桜の樹の下には、

 凍るような冬が終わり、まだ肌寒いながらも桜の花が咲く季節になった。ソメイヨシノが公園の遊歩道を彩っている。しかし、小さな公園のため花見客が多いというわけではなく、図書館に訪れる人が景色を楽しんでいるというような感じだ。人が少ない。景色が美しい。淡々とした日々の中に動きをくれる日本の四季は本当にいいものだと思う。愛国心などというものがあるのだとしたら、僕にとってのそれは四季に対してのものだ。そんなことを考えながら歩いていると、隣を歩く彼女が僕に話しかけた。

 「桜、とっても綺麗ね」

 「あぁ。そうだね」

 心の中では非常に感動しているのであるが、そんなことを事もなげに返す。感情表現がそう得意ではないのだ。何を考えているのかと昔からよく聞かれた。自分で説明できるほど人間は単純にはできていないだろうが、というのが僕の持論だ。返事として。明日何味のラーメンを食べるかをいつも考えているよと返すのが僕の中の定番だ。つかみどころのある人間なんかになりたくはない。

 「春。素敵よね。少し肌寒いけれど、この桃色の花びらが敷き詰められた道を歩いていると心まで温かくなってくる気がする」

 彼女はそう言うと、くしゃみをひとつした。

 「温かくなったのは気分だけだろうし、まだそんな格好で外に出るのは寒いんじゃないかな。ほら」

 歩いていて少し暑さを感じたので外して手に持っていたマフラーを手渡す。彼女はいいのかと僕を一瞬見上げたが、僕が目でうなずくと、ありがとう、と言って受け取った。基本的に素直なひとである。ベージュのスプリングコートに薄いアイボリーのワンピースを着た彼女は、その華奢さ、色白さから寒さを感じさせた。

 「家を出るときはこれでよかったのだけれどね。まだ、気温が安定しないものね」

 小さく笑いながら、青チェックのマフラーをその首に巻く。

 「じきに温かくなるよ」

 フォローとも言えない的外れな返事を返してしまう。たまに寂しそうな顔をする彼女が抱えているものは何なのだろうか。ふとした時に気づかされる。もしかしたらそれは、人間には往々にして存在するものであって、僕が彼女といる時間が長いから気になるといった程度のものなのかもしれない。

 「これだけ桜が綺麗に咲いていると思い出すわね。『桜の樹の下には』」

 目を閉じて思い出すように彼女は呟いた。

 「ああ、梶井基次郎、だったかな」

 「そうそう。桜の樹の下には屍体が埋まっている。だからあんなにもうつくしいのだって」

 一編の詩を歌いあげるように言う。

 「桜からしたらなんて迷惑な話だと思うだろうね」

 おちょくるように、皮肉を返す。

 「ええ、そうね。桜からしたら嬉しい話ではないかもしれないわね。でも」

 少し間が空いて、彼女は一つ息を吐いて言葉をつづけた。

 「でも、私は素敵な話だと思うわ。死んだとしても、桜のうつくしさの中に自分が存在できるなんて。そんな幸せなことはないんじゃないかしら」

 言葉にどこか、ひんやりと背中に触れるものを感じて彼女を見遣る。なんでそんなことを言うのか。そう聞こうと口を開きかけて、やめた。なんだか、その答えを聞いてしまうのが怖いような、そんな気がした。

 「お墓に桜を植えたらそれは綺麗な花が咲いて、亡くなった人もみんな幸せに思うだろうね」

 無難な返事を返す。ネタにするように。「血の色で桜の花の色が美しくなるというのに、骨が埋まったお墓なんかじゃ意味がないわよ」

 彼女もけたけたと笑いながらそう返した。そう。これでいい。僕らは近づきすぎてはいけない。踏み入れてはいけない。それはそうだね、ばかなことをいったと笑いながら謝る。しょうもないことを大真面目に考えて話をしているうちに僕らはなんだかおかしくなって、ひとしきり笑った。そこで、ピリリリと携帯電話の音が響く。彼女がスプリングコートのポケットから携帯電話を散りだす。

 「もしもし。あ、三鷹さん。ありがとう。それじゃあこれからそちらに向かうわね。うん、うん。わかりました。ありがとう。また後で」

 そう一分ほどの会話を交わして電話を切る。最近は三鷹という男が彼女を迎えに来ることが多くなった。彼氏にでもなったのだろうかと、そう推測していたが特に他の男の名前を聞かなくなったわけでもない。お気に入りというやつであろうか。自分にはさして関係のない話であるし、どうだっていい話だ。瞑目して、春の空気を一息吸った。

 「それでは、そろそろ失礼するわね。今日もありがとう」

 そう言って彼女は手を振り、公園の出口へと足を進めていった。相変わらず、小さな背中だ。

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