かちゃりと終わりのドアが開いた。三鷹さんが小さな手術室にいつもの白衣姿、スーツ姿とは違う恰好で現れる。ベッドに横たわる私はいちばん気に入っているワンピース姿である。いつもは病院だと意識して来る場所ではなかったのだが、さすがにアルコール臭に満ちたまっしろな空間のベッドに横たわるとなると嫌でもここは病院なのだと意識する。それと同時にかつて自分が入院していた病院を思い出す。ごめんなさい、と心の中で自分に関わったすべての人に謝る。弱い自分でごめんなさい。誰も幸せにできなくてごめんなさい。泣かせてしまってごめんなさい。涙ぐむ目を右手で拭う。想像していたより、怖くて、寂しくて、悲しいものだと思った。

 「まだ、やめられる」

 そばに立つ三鷹さんが言う。本当はやめてしまいたい気持ちもすこし湧き上がってきていたが、首を振る。そんな覚悟で来たわけではないし、きっとここで断ってしまったら、誰かの希望を断ってしまう。もしかしたら三鷹さんも殺されてしまうかもしれない。怖くはないと意思表示するために笑顔をつくる。けれど、それもうまくできなかったようで彼はいつもの不愛想な顔を少し歪ませた。

 「なあ、やっぱりやめにしないか。お前は残酷だ。好ましく思う相手を殺さなければならない俺の気持ちがわかるか。お前の命で助かるものも確かにいる。それは間違いないさ。けれど、それはお前が死んでいい理由にはならないだろう」

 普段ほとんど表情を崩さない彼が今にも泣きそうな顔で感情をこぼした。ずっと我慢していたかのようなガラガラな声だった。また胸が痛くなる。彼が言っていることは間違っていない。私は誰かを不幸にしかできないんだとここへきて実感する。けれど、私だって誰かを幸せにできると証明するならこれしかない。三鷹さんは素敵な人だ。本来なら私なんかを好きになってはいけない人だ。それでも、あえて私は言葉を選んだ。

 「役に立たない人ね。私はこの日のためにあなたと付き合ってきたのよ。あなたが傷ついたってどうだっていいわ。私は自分の結末を自分で選んだだけ。それともあなた、こんな女だと知らずに付き合ってきたの。そうだとしたらとんだばかね。そんな最低な女だって気づけなかった自分を恨んでちょうだい」

 できるだけ、できるだけ冷たい声でいう。声が震えてしまっていないか少し心配だ。思ってもないことを言うのは、なんて難しいんだろう。なんて苦しいんだろう。泣いてしまいそうだ。悲しいのは私じゃないのに。しばし面食らったようにこっちを見ていた三鷹さんは、

 「ああ、そうだな。俺は馬鹿だよ。臓器を公式に移植してもらうことができない子供たちに自分の臓器を提供してやってくれなんていう女がまともなはずがなかったんだ。お前を売り飛ばした金で俺はうまいステーキを食べるよ」

 と、精一杯の皮肉な笑顔であろう顔で言った。ああ、やっぱり私は大根役者だったみたいだ。それでも、やっぱりこの人は優しい。

 こんな素敵な人に愛されていながら、こんな時まで私はあの人のことを考えていた。私は最低な人間で間違いない。

 「じゃあ、もうそろそろお願いします」

 胸の上に置いていた手を体側におろす。

 「ああ、わかった。あの手紙は言われた通り、あの男に届くようにしておく。そのあとの流れも大体お前の希望に添えるようにする。それでいいな」

 まるで仕事のように続ける。彼の心情を思えばそれは仕方のないことだろう。

 「ええ、それでいいわ。ありがとう」

 カチャカチャと麻酔薬を用意する三鷹さんの背中に告げた。目を瞑ってくれ、いう三鷹さんの指示に従って目を閉じる。こんなときでも瞼の裏に映るのは三鷹さんじゃないなんて、嫌な女だと思った。けれど、私は彼なのだ。残酷なまでに。

 「今までごめんなさい、そして、ありがとう」

 これだけは告げておかなければならないと思っていた。三鷹さんにどんなに嫌な奴だと思われたっていい。三鷹さんは注射器を持つ手を止めた。

 「そんな言葉はいらない。それで自分が許されるなんて思わないでくれ。俺はお前を許して忘れてやったりなんてしない。ただ、ほんとうに本心から俺に礼を言いたいなら」

 そこで言葉を一瞬詰まらせた。

 「嘘でもいいから、愛していると言ってくれ」

 掠れた声だった。初めて彼のこんな声を聞いた。思わず彼の表情を見てしまいそうになったが、目を開くことはしなかった。何故人は自分を一番愛してくれる人間をほんとうの意味で愛せないのだろう。自分のことをどう思っているかもわからない人間に固執できるのだろう。わからない。わからないことばかりだ。それでも私はあの人を思わずにはいられないし、綺麗なあの花になりたい。

 私は最後に人生で一番大きな嘘をついて、冷たい針を身体に受け入れた。ぼやけていく意識の外で嗚咽が聞こえた。


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