夏 中学生 仮表題
1章
世界というものは、巨大で強大で、広大なもののように思えるが、しかしその実、案外小さなものであるようにも最近は思われる。
音が聞こえる世界は狭い。
手が届く世界は狭い。
鑑賞できる世界は狭い。
干渉できる世界は狭い。
世界の裏側で起こる紛争やテロ行為より、近所で起きた交通事故や空き巣事件の方が大事件のように思われる。遠近法という言葉が使われるのは、何も絵画の世界だけではないらしい。
時間的にも空間的にも、遠い出来事というのはそれだけで印象が薄れる。人の本質は無関心であるとは、一体誰が言った言葉だったか。
夕暮れに照らされる教室の中で、僕はそんなことを漠然と考えながら読書に耽る。遠くに聞こえる誰かの靴音に耳を傾けながら、思索の世界はなお広がり続けた。
世界は狭い。結局のところ、僕の介在しない世界なんて、存在していようがいまいがどうだっていいのだから。
じゃあ一体、僕の世界とは何なのだろう。どこまでが僕の世界であり、何によって構成され、何を中心としているのだろう。
それは当然僕であるはずだ。だって、僕の世界なのだから。
でも最近、僕の世界の中によく分からないものが紛れ込んできた。そいつによって、今僕の世界は刻一刻と、着実に塗り替えられてしまっている。
その僕の世界を歪める元凶は、紛れもなく彼女なのだろうと目星はつく。気づけば彼女を目で追い、休日になってもふとした瞬間彼女のことに思いを馳せてしまっている自分がいるからだ。
では、それは何故なのだろうかという疑問に今度は繋がるわけだ。僕はどうして彼女のことにここまで気を取られ、心を奪われてしまっているのか。
あるいはそれが僕にとっての……
そこまで書いてから、キーボードを打つ手を止めて顔を上に上げる。両手を組んで首の後ろに回し、体重を背もたれへと預けた。前足が上がってグラグラした椅子の上でシーソーの気分を味わいながら、照明の白光に照らされる。眩しさに目を閉じて、瞼に焼き付いた光の残像を見ながら、今まで書いてきた文章を思い返す。
駄作だな。伝えたいことも書きたいことも明瞭じゃない。実につまらない。
大体、表現技法どうこうの前に内容がそもそもとして気に食わない。何だこの語り手の女々しさ極まりないモノローグは。かつての時代の文豪様の作品ではないのだから、もっと分かりやすい思考回路をして、もっと単純な言葉遣いをしろ。
自分で書いた文章を心の中でボロクソに叩きながらため息をつき、姿勢を正してから開いてあった文字打ちソフトを閉じる。当然保存もしていない。あんなもの、残していても黒歴史になるのがいいところだろう。
やれやれ。やはり読むのと書くのでは勝手が違いすぎる。このままでは一作完成させるなど夢のまた夢だ。
「頑張ってますね。たぶんまともに活動している文芸部は、君ぐらいのものですよ」
心の中で諦めの情念を募らせていると、横から影と言葉が入ってくる。おっとりとしたその声音の方を向きながら、言葉を返した。
「頑張っているといっても、書いて消しての繰り返しで一歩も前に進んではいないんですけどね」
「創作とはそういうものですよ。むしろスラスラと手が動く方が不安です。今壁にぶつかっている分、どこかのタイミングで必ずブレイクスルーが訪れます」
先生はニコリと微笑みながらそう言った。色々なことを知っている経験豊富な先生にそう言われてしまっては、無知極まりない十四歳が返せる言葉などあるはずもない。
「幸い、夏休みはまだまだ日を残しています。焦らず取り組めばいいでしょう」
目を細めて窓の外を見やる先生につられ目を動かすと、広がるのは快晴と呼ぶにふさわしい天気。青々とした空に浮かぶ白い光源は照明とは比較できないほどの光量と熱量、輝きを放っている。その気候は、夏という言葉の体現であるように思われた。見ているだけで汗が流れそうだ。
「図書室はクーラーも効いていますし、困ったときは私も相談に乗ります。だから、少しずつでも消さずに残してみたらどうですか。案外完結してみると、細かいところは気にならなくなるものですよ」
「…はい、そうですね。ありがとうございます」
「いえいえ。頑張ってくださいね。私も君が書く小説を読んでみたいですから」
「頑張ります」
「その意気です。…ところで、私はこれから二時ごろまで席を外すんですけど、君は今日、何時までいるつもりですか」
「そうですね…。まあ二時半ぐらいまでだと思います。それより早く帰ることは多分ないです」
「そうですか…。分かりました。なるべく早く帰るようにはします。申し訳ありませんが、誰か来たら…」
「分かりました。カウンター業務はやっておきますよ。図書委員ですから」
「すいません。ありがとうございます」
本当に申し訳なさそうに頭を下げてから、先生は司書のカウンター席の方へと歩いて行った。カバンをとってから、入口の方へと向かう。
「それじゃあ、すいませんがお留守番お願いしますね」
振り返ってから最後にそう言って、先生は出ていった。開いて閉まるドアを眺め終えてから、ワープロに向き直る。
先生は素敵な人だ。小学校の頃の司書と違って、ちゃんと本にも詳しいし、今でも読書に意欲的だ。物腰はやわらかいけど、子ども扱いしてくるわけでもなくきちんと生徒にも丁寧語で対応してくれる。それに、色々なことを知っている。知識としてではなく、知恵として。大人の女性の魅力というやつを放っている気がする。実際、数多くの男子が先生目当てに平日は足繁く図書館に通い詰めている。
もっとも、夏休みともなればわざわざ図書館に足を運ぶ奴などたかが知れる人数になるわけだが。
そう言えば、先生は付き合っている人とかいるのだろうか。左手の薬指はフリーだったが、やはり彼氏ぐらいはいるのだろうか。まあ、あれだけ素敵な人なのだから、むしろいない方が不自然という気がする。
そこまで考えてから、考えを中断してキーボードを叩き始めた。興味がないわけではないが、プライベートな問題だし、一生徒が色々と訊こうとするのは野次馬根性が過ぎるというものだ。無粋な真似はしないでおくべきだろう。別に、友達ではないのだから。
しばらくの間、無心になって心に浮かぶ単語を連ね、文字を繋げ、文章を組み立てていく。
書いているのは、ベタな恋愛小説だった。小学校の頃からの友人である女の子のことが気になり始めた中学生の男の子が、その気持ちが何であるのかを色々と考察しながら彼女と関わっていくという、至って普通極まりない物語だった。プロットも筋書きも、ありきたりで特に捻りもない。強いて言えば男の子が若干厨二病を患っているというのが特徴だろうか。でもまあ、それぐらいのものだ。
頭の中では書きたい場面も書くべき展開もハッキリしているのに、どうしても手が止まってしまう。その理由さえ分からず、胸の中のモヤモヤとしたわだかまりを持て余していた。
「やっぱり読むのと書くのとでは勝手が違うのかな…」
思わず弱音をポツリと漏らしてしまった。声に出してしまっていたことに驚き、慌てて周りに人がいないかを確認する。まあ、この時間に図書館に来るモノ好きはいないだろうと思いながら見まわしていると……いた。
人がいた。背格好からして一年生なのだろう。本棚を見ながらウロチョロとしていた。遠く離れている場所にいたので独り言は聞かれていないだろうと一安心するも、今度はその子個人への興味がわずかに沸いた。知的好奇心という名の怪物が疼きそうになる。
この時間に図書館にいる人なんてそうはいない。大体いつも見かけるのは馴染みの顔だ。でも、あの子の顔に見覚えはない。新参者ということだろうか。だからどうこうというわけではないが、興味本位でその子の様子をそっと見守る。
あっちへウロウロ。こっちへウロウロ。一般文芸の棚を左右に往復する様子を見ていると、ある仮説が出てくる。
あの子、ひょっとして……
多分間違いないと思うんだが、どうしたものか。変に自分から関わりに行くのも差し出がましい真似な気がする。しかし、放っておくというのも少し冷たいんじゃないだろうか。
こんな時、彼女だったら……
まあ、そうだな。恩義を返すつもりで行動するとしよう。
椅子を引いてから席を立ち、女の子の方へと向かってゆく。心臓がやや緊張してうるさいが、軽く唾を飲み込むことでそれを誤魔化した。
そしていまだ右往左往する女の子の背後に立ってから、出来るだけ明るい口調で切り出した。
「何探しているの?」
「わっ」
努めて明るい口調で声をかけたのだが、女の子はかなりビックリしてしまったらしく、腰を引いて思いっ切り距離を取ってきた。いや、物の怪とかではないのだから、そんなに怯えんといてくれ。
「あのっ、えっと、そのっ」
「ごめんごめん。驚かせちゃったね。それで、何を探していたの?」
警戒を緩めようとせずに、怯えたように言葉を紡ぐ後輩ちゃんを落ち着けるよう、再び明るい声を出す。もしかしたらこれ逆効果かもしれないけど。
巻いているスカーフの色を見ると緑色だった。つまり、見立て通り一年生だ。我が校は赤、青、緑の三色で学年を表す。そして今の周期だと、一年生は緑色に当たるのだ。
「えっと、そのぉ」
「一応図書委員だから。本を探すの、手伝ってあげられるんだけど」
怯えさせないよう、今度は事務連絡っぽいテンションで話してみる。案外人見知りの子からしたら、こういう他人に興味なさそうな人の方が話しやすかったりするのだ。明るく振舞うだけがコミュニケーションの全てではないということを、是非とも全国のリア充の方たちには学んでいただきたいものだ。
「あっ、その…、…「檸檬」をっ、探しています」
「「檸檬」って、梶井基次郎の?」
「はい、そうです…」
この子も梶井基次郎とは…これも縁というやつなのだろうか。
「えっと、置いてありますか?」
「ああうん、ちゃんとあるよ。ただ、夏目漱石とか太宰治とかの純文学作品は、一般文芸とは違う別のコーナーに置かれているんだよ」
そう言ってから、本の置いてある場所へと足を動かす。数歩歩いてから振り返り、ボケッと立っている女の子についてくるようにと手で催促した。
「ココだよ。ココに文豪系の作品は揃えられているから」
「………………………」
「ん?どうしたの?」
陳列棚にまで案内してやったのはいいが、後輩ちゃんは何故か下を向いて黙りこくってしまっていた。どうしたどうしたと思いながら顔を覗き込むようにして伺おうとすると、突然顔を弾かれたように上げて、何やらボソボソとした声で呟き始めた。
「………がと………す」
聞こえない。無言で笑い、リピートを促すともう一度、今度は大きな声で告げてくれる。
「…そのっ、ありがとうございます!」
「……どういたしまして」
個人的にはすごくデジャヴュを感じる展開だった。まあ、確かにあの時のことを思い出しながら案内したけどね。
「貸し出し手続きしてあげる。カウンターまで来て」
背中を向けながらそう言って、やや早めの歩調で歩き出す。
今この顔は、誰かに見せたくはなかった。
無事に貸し出し手続きを終えた後輩ちゃんは、「先輩、本当にありがとうございました」と言って図書室から笑顔のまま去っていった。その様子を見送ってから、自然と息が一つ漏れる。断じてため息ではない。どちらかというと、満足感とか充足感によるものだった。
変わったなと、そう思う。
彼女と出会い、触れ合い、関わり合ってから変わったと、自覚する。昔の自分が、他人のために行動したとはとても思えない。興味ない、関係ないの一点張りで、多分無視していたと思う。
でも今日はそうしなかった。それは紛れもなく彼女とのつながりが起こした変化だと思う。
時計を見ると、時刻は二時過ぎ。あと一時間もしないうちに、彼女が図書室へとやってくる。小学校の頃から変わらない元気さと愉快さを持った彼女が、この静かな部屋の空気を壊しにやってくる。
それはそれで悪くない。今は、他に利用者もいないんだから。
とりあえず今は、彼女が来るまでに一文字でも多く、小説の執筆を進めたい。
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