第15話 「 Keith Reaves (1 )」



「⁉︎ 御堂先輩、ちょっ……大丈夫ですか⁉︎」


 冷静に考えれば大丈夫でないのは聖にも判る。しかし、この有様を見て声が勝手に出てしまった。


 冷たい。


(そうだ、脈は?)


「うそ……」


 右手首に触れた聖。しかし生命活動していれば当然あるべき脈動がなかった。


 詩織の口と鼻を手で覆ってみる。しかし呼吸はしていなかった。


 完全に思考が停止する聖。


 しかし本能的な危険を察知した聖は、その『音』のする方向へ反射的に視線を向ける。


 ドォォォォ……ン。


 ドォォォォ……ン。


 一打音毎に、音源―――この場合音の発生源としての意味―――が近づいてくる。


「誰っ⁉︎」


 廊下の奥から人影が近づいてく。


 四角形の廊下の右上から左下にかけて、窓からの光が差し込み明と暗のモノトーンが出来る。その闇から左足、左半身、そして全身が窓明りの元に晒される。


「高梨…先輩?」


 そこに現れたのは、軽音部部長の高梨学であった。しかしその動きは先ほどの守屋と同じでゾンビめいていて、とても言葉が通じそうになかった。有り体に言って敵だ。そう判断せざるを得ない。


 高梨の右手は、霜が降ったように白くなっていた。


 まさか、詩織を凍らせたのは高梨なのか。


 聖がそう考えた時、その『音』が一際大きく響いた。


 高梨の背後から、その音源が現れた。


 長身の学よりも頭一つ分高く、それでいて引き締まった肉体。濃いグレイの髪を短く刈り上げている。彫りの深い顔だちに髪と同色の顎鬚を蓄え、狼を彷彿とさせる鋭い眼光。


 教師ではない。この外国人は明らかに部外者だ。しかし聖はなぜかこの外国人に見覚えがあった。


闇に紛れてわかりにくかったが、その外国人の右手には、ローズウッドのような黒のドラムスティック握られていた。


「キース・リーブス?」


 聖は呟いた。自身の名を聞いた侵入者は片眉をピクリと上げた。


「ほう……日本のお嬢さん。私のことをご存知かね」


 外国人―――キースはひどく理知的な日本語で、聖にといかけた。


 キース・リーブス。


 洋楽HR/HMの世界でも名手として名高い。かつてヘヴィーメタルバンドでデビューし、解散後はフリーのドラマーとして活躍していたはずだ。実家の楽器店で扱うドラム専門誌でも時折その名を目にする。


(今は確か……そうだ! だから日本にいたんだ。)


 C.E.Pのサポートドラマー。現在はキースが務めていると記事を見たことがある。


 しかしそれは日本の―――この街にいる理由にはなっても、この学校にいる理由にはならない。


 訊いたところで教えてはくれないだろう。


「…………」


 沈黙で返す聖。


「……ふむ。音楽……室? なるほど。日本人は勤勉だと昔から思っていたが……それともお嬢さんが特に音楽界の事情に詳しいのか?」


 聖が出てきた部屋のネームプレートを解読して、勝手に納得したようだ。


「しかし解せんな。この『凍結領域』の魔術において、お嬢さんはなぜ、凍らずに動けているのか。やはり『幽鬼グール』を介した発動だから不安定なのか? しかし他の人間は皆凍結したがな……。ふむ。もしや先天的に魔力抵抗が高いのか……?」


 ブツブツと独り言を続けるキース。


 しかし一つ気になることを言っていた。


―――『他の人間は』?


 まさか、校内に残っている生徒も全員、この『凍気』の餌食になったということなのか。


(ゲンは?)


 まだ校内に居るはず(と聖は思っている)の弦輝が気がかりだった。


 無事を確認したい。しかし、不審者に危害を加えられそうな危殆に瀕している現在、まずは目前の危機から逃れなければ。


 退路は後ろにある。身を翻そうとしたところで、音楽室から守屋が出てきた。聖のちょうど背後にきた形だ。


「ヤバ……」


「ふむ。よく解らんが、とにかく出力を上げてみるか。そうすればお嬢さんの『抵抗力』を上回り、私の魔術が有効になるかもしれん」


 前門の虎、後門の狼。


 聖は残像を残さんばかりのキレのあるターンを決めると、守屋に向かって走った。虎二匹を相手にするより、狼一匹に立ち向かったほうが遥かに生存率は高くなると考えたからだ。


「どいてぇぇぇぇぇぇっ!」


 聖の声が聞こえているのかいないのか、当然ながら守屋は退路を譲るつもりはなく、廊下の真ん中にぼーっと立っていた。


 守屋の両端には、女子高生がなんとか一人通れるスペースが出来ている。


 どうなるかと身構えながら走った聖だったが、危なげなく守屋の横を通過できた。


 後ろから「チッ」と舌打ちが聞こえてきたが、それが聖の加速に拍車を掛けた。


 階段に向かって角を曲がったところで、ドォォォォォォォォンとまたもやフロア・タムの音がなった。


 そういえば、誰が鳴らしているんだろう。そんなことを考えながら階段を跳んだ。


 着地のショックとエネルギーを全身を使って凌ぎ、九十九つづら折りの階段なので階下に下りるためにはもう一回ジャンプしなければならない為、反転した聖は見てしまった。


 つい今さっきまで自分が立っていた廊下。音楽室がある廊下は、まるでアイスランドの洞窟にあるような氷柱が暑く太く垂れ下がり、壁面も暑い氷で覆われていた。


「…………っ‼︎」


 とにかく走って逃げるしかない聖は、廊下に向かって跳んだ。


――――――――――――――――――――


 ガラッと勢いよく―――は開けられなかった。職員室の扉は氷によって固く閉ざされていた。しかし職員室への扉は前後に計二つあるあるので、後部の方の扉へ走った。


 後部の扉は幸いにも―――室内にいた人間には不幸にも―――開きっぱなしになっていた。


 ここもか……。聖は五人ほどの教師が凍りついた、職員室を見渡した。


 半ば予想できたことである。


 職員室に来るまでに覗き込んだ教室や廊下で見た、約二十体分の氷像。


 音楽室は四階。そして職員室は一階。


 おそらくあの不審者―――キース―――と守屋、そして高梨学は一階から順に氷漬けにして上がって来たのだろう。


 幼馴染への心配がいや増した聖は、スマホを手に取った。


 LINE―――いや、電話だ。


 トゥルルルルル。


 トゥルルルルル。


(ゲン。お願い、出て)


 長いコールの後『もしもし。ジリ?』と弦輝が通話できる状況にあると知り、聖は胸を撫で下ろした。


 弦輝はどうやら学校の外にいるらしい。


 聖の不得要領な説明にも関わらず、すぐに学校に戻ると言った。


 ひとまず先に外に出て、それから警察に電話しよう。そう思って昇降口、正面玄関などを回ったが、全て氷で固められていた。


 脱出不可能。


 ならば警察に電話するしかないと手にしたままだったスマホのロックを解除しようとした時。


 ドォォォォン。


 フロア・タムの音。


 そして―――。


「冷たっ⁉︎」


 たちまちのうちに、聖のスマホが痛みを催すほど冷たくなっていく。


 すわ指がスマホにくっついてしまうかと思った聖は、スマホを取り落としてしまう。


 床に落ちた瞬間、聖のスマホは氷に塗れてしまう。


「―――っ‼︎」


「ふむ。間一髪というやつだな。警察はもう呼んだかな?いや、読んだら読んだで構わないが、あまり私の手間を増やされるのも歓迎できないのでね。凍らせてもらったよ」


 キース。


 上の階から降りて来たと思しいのは、キース一人である。


「というわけで、お嬢さん。申し訳ないが私もそろそろ遊んでいる暇がなくなって来た。凍ってくれ」


 キースは右手に持ったスティックをおもむろに前方に向けて、左前方、正面、右前方と三回軽く振った。


 いや、叩いた。


 トン、ドゥン、ドォン。


 ハイ・タム、ロー・タム、フロア・タムの音が聴こえた。しかし、有り得ない。聖はそう思った。


 キースの行動を仮に通りすがりの一般人が見たとき、腕の振りに合わせて何処かに隠したスピーカーから音が出たと認識するはずだ。その想像が一番合理的であるからだ。


 ただ、三日月聖は生まれた時から楽器に囲まれて育って来たし、『音楽』に直に触れて来た。そんじょそこらの一般人とは耳が違っているのである。


『音』とは簡単に言えば、空気の振動である。そして基本的に音は球状に広がって空気を震わせていくのだ。だから人間の耳はその音が、上下左右そして遠近、どの辺りで鳴っているのかも判る。このくらいは聖でなくとも一目瞭然―――いや、一聴瞭然である。


 聖が有り得ないと感じたのは、確かに目の前キースがスティックを降ったにも関わらず、そこには何も無かったからだ。


 しかも、材質や胴の径などが一切わからない。正確には、聖には材質も大きさなども見当は付いたしし、そのようにも聴こえた。しかし、脳が認識した音と、実際に鼓膜と身体全体で感じた音が食い違っている。


(何これ、キモチわる)


 三日月聖にしか感じ得ない違和感。これはもはや聖の知らないハイテクノロジーか、超常の何かだ。


 周囲の地獄絵図とあわせて考えると、後者の方が可能性が高く思え、ますます戦慄を感じた。


 昔から聖はお化けの類が苦手なのだ。


 足の震えが大きくなる。


 へたり込みそうになった時、足先に何かの感触。氷漬けに鳴った聖のスマートフォンである。


(ゲン!)


 先ほど、幼馴染の弦輝は『待っていろ』と言った。


 こんな危険な所に来て欲しくは無い。聖は強く思う。


 同時に、弦輝ならばなんとかしてくれる、とも思う。


 思えば幼い頃からそうだ。


 調子に乗ってグイグイ進む聖の後ろを『仕方ねーなぁ』とでも言いそうな呆れ顔で、後ろから周りを注意してくれた弦輝。そのくせ聖が怯えていると前に出て守ってくれた弦輝。


 せめて、弦輝が来るまで逃げ切ってやると聖は決意した。


「……ふむ。何故だ? やはりこのお嬢さんには効果がないようだ」


 ところがキースは独りぶつぶつと呟いている。


「まさか俺としたことが失敗したのか? それともやはりこのお嬢さんの抵抗力がよほど強いか、だな」


 キースの瞳が剣呑な光を帯びる。


 なんとなく危険度が増したと感じるのは、聖の気のせいでは無いはずだ。


 救いは、キースが聖を力づくでどうこうしようとはしていない点だ。―――今の所は、だが。


「本格的に……試してみるか」


 やおらスティックを頭上に掲げ、一呼吸の後に素早く振り下ろす。


 ドォォォォォォォォン!


 虎が吠えるか如き轟音。


 この音を聞いた者は本能を恐怖が刺激し、金縛りのように体を硬直させたはずだ。


 まるで凍りつくように。


 いや。


「――――――――――――っ‼︎」


 聖の口から、声にならない悲鳴が上がる。


 足元から徐々にパキパキと音を立て、氷が這い上がって来る。


 キースの口角が、満足げに吊り上る。が、それも長くは続かなかった。


「なんだとっ⁉︎」


 瞠目するキース。その視線の先では、聖の足元にまとわりついていた氷が、蜃気楼のように夜の闇に消えていった。


 聖にはよく判らなかったが、どうやらキースは驚愕のあまり思考が一旦停止しているようである。


―――チャンス!


 ここが機と見るや、聖は再び身を翻し脱兎の如く遁走した。キースの右側をすり抜ける。


「チッ!」


 舌打ちと同時にキースは動く。しかし、咄嗟の出来事だった為か、左手で捕まえようとする。明らかな失策だった。


 これは聖にとって好機だった。もう一度あの不可思議なトリックで足を止められたら危なかったが、聖の運動神経ならば人間の左腕一本くらいい潜れる。


 再び聖は走り出した。


――――――――――――――――――――


 あれから何分経っただろうか。十分くらいの気がするし、一時間のような気がする。


 聖は夜の―――実質的に―――無人となった校舎を縦横無尽に逃げ続けた。


 動きを読んでいるのか、それとも監視カメラで見られているのかとでも思わせる配置で、守屋、高梨、そしてキースが至る箇所で待ち伏せしていた。


 そして今、聖は再び一階の職員室前にいた。


(もー無理かな……)


 息は上がり、酸欠に陥った頭は茫洋としだす。乳酸が溜まった下肢は、恐怖とは違う震えを催す。


 かつ、と靴音が響く。


 前屈みで息を整えていた聖は、靴音の方へ顔を向ける。


 キースが酷薄な笑みを浮かべ、近づいて来る。


「お嬢さん、そろそろ終わりにしよう。お嬢さんはなかなかに珍しい体質をしている。我々の研究の為に、持ち帰らせてもらうよ」


「アタシ、物じゃないんだけど……」


 毒づきながらも内心『もーだめかな。ゲン、ごめん』と諦念が押し寄せてきた。


 スティックを振り上げるキース。


「先ほどはなかなか面白いものを見せてもらった。今度は俺も本気でやらせてもらうぞ」


 そして何度聴いたか知れぬ、あの獣の咆哮にも似たフロア・タムの音。


 足の爪先、足首、そして今度は膝上まで氷が覆い尽くす。


(私も御堂先輩たちみたいに氷漬けか……)


―――せめて最期は、みっともない姿では凍りつきたくない。


 聖はどこか呑気なことを考えながら、背を伸ばし目をつむった。


(さよなら、ゲン)


 幼馴染に心の中で別れを告げる聖。


 しかし、それは無駄に終わった。


 というよりも、無粋な『音』に邪魔をされた、という心境に近い。


 歪みの効いたギターの爆音。


 若干歪ませすぎじゃないかと思わせるファットなディストーション・サウンドでありながら、各弦の分離感良く聴こえる『音』。


 そして、廊下の凍てついていた空気が、急速に暖かさを増していく。


 聖の下半身を覆い尽くしていた氷は鋭角さを失い、やがて水になり、そして遂には気化して消えていった。


 聴き馴染んだギターの音は、聖の真後ろから聞こえてきた。


 振り向くと、やはり赤いストラトを構えた幼馴染の姿があった。


「―――遅いよ、ゲン」


 まなじりに涙をにじませながら、聖は彼の名を呼んだ。





〜To be continued〜

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