第7話 蠢き
それでもやはり腹が減っていたので、寝室を出て、居間に小さなダウンライトをつけ、キッチンに向かった。
暗闇の中で青白い光を広げてわたしを歓迎したものの、冷蔵庫は彼の中にわたしが今欲しているようなものがほとんど何も入っていないことを時折どもるように飛び跳ねる駆動音で詫びた。そこにはわたしが欲しているものだけではなく、もの自体がほとんど何もなかった。冷蔵庫はほとんど空の虚ろな空間を苦しそうにうんうん唸りながら冷やしていた。あるものと言えば、粘度を帯びはじめた紙パックに入った牛乳、いつ作られていつ死んだか分からない小ぶりなキュウリのピクルス、缶ビール2本、それだけだった。
扉を閉め、わたしはそのずんぐりとした胴体をよしよしと叩いた。お前が悪いのではなくてお前を使いこなさない主人が悪いのだと慰めた。
居間の古い革張りのソファはわたしの質量について、静かにしかしはっきりと、同じくらい古そうなキャビネットやテーブル、テレビ台など他の家具たちにも聞こえるように、ギュウギュウと文句を言った。いつもより重く感じられるし、こんな時間に座られるつもりはないと言っていた。わたしは構わず、まるで鉛の塊になったかのようになんだか妙に重くて鈍い自分の頭をそいつに委ねた。ソファはさらに小言を言ったが、案外優しくわたしの首から上を受け止めてくれた。
見慣れぬ天井がそこにあった。
--何も考えられない--
そうわたしは思った。
律儀な小さな星たちのように整列したいくつものダウンライトの端一列だけが無言で橙に輝いていた。12畳程度の、他より幾分高く造られた天井の真ん中に、アンティークのシャンデリア風のペンダントライトががらくたの銀河のように宙吊りになっていた。
--何も考えられない--
そうわたしは思った。
なにか嫌な夢を見たような気がした。そのせいでほとんど飛び起きるように起きたはずだったのに、それが一体どんな夢だったのかさえ思い出せなかった。
その他の家具たちも時の流れが染み込んだ木材で作られたアンティークなものばかりたった。アンティーク風なものもあるのだろうが、実際に随分古いものばかりで、わたしにはがらくたのように見えるものが多かった。床は暗めの色をしたヘリンボーンだった。
窓辺には妖怪のように大きなウンベラータが、こちらに大きな葉の掌をいくつも広げて、外界からこの部屋を守るようにじっとしていた。
わたしはさっきシンクで汲んだ水道水の入った低いガラスのテーブルからとった。強いカルキの香りがした。席を立って妖怪にそれを全部やった。ウンベラータは犬がニボシをもらったみたいにありがとうと言って、わたしは「どういたしまして」と言った。
閉められたドレープカーテンの向こう、街のどこかで早起きのカラスが大きな独り言を言った。甲高い、けたたましい、嘆きの叫びのような一声で、また朝が来ることを告げていた。わたしもそのカラスと同じような気分だった。
もう一度ソファに文句を言わせてから、玄関の物音に気がつくまでに、わたしは一度だけまばたきをした。たった一度だけまばたきをした途端、錠に鍵が差し込まれそれが回される音がした。まだ4時くらいだと思っていた。わたしの感覚を無視して、しかし時はいくらも進んでいた。
眠っていたのかもしれない、とわたしは自分を疑った。覚醒しているはずなのに意識の手綱がこれほど自分の手から遠く離れていると感じたことは、生まれてこのかた始めてだった。
眠っていたとしても、とにかく目を開けて天井を視界に映していたことだけは確かな気がした。急に動かした視界に、タージマハルのようなシャンデリアの影と整列した星の影がかなりしつこくついて来た。
「ただいま」
彼女は彼女のものではない靴がそこにあることを認めた。たぶんそれがわたしの靴でなくても、彼女は同じように「ただいま」と言った。
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