろんこれが脅迫・恫喝で巻き上げたものだとすれば、被害者に対して非常に申し訳なくおもうけれども。

(人の評価なんか、善悪で決めつけられるものじゃない)

 と、葵はおもわず花葉色の着物を胸に抱く。

 芹沢が平山に目を向けた。

「寝場所は決めたか」

「へい。奥方らの方へ」

「そうか」

 芹沢さんも、と葵は平間を見る。

「みなさんといっしょにあっちで寝るんですか?」

「あい。雑魚寝ですよ」

「万一奇襲が来ようと、おなじ部屋にいれば対応できるからな」

 平山が得意げに鼻をこすった。

「へえ。──」

 奇襲。

 葵の脳裏に、平成の八木邸で見た鴨居の傷がふたたびよぎる。ふいに背筋がゾッとした。なぜかって、こうして自分に良くしてくれる者たちが、いずれあの鴨居に傷をつけるような乱戦をここで繰り広げるのだ、と気付いたからである。

 葵は測りかねている。


(彼らの生身を知れば知るほど──歴史が怖くなる)


 歴史に名を刻む彼らと、いまを生きるなかでの距離感を。


 ※

 一方の前川邸。

 原田に、土方の部屋まで案内してもらった綾乃である。

 話を聞くかぎり、こちらもいつ奇襲が起こっても迅速な対応ができるよう、上下の隔てなく大広間で雑魚寝をしているようである。

 そうは言っても、まだ隊士の数は多くないため、余っている部屋はあるわけで。土方は「むさ苦しいなかで寝たくない」とわがままを言っては、ほぼ自室と化すこの部屋で寝ることも多いらしい。 

 なんと切り出そうか、と考えながらノックをして襖を開ける。

 部屋のなかでは土方が文机に向かってなにやら考え込んでいた。

「あのう、土方さん」

「わ、馬鹿お前、開けるときは一声かけろ!」

「え。あっ、そうか。ノックなんていう習慣はないんだった。面目次第もございません」

 綾乃はぺこりと頭を下げた。

 が、土方はかまわず机の上のものをバタバタと片付けている。綾乃はくいと首をかしげた。

「いや、まあいい。なんだ」

「あの。これからここに住む上で必要な着物とかが欲しくて──お金はほら、出世払いとかするので」

「なにが出世だ。でも、まあ」

 たしかにな、と土方は頷いて、首をいやにゆっくりとめぐらせる。

 その視線が綾乃に戻ってきたとき、

「お前ェでかいしなぁ」

 といって、眉を下げた。

 当時の男性平均身長でさえ、百五十五センチほどだったと言われている。

 女性平均身長は、百四十五センチ。

 百六十五センチ弱の綾乃に合わせられるサイズの女性用着物など、そうすぐに用意できるものでもない。それはわかる。

 しかし「でかい」と好きな人から言われる女心は切ない。

「金もないんだ、しばらくは八木の奥方の着物でも借りろ。丈が足りなくても我慢してくれ」

「同衾を許した女に言うことじゃない──」

「許してねえよ!」

 土方は、怒鳴った。


 この世界に来て、分かったことかある。

 まずひとつ、携帯電話は葵と綾乃のあいだのみでなぜか使用可能ということ。バッテリー残量部分は無限を示す『∞』マークとなり、通話も可能だった。

 しかし、親や友人への電話は不通。どうやらこの世界にある携帯電話同士でしか、連絡を取ることはできないようだった(逆になぜ携帯が機能するのかは疑問である)。

 もうひとつは、今がやはり文久三年の五月であること。

 会話の内容や気候、とある隊士の生存状況を踏まえて綾乃が出した結論だった。

 さらにもうひとつ。

 地図アプリに表示される地図は、平成の地図であることも後日判明。

 判明した経緯は、極度の方向音痴である綾乃が、土方から墨汁の買い出しを頼まれたことからはじまる。

 斎藤に地図を描いてもらい一人で買い出しに行った末に迷子になり、地図アプリや電話を駆使して葵が場所を特定し、原田が迎えに行くということが起きた。

 これは余談だが、綾乃に対して「単独外出禁止」という禁則事項が生まれたのもこれがきっかけである。

 とにかく。

 わかることをひとつずつ増やしていく──をスローガンに、ふたりはどうにかして現代へ帰る術をさぐる。


 ※

「ハッ」

 翌朝。

 土方は、いやな夢を見て飛び起きる。

 夢のなかで自室に隣接する物置部屋から出てくる女の霊と闘っていた。どんなに斬り捨てどもこちらに迫るソレに恐怖を覚え、よもや触れられる──というときに目が覚めたのである。

 ぐっしょりと冷や汗をかいている。

 我ながら情けないとおもいながらも、夢から覚めた安堵感から、

「ふあぁ」

 と大きな欠伸をひとつ。

 ついでに『気合だめし』と物置部屋の襖に手をかけ、勢いよく襖をあける。


「うわっ」


 女がいた。

 上に掛けた男物の着物から、生白い腕と脚を覗かせてぐっすり寝入るは、三橋綾乃──。

 そうか、こいつがいた。

 別室をあてがったにもかかわらず『部屋に土方さんのポスターを貼っていたからいつものように顔を見てからじゃないと眠れない』という、理解できない理由に圧され、仕方なく隣接する物置部屋を提供したのであった。

「じょうだんじゃねえぜ──」

 変な女を拾ってしまったという事実と後悔が、押し寄せる。土方は汗をぬぐってしずかに襖を閉めた。


 その数十分後のこと。

「身体が痛い──」

 綾乃はのそりと起きた。

 ただでさえ物が詰められた物置に、ただでさえ縦に大きな躰を詰めたのだ。変な格好で眠ったようで、肌襦袢のみを身に付けた身体はあちこちで悲鳴をあげた。

 掛布団代わりにかけていた男物の着物をよけ、昨日お下がりにもらった八木家奥方の着物を手に取る。若干丈はみじかいが仕方あるまい。さあ着よう、と羽織ってみて気づく。

「どうやって着るの、これ?」

 知らぬも当然。

 着物など、七五三以来着ていない。分からなければ聞けばよい──と綾乃は帯のほか諸々を片手に、着物をずりずりと引きずりながら物置を出た。部屋の主はすでにいない。そのまま廊下へ出る。

 ではだれに聞くか。

 前川邸の人々は、壬生浪士組が宿として借り上げた際に、本家の方へ避難したときく。壬生浪士組の面々に聞くのもなあ、と綾乃は八木邸方面へ目を向けた。

 そうだ。

 あの家にはまだ家族が住んでいる。

 奥方に習おう、と玄関へつづく左方向にからだを向けた。直後、間髪いれずにお早う、と声がした。

「うわお前なんて格好──」

 永倉だった。うしろには斎藤もいる。

「ごきげんよう、永倉さんと斎藤さん」

「ああ、それよりなんだ何ごとだ」

 綾乃の腕にこんもりと抱えられた荷物を見て、何事かを悟ったらしい。

 おいおい、と眉を下げる。

「たしかに昨日も変な格好だとは思ったが、まさか着物も着られんのか。未来の人間というのは」

「非生産性すぎるんですよ、未来の人間にしてみれば。帯は苦しいし機動力は悪いし、帯は苦しいし──でもこのままじゃ馴染めないので仕方がないから八木の奥方に聞こうと思って」

「殊勝な心がけだとは思うが、いくらなんでも襦袢丸出しでうろうろするんじゃない。ただでさえ男所帯なんだ。お前、己の身は己で守れよ」

「でも襦袢って隠れるところちゃんと隠れてるから、これ一枚で問題ないっすよね実際」

「お前は襦袢の前にまず、奥ゆかしさを身に付けろ」

 呆れた顔で綾乃の腕のなかにある小物を斎藤に託すと、肩に引っかけられた着物を前で合わせた。斎藤に腰ひもをとってくれと指示を出し、簡単に着付けてやる。

「うそやだ、永倉の旦那が着させてくれるの」

「馬鹿を言え。応急措置を取るだけだ。襦袢丸出しの恰好で外を歩かれたらたまったもんじゃない」

「……こりゃ全国の永倉新八ファンから袋叩きだぜ。参ったな」

「昨日もおもったが、不気味な女だなお前」

 言いながら、帯をゆるく巻きつけてほどけない程度に結ぶ。

 全体的に着崩れてはいるが、着物を引きずって歩くよりはずいぶんましだ。永倉は綾乃の肩をポン、と叩き、諸々の荷物を斎藤が渡したのを見て「さあ行ってこい」と言った。

「わぁ」

 綾乃の顔に花が咲く。

 ふたりともありがとう、と無邪気にわらって、綾乃はこんどこそ八木邸に向かって駆けだした。

 永倉と斎藤は互いに顔を見合わせる。

「まあ──」永倉が耳のうしろを掻く。

「めんどうで不気味な女だが、そうわるいことばかりでもねえか」

「フ」

 斎藤は、右の口角をあげてわらった。


 さて。

 八木邸では、奥方の雅による葵の着付け中である。

 着付けの際はよく帯が苦しいというけれど、雅の締め加減は程よかった。

「あんたすこぉし丈があるわねェ」

「えっ。背が──高いって、言いました?」

 なんということだ。

 周りと比べて、少しだけ大きいねと言われた小学校低学年の頃。気が付けば常に最前列で、前ならえは手を腰に当てるポーズを強要されてきた葵にとって、それは天啓にも似た甘美な響きだった。

 雅は、そうやけどと可笑しそうに肩を揺らす。

「まあでも昨日挨拶に来たもう一人の子ォは、もっと大きかったけどね。あんたも大きいけど、なぁんであんなに大きいかね」

「ふ、ふふふ……そう、そうだ。低身長族が奇形と呼ばれる時代はもうないんだ。ざまあみろ高身長族が。むしろここじゃお前らのが奇形だ!」

 と、よろこび跳ねる葵。


「なんの話してんの、生まれた時代を間違えたって話?」


 言いながら、百六十五センチ弱の綾乃が顔をにやつかせてやって来た。

「来たか高身長族──」

「そんなことはどうでもいいのだ。お雅さん、わたしにも着付けしてください。そんで、一人での着方も教えてください──」

 申し訳なさそうに頭を下げる綾乃に、雅は仕方ないわね、と笑って帯をほどく。


「未来から来たのです」

 という告白に対し、雅は疑う以前に意味を理解していなかった。

 現代に比べて『過去』『未来』に意識が薄く、しっかりといまを生きる彼らにとっては、新たに八木邸へやってきたこの少女たちがどんな人間なのか──という方がよほど重要だったからであろう。

 初日は訝しんだ。

 が、釜戸の使い方や風呂の沸かし方、今のように着付けの仕方などを必死に学ばんとするふたりを見れば、つい手を貸してやりたくなるもので。雅はにこやかにふたり分の着付けを終えた。

 さあ出来た、と綾乃の帯をポコンとたたく。

「あんたはほんまに大きいわね。近藤さんとも変わらへんわ」

「実はわたしの方が大きいんですよ」

「えェ。ホンマ?」

「でも、みんな背は高い方ですよね」

 新選組の人たち──。

 と。

 言った葵の何気ないことばに、雅はキョトンとした。

「しんせん? なんて?」

「新鮮な壬生浪士組、って意味ですよ。出来てまだふた月でしょ」

 綾乃が適当なことを言った。

 雅はなるほどねえとわらって、縁側から空を見上げる。太陽がすっかり高くのぼって絶好の洗濯日和を知らせていた。

「あらもう日が高うなっとる。ふたりとも、門前のお掃除頼みますよ」

「お任せくださーい」

「…………」

 雅はパタパタと駆けていった。

 しばしの沈黙。葵は、背中に冷や汗が一筋流れるのを感じた。

「綾乃──ありがと。失念してたよ、まだ今は新選組がないんだってこと」

「いいんじゃない。新選組って名前も元ネタはあるみたいだし。とはいえ、たしかにワードと相手によっては洒落にならん事態も起こりうるよな」

「う、うん。禁句ワード、教えておいて」

「オーケー。とりあえずこれから起こるであろう事件についての話は、いっさい禁止にしよう。『新選組』ってことばはもちろんのこと、だれがいつ死ぬだの、将軍が交代するだの──いまが」

 ここで綾乃は一瞬閉口する。

 葵が友人を見あげる。彼女はめずらしく真剣な顔をして、

「『幕末』だってことも、ね」

 とつづけた。


 ※

 八木邸門前、庭の掃き掃除が終わり、前川邸の門前掃除までを終えたふたりは、そのまま壬生寺の境内まで掃除をしに行くことにした。

 掃除の前にひと休み、と壬生寺の石段に腰掛ける。

 にゃーお。

 と、か細い鳴き声がどこかから聞こえた。猫好きの葵がさっそく反応して、あたりを見回す。

「猫かな。縁の下から聞こえる」

「赤ちゃんじゃない?」

「怖いこと言うなッ」

 葵は、屈んで声の元を探しはじめた。

「あ、いた」

 意外と近くにいた。

 葵が迎えにいく間もなく、もぞもぞと縁の下から這い出てきたのは一匹の黒猫。

「かわいい~!」

「壬生寺の猫かな、居付いてるんだきっと」

「随分人慣れしてるね」

 きっと浪士組の男たちも、鍛練のために境内へ来たときはひとしきり可愛がるのだろう。

 ふと葵は、昨日見た鍛練風景を思いだす。

「そういえば、まだ浪士組って人数少ないね」

「うん。初期メンだよね──わたしの脳内幕末年表によると、五月中には隊士募集をするはずなんだけど」

「毎度思うけどその脳みそ気持ち悪いよね。でもまさか、こんなところで役に立つなんて」

「そういえば掃除しているとき、阿比留さんに会ったら局長が会津様のところに云々、って言ってた。そろそろかもね」

 綾乃がほうきを杖代わりに、よっこらせと腰を上げた。

 阿比留、という名前に葵がうつむく。

 綾乃から聞いた史実では、文久三年の五月下旬頃に病没すると伝えられているというのだが──。

 綾乃は、ほうきの柄に顎をのせた。

「今日話した人が、明日死ぬかもしれない。そんなのいつの時代でも同じことなのにね。それが、身近か疎遠か」

 人はいつの世でも死ぬ。

 けれど、日本は平成という世に入ってようやく『平和』を手に入れた。

 『死』を遠い存在として生きることができる時代になった。それが良いことなのか否か、ふたりの中で答えは出ないし、出す必要もない気がしている。

 自分が生きるだけで精いっぱいだったこの時代。

 綾乃も葵も、ここで自身が何をすべきか、未だにわかりかねている。


 数日後、体調が急変したらしい阿比留鋭三郎は、息を引き取った。

 綾乃と葵は、たった数日しか接することのなかった彼の死に、涙した。

 男たちもその死は惜しむなれど、なにより女たちの様子に驚いていた。

 そんな時代なのだ、と思った。

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