第2話 昏迷

 それからの一週間、藍は勉強が手につかずにいた。

 小テストも満点を取ってしかるべきはずが、らしくないケアレスミスを何度もした。

 そんなことが続いていよいよ先生から呼び出しがかかってしまう。

 藍は重たい足取りで放課後の職員室へとやってきた。

 控えめにノックをしてからドアを開ける。

「失礼します」

 中をうかがっていると初老の男性教員が歩み寄ってくる。

「どうしました? どなたかお探しですか?」

 三年の学年主任を務める小川先生だった。白髪はくはつで眼鏡をかけた優しい先生で、おじいちゃん先生として生徒からは親しまれている。

「あの、郷美さとみ先生に呼ばれていまして」

「そうですか。修善寺しゅぜんじ先生でしたら給湯室にいらしたはずです。呼んできますからあちらで待っていなさい」

 そう言って来賓らいひん用の応接室を指す。曇りガラスの隙間から見るにいまは誰も使っていないようだけど、

「いいんですか?」

「構いませんよ。どうぞ」

 藍は促されるままに応接室へと向かい、誰もいないとわかりつつも一応ノックをしてからドアを開けた。

 ソファーへ腰を下ろすと、座り心地の良さに思わず頬が緩む。そのまま背中を預けるとひっくり返りそうになり慌てた。

 職員室は電話の音や機械の音で騒々しさがあるが、ドアを隔てているおかげで応接室は静かな空間だった。

 何もできずただ待つ時間。つい余計なことを考えそうになる。

 次第に落ち着かなくなりそわそわしだす。気持ちのやり場がなく、思わず立ち上がってしまった。

 ちょうどその時ドアが開き、若い女性教員が湯呑ゆのみを載せたお盆を片手で持ったまま器用に入ってきた。

「水原さん、お待たせ。って、どうかしたの?」

「郷美先生。いえ、なんでもないです」

 藍はなんとなく恥ずかしくなり、しゅんとしながら座りなおす。

「そう? ならいいけど」

 郷美はお盆を置き、お茶の入った湯呑を藍の前は置いた。

「ありがとうございます」

「どうしたしまして。さっそくだけど水原さん、呼び出された理由はわかるわよね」

 藍はお茶をひとくちすすって息を吐く。

「授業態度、ですよね」

「そうねえ。でも態度が悪いって言いたいんじゃなくてね、なにか身の回りで問題でもあったのかなって。最近の授業にあまり身が入っていないって他の先生方も話してるし、水原さん自身も困ってるような雰囲気があるから」

「そんなに心配されるほどですか」

「先生は二年生の担当じゃないから水原さんの授業態度はわからないけど、生徒会を担当してる目線で言うと、そうね、ちょっと心配かな」

「それは申し訳ないです……」

 生徒会の仕事もおざなりになっていたのは自覚がある。とにかく、何事にも集中できていないんだ。

「何があったのか聞いてもいい?」

「聞かれても何を話せばいいのか。自分でもこうなっている原因がわからないのに」

「本当に? まったく心当たりがない?」

 そう言う郷美の表情はとても穏やかなもので、藍も自然と気分が落ち着いていた。そして改めて考えを巡らせる。自分に何があったのか、記憶という引き出しをひとつずつ開けていく。とある引き出しを開けようとしたところで理性がブレーキをかけた。

 それが顔に出ていたらしく、

「なにか、あるみたいね」

 ポジティブなことではないと察したのか郷美は声のトーンを落とす。

「すみません。できれば話したくなくて……」

「うん。先生には話せないこともあるわよね」

 そう言って郷美は藍の言葉を受け止めた。そしてその答えとしては藍が予想していなかったことを郷美は提案する。

「それじゃあ水原さん。先生よりも頼りになるひとを紹介してあげるわ」

 その言葉に藍は顔を上げた。

「頼りになるひと、ですか?」

「そうよ。少し前に先生もそのひとに助けてもらったことがあるの。だからきっと水原さんの力にもなってくれるわ」

「でも私は」

 話したくない。あのことを誰かに話すのはいやだ。いやだ。

「大丈夫よ。抵抗があるなら何も話さなくていいから。ただそのひとに会ってみてほしいの。そうすればきっとわかるわ」

「わかるって……いったいなにがでしょうか」

 不安でいっぱいという表情の藍に向けて、郷美は微笑む。

「先生が、頼りになるって言った意味よ」

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