第8話 潮騒
小さい明かりのついた居間の扉を開けると、彼女は出がけにそこに広げて置いた雑誌が、広げて置いたままに広がってそこに置かれているのを見るかのように、ソファにいるわたしを見た。
「おかえり」とわたしは挨拶をした。
彼女とわたしが会ったのは数ヶ月ぶりだった。
彼女の部屋の合鍵を持っている男は、わたし以外に何人かいるようだった。一度だけそのうちの1人と出くわしたことがあった。
電車もなくなった夜更けだった。その階でエレベータを降り、四角い中庭を囲むようにある廊下を彼女の部屋に向かって歩いていた。そのときから、ちょうど対角にあるエレベータを降りて向こうから廊下を歩いてくる男がいることに気がついていた。
2人の男はほとんど同時に彼女の部屋の扉の前に歩き着いて、立ち止まった。わたしにはまったく見覚えのない男で、彼もわたしという男がこの世に存在していたことを知らなかったようだった。立ち止まる部屋を間違えているのではないかと疑ってわたしが彼を見やると、彼も同じような目でわたしを見ていた。
我々は沈黙して顔を見合わせた。雄弁な沈黙だった。しかし内容はなにもなかった。そして我々は同時に微笑んだ。彼もまた、わたしとまったく同じように、ふざけた顔をした男だった。
相手よりもコンマ5秒早く踵を返したのはわたしだった。
エレベータの前に着いたあたりで、彼女の部屋の扉が閉まったのが見えた。
わたしは壁の時計を見た。5時31分23秒だった。
「久しぶり」とわたしは言ったが彼女はそれに応える必要性を感じていないようだった。
「忙しかったかい?」とわたしは訊いた。彼女は娼婦だった。
「顔色、悪いわよ」彼女はその場で雑誌の色が一昼夜でいきなり色褪せたのを見るかのようにわたしを見ながらそう言った。
「どうりで、気分が優れない。たぶん、2人とも同じような顔色をしている」
彼女は生気を抜き取られて全身が灰色と青色だけになったかのようだった。しかしその時間の彼女にとっては、それは特に珍しいことではなかった。
午前5時32分になるまで、足が床に根を張っているかのように、彼女はそのまま居間の入り口に佇んで一歩も動かなかった。赤茶に染めた長い髪をまとめ上げ、茶色のトレンチコートを羽織り、小さなバッグを肩から下げていた。両手は何も持たずその付け根から真っ直ぐに下ろし、右の手首には黒い髪ゴムをはめていた。どんなに疲れていても、彼女の背筋はいつもすっと真っ直ぐに伸びていたから、むしろ亡霊のように見えた。
「これは、何かしら」
彼女はこの世界に疑問を呈するかのように、天に人差し指を向けてそう言った。
そう言われて、ようやくわたしは気がついた。わたしは夢遊病患者になったのかもしれなかった。いつの間にか部屋には音楽が流れていた。かなり遠い記憶の彼方で、わたしはステレオコンポのリモコンをいじったような気がしないでもなかった。
遠い時空を思わせる古めかしく心地よい音色が空間に静かに流れている。部屋の隅でコンポが小さく電子的な光を躍らせている。
「ディヌ・リパッティ作曲、ピアノ協奏曲、第2楽章じゃないかな」わたしはそれの旋律にしばらく浸ってから答えた。
「そんなの、あたし持ってたかしら」
「僕が君に以前貸したことがある気がする」わたしは言った。「代わりに君から、ハイフェッツとピアティゴルスキ、プリムローズとかのブラームス弦楽六重奏曲第2番が入っているアルバムを借りた気がする」
彼女はようやく動いて、鞄を壁のフックにかけた。幽霊のように滑るようにゆっくりとこっちに向かってきて、ようやく彼女はソファのわたしの隣に腰を下ろした。彼女の体から浴室の匂いがした。ソファはようやく主人の重みを感じて、納得したようにまたギュウと唸った。
彼女はわたしの肩に頭を預けた。わたしは売れ残りの木材か何かのように感じた。彼女に寄りかかられると、わたしはいつもそんな感じがした。
彼女が着たままのコートと髪から春の夜のふやけた香りがして、その髪の奥に、彼女の素肌の匂いがあった。
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