第5話 胎動2


もちろん彼女が本当に男を殺しているわけではなかった。

彼女が失恋したとき--とは言っても実際に失恋していると言えるのはいつも彼女ではなく相手の男の方だった。つまりは、付き合ってはいてもいつまで経っても釣れない彼女の態度に男が愛想を尽かし、諦念をもって彼女を泣く泣く解放してやるときのことだった。彼女は一度も男を振ったことがことがなかった。彼女の我慢が限界を迎えるより先に、いつも彼の方に我慢の限界が来た。決して彼らの誰もが辛抱のない男だったわけではなかった。ただ彼女の態度に、男にその我慢が永遠だと感じさせるような石のような堅さがあったのだろう--つまり彼女が相手を失うとき、わたしは彼女に、それは1人の男を殺したのと同じことだと彼女に教えていた。

「男にとって、1つの恋を失うことは、死ぬことと同じなの?」彼女はわたしを覗き込んだ。

「そうだ」とわたしは答えた。「その通りだ。1つの恋を失うと、男は1度死ぬ。女にとってはどうやら具合が違うらしいが」

「あなた、これまでに何回死んだの?」

「それはお前には関係のないことだよ」


15人のうち1人は、本当に死んでいた。

14だった若い彼にとっては、彼女こそが、彼女だけが、この世にたった1人存在している彼女の存在だけが、彼の生きる意味だったらしかった。わたしはなんとも純粋で美しかった彼の世界を想った。しかし、唯一のそれを見失った彼は、賢明なことにそれからもしばらくは何か他にも自分が生きる意味を見出だせるものがないだろうかと模索しながら苦悩しつつ生きていたようだったが、結局、その辺のなんでもない道端の一樹の幹に縄を引っ掛けて、首を吊ったのだった。

遺言があった。それは彼が死にたいと思う素直な理由だけが綴られた潔いものであった。

「これはただの直観。根拠や証拠はない。しかし僕はこれが真実だと信じている。根拠や証拠、あるいは直観すら働かせず思い込みや偏見のみで真実を語ろうとする大人たちには理解できないだろう。

やはり僕の人生には君が必要だった。僕は君と1つにならなければならなかったのだと思う。それが叶わないとなると、僕はこの先、永遠に、何か僕にとって不可欠なものを決定的に失ったまま生き続けるのだと思う。そんな風にしては僕は生きてはいられない、生きていたくないから、死のうと思う」


若々しい思い込みであったかもしれない。しかしもしかしたら、ただの思い込みではなく本当にそれが彼の人生の真実であったかもしれない。それは誰にも分からない。

とにかく、彼は彼にもっと与えらるはずであった"時間"というものを自ら拒否して、この世を去った。永遠というものはこの世に存在しないことを知らず。

わたしは若くして亡くなった彼に、好感と哀れみの念を抱いた。


遺書に名前があり、警察は彼女を取り調べた。子どもたちの恋愛ごとに、警察は眉間を寄せた表情に埃をかぶった感傷と同情と薄笑いを浮かべるだけだった。


「1発くらいやらせてあげておけば、彼は死なずに済んだのかしら」

わたしが付き添った彼女の取り調べからの帰り道、14の彼女は彼の死について考えながらそう呟いた。彼女は誰かと付き合うことと己の身体を許すこととを、切り離して考えていた。

俯いてる彼女が少し心配になって、わたしは声を掛けてやろうとして、気がついた。彼女は自分の靴の先をただ見つめているだけだった。いつのまにか彼女の右のパンプスの先に赤と黒の点々が付いていた。その小さな天道虫は全然彼女の靴を離さなかった。彼女はそいつを、死んだ彼の名前で呼んだ。

彼女にわたしの心配は無用だった。どうせ彼女は、そうすると1人の人間が死ぬからと言って、1発やらせてあげるという考えには実際には至らない女だとわたしには分かっていた。

「どうだろうね」と、わたしは答えた。


「ブルックナーの一体何が好きなんだ」わたしは訊いた。

そっと目を瞑ると、彼女はそっと頭を揺らし始めた。彼の長大な交響曲のどれかのどこかの旋律を思い出しているらしかった。彼女はしばらくそのままそうしていて、やがて目を開け、少し考えてからこう言った。「”中身”を、感じない」

彼女の指先はまだ机の上で旋律を刻んでぱたぱたと動いていた。

「彼の旋律には素敵なフレーズが沢山あると思う。素晴らしいメロディメーカーよね。だけれど、ただのそれの連続、積み重ね、繰り返しなのよ。それだけ、という感じなの。これはあくまでわたしの意見よ。

それで大きな一つの構造物を作り上げて、たったそれだけなの。そこに、”内容物”がないのよ。実感、体温、感情がない。ほとんど形而上的。無意味にすら思える。上っ面な旋律をくっつけて繋げているだけのように感じるの。どんなに重厚壮大に見えても、どこまでも軽い。質量がないの。ちょっと聴くと鈍重で冗長的にも思える曲ばかりなのに、じっと聴いていると、自分がむしろその音楽から離れていって、空のどこかにぽっかり浮かんでゆくみたいに感じるわ。自分自身もどんな意味も持たない浮遊物になって」

「ぼくはブルックナーの何が好きかと訊いたんだ」

「そこが好きなの」彼女はナチュラルな色をした滑らかな爪のついた人差し指の先を、またわたしに向けた。「つまりそれって、”生きる”感覚ととても強く通じると思うの。ずっと聴いていると、月よりもっと遠い星の表面から、人生という固定された一本のレールの上を一所懸命滑ってゆく自分あるいは自分以外の人々のことを見ている気になるのよ。彼の交響曲の1つを聴くことは、1本の小説を読む感覚にも似ている。1人の主人公がいるシリーズ物ね。1曲が1作品。この世に産み落とされたその瞬間から鋭敏な観察眼が働いている少年がいる。『ブリキの太鼓』のあの子みたいに。彼は生まれたときからこの星に産み落とされたことに違和感を覚えている。その違和感をじっと胸に抱えたまま、老いて死んでゆく。その彼が自分の心をうまく働かせることができない、でも他人の気持ちなら手に取るように分かる青年だったころに見た、11つの世界。それを静かな調子で彼なりの感情を込めて、彼なりのよ、それを語るの。それが彼の11の交響曲。そんな風に感じる」

「それだからダメなんだ」わたしは小さく鼻を鳴らしビールを嚥下した。「流行りのポップスを聴け。同じ年くらいの相手にしか興味はないんだろう?」

「先に何年も生きているなんて、ずるいじゃない」

彼女には先に寿命を迎えるであろう人間たちが羨ましいらしかった。

「じゃあ同年代が聴いているようなものを聴け。少しは周りに話を合わせろ。そんなものばっかり聴いているから、またお前に失恋して死にたがるやつばかり寄って来るんだ」

「嫌よ」

「じゃあクラブ音楽でもいい」

「嫌よ」

「何ならいい?」

「クラシック音楽以外、嫌だわ」

「なんでさ」

「あるギリシア人の指揮者が言っていた」彼女は退屈そうに自分の指に髪をくるくると巻きつけ、毛先を見て、その匂いを嗅いだ。その癖は、彼女がまだ小さくて愛らしいばかりだった頃から備わっていたものだった。「クラシック好きにどうして他のジャンルを聴かないのかと訊くのは、麻薬中毒者にどうしてもっと軽い薬をやらなのかと訊いているのと同じだって。まったくその通りだわ」

「やったこと、あるのか」

「クスリ」

彼女は背にしている店の出窓の方を振り返らずに適当に指さして言った。

「この辺で、よく配っているわよ」

「本当に?」

彼女は微笑み、黙ってわたしと見つめ合った。それから何も言わず、にっこりと口角を上げた。

わたしは彼女が2歳くらいだったときにわたしに向けた、まるでこの世を一瞬にして花畑に変えるような屈託ない笑みをふと思い出した。

小さく溜息を吐いて、わたしはさっさとビールを飲み干した。彼女が店を出たがって、わたしはたっぷり余っていたワインも飲み干した。確かにどうしようもない状態のワインだった。高温でゾンビにされた後で低温で風邪を引かされていた。ワインらしい味わいは何もなかった。ビールは消費期限が切れたように埃っぽかった。

喉は潤ったが、わたしの腹は減ったままだった。

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