第2話 A級決勝戦
僕の名前? どうでもいいだろ。
競輪場に行けば、皆が僕のことを「メロン」と呼ぶよ。
僕は万年6号車。
だから、名前なんて要らない。
メロンでいいんだ。
だけどまたあのときみたいに、せめて水色の勝負服で走りたいな。
今朝も、冷える。
だけど、街道での練習に力を入れている僕は、寒いなんて言ってられない。
自宅の練習場でローラーを転がすだけじゃ付かない力を付けに行くんだ。
だから斡旋がない日は、毎朝3時から愛車で街道を走る。
街道を走るときだけは、僕はメロンじゃない。
少なからず応援してくれる人もいるようで、たまに声をかけられる。
犬の散歩中のおじいちゃんとよく会うんだ。
犬の名前は、メロン。
おじいちゃんの名前は、知らない。
僕はまだ独り身で、実家暮らしで、万年6号車だから親には迷惑をかけっぱなしだ。
親は、競輪学校に入りたいと言った僕のことを、笑いはしなかった。少し揉めたが、お前のやりたいようにやりなさいと言ってくれた。
どうせダメだと思っていたんじゃないだろうか。いまの僕は少しやさぐれていて、そんな風にしか思えない。特に、僕に自転車を教えてくれた師匠――父さんは、僕なんかに競輪学校が卒業できるわけがない、程度に考えていたんじゃないだろうか。入学が決まったときに喜んでくれたのは母さんだけで、父さんは呆れた顔をしていたのだ。
明日からの開催では、少しは賞金なり何なりを手にして帰りたいな、そう思いながら、どこにでもありそうな、だからこそ貴重な食事を摂っていた。
特に栄養バランスを考えたわけでもなく、特にアスリート向きというわけでもない、ごく普通の一般のご家庭の食卓だ。醤油色をした、普通の食卓だ。
僕はこの食事がいちばん好きで、前検日の今日、これから競輪場に向かう足は、あまり軽くはなかった。
母親や弟妹と離れてひとり孤独にあの場所にいるのもイヤだったし、なにより食事がおいしくないのだ。きちんと管理されている食事がおいしくないのは当たり前かもしれないが、一度入院したときの病院食、あれに似ていて、味気ないのだ。
我が家はずっと母子家庭のような状態だった。父さんが結構強い競輪選手で、一年中あちこちを飛び回って、仕事始めは大抵1月4日の立川の記念競輪だったから、三が日にお酒を飲むことすらできなかった。僕は成人してから、父さんと一緒にお酒を飲んだ記憶がない。
そんなことを考えながら重い足取りで着いた競輪場で前検は終わった。
――前検日とはいっても、どの斡旋でも初日は1レースの6号車が定位置の僕のところにインタビューに来る物好きなどいない。
だから、ただ入って、ただ食べて、ただ練習して、ただ寝るだけだ。
今日もそうあるはずだったのだ。
大して美味しくもない食事を腹いっぱい食べて、僕は寝ようとしていた。
食う寝る育つ、それが競輪選手だと信じて。
ところが今日は、寝るのを邪魔するお客様があった。
物好きが1人。
ふん、どうせこのままじゃデビューから1年やそこらでクビになるから、僕を笑いものにしようと思って来たんだろう。
前検日インタビューなど、それこそよほどの物好きでなければ見ないし、僕が出ていたところで、お前誰だよと思って聞き流すに違いないんだ。
僕は眠そうな目でインタビューに不真面目に答えた。
「明日の競走は、四国ラインの3番手ですかね?」
「いえ、四国ラインの先頭ですね、3番手でもよかったんですが、僕なんてどうせいてもいなくても変わりませんし」
「先頭を任せられて、プレッシャーは?」
「ありませんね。いつも通り走ります。番手の先輩のためになんてこれっぽっちも思ってません」
初日予選なのだ。特選に行けるようなら、こんな色の服は着ていない。
特選のメロンなら、まだハクも付こうというものを。
僕はA級3班で9連勝してA級2班に特別昇班してきた、期待のルーキーだった。同期の誰よりも早く、A級のレースを走っていたのだ。A級3班のときは、いろいろな色の服を着ていた。2号車だとよく勝てた気がする。だから僕の好きな色は、黒だ。
だが、A2に昇班してからというもの、最初に着たメロン色の服がよく似合うと自分でも思えるほど、1レース6号車から抜け出すことはほとんどなかった。一度だけ特別昇班を賭けたレースがあったっきりで、そのまままた6号車に戻っていった。
実力が付くのを待つよりも、降級するのを待った方が勝てるんじゃないかと思うほどだ。
僕の父さん――師匠は今日、初日特選の6号車で走る。
「師匠、同じ色ですね」
ふざけてみたが、師匠は冷たかった。
「そりゃお前、特選周りできるだけでじゅうぶんってぐらいの点数しかないんだよ俺ぁ。だったらメロンでもなんでもいいじゃねえか。てめーは何なんだ、ずっと1レースでこんな服着て、なんとか特選に出ようとは思わねえのかよ。まずA級1班に上がるところからだな……」
そういえば、父さんと同じ斡旋は初めてだ。だから酒を酌み交わした記憶がないんだ。そうだ、父さんは今期からA級1班に落ちてきたから、僕がS級に上がれなかったのに同じ斡旋になってしまったんだ。
僕は悪いことを言ってしまったことに、そこでようやく気付いた。
「昨日、前検日インタビューが来たんですけど、師匠のところには?」
「そりゃ、特選なんだから来るに決まってんだろ。てめーが決勝まで上がって来るのを待っててやるって言っといたからよ、せめて準決には入れよな?」
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僕は、四国ラインの先頭であることを生かして必死に先行から突っ張りきって、最後の最後で番手の先輩に差されて、2着だった。
ハンドルを投げた瞬間には、もうわかっていた。僕は負けたんだ、と。
けど、2着だ。準決勝には行けるじゃないか。
A級に来てから二度目の準決勝進出に、少し浮かれていたのは事実だ。特別昇班こそかかっていないものの、初優勝が目の前にぶら下がっているように見えたのだ。
競走が終わったあとのことは、よく覚えていない。
父さんに変な絡み方をしたような気がした。父さんと呼んでいた気もする。
同県の先輩とともに、5レースに番組は組まれた。
父さんは7レースのA級準決勝で、また6号車だ。
僕も当然ながら6号車だ。言うまでもないだろう。
選手紹介のときに控えめな野次が飛んできたのが聞こえた。
「メロン、今日も大穴頼むぞ!」
そう、僕に名前なんて、必要ないのだ。
昨日もメロンで今日もメロン。
お客様からしたら、大穴を持ってくるためだけに存在する、昨日2着だったメロンが、僕なんだ。
くそったれ。
僕にだって少しは意地があるんだ。
そんな風に言われたら、せめて名前で呼んでほしい、そう思うじゃないか。
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今日は同県の先輩の番手を回ることになっていた。僕は先行逃げ切りに不安があるから、付いて来いと言われたのだ。美味しいところは持って行っていいから、思いっきり付いてきて、後ろを捌いて、そのうえで1着を取れ、先輩はそう言っていた。
僕は夢中で先輩の後ろを追いながら、後ろから来る他の選手をブロックして捌いた。落車させて失格になるようなことがあると困るので、僕は初めての番手の仕事を丁寧にこなした、と思いたい。
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「決定! 1着、6番」
2着3着がどうなったかなど、まるで覚えていなかった。ものすごい声援に包まれて、わけがわからないまま走って、捌いて、ゴールした。1着だった確信もなかった。だが、審判が「1着、6番」と言ったのだけははっきりと聞こえた。
翌日。
A級の5レースまで、そしてS級の6レースから10レース、僕は何を見ても頭に入らなかった。僕が決勝戦を走る。そのことで頭がいっぱいで、選手紹介の前に敢闘門のところで父さんに声をかけられるまで、ぼーっとしていたんだと思う。
「今日は俺の前を走れ、お前なら逃げ切れるはずだから」
父さんはそう言った。だが、父さんはマーク屋としては超一流なのだ、父さんはどうせ僕をうまく使ってあっさりと優勝するつもりだろう。
僕は性格が悪いから、そういう風にしか思えなかった。
それでも、師弟そして親子が同じ番組に出るということで、ある程度の注目を集めるレースにはなったようだ。
僕はお決まりのメロン色の6号車、父さんはまぶしいピンクの8号車。四国から決勝進出は2人だけだったので、僕と父さんとでライン形成する以外に、僕か父さんが優勝する道はなかった。
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選手紹介のとき、迷ってしまって、父さんと並走してしまった。
新聞屋や予想屋やお客様、いろんな人に迷惑をかけただろうと思う。
僕は父さんと競り合うつもりなどなく、だがあんな選手紹介をされてしまった以上は、単騎で走る誰かの後ろで競り合いをするしかないだろうな、と思った。
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単騎で走る選手は、1人だけ居た。
寒い中での開催に耐えられない九州勢から、特選シードの宮崎県の選手だけが残っていたのだ。
四国九州の即席ラインを作る。本来なら、そうなるはずだった。そうするはずだった。
だがこうなっては仕方がない、あいつの番手競りをして、取れた方が勝ちだ!
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4周目バックストレッチ、大きな鐘の音が鳴る。
僕と父さんはずっと競り合いを続けていて、どちらも脱落せず、ただ脚だけを使っていた。
ふと、目の前にいたはずの選手の背中を見失いそうになり、僕は慌てて踏んだ。父さんも踏んだ。だが、僕の方が若い分だけ脚が残っていた。
気が付けば風を切る選手の番手を取っていた。
なんとしても優勝したい、強く思った。
だがここはA級チャレンジ予選などではなくA級決勝だ。そう簡単にいくわけもなく、後ろから何度も何度もカラフルな勝負服の選手が飛んでくる。2回目の番手の仕事のため、必死で捌く、捌く、捌く。
もう脚など残っていない。あとは歩くしかできない、そう思った4コーナーで、今度は大きな大きな野次が聞こえた。
「メロンたまにはいいとこ見せろやー!」
ここまで来てもまだ僕の名前を呼んではくれないんだな、苦笑いしながら、僕はありったけの力をこめて、踏んだ。
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「決定! 1着、6番、鈴木英司。2着――」
そうだ、僕の名前は、そんな名前だった。死刑囚と同じ名前なだけで、特に珍しいわけでもなく、覚えにくいわけでもない、中途半端な名前。
ああ、優勝したんだ――そう思った瞬間に僕は、倒れそうになるのを我慢して、表彰台へと走った。
「師匠と競りになったのは残念な結果でした、次は師匠とワンツーフィニッシュできるよう、頑張ります!」
整わない息で、インタビューに答えた。
一緒に帰った父さんは、インタビュービデオを見ながら、ニヤっと笑って僕に缶ビールを差し出した。父さんの右手にも、缶ビールが握られていた。
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