春 小学生 緑に染まる日

3章

 「見つからないねえ」

 「うん。見つからない」

 あれから二人で探すことおよそ十分。おそらくすべての本棚に目を通したはずだが、本は一向に見つからなかった。

 今は二人して司書のカウンター近くに腰掛けて休憩中だ。窓から見える夕焼けはもうだいぶ傾いていて、最終下刻時間までもあまり時間は残っていなかった。

 「その本って図書館に置いてるの?あるいは誰かが借りているとか?」

 少女がそもそもを確認するように聞いてきた。まあ、ここまで見つからなかったらその可能性を疑いたくなる気持ちは分かる。

 しかし、

 「さっき司書の管理用パソコンで調べたけど、ちゃんと置いてあったよ。一冊だけだけど。借りられてもいなかったし」

 その辺は探す前に確認済みだ。まあ文豪作品だから需要に関わらず置いてあるのはある意味当然とも思えるけど。

 「それじゃあ、貸し出し手続きしないで持ってちゃったとか?」

 「うーん。正直その可能性は否定できないかなあ」

 普通の生徒が普通に過ごしている分には手に取ることが少ない作品だ。しかし、借りない人がいないわけではないだろう。もし本当にその可能性通りの場合、今までの苦労は全て茶番に終わってしまうわけだ。

 「ええええぇぇーーーー!!そうなの、何で?!」

 「学校の図書館のセキュリティなんて大したことないからねえ。実際ザル…」

 「おいおい。そういうことはあんまり言うもんじゃないぜ、おチビちゃん」

 そこまで言うと、太くて低い大人の男の声が発言を遮るように聞こえてきた。その声の主には見当がついていたので、驚くこともなく言葉を返す。

 「チビ言うな。大体事実でしょう先生。というか、今までどこに行ってたんですか?」

 「ハハハ、細かいことは気にするな」

 「別に細かくはないですけどね…」

 豪快に笑って誤魔化そうとする先生に呆れながら、一応ツッコんでおいた。もっともその言葉に力はない。疲れているのだ。

 「何だよ?随分疲れているじゃないか?もしかして、なんか困ったことでもあったのか?」

 こっちの疲弊した様子に気が付いたのか、珍しく先生は気を遣うような声音を出してきた。

 聞きたいこと?ああ、それじゃあ……

 「そうだよっ、先生!先生は「桜の木の下に」って本どこに置いてあるか知らない?」

 弾かれたような勢いで、訊こうとしたことを今まさに少女が尋ねてくれた。

 そう、ついぞ見つからなかった本が結局どこにあったのか。こちらとしてはそれだけが知りたい。これで下らないオチだったら意味もなく先生のスネを蹴飛ばしてしまいそうだ。

 先生のスネの無事を祈りながら、先生を見つめてその答えを待つ。二人の児童が固唾を飲んでじっと見守る中、先生はしかし、何てことはないような実に軽い口調でこう言った。

 「ん?それってこの本のことか?」

 言葉と同時に、ポケットに手を突っ込んで一冊の文庫本を取り出した。新品同様のツヤ感を持つ表紙が目の前に差し出されたので、眼球を動かして表題を探す。

その本のタイトルは…「桜の木の下に」

「いやー。こういう本を持ってブラブラしてたら、いかにも司書の先生っぽく見えるんじゃないかと思ってな。何だ?この本に何か用事でもあるのか?」

用事どころのものか。こちとらそれを探すために結構な労力と時間を支払ったんだ。

 そう考えると自然、メラメラと怒りの炎が胸の中で燃え上がる。その熱と衝動に浮かされるようにして、先生の方へと一歩足を進めた。

 報いを受けろよ。

 ため息を一つ吐いてから、右足を軽くスウェーする。頭の中にはブランコのイメージが思い浮かぶ。相手は大人だし、手加減はしない。全力で振りぬいてやる。

 しかし、そのイメージに突き動かされるようにしながら足が弧を描くことはなかった。

 「フフッ、クフッ。…プッ、アハハッ!!先生がっ!先生が犯人だったんだっ!だったら、見つかるわけないじゃんね!アハハハハハハハハハ!!」

 隣の少女がまるで発作でも起こしたかのように、唐突に笑い声をあげたからだ。その笑いはとどまることを知らず、少女は腹を捩るようにしながら笑っていた。「おかしいの!おかしいの!」といいながら声を上げて笑っていた。

 その笑い声に毒気を抜かれてしまって、振り切ろうとしていた足を素直に床に着けた。

 そして、言葉が漏れ出る。

 「フフッ、本当に、おかしいの」

 自然と口からは苦笑が漏れ出ていた。疲れた身体故に少女のように大声を上げて笑うことは叶わない。しかし、気持ちとしては少女とそう大差ない。

 「おっ、おう。どうしたお前ら?なんか俺変なこと言ったか?」

 突然笑い始めた二人を見て、先生は驚くようにしながら声をかけてきた。しかしそんな先生の様子を見て、二人は顔を見合わせてまた笑った。

 おかしい。二人だけが共有した苦労があるから、この状況は、何とも滑稽に映る。

 二人の笑い声の中に、最終下校時間を告げるチャイムが混じる。その音を聞いてから、一度笑うのを止めて先生の方に向き直った。

 「ハアハア、先生。その本、借りたいんですけど…」

 「ん?そうなのか?相変わらずお前はおチビのくせにやたら大人っぽいもん読もうとするな」

 憎まれ口を言いながらも、先生はカウンターの向こう側に回って貸し出し手続きをしてくれた。数少ない常連なので、軽いVIP待遇を受けていたりする。具体的には貸し出しカードを出さなくても貸してくれるのだ。まあもっともその分貸し出し冊数にも入らないのだが、別に多読賞に興味はないので構わない。いちいち借りる時にカードを提出するのは結構面倒なのだ。

 「ほらよっ、貸し出し手続きおしまい」

 差し出した本を受け取ると、何だか不思議な気持ちになる。こうも探すのに苦労したことがないからだろうか。本を握ったその手から、春の穏やかな陽気のような心地よい熱が流れ込んでくる。

 そこまで思ってから、忘れてはいけない事実に気づく。

 そうだ。これは、この本は一人で探したものじゃない。

 首を動かして横を見ると、視界に写るのは少女の感激したような、ほっとしたような表情。その顔を見ながら、伝えたい言葉を喉の上へと競り上げる。

 恥ずかしい。照れくさい。上手く声が出そうもない。

 でも、これはきちんと伝えとかないと。

 「あの、そのっ、ああぁ。……がとう」

 「えっ、何?ごめん聞こえない」

 少女は何一つとして邪気のない声でそう言い、催促を求めてきた。

 畜生、恥ずかしい。こういうのは柄でもキャラでもないのだ。

 「だからっ!ありがとう!」

 若干怒鳴るようにしながら、喉元まで来ていたお礼の言葉を告げた。ぶつけた。その言葉の意味を理解して、少女の顔はみるみる変わっていく。

 それは何ともまあ、とても素敵な笑顔だった。知る限り、見てきた限りでここまで素敵スマイルを持った人は多分一人もいない。

 その笑顔に見惚れて、思わず続けて別の言葉が出てきそうになった。しかし、それを口にする前に、先生の声が割り込んでくる。

 「はいはい、二人ともイチャコラするのは一旦止めてもう帰りなさい。チャイム鳴ったんだから」

 「はーい。じゃあ下駄箱まで一緒に行こうよ!」

 先生の言葉に反応してランドセルを背負う少女の言葉にうんと返事するも、頭の中では全く別のことを考えていた。その様子を探られないためにも、彼女に背中を向けながら帰り支度を済ませる。カウンターから離れた机に置きっぱなしにしてあったランドセルの方に小走りで移動し、本を入れてから背負って図書室の入り口で待つ少女の元へと向かう。

 「それじゃあ先生、さようなら!」

 「おうっ、もう遅いから気を付けて帰れよな」

 先生には会釈だけして別れの挨拶として、少女と並んで下駄箱までの廊下を歩く。夕焼けの放つ茜色の光線に当てられて、隣を歩く少女の顔は赤く染まっているように見えた。その横顔を時折チラチラと見ながらも、無言のまま連れ立って歩いていく。斜めに伸びる二つの人影が、自分の足元から出ているのを見ると何だか不思議な気持ちになった。図書室から下駄箱までの道のりは当たり前だがそう遠くない。でも五分もない短い道のりを歩く時間は何倍にも引き延ばされて感じる。

 「ねえ?」

 下駄箱の姿が見えて別れが迫った時、少女が足を止めて口を開いた。同じように足を止めて振り返ると、少女は両手を合わせてぎゅっと握りしめていた。その何か決意を秘めたような様子を眺めながら、続く言葉を待つ。

 「友達になろうよ」

 凛と響くような少女の声が、人気がない廊下の中に満ちる空気を震わせた。その音を聞き、頭の中で文字として処理し、そして文章へと組み立てて意味を咀嚼する。

 「…何で?」

 それは素直な問いだった。少女の名を思い出し、そして少女のクラスでの立ち位置を思い返す。その役割は日陰者とは、捻くれ者とは、クラスにおける厄介事処理班とは似て非なるものであるように思える。

 少女は根本的に住む世界が違う人間だ。よく笑い、よく泣き、よく怒り、そしてやっぱりよく笑う。感情と表情が一致した、良くも悪くも素直な存在。それが少女だった。その素直さゆえに多くの人と関わり、友人知人に囲まれて日々の生活を送っている。引っ込み思案で無口な本の虫とは釣り合わないし、付き合わない。

 だからこその問いだ。現状自分がクラスメイトからどう思われているのかなんて何となくは分かっている。そして、必ずしもそれが好意的ではないということもまた、知っている。良くも悪くも腫れものなのだ。時代劇に登場する正義の味方が好かれるのは、単純にその人が好かれているからだ。正義の味方の誰しもが、愛されるとは限らない。事実反例が一人、この場に存在している。

 しかし、少女はその問いにあっけらかんとした調子で、淀みない口調で答えた。

 まるでそれが、個人の感情や評価ではなく、世界の定めであるかのように。

 「あなた、とってもやさしいから。それに、とってもおもしろいから」

 天真爛漫と呼ぶに相応しい笑顔をその顔に浮かべて、少女が言葉を紡ぐ。その声音が耳を介して脳へと伝わる。その言葉が心に響いて、胸の中が不思議な気持ちで満たされていくのを感じた。

 でもその気持ちはきっとまやかしだ。

 彼女が見ているのは幻想だ。

 彼女が知っているのは幻影だ。

 行動する理由はいつだって「自分のため」だった。例えその結果いくらかの面倒事が回避されたとしても、いくつかの喧嘩が収められようと、それは全て利己のための行いだ。

 故に、そこに優しさなんてない。

 「…別に優しくなんてないよ」

 「やさしい人は、自分から「自分はやさしい」なんて言ったりはしないよ」

 「…そうだとしても…」

 「あなたはやさしいわ。私がそう決めたんだから、あなたは絶対にやさしいの」

 横暴だ。こちらの都合も主張も無視している。自分勝手極まりない。

 なのに、どうして救われた気持ちになっているのか。どうして報われた気持ちになっているのか。

 それはきっと、今の自分を肯定してくれた言葉だからだ。

 こんな不器用なだけのひねくれ者を、やさしいと言ってくれたからだ。

 「だから、友達になろう。なってください」

 少女はもう一度その言葉を発してから、頭を下げてお願いしてきた。正直困る。こういう時、どうすればいいのか分からない。

 「……ちょっと、考えさせて…」

 やっとの思いでそれだけ伝えて、下駄箱へと駆け出した。外履きに素早く履き替えて、正門までの道を走り抜けていく。走って間もないのに胸がもう苦しかった。呼吸が荒くなり、世界が揺らぐ。フラフラな足を懸命に動かして、帰路を進んでいく。

 どうして「はい」と言えなかった。

 どうして「いいえ」と言わなかった。

 問いだけが胸の中でうずくまって場所をとる。それらに思考のリソースを割くことが出来ないよう、更に足を送る速度を上げた。

 いつもと同じ帰り道は、しかし駆け抜けた世界の中では、いつも通りではなかったような気がした。

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