春の夜の狂気

やすながひろみ

第1話 発見

白髪の老父がストラヴィンスキーの『火の鳥』を振り終えたところだった。指揮者と楽団の動きが静止すると同時に、聴衆が一気沸き立った。


その瞬間、真っ暗だったわたしの脳裏の一部に、何かが閃くように通り過ぎた。

それは風のようであり、稲妻のようでもあり、またあるいは、何らかの手違いでわたしの頭の中に送信された宇宙からの電波信号のようにも感じられた。記憶の中の風のように音はなく、季節外れの稲妻のように稀で、そして宇宙信号のようにわたしの意識とはまったく関係のないところからやってきた外部的なものに感じられた。

しかし、わたしはそれを確かに知っていた。確かにわたしの記憶の中にある過去のもの、あるいはわたしの記憶の中にある1つの心象風景のようなものだった。そしてそれはわたしにとり、はっきりとした形をもつなんらかの意味のあったものらしかった。砂時計の一粒がこぼれ落ちるような極めて小さな一刻の中でも、それは少なからずわたしの心を動かしたのだった。

しかし、次の瞬間には、それはもはやわたしが脳裏の暗闇の中でいくら手を伸ばしても捉えることができないものになっていた。そういうものだということを、わたしは分かっていた。

一片の記憶がどんな脈絡も持たずに突然フラッシュバックすることは、わたしに限って起こることではないことではないだろう。他の者がどれくらいの頻度でそういう経験をするのか、わたしには分からないが、少なくとも、わたしにとってはそれはそれほど珍しいことではなかった。

過ぎ去ったなにかを捉えようとすることを、そのときのわたしは試みようともしなかった。


わたしはわたしの脳裏に唐突にやって来てあっという間に過ぎ去ったそれと、そのあとに残されている真っ暗でシンとした何もない脳裏を思いながら、会場の一部となって拍手をしていた。


彼の指揮は非常に冷静だった。終始平静の表情を崩さず、小さな手振りと目配せだけで楽団に指示を与えた。長い公演を終えても汗ひとつかかず、スーツのノリはまだパリッとしていて、髪も一切乱れていなかった。

それでも、見事な指揮だった。旋律からはあらゆる無駄が省かれ、必要な緊張と迫力が乗せらていた。一貫した彼なりの解釈と精神が宿った物語を、楽団に実現させていた。

演奏が終わると共に会場は破れんばかりの拍手に包まれた。賞賛の叫びが次々と湧くように上がった。我々も強く手を叩いた。

熱狂する聴衆にお辞儀で応えた指揮者は、愛らしい彼の親戚の子どもが郵便ポストに上手に手紙を入れることができた時のように微笑んでいた。カーテンコールは6回あり、彼は6回そんな微笑みを見せた。


夜の六本木の街を生ぬるく湿った風が走り回っている。春の風はいつだって懐かしいような、見知らぬような香りがする。

街を包む一つの巨大な波のような風がいくつもの建物の鋭い角に細かく分割され、気が触れた子どもの妖精たちがはしゃぎ回るかのように、どんなに細い路地も見逃すことなく隈なく街中を駆け巡っていた。

何度も経験したはずの夏を忘れ、ついさっきまで抱かれていた冬の記憶だけが残っているわたしの肌には、暖かくなったと感じられた。わたしにとり32回目の春だった。

「彼の演奏、とてもシニカルに感じられたわ」

19回目の春を迎えようとしている彼女がわたしの隣を歩きながらそう言った。

「彼ならどんな作曲家を演奏しても、あんな感じになる」わたしは答えた。「さっぱりして淡白だけど必ず的を射ているから、そう思うのだろう」

小賢しいほど人懐っこい春風に弄ばれる柔らかな長い髪を、彼女は手でそっと抑えていた。





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