第2話 沈黙
「また、フラれたの?」しばらく黙って歩いていると、彼女は唐突にそう訊いた。少し面白そうに、斜め下からわたしを覗き込んでいた。
「どうして?」わたしは椿の葉のように大きく瑞々しい彼女の瞳を見つめ返した。
「さっきから、何かをずっと考えている」
これまでにフラれたからといってなにかを考え込んだ過去が自分にあるとはわたしには思えなかったが、とにかく彼女にはそう見えたらしかった。わたしは答えた。
「そうだ。考え事をしている」
正確にはそうではなかった。考え事というより、わたしは探し物をしている気分だった。
さっき飛来して飛び去った”なにか”を、わたしは今だに探していた。
ホールを出るまでは、わたしはすでにそれのことなんてすっかり忘れてしまっていた。人気のない午後の庭の日の当たる一角に古いテーブルがぽつんとある。そこにはなにも乗っていない。誰もいない。
しかしホールを出た瞬間、そのテーブルの上に、"なにか"が、ひとつだけ置かれていた過去があることを思い出したのだった。
テーブルの上に置かれていたもののその姿はもうすでになく、それがなんであったかの手がかりになりそうなものも何もなかった。
それが果たして小さな林檎だったのか、どこかへ入るための鍵だったのか、誰かが読んだ本のしおりだったのか、あるいは土を掘るシャベルだったのか、いつか咲く小さな花の苗だったのか、何だったのかを、わたしは思い出そうとしていた。それは途方もないことのように感じられた。しかしわたしはそれが気になって仕方なくなっていた。
ここで忘れてしまえば、わたしがそれをもう一度思い出すことは、永遠にないないのかも知れない--そう思うと尚更その記憶の片鱗を手放してしまうことができなくなった。これまで幾度となくいくつもの物事をそうしてきたように、わたしはそれを全く存在しなかったものとして、なかったものにしてしまうはずだった。
それは底なしに深い沼の中に沈みかけていた。奇妙な感覚だった。わたしはわたしの頭の中という極めて至近にある、この世に唯一の底なしに深い沼から、何かを掬い出してもう一度手に入れようともがいていた。
「ねえ、フラれたの?」彼女は再び訊いた。さっきよりもう少しはっきりとした確信をもっているようだった。
「それは、事実だ」わたしは答えた。
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