寂寥の匣
中島 晴
第1話
さびしくはないか。
乗客のまばらな電車に並んで座り、アオイの横顔を見ているうちに、そう訊きそうになったが、わたしはいつものように、その言葉を口に出すことはなかった。
総武線各停は、新宿駅を出て中野に向かう。厚い雲の向こうで陽はもう沈んでしまったようだが、かすかに青い明るさが空に残っていて、アオイはその空を首を少しかしげて見ている。華奢な靴を履き、長い髪の毛の先、爪の先まで手入れの行き届いた女。誰が見ても裕福な幸せに満たされた女に見えるだろう。けれどもわたしはいつもアオイの顔に憂いを探してしまう。見逃している憂いがどこかに隠れているのではないかと探してしまう。憂いが見つからないことにほっとしながら、同時にそんなはずはないと落ち着かない気持ちになる。
アオイがゆっくりわたしのほうへ顔を向ける。目が、なあに、と尋ねる。目元にシワができる。じっと横顔を見ていたのがわかったのだろう。なんでもないよと答える代わりに頭を横に小さく動かすと、アオイの手がそっと差し出される。手を握ってわたしの膝の上に置いてやるとアオイはうれしそうに頬でほんの少し笑って、また空を見る。
アオイの細い指先が、少し欠けて、丸く肉の盛り上がっている私の右手の人差指の先を撫でる。くすぐったいわけではないのに、いつもこうされるとくすぐったいような気がする。爪のないこの指を、アオイの身体に入れるのがわたしは好きだった。また、やらしいことを考えてしまった。アオイといると、わたしはいくらでもやらしいことを考え続ける。いや、アオイと離れているときもそうだ。この指を見て、アオイの湿った場所を思い出す。少し角度をつけて抜き差しをすると、アオイが小さな声を出す。甘えるような声が、時々、ふっと低い声になる。低い声が頭の中で再生されると、わたしの身体はいつも硬くなった。
さびしくはないか。
もし、アオイがさびしいと答えたらなら、どうすればいいだろうか。わたしのような惰弱な男の手に負えるようなさびしさではないことはわかっていた。けれども、わたしはアオイのさびしさを探してしまう。アオイはどこにもさびしさを灯していない。時間のない逢瀬の後で、慌ただしく改札で別れる間際にも、見せるのはさびしげな顔ではなく、なんと言えばいいのだろうか、そう、それは儚さのような表情だ。けれども、わたしはアオイに尋ねそうになってしまう。
さびしくはないか。
アオイはどこかにさびしさをしまっているのに違いないのだ。きっとどこかに匣をもっているに違いない。その匣にはアオイの身体中から集めたさびしさが閉じ込めてある。その匣の蓋が開くのが怖かった。わたしはアオイがさびしがらないのをいいことに、もう三十年ほど待たせている。わたしは、人生の折々で意気地なしでグズで、いつまでもアオイを待たせておくしかなかった。
一度だけアオイに尋ねられたことがある。
「後、どのくらい待てばいいのかな」
「五、六年かな。下の子が中学生になる」
その下の子ももう大学生だ。アオイはわたしを軽蔑しているにちがいない。いつ愛想をつかされるのか、わたしは常に怯えていた。
新宿駅から二つ目の駅で降りる。アオイは迷わずホームを新宿方面に戻る。
「こっちの改札を出れば近いはずよ」
アオイがかつて毎日のように使っていた改札とは反対の改札だ。駅から出て、街を歩き始めるとすぐに見当がついたようでアオイは迷いなく進む。
「駅のこっち側はあまり変わってないわね」
「向こう側は変わっているの?」
雨が降り始めた。昨日から降ったりやんだりしている。一昨日までの暑さが嘘のように肌寒い。わたしの開いた傘にアオイも入る。小雨の時には同じ傘に入るのがいつの間にかのわたしたちのルールだ。アオイの美しい靴が濡れないかと気にかかる。
「駅の向こう側は、ずいぶん変わったところと、恐ろしいほど変わってない所が混在していて、わかりづらいことになっているの」
「最近、来たの?」
「十年ほど前に、車で近くを通りかかって、その時、ちょっと」
何度か見かけたことのある、アオイの夫の運転する深い緑色のドイツ車を思い出す。いや、十年前なら、その前の紺色の車か。
そろそろ目的地の近くのはずだ。カバンから案内のハガキを出す。仕事で少しだけ関係のある若い造形作家のグループ展の案内をもらったのだ。偶然その作家の小さな作品がアオイの家にもあって、それじゃあ行ってみるかということになったのだが、もし、会場がこの街でなければ来ることはなかったかもしれない。
「あ、犬・・・・・・迷子かな」
最近はあまり見かけることのない、いかにも雑種の犬が、急ぐでなく、不安そうにするでなく歩いていた。子どもの頃はほとんどの犬がこんなような犬だった。
「大ちゃん、大ちゃん」
突然アオイが大きな声で犬を呼ぶ。アオイの大声など聞いたことがないので驚く。
「なんだよ、大ちゃんて」
犬はアオイの方を見て、耳を二、三回動かし、首をかしげる。
「大ちゃん」アオイが小さな声で再度呼びかける。犬はふりかえり、ふりかえり細い路地に入っていく。
「大ちゃん、大ちゃん」
アオイは呼びながら駆け寄る。傘を持って慌てて追いかける。
「いなくなっちゃった」
まだ開店していない小さな飲み屋がぎっしり並ぶ路地だった。映画のセットのようだ。
「大ちゃんて、なんだよ」
「覚えてないの? アパートの大家さんが飼ってた犬。さっきの犬、大ちゃんだった」
「ばーか、あれから何年たったと思ってるんだ。三十年だぞ。そんなに犬が長生きするわけないだろう」
「だって、そっくりだったもん」
「あんな犬、どこにでもいるだろう」
「いないわよ、今どき」
確かにいないかもなと思う。もう長いこと街中で見かけるのは純血種ばかりだ。みんな首輪をつけ、飼い主の横を歩いている。ふらふらと一匹で街を歩いている雑種犬など、見たことがない。
「大ちゃん、時々柵を越えて脱走するの。駅のあたりをふらふら歩いているのをみつけて連れ帰ったこともあるの。おかげで学校に遅刻したのよ。今日も帰り道がわからなくなったのかもしれない」
「だからあ、そんなに長生きする犬はいないってば」
アオイは二十歳の時に目黒からこの街に越してきた。当時、アオイもわたしも地方から進学のために上京してきて、アパート暮らしをしていた。アオイの通う大学からは離れることになるのに、どうして引っ越すのかと尋ねると、大家さんが犬を飼っているアパートを見つけたから、とのことだった。なるほど、引越し後に訪ねると、古びたアパートの一階に住む大家さんが、二階のアオイの部屋の真下に犬小屋を置いて中型犬を飼っていた。雑種の赤犬だ。まだ、ほとんどの犬が外飼いされていた頃の話だ。初対面のわたしの顔を見ても吠えるでなし、甘えるでなし、ぼんやりした犬だった。
犬小屋と大家さんの家庭菜園のプランターの間を通って階段を登ると、ドアが向き合っていて、左側の角部屋がアオイの部屋だった。右側の部屋には、洋裁の雑誌の編集をやっている女性が住んでいて、時々、かたかたとミシンの音がすると言っていたのを、急に思い出す。
グループ展は、出展者の四人の作品が、意図的ではあるのだろうが、順不同に置いてあって、そのことが見る側から集中力を奪っていた。作品には値段がついていて、その場で購入もできたが、手頃な大きさの手頃な値段のものには、予約済の札がついていた。
会場を出ると、雨はほんの小雨になっていて、さきほどより気温が上がったのか、蒸していた。
「なにか気に入ったものがあったら買おうと思って、少し多めにお金持ってきたんだけど、そういう気分にならなかったわね」
「うん、並べ方が悪かったね」
アオイが駅の方へ歩き始める。わたしは傘をさしかけた。
「駅の向こうへ行ってみるか」
「うん、行ってみましょうか」
会場から駅までもどり、駅の横を抜け、あの頃はいちばん新しいビルだったのよ、という古いビルの前を歩き、引っ越す時にまだ工事中だったわ、というスーパーマーケットの横を抜け、駅の反対側に出る。
「ずいぶん、広くなってる」
山手通りまで出るとアオイが驚いている。拡張された道は閑散としていた。昔はいつも渋滞していた。信号待ちをしていると、廃車寸前のようなトラックがゆっくりと走っていく。
「拡張工事したんだよ。アオイが住んでいる頃から準備してたじゃないか。新しい建物はみんな道からさげて建てていたの覚えてない?」
「うん、そういえばそうだった」
道を渡って、線路をまたぐ橋を渡る。
下を走っている線路をのぞくと、白くもやって、線路が見えない。いつのまにか濃い霧がそこかしこに溜まり始めていた。
「本屋さんはそのまま残ってる」
橋を渡って、この本屋の横の道を入ると、店舗とはいいがたい、仮住まいのような八百屋があったはずだ。店を開けている間は並んだ野菜によって八百屋であることがわかったが、店を閉めているときは、廃材置き場のようだった。
本屋の横の道を入ると、廃材置き場のような光景が目に飛び込んできた。
「八百屋、まだやってるんだな」
多くの店がなくなっているのに、この青空市のような八百屋が残っているのは不思議なようでもあったが、この時代らしくもあった。安いものを人々は求めている。
八百屋の並びにある美容院もそのまま残っていた。当時はしゃれた店に見えていたが、足元までのガラス窓は薄汚れており、暗い店内にはタオルが干してあった。
銭湯のあった場所は月極の駐車場になっていた。アオイが住んでいる頃、この辺りで駐車場を探すのはたいへんだったはずだが、今は、駐車場の半分もうまっていない様子だった。コンクリートで固めた地面のあちこちにひび割れができていて、草が生えている。曲がった道なりに歩き続けると、三叉路に出る。そうだ、こんな道だった。突き当りには教会と幼稚園があったはずだが、
幼稚園はなくなっていた。代わりに小さな公園があった。もう通う子どももいないのだろう。教会は残っていたが、蔦が生い茂り、屋根の十字架でかろうじて教会だとわかるだけだった。
三叉路を右に行く。
「春になると、このおうちの桜がきれいだったのよ」
大きな屋敷の多いこのあたりでも、ひときわ大きな家の長い塀沿いに歩きながら、アオイが見上げるあたりには、昔は桜があったのだろう。塀の中は静まり返っている。塀の中だけではない、町全体が静まり返っている。
道はまた、丁字路に突き当たる。白い壁に青の屋根のついた小さなマンション。白い壁も青い飾り屋根もくすんでいるが、それでも誰かが住んでいるのかエントランスには黄色い電灯が灯っている。
丁字路を左に曲がる。急に暗くなる。道の右側には、わたしにも見覚えのある古いお屋敷。屋根のついた立派な門と、瓦が乗った白壁の大手。どうやらこの町は古いものほど残ってしまったらしい。当時、羨望の目で見た、出来たばかりの広々とした庭を持つ洒落た低層マンションや、大手の企業のテラスハウス風の社宅等、それこそが今も残っていてもよいはずなのに、どこにあったかも思い出せない。
そのくせ、この傾きかけた日本家屋は残っているのだ。もう、誰も住んでいないのだろう。明かりもついていないし、よく見ると門から表札が外された跡が残っている。もやっているせいでよく見えないが、暗い庭も荒れ果てているようだ。
左側のいかにも昭和のにおいのするモダンなデザインの家も、壁の塗装があちこちはげている。かろうじて薄暗い電灯が家の奥に灯っているので、誰か、おそらく年寄りだろうが、住んでいるのだろう。その隣は空き家だ。
道はかすかに下り坂になっていく。
「そこ曲がったら、昔住んでたアパート」
「うん、思い出してきたよ」
アオイが立ち止まった。「えっ」息を飲む音が聞こえた。
「残ってる。あのまま残ってる」
三十年前と同じ姿で、木造二階建てのアパートがそこにあった。元々古くさいアパートだったからか、駅からの道々で見てきた建物のように、古びた感じや荒れた様子はなかった。むしろ、人の暮らしている暖かささえ感じられる。
「あの頃の、そのまんまだね」
アオイが驚いている。
「そのまんまだ」
驚く他はない。二階の三つの部屋には明るく電気がついている。今も誰かが借りているのだろう。一階の大家さんは留守のようだ。
足元を何かが通り過ぎる。
「大ちゃん……」
犬がわたしたちを追い越し、アパートの下の犬小屋に入っていく。きっと大家さんが、昔と同じような犬をまた飼っているのだろう。
「おかしなくらい、昔のまんまだな」
二階にあがる階段の横にうちつけられた青い半透明のプラスチック製の波板も、破れたところもなくきれいなままだ。よほどメンテナンスをしているのだろうか。
「そこの階段登って、左側だったよね、貴女の部屋は」
階段の登り口には、傘のついた電球が灯っている。
「うん」
「登ってみようかな。もしかしたら、あの部屋のあの明かりの下に、若い貴女がいるのじゃないかな。おれたち、今、タイムスリップしてるんじゃないか」
思わぬことにはしゃいで、軽口を叩いてしまう。わたしたちの若いころは、タイムスリップものが大流行だった。自衛隊が戦国の世に行ったり、転校生が未来から来たり、高校生が幕末へ行ったり。
アオイはかつて自分が住んでいた部屋の窓ガラスをじっと見ている。中で動く人影がある。
犬がこちらを見ている。吠えるでなし、甘えるでなし、ぼんやりただこちらを見ているのまで、昔の犬にそっくりだ。
「行ってきて」
「え?」
「あの部屋に行ってきて。ドアをノックしてきて」
「なんで」
「いいから、行ってきて」
「いやだよ、知らない人が住んでるのがわかっていて行くなんて」
急に現実的になったわたしは断固拒否する。
「間違えました、って言えばいいじゃない。行ってきて」
「行けないよ。中が見たいなら、アオイが行ってくればいい。ここで見ててあげるから」
「あなたが、行って」
「どうして」
「こんな言い争いをしている間にも、どんどん人生は変わっていくのよ。いいから行ってきて」
アオイは真剣だった。いつになく強い口調で、まるで怒っているようだ。
「人生が変わるってなんのことだよ」
「お願い、行ってきて、お願いだから」
アオイに負けてわたしはアパートの階段を登ることになった。階段を登り切ると、左右にドアがある。鍵を掛けても掛けなくても関係ないようなペラペラの合板のドア。
左側の部屋のドアをノックしようと右手を軽く握る。いつもは気にならない欠けた人差し指の先が気になり、じっと見る。
わたしは結局、ノックしないまま階段を降りた。
アパートの階段を降りると、アオイはアパートから少し離れて待っていた。
「私がいた?」
心配そうに尋ねる。アオイの真剣さにノックしなかったことを言い出せずに、曖昧にうなずく。
「早く行きましょう。もうすぐ、あなたが来るの」
「来たらまずいのか」
アオイがどこまで本気なのかはかりかねる。昔住んでいたアパートを訪ねたら、そのまま残っていて、だからといって、自分の部屋に昔の自分が今もいるなんて思い込むのは、どう考えてもおかしい。
アオイは、いつまでも待たせ続けるわたしになにか面当てのようなことをしたいのだろうか。もしそれならそれで仕方ない。
「わからない。でも、二十のあなたは、四十九のあなたに会った記憶はないでしょう? だったら、会わない方がいいと思うの」
どうやら、やってくるのは二十歳のわたしらしい。
「人生が変わるから、か?」
わたしは茶化すようにそう言った。
アオイが腕をひっぱる。
「いいから、とにかくどこか、よそでゆっくり話しましょう」
来た方向と逆の方へ歩き始める。少し先の四つ角が見えないほど霧が濃くなっている。
4ストロークのバイクのエンジン音がどこからか聞こえてきた。霧のせいか、近く聞こえたり、遠く聞こえたりする。
昔乗っていた、少し調子の悪い中古で買ったバイクを思い出す。アオイのアパートを訪ねた帰りに事故をした。
あ、と思ったときにはもう身体が浮いていた。バイク乗りの悲しい性で、カウルの傷とか修理費とかが頭に浮かんだが、すぐにヘルメットごと地面に叩きつけられ、その後は覚えていない。救急車に乗せられたのは覚えている。熱い。熱い。手が燃えている。火を消そうとして手を振ろうとしたが、うまく手が動かない。助けてくれ。手が燃える。病院で目が覚めたら、右手の人差し指の先をなくしたことを説明された。他にもあちこち怪我はあったし、背中を強打したようで、四日ほど入院した。
アオイは病室に入ってきて、わたしの顔を見るなり泣いた。声を出して泣いた。六人部屋だったので若いわたしは恥ずかしくて、なんとか泣きやませようとしたが、アオイはわたしの話など聞いてはくれず、あたりかまわず泣いた。映画館以外で見る、初めてのアオイの盛大な泣き顔だった。
「もう、写真撮れないの?」
しゃくりあげながらそう言うと、アオイはまた泣いた。
「なんで」
「だって、人差し指がなくなっちゃったんでしょ」
「うん、先っぽだけだけどね」
「シャッター、押せないね」
「押せるよ」
「え?」
「人差し指でも押せるようになるだろうけど、別に中指で押してもいいし」
「え?」
「写真撮れなくなったと思って泣いてたの?」
「うん、あんまりかわいそうなんだもん、写真好きなのに。カメラマンになれない」
「だから、シャッターなんてどうやっても押せるんだよ。鼻でも押せる」
泣きながらアオイは笑った。
4ストのエンジン音が突然思わぬ近さから聞こえ、そして止まった。
霧の中を遠回りしながら駅に向かって歩く。雨はもうやんでいた。傘をさしかける代わりに、わたしはアオイの手を握った。小さな薄い手。
あんなにアオイに真剣に頼まれたのに、どうしてさっき、あの部屋のドアをノックしなかったのだろう。中にどんな人が住んでいようが、なんとでも言い繕えたのに。思いつめたように下を向いたまま歩くアオイを見ると一歩ごとに後悔が深くなる。いつもそうだ、アオイのためになんでもしてやろうと思っているのに、いざとなると、何もしない。出来ないのではなく、しないのだ。
教会のそばの公園にどちらともなく入った。ペンキを塗り直したばかりなのか、鮮やかなピンクと黄色の小さなゾウとキリンが待っていた。ベンチは雨で濡れていて座れない。
「私はいた?」
アオイが聞き取るのがやっとの声で尋ねた。
「ごめん、ドアの前まで行って、帰ってきたんだよ」
アオイが顔をあげ、わたしにまっすぐな視線を向ける。
「えっ、どうして? ひどい、ノックしてきてって言ったじゃない。どうして言う通りにしてくれなかったの」
初めて聞く、アオイの強い叱責の声だった。ひどいわ、そう繰り返したきりアオイはまた下を向いて長い時間じっとしていた。やはりアオイはわたしを責めているのだ。
「そうよね。普通そうなるわよね」
独り言のようにアオイが呟く。
「ごめん」
小さなゾウのそばに二人で立っていた。
「あの日ね、あなたが来たの」
二十歳の七月にわたしがアオイの部屋にやってきたのだと言う。
「中年になったあなたを見て、最初はあなたのお父さんが来たのかと思ったの。お父さんが来るわけもないけど、でも、他に考えようがないでしょ」
元々、その日は、わたしから電話があって、夜、アパートの部屋に来ることになっていたのだそうだ。当時、わたしとアオイは、つき合っているというわけではなかったが、ずいぶん仲がよかった。わたしはアオイの部屋で飯を食ったり、時には泊まったりしていた。ただし、泊まっても何をするということもなかった。いやらしいことはあの頃も考えていた。けれども考えていないふりをしていた。アオイを嫌いだったわけではない。好きだったと思う。アオイもたぶんわたしのことを好きなんだろうと思っていた。もっと深い関係になりたくなかったわけでもない。でも、いちばん嫌なのは、下手なことをしてアオイに嫌われることだった。つき合って二年で別れるのなら、つき合わないままずっとたまに会えるほうがいいと、自分の意気地のなさを合理化していた。
「あなただと思ったから、ノックされた時、すぐに開けたの。そしたら、年を取ったあなたが立っていたの。私も驚いたけど、あなたもずいぶん驚いてるみたいだった。年を聞かれたので二十だと答えると、あなたは四十九歳だよって。信じられなかったけど、でも、声も匂いも同じだった、いつものあなたと」
アオイの声が、震えはじめた。声だけではなく、身体ごと震えている。わたしは離していた手をまた握った。
あなたが黙り込んだまま、あんまり私を見つめるから怖くなったの。それで、もうすぐ二十のあなたがここに来ますって言ってドアを閉めたの。階段を降りる足音がしないから、私も閉めたドアのこっちでじっとしてたの。そうしたら、あなたが言ったの。
「今、貴女をとても愛してる。貴女がいちばん大事だ」
アオイが泣き始めた。
「その言葉だけを頼りにいつも生きてきたの。あなたが結婚した時も、何年も会えなかった頃も」
「なぜ、その話をずっと黙っていたの」
「あの日、四十九歳のあなたが帰って、その後すぐに二十歳のあなたが来て、もちろん話そうと思ったの」
だけど、アオイは話せなかった。わたしに話したら、遠い未来の言葉が消えてしまうのではないかと思ったのだ。
「二十歳のあなたが私のこと好きかどうかわからなかったの」
「好きだったよ」
「わからなかったのよ」
それ以来、アオイはその日のことを封印して生きてきた。何かの間違いで聞いてしまった未来の言葉によって、影響を受けることがないよう注意深く生きてきた。
「あなたがだんだん私を愛してくれるようになって、あの言葉が本当なんだと思えるようになってくればくるほど、言えなかったの」
未来を変えてはいけないと思ったの。歴史が変わるとか、そんな大げさなことじゃないの。あなたと私がこうやって、三十年離れることなく過ごしてきて、そして、これからもあなたが私を愛してくれる、そんな未来を絶対に変えたくなかったの。
「だけど、今日、おれはあの部屋を訪ねなかった。二十歳の貴女と話をしなかった。貴女が守り続けてきた未来を変えてしまった。そう言いたいんだね」
アオイが声をあげて泣き始めた。アオイの泣き声を聞くのは、わたしの指がなくなった時以来だ。
あまりに長いこと待たせ続けたから、こんなことを考えるようになってしまったのだろうか。アオイが、未来のわたしの言葉を聞いたと思い込んでいるのには困惑したが、しかし、今、目の前で泣いているその姿はあまりに痛々しく、なにかしてやらずにはおられなかった。
「もう一度、あのアパートに行こう。そして、二十歳の貴女に言うよ、四十九歳のおれが、四十九歳の貴女をとても愛していることを」
「今、もしあの部屋に行ったら、あなたがいるはずよ」
「いてもいいじゃないか。二十歳の自分にも聞かせるよ」
「だから、それじゃ、私の記憶と違うでしょ。あなたは私が一人でいるときに来たの」
「記憶と違うとダメなのか」
「わからない」
「そうだろう。わからないじゃないか。行ってみよう」
「でも、たぶん、あのアパートにはもうたどり着けないと思う」
「どうして」
「十年前にね、たどり着けなかったのよ。ずいぶん探したの。たぶん、あのアパートは本当はもうとっくにないのだと思うの」
「そんな怪談みたいなこと言うなよ。もう一度行ってみよう」
もう一度、あのアパートに行き、見も知らぬ人が住んでいるのをみれば、アオイも納得するだろう。
アオイの手をひいて、歩き始める。公園を出て、左に向かう。大きな家の塀沿いに歩く。けれども、その先にどこまで行ってもT字路はなかった。白い壁に青い飾り屋根のついたマンションも見つからない。似たような古いマンションはあったが、誰も住んでいないようだった。道なりに歩くと、アパートとは逆方向の線路の方へ道はカーブして、橋にぶつかり、線路を渡ることになった。引き返して、もう一度教会から歩く。けれども記憶どおりに歩くと、また線路を渡る橋に出る。三度目は、アパートからの帰り道に通った、遠回りの道をたどることにした。今度は、アパートを探しているうちに大久保通りに出てしまった。
「ね、見つからないでしょ」
「そんなわけないよ。なにか二人して勘違いしてるんだよ。もう一度、駅に戻ろう。駅からやり直すんだ」
大久保通りから教会の近くまで戻った時、犬がすたすたとわたしたちを追い越し、公園に入っていった。
「大ちゃん……」
アオイが犬を追いかける。犬は公園のキリンのそばで私たちを待っていた。アオイがしゃがんで犬のあごや耳の後ろを掻いてやると、気持ちいいのだろう、お座りをしてじっとしていたが、やがて、アオイの顔を舐め始めた。
「大ちゃん、私がわかるの? 私だってわかる?」
犬を抱きかかえてしゃがみ込むアオイの、その頬を伝わる涙を犬が舐める。
遠くでまたバイクのエンジン音が聞こえた。
犬の耳がぴくっと動き、立ち上がって歩き始める。それを、アオイがまた追う。私たちが最初に歩いた道を犬はアパートの方へ向かっている。わたしたちは急ぎ足で犬を追った。道が線路の方へカーブし始めたところで、犬は明かりの消えた家の高い門扉の下のすきまに潜り込んだ。
「大ちゃん、大ちゃん」アオイの悲鳴のような犬を呼ぶ声が暗い家に吸い込まれていく。
門扉を揺すってみたが、鍵がかかっていて開かなかった。
放心したかのようなアオイを抱きかかえるようにして新宿まで戻った。もう、家までの私鉄の終電の時間が迫っていた。
「一人で帰れる?」
アオイはわたしの顔を見ないで答えた。
「帰れるけど、帰らない。今夜はずっといっしょにいる。ここで別れたら、二度と会えなくなるかもしれない」
アオイがわたしの手を強く握った。
「帰らないわけにはいかないよ」
「もう、会えなくなっても?」
「会えるよ。明日も会おう。仕事が終わったら、貴女の家の近くまで行くよ」
アオイがまた涙を流し始めた。
「会えなくなるかもしれないのに、どうして、家に帰らなくちゃいけないのかわからない。会えなくなったらどうするの」
今から外泊の言い訳を妻にするのは面倒だった。持ち合わせもなかった。それに、明日会社に持っていかなくてはならない資料が家に置きっぱなしだ。
正直なところ、今日のアオイの筋の通らなさを持て余し始めてもいた。ひどく自分が責められているようで辛かった。
「ね、また、明日会えるから。会いに行くから」
終電の時間を気にしながら、アオイを山手線のホームまで送っていった。
「あの日、あなたが撮ってくれた写真、今でも持ってるの」
「写真って?」
「二十歳のあなたは、あの日、修理の終わったカメラを新宿に取りにいって、その帰りにうちに寄ったのよ」
「そんなことがあったかもしれないな」
「うん、それで、珍しく私の写真を撮ってくれたの。あなたが人差し指で撮ってくれた最後の写真」
事故のあと、わたしは中指でシャッターを押すようになった。人差し指でも押せたが、シャッターを押す度に、むず痒いような、ゾクッとするような感じがあって、それが鬱陶しくて中指に変えたのだ。
アオイはしょんぼりと山手線に乗り、発車するまで、泣き顔のまま、何度も何度もわたしに手を振った。アオイに強く握られていた右手が白くなっている。
若い頃を過ごした町に戻ったことが、アオイをこんなにも感傷的にしてしまったのだろうか。もしかすると、さびしさを押し込めた匣の蓋がとうとう開いてしまったのかもしれない。
山手線がホームを出るのを見送ってから私鉄の駅の改札に急いだ。なんとか終電に乗ると、急にアオイを一人で帰したことが気になり始めた。アオイのためになら、なんでもしたいと思いながら、わたしはいつも何もしない。いい年をして、今夜一晩、泣いている女と一緒にいてやることすらできないのだ。それどころか、無事帰宅できることになってホッとしてさえいる。
少し寝坊してしまい慌てて家を出たが、駅に着く前に、会社に持って行く資料を忘れたことに気づき、仕方なく家に戻った。再度、家を飛び出そうとするわたしに妻が言った。
「忘れてるみたいだけど、今日は結婚記念日よ」
「えっ、何年?」
「ほんとに覚えてないの? 二十五年。銀婚式よ。何かごちそう作るから、ケーキ買ってきてよ」
駅の向こうの妻のお気に入りのケーキ屋が開いてる時間に帰ってこないと機嫌が悪くなりそうだ。忘れないようにしないと。それにしても、もう二十五年か。
電車の中でアオイという女のことを今日もまた考える。アオイのことを思わない日はなかった。
気がつけば、いつもアオイのことを考えてしまっていた。大学生の頃、つき合ったわけでもないのに、一時期不思議なほど仲良くしてくれた女だ。わたしなんかと仲良くしてくれるのが不思議だった。腑に落ちないと言えばいいのか。
彼女の好意を感じていたのに、なんだろうか、自信のないわたしは気後れして手を出せなかった。彼女のアパートに何度も遊びに行っていたというのに。
いろいろな話をしたはずだが、考えてみれば彼女のことはあまり知らなくて、突然引っ越してしまった時も、消息を尋ねる共通の友人もいなかった。
写真が一枚だけ残っている。しかし、それを見ても現実味がない。こんな女と本当に親しくしていたのだろうかと思うばかりだ。写真の中の彼女は優しげで儚げな女に見える。記憶の中でも彼女はそんな印象だ。でも、そんな女を現実の世界で見たことはない。きっと、知らず知らずの間に美化してしまったのだろう。
妻を抱くときや、数少ない浮気の場でも、わたしはいつも行為に没頭するためにはアオイを思い出さなくてはならなかった。見たこともないアオイの体の隅々まで、いつの間にかわたしは熟知するようになっていた。左胸の膨らみの下にほくろがある。
結婚して二十五年か。二十五年の間、妻を抱くたびにアオイを思ったような気もする。若いころにはアオイに発情しては、妻を求めた。
彼女はどこにいるのだろう。会えばアオイだとわかるだろうか。
痛みに、ふと、右手を見ると、人差し指の爪をまた深爪していた。気をつけているのに、なぜか、いつも右手の人差し指を深爪してしまうのだ。ヒリヒリする。熱を持った人差し指を、アオイの柔らかな身体に入れたくなる。アオイの甘えた声が聞こえる。また、やらしいことを考えている。
さびしくはないか。
くせになったように、どこかにいるアオイに問いかける。もしかして、アオイもどこかでわたしのことを今も思い出したりしているのではないだろうか。そんなことを思ったこともなかったが、一度考え始めると、そうに違いないような気がしてくる。
アオイももしかしたらわたしに会いたいと、今この瞬間にも思っているのではないか。もう、顔すら思い出せない女に切実に会いたいと思った。腹の中がカッとする。
さびしくはないか。なんのことはない、さびしいのはわたしだ。燃えるようにさびしい。
アオイの住んでいたアパートに行ってみようと突然思いついた。胸が痛いほどたかなった。動悸が急に速くなり思わず胸に手をあてる。
そうだ、今日仕事が終わったら行ってみよう。まだあのアパートはあるだろうか。とっくにないだろうな。
なくてもかまわない。とにかく行ってみよう、あの町へ。
もし、あのアパートがあったなら、アオイの住んでいたあの角の部屋を訪ねてみよう。誰が住んでいようがかまわない。あの部屋のドアをノックしてみよう。
地下鉄の改札から地上に出た。足早に会社に向かう。来客との約束の時間にぎりぎりだ。暗い空からは今にも雨が降ってきそうだ。一昨日までの暑さが嘘のように肌寒い。
おわり
寂寥の匣 中島 晴 @nakajimaharu
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