永遠の島より

兵藤晴佳

第1話

 緩やかな風を穂に受けた一艘の船が、静かな波間に真っ直ぐな航跡を描いていた。

 その上に独り座しているのは、剣を傍らに置いた少年である。

「どこにあるというのか、そんな島が……」

 日の沈んでいく水平線からは、ぼんやりとした光が、その幼さの残る顔を燃えるように赤く照らし出していた。

 そんな夕陽を、いままで何日浴びてきただろうか。食料も水も、底をついていた。

 それは船旅というよりも、むしろ漂流に近い。

 じっと目を閉じていた彼は、やおら懐に手を入れると、1通の手紙を取り出して開いた。

 厳かに、低い声で読み上げる。

「明けない夜はない」

 そう読み上げた自らの声に勇気づけられたかのように、戦士たちの王国ザクソンの王子マルカムは遠い西の空を見つめた。

 国を出るときに、王に目通りを許された占い師から、不安な時には開けよと託された手紙である。

 手紙は2通あって、1通は海の上で、もう1通は目指す地でという条件が付いていた。

 海の彼方にあるとされるのは、ウトナピシュティムの地である。そこへ行けば、不老長寿でと不死身の身体となって帰ることができるという。

「あれか……」

 紫色の夜闇に閉ざされかかった波間に、小さな島影がぽつんと見えた。


 

 夜の浜辺で待っていたウトナピシュティムの主は意外にも、男とも女ともつかない幼い子供の姿をしていた。

「それが、お家に伝わる王位継承の条件と」

 姿かたちと声に似合わず、その口調には長い時を生きてきた者にふさわしい重々しさがあった。

 対する王子マルカムの声は震えていた。

「言い換えれば、私を殺す口実。あの僭王は父を暗殺しただけでは飽き足らず、自分が経てもいない試練を私に与えると称して、海の真ん中に小舟一艘で放り出したのです」

「正統のお血筋なのに」

 その慰めを拒むかのように、流浪の王子は言い切った。

「強いか弱いかの問題です。確かに、その代によって王が命じる試練は違えども、後継者たる資格は試されて然るべきなのでしょう」

 幼子は、諦観のため息をついた。

「まこと、悪が滅びぬわけですな」

「道理に勝つには背くだけでよいのですから」

 自嘲で返すマルカムに、ウトナピシュティムの主は改まって尋ねた。

「その道理が、あなたにはありましたかな」

 王子は毅然と答える。

「あった。私は未婚で女を知らぬが、ヤツは妻がいながら国中の乙女も人妻も構わず犯している。私はいかなる誓いも守ってきたが、ヤツはそれを守るどころか、立てたことすらない。私は受け継ぐべき王位を除いては自分のものでさえも人に分け与えてきたが、ヤツは己のものでないものは王冠までも手に入れようとする」

「しかし、弱きものが敗れるのもまた人を超えた天地の道理」

 厳しく言い放つ声に、少年の声は凛として答えた。

「では、私はここで朽ちるしかありません」

 おそらくは時を超えて生き続けるであろう幼子は微笑と共に、少年を見つめた。

「その天地の道理に背いてみせられよ、6日6晩眠ることなく。眠れば、次の目覚めが人生最後の目覚めとなりましょう」

 王子マルカムは、その眼差しを真っ直ぐに受け止める。

「成し遂げてみせよう」

 その答えと共に、波打ち際の砂が重い音を立てた。


 王子が身体を起こしたのは、浜辺の掘っ立て小屋の中だった。

「ここは……」

「私の庵だ、粗末ながら、ゆっくりなさるとよい」

 ウトナピシュティムの主の答えに、マルカムは何か重大なことを忘れていて慌てたように尋ねた。

「今は?」

「6日経った」

 何ということもなく答える島の主を、薄幸の王子は詰った。

「まさか、それは騙し打ちというもの」

 だが、帰ってきたのは冷ややかな声だった。

「いかなる誓いも守ってきたのではありませんかな」

 そうたしなめられた王子は返す言葉もなく、ただつぶやくばかりだった。

「まこと、明けない夜はない」

 島の主は、庵の外へと歩み出た。

「お見送りいたしましょう」

 それでも、小舟に乗り込む前には、帰りの食糧と水を与えてくれた。

「せめて、このくらいのことはさせていただきます」

 マルカム王子は深々と頭を垂れて礼を言った。

「試練を乗り越えるどころか、立ち向かう度量もない未熟な愚か者です。暴君を打ち破るなど、叶わぬ夢でした」

「そうとも限りますまい」

 そこには、慰めの響きはなかった。どちらかといえば、励ましの言葉のようでもあった。

 だが、王子は自嘲する。

「さきほどの目覚めが最後だったのですよ」

 ウトナピシュティムの主は、しんみりと目を閉じて頷いた。

「誓いや予言とは、そうしたものです。その意味が持つ表と裏は、未来を約束する言葉を成就させもすれば、期待を裏切りもします」

 昇る朝日を背にして、マルカムは哀しく微笑んでみせた。

「逆らい難いものですね、運命には」 

 だが、不老長寿と不死身の身体を与える島の主は言い切った。

「運命は、何かを成し遂げんとする者に味方するものです」 


 どっと吹き付ける西風を帆に受けて、小舟はどこまでも進んでいった。

 青い海の上は、雲一つない空が広がっている。

 舟の上で仰向けに転がった王子は、魂を吸い込んでいくかのような青空に向かって呼びかけた。


  明日! 明日! 明日!

  それが私にはもうない。

  運命というものは、昇れば必ず沈む日と同じだ。

  人がどう抗おうと、為すべく定められたことを為すばかり。


 そう歌うと、わあわあと大声を上げて泣き出した。

 もちろん、それを聞く者など誰ひとりとしていない。

 泣きに泣いて泣き疲れたのか、マルカムは目を閉じかかった。

 だが、そこでむっくりと起き上がる。

「眠るわけにはいかない。眠れば、私は死ぬ。死ねば、祖国ザクソンは暴君の思うがままだ……だが」

 そこで懐から取り出したのは、もう1通の手紙だった。

 国を出るとき、不安になったら開くように告げられた、占い師の手紙。

 そこには、こう書いてあった。

「目覚めが心地よいものであるかどうかは、それまでに為すべきことを為したかどうかにかかってくる」

 マルカムは、水平線の彼方を眺めやった。

「私の、為したこと……」

 そのつぶやきに応えるように、青い空と海の出会う彼方に、ぽつんと白い点が浮かんだ。

 やがて、それは幾重にも聳え立つ船上のマストの形を取った。

 遠くから、角笛の音が聞こえてくる。

 王子は揺れる小舟の上に、足を大きく開いて立ち上がった。

「さて、敵か、味方か……いずれにせよ、逃げ隠れすることもするまいし」

 そこで振り向いたのは、一睡のうちに6日6晩を過ごした島のある先だった。

「どこに逃げようもない」

 鳴り響く角笛の音は次第に大きくなり、やがて聞こえてくる声があった。

 それは、船上にずらりと並んだ人々の、歓呼の声だった。


 語り伝えられるところでは、ザクソンに帰還した王子マルカムは、蜂起した貴族たちや民草と共に、暴君を打ち破って即位したという。

 新たな若き王は、荒廃した国土を立て直すために昼夜を問わず働き、「眠らぬ王」と呼ばれた。

 次の王を立てて夭折した後も、その名声は国の続く限り、いや、王朝が交代しても揺らぐことはなかったという。

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永遠の島より 兵藤晴佳 @hyoudo

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