「花も人も」

スーパーちょぼ:インフィニタス♾

『花も人も』by 二番煎じ増田


「あんた、夢でも見てたんじゃないのかい?」



 時は徳川。江戸のはずれの裏町で、男は長屋の縁側に腰掛けて昼間から狐につままれたような顔をしていた。

 針仕事の手を休めることなく続ける女房の顔をしげしげと見つめながら、男は答えた。


「だってよ桜、昨日の晩俺は確かに……。それにおめぇはもう」


 男は俯きながら指先で軽く頭をかいて困惑をあらわにすると、はっと思い出して懐を探った。


「ほら見ろ。やっぱりあれは夢なんかじゃねぇ」


 男は懐からくしゃくしゃになった短冊を取り出すと女房につき出した。


「『いまはとて 天の羽衣着るをりぞ 君をあはれと 思ひ出でける』こんな意味深な歌書き置きして姿を消されて、分かるわけねぇだろ。言いたいことがあるならハッキリ言えってんだ。ところで桜、おめぇいつ帰ってきたんだ?」

「まったくあんたもしつこいねぇ。さっきから何わけわかんないこと言ってるんだい。私はどこにも行きやしないよ、まったく。さ、早くこれを小袖こそでさんとこに持ってっておくれ。この前のお礼の小包だってのに、こんなんじゃ日が暮れちまうよ。さぁさ」


 なかば女房に押しきられるようにして呉服屋に向かうことになったが、男が困惑するのも無理はなかった。

 男は昨晩、確かに姿を消した妻を探して二人が出会ったさくら川まで一目散にかけていったものの、何一つ掴めたものはなかったのである。


「増田さま、夢でもご覧になってたんじゃありませんか」


 ふふっと鈴の音をおもわす声で可憐に微笑みながら、呉服屋の小袖が告げた。包みに入っていた手紙を一通り読むと、さらに小さくふふっと笑った。


「また小袖さんまでそんなこと言って。きのうの日暮れ前に、俺は確かにここに来たでしょう? そうじゃなきゃあの歌の意味も分かるわけねぇんだ。小袖さんそっと俺に教えてくれたじゃねぇか。あの歌はかぐや姫が月の都に帰る前に帝に詠んだ歌だって。だから俺はてっきり」

「てっきり、どうなすったんです? 『いまはもうこれでお別れだと思って。いざ天の羽衣を着るときになってあらためて、あなた様のことをしみじみと思い出すことですよ』わたくしもこの歌は好きですけれど。夢は夢のままでよいではないですか。それに増田さまはそもそも昨日ここにお見えにならなかったんですもの。これ以上わたくしに申し上げられることは何もございませんわ」

「え? 小袖さん一体なんのことでぇ」

「あら増田さま、あんまりじゃありませんか。増田さまは昨日、先日のお礼にとわたくしを峠の甘酒茶屋へデート逢い引きに誘ってくださったじゃありませんか。わたくし人目を忍んでお待ち申し上げておりましたのに。まさか約束お忘れになってたなんて」

「いや、そんな! そんなことは」

「ふふっ。もうこのことは水に流しましょう。さぁ、桜さんが首を長くして待ってますよ。――ところで増田さま」


 呉服屋の藍色の暖簾をくぐりかけた増田に小袖が声をかけた。


「ところで増田さまは」


 切り出したはいいものの、小袖はどうしてもその先の言葉を口にできなかった。『かな文字が読めないなんて増田さまは一体どこから来たのですか?』と。

 一瞬の沈黙の後、小袖は続けた。


「いえ、何も。今度こそ手放しちゃだめですよ。美しい、さくらの花びら」


 増田は一瞬なんのことだろうと思ったが、可憐な小袖の微笑みに見送られて、思わず「おぅ!」と威勢よく返事しながら、呉服屋をあとにした。


「はぁ。結局いつも非情になりきれないのが私の弱さ……か」


 店じまいをしながら思わず独りごちたあと、小袖はおもむろに文机ふづくえ面相筆めんそうふでを手に取った。


「まぁ案外この時代も、わるくないけど。それに私も一度言ってみたかったのよね――本当はわたくし、あなた様のことこんなにもお慕い申し上げておりますのに」


 小袖は短冊にさらさらと書きつけたあと、ふふっと小さく笑った。


「自己犠牲なんて、今どき流行りませんわ。花も人も、いのち一杯生きてみたらいいじゃありませんか。いつ散るかなんて誰にもわかりませんもの、ねぇ、増田さま。増田さまも、そうお思いになりません? なんて。ふふっ」


 人気のない呉服屋の店内に、鈴のように可憐な笑い声が響いた。






「いい加減に起きなよ、おまえさん。もう日が暮れちまうよ」


 長屋で目を覚ました増田は思わず跳ね起きた。


「おぅ桜」


 返事も早々に切り上げた増田は、妙な既視感に胸騒ぎを覚えてやにわに懐を探った。


「あれ、ない。どうして、俺は確かに短冊を懐にしまって。桜、知らねえか? あの短冊」

「何寝ぼけたこと言ってんだい。鼻の下を伸ばして帰ってきたと思ったらまた昼寝して。もう本当に日が暮れちまったじゃないか」

「いや、その……」

「今夜はどうしても仕上げたいものがあるから、絶対に部屋は覗かないでおくれよ、あんた」



 その晩。


 天心に月がかかるころ、増田はうなされて夢から覚めた。何かを掴もうと必死に手を伸ばした増田の腕を、長屋の障子越しに青白い月の光が照らしていた。

 いつもは行灯あんどんだいだいの光が襖の隙間から微かにこぼれてくるはずなのに、どうして今夜は真っ暗なのだろうと不思議に思った増田は、そっと引き手に手をかけた。


『絶対に部屋は覗かないでおくれよ』


 桜の声がよみがえったが、先ほどの悪夢が頭から離れない増田は、何かを振り払うようにかぶりを振ると勢いよく襖を開けた。



「そんな……」



 長屋の小さな一部屋に、増田の他に動くものは何一つなかった。



 


 川沿いの道を一目散に走る一人の男を、青白い月の光が照らしていた。

 男は上がってきた息を押さえるように肩を上下させながら、疲れを振り払うように夜風を切って進んだ。

 さくら川までもう少しというところで、男は不意に立ち止まった。桜並木の下で思わぬ人影に出くわしたのだった。


「小袖……さん……?」


 結い上げた髪のうなじに月光が反射して、かんざしが妖しく煌めく。

 おもむろに振り向くと、小袖は拍子抜けする声で答えた。


「増田さま……? どうしてこんなとこに」

「小袖さんこそ。すまねぇ、今急いでるんだ。誰かここを通らなかったか?」

「通りましたよ。ついさっき。この短冊を私に託して、ね」


 小袖が手にしていたぼろぼろの紙切れは、紛れもなく桜がしたためた短冊であった。


「どうしてそれを」

「どうしても何も、桜さんから頼まれたんですよ。増田さまに気づかれぬように持っていてくれないかって。さもなければどこかに捨てて欲しいと」


 小袖は淡々と答えた。


「でもすべて無駄でしたね、こんな猿芝居。増田さまに見られてしまっては」

「えっと。それは一体どうい――」

「まだお気づきになりませんか? 桜さんの優しい嘘に」

「嘘?」

「本当はあの夜、桜さんは一度月に帰りかけたんです」

「……」

「いざ天の羽衣を着ようにも、沈んだあなたの姿を見ていたらとてもそんなこと出来なかった。それに実のところ、帰りたいからといってそう簡単に帰れるものでもありませんし。この地球ほしにいられる時間はあらかじめ決まってるんです。それがいつになるのかは、誰にもわかりませんけれど」


 とそこまで一息に言うと、小袖はふふっと小さく笑った。


「一体私もどこまでお人好しなんでしょう。何でこんなこと」

「どうして小袖さんはそれを?」

「さて、どうしてでしょう?」

「えっと」

「ふふっ。増田さま、答える気のない女性にそれ以上聞くのは野暮というものですよ。これ以上は、秘密です。増田さまは今晩誰にも会わなかった。桜さんの他には誰も。それでよいではないですか」

「え?」

「桜さんが待ってますよ。さくら川の橋の真ん中で」


 遠ざかる人影を見つめていた女は、袖からまだ新しい短冊を取り出して眺めると、ふふっと小さく笑った。


「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ。ですよ、増田さま」


 鈴のような声で可憐に笑う女を、藍色の空に浮かぶまあるい月が照らしていた。――



 

「桜――!」



 さくら川にかかる橋の真ん中で、男は懐かしい人影に話しかけた。

 突然話しかけられて驚いたのか、人影は何やら一瞬動きを止め、目元を拭う仕草をしたあと、おもむろに振り向いた。


「あんた、どうして……」

「どうしても何もねぇ」


 男は人影に近づくとやにわに手首を掴んだ。


「なんだい急に」

「もう放さねぇって……決めたんだ……」


 さっきの勢いはどこへやら、男はそっぽを向きながら言葉尻は聞き取れないほど小さな声で呟いた。

 呆然と男を見つめていた人影は、やにわにくすくすと笑いだすと、男の肩を軽く叩いた。


「まったく、大袈裟だねぇあんた。私は月を見上げていただけだよ」

「え……?」

「だってあまりに綺麗じゃないか、そろそろ満月かねぇ」

「そりゃそうだけど……」


 思わぬ返答に増田が戸惑っていると、桜は夜空を見上げた。

 満月の少してまえの月が、さくら川を優しく照らしていた。

 夜風に舞ったさくらの花びらが青白い光にきらめいて、まるで春の雪のようだと、増田は思った。けれども何より美しいものは、増田の手の届くところにあったのだった。


「綺麗だ……」

「ねぇ、本当に綺麗だね」

「本当に」


 思わず桜の手のひらを握りしめようとした増田の試みが、結局長年の照れ隠しで終わろうとしたそのとき、桜自ら手のひらの内に飛び込んできたのだった。


「今夜はあんまり明るいから、夜でも影がよく見えるね、あんた」


 桜はいまや橋に映った挙動不審な影法師を見つめながらくすくすと笑っていたのだが、とうの増田はどうして桜が笑っているのだかよくわからずにいるのだった。


「さぁ、そろそろ帰らなきゃ。あんたもまだ寝たりないんじゃないかい?」

「いや、今夜はもうちょっと夜桜でも見てぇ気分だ」

「珍しいこともあったもんだね。あんたちゃんと起きてるかい?」

「あたりめーよ。今夜はまだ寝たくねぇんだ」

「まったく。あんた今日なんだか子どもみたいだね。どういうわけでそんなに寝たくないってのさ」

「……また夢になると、いけねえから」


 さくら川の橋の真ん中で、男は手の内の桜をぎゅっと掴んだ。



                  (了)

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