第9話 執念
わたしはまた探し物を始めた。
今わたしの片腕の中に抱かれている彼女について思ったとき、わたしと彼女との間にあらゆる過去の記憶の代わりに、なぜかまたそのことだけが真っ先に頭に浮かんで来たのだった。それが彼女と関係がある事柄だったのかどうかは思い出せなかったが、とにかく、それはなにか懐かしいもののような気がした。
我々は一言も話さなかった。それはいつものことだった。何か特別なことでも起こらない限り、わたしと彼女の間には、話すべきことなどこの世においてもうほとんど何も存在しないように思われた。特にこうやって体を寄せ合っていると、いつだって、何か語るべきことを見つけることの方が困難に感じられるのだった。
我々は人気のない秋の穏やかな夕暮れの森の中に入り込み、そこでそれぞれ自由に散策を始めたようだった。集合場所も決めないし、待ち合わせの時間もなかった。ただ、他に誰もいない1つの森に2人で入り込み、日が暮れても、夜明けが来ても構うことなく、それぞれに安寧の時を過ごすのだった。
彼女はそのまま短い眠りについた。
彼女が眠りにつくと、この世界で誰かが揺り動かしたりしない限り、彼女はそのまま永遠に眠り続けていそうだって。しかし彼女は、今のところわたしの知っている限りでは、いつかは必ず目を覚ましていた。
彼女の柔らかくぬるい体温を、わたしは体の側面と腕の内に感じていた。赤子のように無防備な彼女の寝顔と寝息は、いつものように、わたしの心を無辺のくせに窮屈な奇妙な箱の中に入れて閉じ込めた。その中では、時空はひどく伸縮した。時間は本来の速度と方向を失い、ときには逆行して行くようにさえ感じられた。わたしは彼女の体温を約1時間の間ずっと自分の肌の上に感じていた。そして、また1つまばたきをした瞬間に、その時間をもうやり過ごしていた。
午前6時半を過ぎた頃だった。彼女は星の軌道と潮の満ち引きのように至極安定していた寝息をぱたりと途切れさせて、わたしは彼女が目覚めたことに気がついた。
そして重い幕をゆっくりと持ち上げるようにとてもとてもゆっくりと、瞼を開けた。それから、何度かゆっくりとまばたきをした。目を開けたらまだそこに現実があったことを、疑っているかのようだった。
「おはよう」とわたしは言った。
「おはよう」
彼女は何か面白くないことを言われたかのように、静かに返した。
彼女はわたしにとって、いまだに繋がりのあるただ1人の幼馴染だった。哲学を有する以前の互いの姿を知っているのは、わたしにとっては彼女だけだった。彼女にとってもまったく同様に、わたしだけだった。
彼女の実親は、この世界のどこかにいた。どこかにはいたがどこにいるのかは、この先彼女がどこで死ぬのかと同じくらい、まったく分からなかった。
「探す気なんて湧いたことすらない」そう彼女が言ったことがあった。それは彼女の抑圧された悲しい心の発露ではなかった。ただ彼女の心の中の真実を表していた。「本当に、ないのよ」苦笑した彼女の目が少し悲しそうに見えた。
彼女は彼女を育てた両親について、「感謝しているわ。至って普通の、まともな親だった」と言った。わたしの目から見ても、彼らはそんな風に見えた。経済性も、道徳も、愛も、忍耐も、"一般的"と言われる範疇から足が出ることはないように思われた。わたしは彼らのことを、わたしの親より貧しく、社会的で、優しく、寛容だと思った。「理想的な親でいてくれた」と彼女は彼らへの敬意と愛とを込めて言った。わたしも彼女に賛同した。
18で共に上京して、我々は都内の別々の大学に進学した。彼女は女子大学だった。2人とも近くはあるが別々の街に一人暮らしを始めた。一人暮らしを始めると、彼女はまもなく娼婦になった。
彼女は、とびっきりの美人とは言えなくとも十分に美しく、微笑むと愛嬌があった。女の平均よりは背が高く、すらりとした体型だった。肌の白い長くしなやかな手足をしていて、どこか儚げな印象のある彼女は、はじめから客に困らなかったらしかった。
春の夜の狂気 やすながひろみ @hirohiro112
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