第3話 沈黙2

「どうしてフラれたの?」と彼女は訊いた。

「こっちが訊いてみたいものだね」わたしは答えた。

「他に男ができたのかしら?」

「どうやらそうらしい」

「潔く引き下がったの?」

「そういうことになる」

「なんて言われたの?」

「『あなたとは関係を終わりにしたい』」

「それだけじゃ他に男ができたのかどうか分からないわ」と彼女は言ったが、もちろんわたしを慰める気はなさそうだった。

「『とは』と彼女は言った。僕はそこに彼女さえ気が付いていなそうなニュアンスを感じとった。そもそも、以前からそんな気配があったのさ」

「その気配があっても、あなたは花に虫が集まるのを見るみたいに、何の気なしにその気配を眺めていただけなんでしょう。それを咎めたりはしなかったんでしょ」

「何事もなるべきようにしかならないんだ」

「あなた、女を悲しませる天才よ」

彼女は両手をコートのポケットに突っ込みながら愚かで可哀想な気の置けない仲間に微笑むように、わたしに微笑んだ。

「こう見えて僕だって悲しんでいる」

「嘘つき」と彼女は言った。「それなりの顔しているのに、いつも女と続かないのは、こうなると性格の問題ね」

彼女は一周りより歳が上のわたしをからかうことが酒の肴みたいに好きらしかった。

「そういうことになるね。顔なら人の百倍は良いはずだ」

「どう頑張っても二倍よ。好みは人それぞれだから、それに+−の符号のどちらかが付くわ」彼女は怪訝そうにわたしを覗き込んだ。

「ありがとう。とても励まされる」


春の夜の六本木通りは賑やかだった。向こうからスーツを着た酔いどれの若い集団が訳の分からない言葉を言い合いながら賑やかに歩道を蛇行してきたり、最寄りの2人きりになれて静かで横になれる場所を探して道端で立ち止まっているあたりをキョロキョロしている目のギラギラした男女がいたり、何をするつもりなのかは分からないが、獲物になりそうな者が通るたびにそいつに声をかける目の光る黒い蛇のような外国人がいたりした。

車道には絶えず赤や橙の光が流れ、時折トランペットのようなクラクションがなり、高音のファゴットのようなサイレンが鳴った。

「春になったら、ストラヴィンスキーでも聴きたいわ」と言ったのは、わたしの隣を歩く美しく若い女だった。わたしは賛成した。


やがて彼女はどこかに入って一杯やりたいと言い出した。

無辺の枯れ草畑の中にただ一本だけ現れた薔薇か芍薬、牡丹のように、血族というものをまったく無視して一人だけ見目のいい彼女は、まだ未成年だった。しかしそれがどうしたことか、成年してあれやこれやの経験を積んでからしかどうしたって醸されないような色気を、彼女はなぜかすでに全身から匂わせていた。そのはずはないのに、彼女はまるですでに何もかもを知っているかのようだった。枯れ草畑の中の一輪の麗しい花は、何百もの輪廻を繰り返しながら生き続けているのかのようだった。彼女にはそういう神妙な艶が備わっていた。そして、いつまで経ってもそこらへんの齢以上の年を取りそうになかった。


通りがかりの歩道に面してあった小さなビストロの扉を押し、我々はシャンパーニュのグラスを2つ頼んだ。彼女はそのワインを一口口に含んで、状態がよろしくないと言って、グラスをわたしの方に押し退け、勝手にビールを頼んだ。

そのビールを一口飲むと、それさえ美味しくないと言ってそいつもわたしに寄越した。そして退屈した少女のように、むくれた。

「ねえ、さっきから全然、その彼女のことを考えていないでしょう」

2杯のシャンパーニュグラスと1杯のビールグラスを前にして黙って座っているわたしに、彼女は訊いた。

「探し物をしているんだ」わたしは答えた。

「探し物?」彼女は首を傾げた。

わたしはオーケストラの終わりに、頭の中に光の燕のようなものが素早く飛来して素早く飛び去ったのだと話した。

「ああ」と彼女は言った。彼女にもそういう経験はあるらしかったが、それ以上の興味を示さなかった。

「そういうところよ」彼女は長い人差し指の先をわたしに向けた。

彼女に備わっていてあまり美しくないと言えそうな唯一の点は、その人差し指だった。彼女の人差し指は左右とも中指より長かった。

「あなた、仕事のことばっかりでいつだって交際相手のことなんてちっとも考えちゃいないのよ」

「今は仕事のことなんて考えていない」

「どうせ、それが何かのきっかけで新しい糸口が掴めるかもしれないとでも考えているのよ、あなたは」

それは自分でも図星なのかどうか分からなかった。

「フラれたのか」今度はわたしが彼女に訊いた。

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