第7話 約束

 明日から五月の連休に入ってしまうのを喜んでいないのは俺ぐらいのものだろう。

 下校を促す校内放送が流れる校舎の中、溜め息が漏れる。

 まだ目的のものを手に入れていない。篤巳あつみは今後の作戦を考えつつ昇降口を出る。

 すると校門に佇む人影を視界に捉えると、驚きのあまり足が止まった。

「おっと……」

 平静を装いつつ、篤巳は待ち人へと声をかける。

「きみは待ち伏せするのが好きだね」

「あなたも、まだ学校に通っているんですね」

「そりゃあ目的のものはまだきみが持っているから。もしかして渡してくれる気になった?」

「その話をするために待っていました」

「あれ、まじで?」

 それは都合がいいけど、なんだか前と雰囲気が違う。とても諦めがついたって感じじゃあない。これはひょっとすると……。

 あいは呆けている篤巳をよそに、鞄から例の便箋を取り出した。

「これをあなたに渡してもいいです」

「ふぅん。もちろんタダってわけじゃないんだろう? おーけー、条件を聞こう」

「私の質問に答えて貰います」

「まぁたそれか。ってことは、俺が本当のことを言ってなかったって気づいたわけか。俺はいいけどさ、そんなんでいいの? 前にも言ったけど俺は」

「嘘を吐く。わかってます。だからもうひとつ」

「もうひとつ?」

 藍の力の込もった眼差しが視線を縛る。

「約束をして貰います。私の質問に本当のことを答えると、約束してください」

 途端、篤巳は目を細めて藍を見返した。僅かに唇を噛むのが見える。

「嘘は吐く、でも約束は守るとあなたは言った。だから私と約束をするんです」

 藍の鬼気迫る言葉に篤巳は動揺しているかに見えたが、実はそうではなかった。それは諦めに近い感情だった。

 ひょっとすると思ったけど、やっぱりそうか。誰かの入れ知恵か、そこに辿り着いてしまったのか。

 篤巳はひどく残念そうな面持ちで首を横に振った。

「それは、約束できない」

「なぜですか」

 揺らぐことのない瞳が篤巳を逃がさんとする。

 それを言葉にするかどうか迷った。迷ったあげくに、

「きみとの約束を守れば、俺はもうひとつの約束を破ることになる」

 言ってしまった。

 それだけで、藍に取っては十分すぎる答えだった。

「姉と、どんな約束をしたんですか……?」

 消沈する声。これ以上ない悲哀を含んだ言葉。

 篤巳は空を仰いだ。

「場所を変えようか」

 下校のチャイムが鳴り響き、吹き抜ける風がふたりの背中を押した。

 


 ふたりは上折かみおり高校からほど近いところにある運動公園へと足を伸ばした。

 日中は小さな子供を連れた家族や散歩をする年配でそれなりに活気のある場所だが、日も暮れたいまの時間は閑散として、上折高校から下校する生徒がいなくなれば人通りはほとんどない。

 道中会話などなく、藍は数歩先を行く篤巳の後ろに付いて歩く。

 なるべくひと気が少ない場所まで行き、備え付けのベンチへ腰を下ろす。藍もその隣へと座る。

 もう五月になるとはいえ、夕方に吹く北風は制服のままでは少々堪える。

「寒くない?」

「大丈夫です」

 急な自分への気遣いに藍は少しばかり戸惑う。この前まで脅迫まがいの交渉をしてきたやつと同じ人間とは思えない。

 場所を変えようと言ってきたのはむこうなので、あちらから切り出すのを待ってみる。

 篤巳も言い出した手前、何か言おうと思案している様子はあるが一向に話す気配はない。

 仕方なく、藍は同じ質問をする。

「姉とはどんな約束をしたんです」

「うん? ああ、そうだな。いや、それは言えない」

 約束をしたこと自体は認めたようなものだった。それだけで藍にとっては光が見えた気がした。

 しかしここまで頑なでは核心は聞き出せそうにない。どうしたものか。

 彼の言っていたことが嘘だということは、半ば結論ありきで引っ掛けをしたようなものだ。

 私自身に確証があるわけじゃない。だからそこは彼から話して貰わないと何も進まない。

 考え込むうちに藍もまた黙ってしまう。

 その背後で近くを通る電車の無機質な走行音が響いている。いまさらに下校をしている他の生徒たちが通り過ぎるのも見え、向こうも遠巻きにこっちを見ているようだった。男女が並んでお互い上の空といった様子はさぞ目を引くことだろう。

 ふいに、

「これから話すことは嘘なんだけど、聞くか?」

 篤巳がなんともなしに言ってのけた。

「…………なんですって?」

 この男はいよいよ開き直ったのか? いったいどういうつもりだ。

「これから話すことは嘘だから、約束を破ることになならないと思うんだ」

 そこまで聞いて、藍は数秒前の自分をはたきたくなった。

 彼はずっと悩んでいたのだ。そして、決心してくれたのだと。

 少しだけ口元が緩んでしまう。

「ホラ話を聞くほど暇ではないけど、聞きましょう」

 嫌味を言うような上から目線だったが、意図を察した篤巳は苦笑を返した。

あおいさんと初めて出会ったのは、叔父が彼女をスカウトした翌日だった。当時まだ小学生だった俺は彼女の燦然さんぜんとした姿にすっかり魅了されてた。俺はあの頃からずっと葵さんのファンだった。だからきみがストーカーって言ってたのはあながち間違いじゃないんだよ」

 篤巳は続ける。

「叔父が現場によく連れて行ってくれたから、葵さんの活動も時々見ていて、その度に俺は彼女を好きになっていった。まあ当時は子供だったし、それが恋愛感情に絡んでるわけじゃないから憧れに近いものだったよ。アイドルとしての活動はそこそこ順調で、少しずつメディアへの露出も増えていっていたんだけど」

 そこで篤巳の言葉が切れた。

 どうしたのかと藍がちらりと横を見ると、篤巳の遠くを見つめる表情にドキっとした。

 いままでの言動からは考えれない憂いの顔は、本当に別人かと疑うほどだ。

「順調だったけど、とあるステージに上がっていた時にそれは起きた。舞台装置の故障かなにかで、彼女は数メートルある高さから転落してしまった。その時に運悪く右足を骨折して、彼女のアイドルとしての活動はそこで唐突に終わりを告げた」

 篤巳の告白はまるで自分のことのように悔しさが滲み出ている。

 何と言おうか考えた末、そのさらに先のこと、藍がもっとも知りたいことを聞いてみた。

「姉はいま、生きているんですよね……?」

「アイドルとしての活動はもうできない。それは彼女にとっては生きていると言えないだろ。彼女はいま死んだも同然さ」

「そんなことない! 私が説教してやるから、会わせてください!」

「無茶を言うなよ。それじゃ俺がわざわざ転校までしてきた意味がない」

 転校してきた意味? そうだった。私の持ってる姉の物を回収にきたと言ってた。それも問いただすことのひとつだ。

「どうして姉の物を、あの手紙を回収に来たんですか?」

「……頼まれたんだよ。きみの手元に手紙を残しておきたくないとね」

「まさか姉が言ったんですか? どうして」

「俺も同じことを聞いたよ。彼女、きみのことをずっと心配していたんだ。ひとりで家に置いて来たことも、連絡をしなかったことも。きみが持ってる手紙は彼女が事故に遭う直前のものだよ。これからアイドルとしてやっていけると手応えを感じたから、きみに心配をさせまいと残したもの。そしてゆくゆくはアイドルとして有名なった時に、改めてきみを迎えに行くつもりだったそうだ。家庭の問題は彼女も理解していたから、いつまでもきみをひとりにして置けないってね。ただ、事故からアイドルへの道が絶たれてしまい、きみに再会することも諦めてしまった。それでいっそ、もう自分のことは忘れて欲しいと願い、自分の痕跡をなくすために残した手紙を回収してくるように言ったんだ」

「なんて勝手な」

 藍はやるせない気持ちで溜め息を吐く。

 百歩譲ってアイドルを諦めるのはともかく、私に会いにくるのはいいでしょう。そこまで思ってるならなりふり構わず来くればいいじゃない。でもそこまでわかったなら十分だわ。

「まぁ、でも、生きているのならいいか」

「ん? 急に納得してどうしたんだ?」

「別に納得したわけじゃない。私がどうするべきか、決めただけ」

 やり遂げるには覚悟がいる。まだ自信はないけど、このまま目的地もなく彷徨さまようよりはずっといい。それに、これは私だけじゃダメだ。

 藍はベンチから立ち上がると、篤巳の前に陣取った。

「おいおい、そんな怖い顔してどうした……?」

「協力してほしいことがあるんだけど」

「なんだか俺に選択肢はなさそうな気がするけど、聞こうか」

「私をアイドルにして。そのために協力をしてほしい。具体的にはあなたの事務所に入れて」

 堂々たる宣言に篤巳はしばし言葉を失う。やがて呆れるような笑いが出た。

「待てよ、どうしてそうなった。それに俺のじゃなくて叔父さんの事務所だ。俺が決めれることじゃない」

「だから協力してって言ってるのよ。土下座してでも叔父さんに頼んでみて」

「俺への負担がでかくないか? だいたいなんでアイドルなんだよ。理由は?」

「姉に会うためよ。姉が諦めたなら代わりに私がアイドルになるわ。そのあかつきには姉を私の前に引っ張り出してやるんだから。私は立派なアイドルになったぞ、どうだって。代わりに私がアイドルになったんだから、そうしたら私が姉を迎えにいくの。それで解決よ。だから姉は安心して諦めればいい。それからは私が姉のそばに居てあげるんだから」

 真剣な藍の眼差し。冗談だろうと笑い飛ばす雰囲気ではない。確固たる意志がそこにはある。

 篤巳は立ち上がる。自分よりも身長の低い藍を見下ろすようにして、

「熱くなってるとこ悪いけど、いまの話、嘘だから。そんなことしても意味ないよ」

 ややおどけた口調で煽ってみるが、藍は表情を崩さない。真剣な眼差し。ああ、俺はこの眼を知っている。小学生の時に見た、あのひとと同じ眼だ。

 口に出すとまた何を言われるかわからないから、篤巳は黙って息を吐く。

「それにさ、俺がここに来た理由忘れてないよな? それを持ったままそんなこと言える立場だと思うわけ?」

「あっ、忘れてた」

 うっかりと言わんばかりの拍子の抜けた言葉。

「じゃあ、はい」

 すぐさま藍は鞄から例の便箋を取り出すと篤巳へと差し出す。しかし受け取ろうとしない。

「これ渡す代わりに、なんて言い出すんじゃないだろうな」

「言わないわよ。それがないとあなた、姉に合わす顔がなさそうだもんね。ストーカーじゃなくてファンだってことはわかったから、渡すわ。ほら」

 突き出された便箋。篤巳はほどなく受け取った。

「姉との約束ちゃんと守りなさいよ」

「言われずとも。俺は約束は守る男だ」

 便箋を愛おしげに見つめる姿は、本当にただのファンそのものだった。

「それじゃさっきの続き、アイドルになるために私に協力しなさい」

「おまえっ、せっかくひとが実はこいつ良いやつだなってちょっと思ってたのに、それかよ。というかそんなキャラだったか?」

「それはこっちのセリフ。あの嫌味ったらしい演技はなに? 芸能事務所の人間とは思えなかったわ」

「あれはきみとあと腐れなく縁を切るためにだ。それには嫌われていたほうが都合がいいだろ」

「それで私から手紙を回収できていないんじゃ本末転倒じゃない」

「正論を返すのはやめてくれ、へこむだろ」

 ぐうの音も出ない反論に篤巳はそのまま閉口してしまう。

 藍もそれ以上の追撃はせず、しばらく篤巳の項垂れる様を眺めていた。

 やがて顔を上げた篤巳が頭をかきながら言った。

「さっきの話は嘘だけど、きみがアイドルになりたいって言うなら俺が止める理由もないし、決定権は叔父にある。こんど紹介するから、詳しいことはそこで話し合ってくれ」

「そうしてくれると助かるわ。ありがとう」

「そんな言葉はあとに取っとけよ。事務所に入れるかは叔父しだいだ。俺は何も保証しない」

「それでいいわよ。誰かを言い訳にするほど自信があるわけじゃない」

「ご立派なことで。俺もそう言えるぐらい強ければ……いやいい、忘れてくれ」

 篤巳はどこか照れるように顔を逸らす。きっと姉へのことだろうと察し、

「そっちのファンの顔の方がよっぽど似合ってるわよ。私がアイドルになるまで、姉のことは任せるわ。約束よ」

 藍は右手を前に出して小指を立てる。

 篤巳は驚く様子をみせるが、すぐに意図を理解して、同じように右手を出す。

「約束するよ」

 ふたりの小指が静かに交差した。



 五月の連休が数日すぎた頃。

 藍はとあるレジャー施設に来ていた。

 紗凪さな小鳩こばとも一緒だ。

「晴れてて良かったねー。せっかく藍ちゃんと遊びに来たのに雨だったら最悪だったよ」

「そうそう、水原が遊びに行こうなんて言い出すから、雨どころか雪でも降るんじゃないかって心配だったよ」

「あんたたちが私のことをどう思っているかよくわかったわ。あとで覚えておきなさい」

 とはいえ、そう言われるだけの生き方をしてきたんだ。むしろ、いまさらな私に付き合ってくれてるふたりに感謝するしかない。

「でも急に遊びに行こうだなんて、なにかあったのか?」

「あっ、うち知ってるよ。この前ね、藍ちゃんが例の転校生くんと公園で密会してるのを見たってクラスの子が言うてた」

「なにぃ! 水原、おまえあれだけ男に興味ないって言っておいてそれかよ! 結局は男か!」

「結局ってなによ。そういうんじゃないってば。あれはただ」

「ただ、なにさ?」

「……密会してたのよ」

「よし小鳩、そっちの腕を捕まえろ。絶叫マシンに連行する」

「他に言いようがないんだってば」

「藍ちゃん、堪忍な」

「こらっ、離しなさい小鳩!」

 両サイドを固められ逃げ場を失い、藍は腕を振り抵抗をしてみるも二人掛かりでは勝ち目がない。

「嫌だったら本当のことを言うんだな!」

「そうだよ藍ちゃん、何があったのかな?」

 退路もなく詰め寄られては観念するしかないが、実際なんと説明していいものか。

 藍は自分でもこんな気持ちでいることに不思議に思っているのだ。

 ふたりの邪推と好奇の視線に耐えかね、

「なんとなくよ。なんとなく、私にもこういう楽しむ時間があってもいいのかなって、思えるようになったのよ」

 そう言った自分に恥ずかしくなり、顔が熱くなるのを感じる。

 すると両腕からふたりの手がするりと離れた。

「やーっとわかったか、このまじめバカめ」

「藍ちゃんいつも難しい顔してたから心配やったんよ」

 ふたりは笑っていた。からかうでもなく、馬鹿にするでもない、純粋な友達への笑顔。

 きっと私はずっとふたりに助けられていたんだ。ひとりで生きているつもりだった。でも違った。私のそばには、ふたりが、友達がいてくれた。

 誰かがそばにいてくれるだけでこんなにも心が満たされる。

 藍はふたりに手を引かれ、前へと進みだす。

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