櫻花
増田朋美
櫻花
櫻花
今日も、比較的暖かい、過ごしやすい気候だった。テレビでは、もうすぐ桜が咲くというニュースを散々流していた。あちらこちらで、子どもの卒業式なのか、着飾って道路をあるいていく親子連れが多くみられた。
製鉄所では、相変わらず水穂が四畳半で眠っていて、杉三が、毎日世話役として来訪し、何か食べさせたり、体を拭いてやったりするなど、世話をしていた。とにかく、体の負担にならないようにというわけで、長話をすることは許されなかったが、水穂は、長居をしてほしいようだ。杉三がもう帰るかな、というと、寂しそうな顔をする。杉三も杉三で、沖田先生の言いつけをほとんど守らないで、水穂の枕元で、縫物をすることすらあった。
「それにしても。」
と、杉三が、水穂に言った。
「今日暖かくてよかったなあ。あんまり寒いと体に堪えるわな。」
「そうだね。」
水穂も、げっそりと痩せて窶れた顔に、ちょっと笑顔を浮かべて言った。
「でも、まだ寒いね。」
この発言で杉三が首をひねった。
「あれれ?おかしいな。今日は暖かくなると予想していたはずなのに?」
でも、それ以上追及しないのも杉三の良さである。変に心配することもないし、変に感情的になることもない。青柳先生が、事実関係だけを判断すればいいという教えを徹底させたのが、その原因だろうか。まあ、よくも悪くも、それ以外のことは、余り気にしないのが杉三なのであった。
「寒いよ。」
「うーんそうか。まあ、花冷えって言葉もあるしな。人によって、暖かいも寒いも、感じ方は違うのは、当然のこった。よし、ほんじゃあ、布団かける?」
「そうだね。」
水穂は力なく頷いた。杉三は、枕元にあった、フランネルのかけ布団をもう一枚かけてやった。歩けない杉三にとっても、結構疲れる作業だった。
「ごめんね杉ちゃん。」
水穂も、その部分は理解しているらしい。布団をかけ終わって、やれれ、とため息をついていると、そういうことばが返ってきた。
「うるさい。気にしないでいいと言っても、そういうことはできないだろうが、ごめんなさいなんて、言うべきではない。」
「ごめん。」
「だからあ、謝る必要はないの!」
「そうだね。」
杉三にそういわれて、水穂は静かに言った。杉三もやっと納得してくれたか、とため息をつく。
「ねえ杉ちゃん。」
と、今度は水穂のほうから口を開いた。
「何?」
「なんだか、時間って不思議だなと思うんだ。」
「変なこと言い出すな。一体何だよ。」
水穂は、天井を見つめてこんな話を始めた。
「だって、杉ちゃん覚えてる?フランスに行ったときに言われたじゃない。あのベーカー先生から、このままでは、春まで持たないって。」
「はあ、そうだっけ?そんなこと、とっくに忘れたよ。広上さんと僕と、どっちが忘れ物が多いんだろう。」
と、いう言葉から判断すると、杉ちゃんやっぱり忘れてしまったのかなあと、水穂はちょっとため息をついた。
「でも、そういう事言われたんだろうか?」
「そういってたよ。ベーカー先生。だから不思議だなと思ったの。冬の間におしまいなのかなと思ってたら、なぜか春まで持ってる。」
「そうだねえ。とりあえず今は三月だからねえ、冬なのか春なのか、よくわからない季節だからねえ。ま、フランスでは少なくとも、この時期はまだ雪が残っているだろうし、そういう意味でベーカー先生はそういったんじゃないの?」
「そう考えればいいのかな。」
杉三がとりあえずの意見を述べると、水穂は少し不安そうに言った。
「馬鹿野郎。素直に喜べばいいじゃん。生かしてもらえたんだからよ。それでいいにしてしまえ。無事に冬は越して、春まで持ちこたえたんだから、よくできましたと自分をほめてやれ。それでいいじゃないか。」
「いつでもどこでも明るいね。杉ちゃんは。」
水穂は、思ってもいなかった反応をされて、少しびっくりしてしまったようである。それに、その杉ちゃんの明るい発言は、どんな奴でもできないなと思った。
「だから、生かしてもらったと素直に喜びな。きっと冬の間に終わっちゃったら、みんな悲しむよ。ほら、お前さんは、こんな発言してたの覚えてない?新しい元号に変わるのを、見届けてから逝きたいってさ。」
そう言えば、自分も杉ちゃんにそんな発言をしていた。それをよく杉ちゃんが覚えていたというのも、また、不思議なところだと思った。
「もうちょっとしたら、四月になるから、その時に、新元号の発表があるよ。だから、それまで頑張んなくちゃな。体も動かない何て、泣き言を言ってはならんぞ。それよりも、日ごろから生かしてもらっていることに、感謝して、一日しっかり生きなくちゃ。それを忘れると、お釈迦さんが、こいつはバカだとして、変な業をくっつけちゃうという訳。」
「それはどこで覚えたの?」
「観音講で習ったの。庵主様がそういってたんだ。仏法って難しいけど、そういう風にわかりやすく解釈すればいいって、庵主様が言ってた。」
「そうなんだね、、、。」
水穂は大きなため息をついた。
「杉ちゃんってすごい。人から教わったことは絶対忘れないで覚えてる。」
「当り前よ。忘れちゃったら最悪だよ。忘れたら、確実に阿鼻地獄行きだ。人から教えてもらったことは、いつまでも頭の中に叩き込んでおかなくちゃ。それは何でも同じこと。」
「そうなんだね。」
「だからあ、其れじゃなくて、お前さんも少し覚えておいた方がいいよ。それに従って、毎日毎日文句言わずにしっかり生きたほうがいい。」
「杉ちゃん、大事なこと忘れてる。それは、普通の人たちの事。僕たちみたいな人は、一生バカにされて生きないと、世の中は回っていかない。もともと僕たちが、バカにされてきたのは、仏法で屠殺を嫌うところからきたんだし。」
水穂はそういって訂正しようとしたが、
「そんなのは当てつけだよ。本当は、誰にでも通じるのが、宗教ってもんだと思う。もしそれで人種差別が生じるんだったら、それは勝手に解釈している人間が悪い。」
と、杉三に言われてしまった。
「それでは、僕たちも、そう考えていいのかな。僕は、一生汚い人間として生きていくしか、世の中をよくすることはできないと、、、。」
そう返答しかけるが、また最後の一文を言い終わる前にせき込んで、またぼたぼたと内容物が、口に当てた手を汚した。
「あーあ、なんでまたこうなるかなあ。僕は、いい話をしてやろうと思っていたのに。なんでこうして曲がった解釈をするんだろう。それだけ、部落問題は歴史が長いという事なんかねえ。」
杉三は、急いで水穂を横向きにさせた。そして、その背中をたたいたりさすったりして、喀出を促してやった。
幸いこの時は、たいしたことはなく、数分間せき込んだ程度で、ストップしてくれた。少し寝るか?と、杉三が言って、枕元の吸い飲みを水穂に差し出して、中身を飲ませた。
丁度この時。
「こんにちは。今日は、駅員の仕事がないのでこっちに来ちゃった。」
と、四畳半のふすまが開く。
「あ、由紀子さん。」
杉三がそれに気が付いて、由紀子に声をかけた。由紀子は、すぐに枕元に座って、こう話しかけた。
「昨日電車に乗っていた、お客さんに聞いたのよ。大石寺の桜がやっと開花したんですって。今年の冬はすごく寒かったから、ちょっと開花が遅れたそうだけど、春はもうそこまで来ているわね。」
「あ、そうだっけね。あそこは、県下一の桜の名所だもんな。そうか、もう、そうなったかあ。一度咲き始めると、すぐに満開になるからな。日本の桜ってのは、もうちょっとゆっくり咲いてくれないかねえ。なんで、すぐに散ってしまうんだろうか?ちなみにパリでも桜が植えてあるそうだが、二週間くらい持つそうだぞ。」
由紀子は本当は水穂に答えてもらいたかったが、水穂はすでに薬のせいで頭がぼんやりとしており、返答することはできなかった。
「具合どう?」
せめてそれだけは、答えてもらえないだろうか?と、由紀子はそう水穂に話しかけたが、
「ま、ごらんのとおりだ。さっきまでせき込んでたよ。さほどひどいもんではないが、また畳屋のお世話になるといけないから、薬のんでもらっただよ。もう間もなく薬が回って、寝ると思うんだけど。」
と、杉三に代わりに言われてしまって、少し腹が立った。でも、咳き込んでいたことは確かなのだろう。そうしなければ、薬を飲むことはしないから。ということはつまり、さほど容体はよくないという事か。
残念だわ。せめて桜を見に行こうと誘うつもりだったのに。これでは無理か、、、。
そのうち、布団の中から静かな寝息が聞こえてきた。薬が回って、眠ってしまったのである。
どうしてこう、止血薬というものは、強力な眠気をもたらしてしまうのだろうか。どうも、偉い人の頭の中では、血を止めるという事は、眠って動かなくさせてしまうとしか、考えていないようなのだ。そんな成分要らないから、眠らないで、確実に出血を止めてくれる薬を作ってもらえないかなあ、と、由紀子は、思ってしまうのだった。
「たぶん、こうなると、夕方まで目は覚まさんよ。お前さんは、もし用事があるんならどんどんかえってくれていいよ。」
杉ちゃん、そんな残酷なセリフを言わないで。あたしは、水穂さんのそばにいたいだけなのよ。
由紀子はそう言いたかったが、それを言ったら、杉ちゃんに馬鹿笑いされそうで、言わないで置いた。
「ほら、お前さんも、駅員っていう大事な仕事があるだろう?それはやっぱりちゃんとやらんとな。でないと、電車を利用するやつらが、また困るぞ。」
田舎電車なので、休暇も比較的取りやすいから大丈夫と、由紀子は言いたくても言えなかった。電車を利用する人は非常に少ないので、比較的暇な職場と言えるのだが、電車を利用する人たちにとっては、駅員さんがいてくれないと困ることも多いだろう。
「そういう訳だから、お前さんも、駅員の仕事をしっかりやってくれよ。岳南鉄道利用する人は一杯いるだろうからよ。看病は、僕みたいな暇人にやらせておけばいいのさ。言ってみれば、そういう奴らの相手をすること何て、暇人の十八番だからな。」
と、にこやかに笑っていう杉ちゃん。由紀子は、そんなこと言わないで!と、泣きたくなったのであった。
とりあえず、由紀子は、翌日から駅員業務にもどったが、お客さんの話が気になっていた。基本的に桜なんてどこにでも植えられている。道路の脇でも、学校の敷地内でも。どこにでも適応できて、美しい花を咲かせられるから魅力的に映るんだろう。
そのうち、お客さんたちは、あちらこちらで桜の話をし始めた。大石寺の桜を見に行ってきたが、物凄く綺麗で素晴らしかったとか、宏見公園の桜が、満開になったから、出掛けていこう、なんて彼らは話していた。時には、カメラをもって、桜の写真を撮っていると思われる人も見かけた。
「たまには、公園でないところ、有名じゃないところの桜でもいいな。道路のわきでも、綺麗に写真が撮れる。」
と、カメラを持ったおじさんたちがそんな話をしている。
「おれはついでに、逆さ富士も撮らせてもらったぞ。逆さ富士に桜が映って、凄い綺麗だったぞ。」
別のおじさんがそういった。
「いつの時代も桜というもんは、美しく咲いてくれているもんだな。そういうものも、いずれなくなってしまうかもしれない。今の子達は花と言うもんに、美しいと思わなくなってきているから。そうはならないように、俺たちは、桜の美しさを撮り続けていこうなあ。」
はじめのおじさんがそう言っているのを由紀子はきいて、もしかしたら桜を二度と見られないのではないか、と、由紀子は思った。
それなら、もう決行するしかない。もう障壁とかそんなのは気にしなくていいから、とにかく最期の桜をみせてやれ!由紀子は、それを決断し、
「まもなく岳南江尾行きが、一両編成で到着いたします。危ないですから黄色い線の内側へ下がっておまちください。」
と、いつも通りのアナウンスをしたのだった。
おじさんたちは、駅員さん、何をそんなに怒っているの?という顔で彼女を見ていたが、彼女はそんなことを何も気にしなかった。ただ、上司には、感情をいれるなとしかられた。何回叱れば気がすむんだ?と首をひねっている上司にたいし、あたしは駅員業務には、向かないのかなあ?なんて、頭をひねっている、由紀子だった。
その翌日、由紀子は、一日だけ暇をもらい、製鉄所を訪れた。運のよいことに、杉ちゃんは買い物にいって不在であった。そのほうが由紀子にとって好都合だった。でないと、杉ちゃんに、何をしに来たのか、詰問されてしまって、追い出されてしまうかもしれない。
なんの迷いもなく由紀子は、四畳半へ向かっていく。彼女が、廊下を歩くと、彼女を応援するかのように廊下はきゅきゅ、と音をたてた。 そのまま四畳半へ到着して、ふすまを開けると、水穂さんの顔が見えた。
「水穂さんは眠っているのかな?」
由紀子は、そう声をかける。たぶんそうだろう。目を閉じて布団に横になり、静かに、寝息を立てている。
「眠っているんだわ。」
ここで無理やり起こしてしまおうか、どうしようか迷った。そんなことしたら、また誰かに怒られてしまう可能性もなくはなかった。みんな、弱っている人を、無理やり起こすのは、可哀そうだという概念を持っているからだ。
水穂さん、ちょっと起きて、と、声をかけようとして、枕元にすわったその瞬間、水穂さんが、ん、んん、とこえをあげた。目が覚めるのかしら、と、由紀子が急いで身構えると、水穂さんの目が開いた。
「こんにちは。」
由紀子はとりあえず、形式的な挨拶をする。
「あ、あ、あれ?」
多分きっと目覚めた時にそばにいるのは、杉三だとおもったのだろう。ところが杉ちゃんではなくあたしがここにいるので、びっくりしたのね、水穂さんは。と、由紀子はその顔の意味を考えなおした。
「杉ちゃんなら、今買い物に出かけたわよ。」
とりあえずの現状を言ってみる。
「じゃあ、由紀子さんが代わりに?」
「ええ。お願いしますって言ってたわよ。」
由紀子は嘘をついた。
「どうしたの?喉でも渇いて、目が覚めたの?それとも、憚りでも行く?」
「あ、そういうことではなくて、単に寒いなと思って目が覚めただけです。」
そんなことはどうでもよかった。今日は、寒気を感じるほどの寒さではないはずだったから、寒いと思って目が覚めるのは、おかしいはずなのだが、由紀子はそれを気にしなかった。というより、聞き流してしまった。あとで後悔することになる。
「すみません。布団、布団貸していただけないでしょうか?」
いつもかけておけばいいというものでもないらしい。たぶん、厚掛けを続けて汗でも出て、風邪でも引いたら大変なので、それを考慮して、布団は必要最小限にとどめてあるんだろう。何しろ今の水穂さんは、体を自分で動かすことは、ほとんどできなくなっているから、周りの者が衣食住すべて管理しているのだ。
ところが由紀子は、布団を追加してかけることはしなかった。その代わりにこういった。
「ねえ、ちょっと外へ出てみない?バラ公園の桜がすごくきれいなんですって。今日は暖かいし、日も出てるし。お花見日和よ。」
しかし水穂は首をかしげる。暖かいなんてそんなこと?とでも言いたげな顔である。由紀子はそれを完全に無視して、
「ほら、いつか華岡さんが作ってくれた、手押しの寝台車があったでしょ、あれに乗ればいいわ。ほら、行こう。」
と、言った。
「で、でも寒いから。」
水穂は言うが、由紀子は、
「それはきっと、ずっと布団にいるから、あったまりすぎてそう感じるだけよ。外へ出れば、少し、体も刺激を受けて気持ち良くなるかもしれない。あたしが抱えてあげるから、何かあっても大丈夫。」
と無視をつづけたまま、水穂の布団に手を突っ込み、彼を抱え上げた。寒いと言っている割には、体は熱くなっておらず、熱はないという事がわかり、外へ出しても大丈夫だと由紀子は確信してしまう。
もう衰弱しきっていて、糸瓜みたいに軽くなっていた水穂を抱えたまま、由紀子は立ち上がり、四畳半を出てしまった。寝台車はどこに置かれているか、由紀子は知っていた。そのまま廊下を歩いて行って、応接室の中にある寝台車を見つけ出して、水穂をそこへ寝かせる。幸い寝台車には布団が敷いてあって、いつでも使えるようになっていた。確か、華岡が童話「子猫のピッチ」で登場していたイラストを参考にして作ったそうだが、棺桶に車を付けたように見える、と杉ちゃんが大笑いしていたことを記憶している。少しでもそれから脱出するため、以前ここを利用していた、塗装業の森さん親子が、ペンキを塗ってくれたという。寝台車は華やかな花柄をしていて、由紀子は、今の季節にピッタリの車だ、と、勝手に解釈していた。
「じゃあ、水穂さん行こうか。出発進行!」
かけ布団をかけてやると、由紀子は、寝台車の軛の部分に手をかけて、そのまま前方へ押し始め、応接室を出て、玄関に行き、一度靴を履き替えて、さあ行くぞ!と気合を入れて、外へ出る。
外は、確かにポカポカ陽気で暖かく、水穂も寒いという事はなくなった。よし、とさらに気合を入れて、由紀子は軛の部分をしっかり持ち、寝台車をゆっくりと動かして、バラ公園に連れていった。
暫く公園の中を歩くと、名物であるバラの季節はまだまだ先で、バラ園は何も咲いていなかった。この公園は、多数の木々が植えられていて、いつも何か花が咲いている仕掛けになっているが、来訪している人の数も驚くほど少ない。確か、近隣にサービスエリアを兼ねた遊園地ができてしまって、そのせいで人が来なくなったと聞いている。
バラ園を通り過ぎると、桜が道の両側に植えられているエリアに来た。ただ、ここに植えられている桜はよくある染井吉野ではないことが残念であった。同じくピンクの花だけど、葉も併用してくっいてくる、山桜であった。それを差別するわけではないけれど、鑑賞するのに、葉が邪魔であった。ああ、其れさえなかったら!と由紀子は思わずにはいられなかった。しかし、この公園、なぜ山桜であり、染井吉野を植えなかったのだろう。まあ多分、害虫に弱いとか、寿命が短いとか、そういう理由で長く楽しめないからだと思われるが、多分きっと、美しいものは人間も桜も寿命が短いという定理は、どこの世界でも同じなんだということなのかもしれない。
ただ、この時だけは、この時だけは、ここにある桜の木が、山桜ではなかったら、と強く思った。それは本当に残念で、まるで人選ミスをしたときいうか、とんでもないミスをしたと感じ取ってしまった。
「諸共に、哀れとおもへ山桜、花より他に知る人もなし。」
水穂さんの声が聞こえてきてハッとする。
「風情があるじゃないですか。素敵ですよ。ぼんやりしているけど、きれいなところが、魅力なんでしょうね。」
山桜と言っても、美しく見せるために、ちゃんと剪定もされているし、傷口から細菌が侵入しないように、昔ながらの藁を巻いて保護もされている。そのくらいちゃんと管理をされているので、見事な花を咲かせてくれて、山桜はしっかり答えてくれているのだが、どうしてもこれで満足してもらいたくなかった。どこかに染井吉野が植えられている場所はないかと一生懸命考えたがどうしても見当たらない。
わあどうしよう、と由紀子は一生懸命考えた。でも、肝心な時に限って、答えは出ないのである。
「僕は染井吉野という種類があまり好きではないのです。なんだか、人為的に作られ過ぎたようなきがして。」
不意に水穂さんがそんなことを言い始めた。由紀子は意外な反応に驚いて、
「そんなことありません。桜で一番美しいのは染井吉野ですよ。あの、ピンクの色が一番綺麗じゃないですか。」
と、訂正したが、水穂は変わらずに話を続ける。
「いや、僕は、あれを美しいとは思えないですね。元々ある野生の桜ではないわけですし。確かに綺麗な花を付けるとは思いますが、それって、なんだか人為的に支配され続けて、抵抗しているように見えるんです。それがなんだかかわいそうなきがして。それよりも、山桜とか、霞桜のような、元々野性味がある方がずっとのびのびしていて、はつらつとしているように見えるんですよ。それに、育てるにも染井吉野より簡単だという。なんだか美しさを強制させ過ぎて、本来ある物を全部なくしてしまったような、そんな気がするんですよね。染井吉野ばかりではなく、薔薇とか、百合なんかもそう。カサブランカより、鉄砲百合のほうが余程綺麗な気がする。」
「へえ、そうなのね。水穂さんって、意外に変わっているところあるんですね。」
由紀子は、そんな風に返事を返してしまったが、もしかしたらこれが、水穂さんのような人に特有の哀しみなのかもしれないと考えなおした。それはきっと、ありのままを生きることを許されることがなかった人間だけが、持てる美意識なのではないだろうか。
「ごめんなさい。変なこと言って。確かに染井吉野は、ちょっと美し過ぎなのかもしれないわね。完璧過ぎるというか、、、。」
本当は、染井吉野を見させてやりたいと思ったが、それを真っ向から否定されてしまったようなきがして、由紀子は少しがっかりした。
「本当はね。山桜で満足してもらいたくなかったわ。もっと綺麗な花を見てもらいたかった。そういう所には全く目を向けないのね。と、いうよりか、そういう所に目を向けるのは許されなかったの?」
応えはなかった。
「だったら、せめてあたしの前だけは、心から美しいと思ってもらえないかしら?過去にはそうやって厳しい世界にいたのかもしれないけれど、もうここにはないと思ってよ。そして、本当に美しい物、本当に綺麗な物を見て。自然の中にいるってのも美しいのかもしれないけれど、あたしたちは、それをさらに美しくする事だってできるはずなのよ。」
由紀子が心を込めて話しても、水穂から返答はなにもなかった。
「どうしてなにも言ってくれないの?一方的に、自分の主張ばかりして、あたしの話はうわの空で、なにも返答はしてくれないの?そんなにあたしはダメ?何で?一生懸命話しているのに、、、。」
声はしてきたが、返ってきたのは言葉ではなく咳であった。
「どうしたの?大丈夫?」
と、声をかけても返答はない。また、恐れていた事が起こったんだな。と、由紀子は考えなおし、すぐに軛に手をかけて、製鉄所に帰ることにした。ここからだったら、五分もしないうちに帰れるはずだ。もう、桜の事なんてどうでもよくなった。それより大好きな人物が遠くへ逝ってしまうほうが、もっと怖かったから。由紀子はとにかく、回れ右をして、全速力で走った。
製鉄所に帰ると、まだ杉ちゃんは帰っていないらしく、彼の草履は置かれていなかった。由紀子はまだせき込んだままの水穂を、とりあえず横向きにして布団に寝かせる。布団から少し離れた所に、痰取り器が置かれていたが、どうしてもこれを使う気になれなかった。あれを平気で使いこなしている、杉ちゃんや青柳先生が、どういう神経なんだろうかと、不思議でたまらないほど、痰取り器はかわいそうな印象を与えた。
「水穂さんお願い、吐き出して!」
まるで、神頼みするようなつもりで、由紀子は水穂の背をさすったり叩いたりを繰り返した。自分にも、天童あさ子先生のような、ハンドパワーがあればいいのに!と思わずには居られなかった。どうして自分はそういう超能力がなにもないんだろう。
その間にも、せき込む音は、さらに大きく強くなる。どうかお願い、この人に痰取り器というものは使わせないで下さい、これ以上苦しみを与えないでやってください!お願いします!と、由紀子は誰だかわからないけど、神様に祈って、背中を撫で続けた。
「大丈夫、苦しい?頑張って吐き出して!頑張るの、頑張って、お願い、お願いだからあ!」
終いには、涙ながらになり、必死になって訴え続けたのが、神様に通じたのだろうか。三度、強くせき込む音がして、水穂さんの口の中から、朱肉みたいに朱い内容物が流れ出てきた。どうやらうまく喀出できた様である。
「やった、うまくいった!」
由紀子は、思わず大喜びして言った。
「水穂さんよかったわね。頑張って自身で出せたじゃない。自分でできたんだから、もう痰取り器の世話になる必要はないわね。きっともう大丈夫よ。また元気が出て、歩けるようにもなるし、ご飯だっておいしく食べられるようになるし、心臓だってきっとよくなるわ。だから、自分に自信を持ってよ。きっとよくなるんだから!」
しかし、反応はなかった。
返答もかえってこなかった。
その代わり、
「何に自信を持つんだって?」
と、開けっ放しのふすまから、杉三がそう言いながら現れた。もしかしたら、今までの事が全部丸聞こえだったのかと由紀子はぎょっとする。
「ごめんなさい。水穂さん急にせき込んで、いま頑張って出してもらったんだけれど、、、。」
ここでもし、青柳先生なら、詰まらせたら、すぐに痰取り器で取らないと窒息するとか、そういうお説教を始めるだろうが、杉三は敢えてそうしなかった。
「はあ、で、どうなった?」
「出せたのはいいけれど、気を失ってしまったみたい。呼んでも応えてくれない!どうしよう!」
杉三は急いで、水穂の口元についている内容物を濡れタオルでふき取って、
「いや、大丈夫だ。息はあるから眠ったんだよ、そのうち目を覚ますと思う。」
と言った。由紀子は全身の力が抜けてしまった。
「まあ、これからはあんまり辛そうだったら、痰取り器を使って取ってあげてね。」
と、杉三は由紀子に言ったけれど、由紀子は何も耳に入らなかった様だ。
「由紀子さん!聞こえてる?」
ちょっと語勢を強くして杉三に言われ、やっと由紀子は気が付く。
「ごめんなさい。」
「だからあ、もしさ、水穂さんが急にせき込みだして、すぐに出すもんが出てこなかったら、もうそこにある痰取り器をどんどん使って結構だよ。」
「そ、そうね、、、。」
とりあえず、由紀子はそう言い返すが、杉三に対抗する言葉が見つからなかった。
ただ、とりあえず自身で喀出してくれたので、水穂さんはよくなっているのではないかと信じたい、その気持ちだけがあった。どうかお願い!これをばねにもうちょっと頑張ってほしい。そして、もう一回どこかでピアノを弾けるようになってほしい。もし海外かどこかで演奏する様な場合は、私も喜んでついて行きたい!そんなことまで考えるようになってしまったのである。
「さて、僕は晩御飯を作ってやらなきゃいけないな。たぶん、夕方まで目を覚まさないぞ。もし、明日駅員の仕事あるんだったら、早めに帰ってくれていいからな。」
気持ちを切り替えるのが早い杉ちゃんは、そういって、台所の方へ移動していった。由紀子は、確かに駅員の仕事はあるが、まだ帰ろうという気にはなれなかった。それよりも、目が覚めるまでここに居ようと決断した。由紀子は、敷布団に敷かれたレジャーシートの上に流出している鮮血を綺麗にふき取ってやり、また寒いと言って起きだすことのないように、かけ布団をしっかりかけて、さらにフランネルの厚がけもかけてやった。
「よく眠ってね。」
由紀子は、そう声をかけたが、反応は返ってこなかった。
「あたしも、染井吉野は好きじゃないわ。今度はゆっくりと、山桜を見に行きたいわね。」
もう期待はできないけれど、そんなことを由紀子は口にした。その時、水穂さんの髪の毛に桜の花びらが付着しているのに気が付く。本来ならすぐに取ってやるべきなのだろうが、由紀子は、何かの暗示のような気がしてしまって、取ることができなかった。
櫻花 増田朋美 @masubuchi4996
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