エピローグ②

 例の騒動から一週間が経過した休日の事である。

 私は平日いつも朝七時に起きるようにしているが、休日ともなると時間内に学校に行く必要がないので平日より一時間遅く起きるようにしている。ただし、この起きるとはベッドから起き上がって活動を開始する時間の事である。人間はよく出来たもので、実際には習慣通り朝七時に一度私は起きるのだが、それでは折角の休日が勿体無い。故に私は休日の醍醐味を味わうべく、一時間、殆ど必ずと言っていいほど二度寝を敢行するのだ。

 その日も同じように私は二度寝というあまりにも堕落的な快楽を貪ろうとしていた。理性がまるで働いていないため、にゃんくるないさー、などと頭に浮かんだとりとめのない言葉を寝言として適当に口ずさみながら享楽に耽っていたのだが、その時、ぶぶぶ、といつ聞いても不愉快極まりないあのバイブレーションが耳の穴を通して私の脳内に響いてきたのだ。

 桃源郷からいなごに稲を食い尽くされた荒野に放り出された気分だったが、無視するのも気が咎めるので、仕方なくのっそりとベッドのサイドテーブルに置いてある携帯に手を伸ばした。

「はい、もしもし」

 こんな朝早くに電話をかけてくる非常識さを罵るような口調で私は言った。しかし、電話の相手はそんな事を気にもしないという風に、朗らかな口調で語りかけてきた。

「もしもし、上原なんだけど、あさひって今日暇だよね?」

 当たり前のようにかけて来た、その唐突な電話主に私は一瞬硬直する。

「ねえ、あさひ、あさひさんよーい」

「……今度は何企んでるの」

「別に何も企んでないけどー」

「そうなの。じゃあ私寝るから」

「ちょ、ちょっと待った」

「何さ、いきなり。私は忙しいの」

「二度寝に?」

「そう。睡眠も貴重な仕事なのよ」

「でも惰眠はね、物事としての優先順位は低いものよ。午睡、朋友の招きに遠く如かず、ってね」

「初めて聞いたわそんな言葉」

 私は言って、欠伸をした。

「寝てもいいけどその場合、携帯のバイブレーションが鳴り止まない事になるわよ。果たしてそんな状態で安眠出来る程、貴方は二度寝の達人なのかしらね」

「止めてくれ。分かったから」

 私はベッドから飛び起きた。バイブレーションが鳴り続けるなんて考えただけでぞっとする。そして冗談とも思えない。何故なら、この上原言也はそんな非常識な事をやってのけた前科があるからだ。

「それで、どうすればいいのさ」

「うん、秘密基地で待ってるから」


       〇


 上原さんとはあの件以来、まともに言葉を交わしていなかった。全く無かったわけではないが、話す事といえば事務的な連絡事項ばかりで、それ以上の談笑は無かったと記憶している。元々しょっちゅう話すような仲でもなかったし、今更だとも思ったが、あんな事があったにしては少々ドライ過ぎるような気がしないでもない。いくら私が人の心の機微を察する事に疎くても、その辺りに多少なりとも思う事が無かったわけではない。

 上はランニング用のライトブルーのジャージ、下もこれまたランニング用の黒のホットパンツ、そして財布やら携帯やらを入れたウエストバッグという軽装で私は家を出る。別に服装は指定されていないのであるから、これで十分であろう。

 外は白と青のコントラストが映える青空。空に立ち上る入道雲を私は見上げる。世界は気の早いもので、既に夏へと衣替えを始めているようであった。

 歩くこと十数分、間もなく秘密基地のある裏山鳥居へと私は辿り着いた。そのままいつもの通りの道を辿って秘密基地へと赴く。まだあのけたたましい鳴き声は聞こえないが、途中見かける木々やそこここに生える雑草の緑がはっとする程鮮やかで、これからやって来る季節はやはり生命の躍動する時期なのだと思い知らされる。

「あ、やっと来た。おーい」

 ようやっと秘密基地へと辿り着いた私に、かつての美少年、今は美少女――だろうか――は元気良く手を振った。私は少し呆れながら手を軽く振ってそれに答える。

「いきなり秘密基地なんて、どういうつもり?」

 私は上原さんに尋ねながら改めて彼女を見ると、白のノースリーブに青のスカートという姿である。その姿からは、かつて彼女が男を装っていたという事実を微塵も想像できなかった。

「別に、改めて話をするならここがいいかなって思っただけ」

「話って、何の」

「他愛も無い話よ」

「ふうん、他愛のない話ね」

「何? じろじろと見て」

「いいや。私と貴方は元は同一人物なんだって実感湧かなくてね」

「うん、同一人物ではあった。でも私は私だよ。元は菅原あさひだったけど、今は上原言也なの。もう貴方とは違う、貴方とは異なる人生を生きてる一人の人間。だから、もう一人の自分がいるとかなんて考えてるならとんだ見当違いよ。大体、貴方と私とじゃ性格が全然違うじゃん」

「へいへい、左様でございますね」

「ほら、そういうシニカルな態度とか正にそう。私はそんな擦れた態度取らないよ」

 この、言わせておけば。そう思ったが、ここでムキになっては相手の思う壺なので、一旦耐える事にした。

「ねえ、もう変な事しないわよね」

 私は上原さんに問いかけた。

 そうすると、上原さんは不敵な笑みを浮かべる。そしてその笑顔が何を意図しているのか、私にはすぐ理解出来てしまった。

「さあ、どうかしらね。でも、折角この世界に生まれて来たのに、波風立てないで生きるなんてつまらないわ」

「そう思ってるのは貴方だけよ。何も起きない方がいいって人間の方が大多数に決まってるわ」

「そうかな」

「そうよ、そうに決まってる」

「どう思う? なっちゃん」

「えっ」

 振り返るといつの間にいたのか、森須さんが片手を腰に当てて立っていた。

「そうですね。慎ましく生きるのはいい事だと思います。欲や誘惑に踊らされていては、人間というのは人生の足元すら覚束なくなりますからね。ただ一方で、やはり人間の人生には多少の刺激が必要不可欠ではないかとも私は思います」

 森須さんは当たり障りのなさそうな事を言った。薄っすらと縦線の入った半袖のワイシャツに清涼感の溢れる水色のベストを着ているが、ひょっとしてこれはクールビズというやつなのだろうか。

「しかし、懐かしいですね。昔ここで遊んだのでしたか」

「なっちゃん、何でここに」

「おや、私がここに来てはいけないのですか? 確か私の記憶では、自分も秘密組織の一員だった筈なのですが」

「そういう子供みたいな事、よく恥ずかしげなく言えますね」

「まだ辛うじて子供ですから。それと、学校ではともかく、ここでは敬語はやめてください。なんだかよそよそしくてそわそわします」

「む、分かった」

「あさひさん」

「何だ、なっちゃん」

「少しは、昔の自分を許せるようになりましたか?」

「さて、ね。でもま、他人に振り回される気持ちも少しは分かったよ」

 私の口から、心ならずもほんの少しだけ笑みが零れた。それを見た森須さんは、「そうですか」と言って目を細める。

「それでこそ、骨を折って苦労した甲斐があったというものです」

「ま、それで駄目なら次の手を考えるまでだったんだけどね」

 上原さんはにんまり笑う。

「またそんな事を考えて。貴方が一人の人間だって言い張るんなら、学生としての本分ってもんがあるでしょ。今は違う人間だといってもベースは菅原あさひだ。流石に学業そっちのけで何かしたりないわよね」

「勿論だよ。っていうか、今のとこ君より成績が良いと思うのだけど」

「あ」

 指摘されて私は気が付いた。そういえばこの男……ではなく女、先日のテストの成績は私より上だった。

「おのれ、何で黙々と勉学をこなしている私より不毛な事に精を出しているあんたの方が上なんだ」

「そんな事言われても、ねえ」

 上原さんは傍にいた森須さんに語りかけると、彼は窮屈だとでもいうように肩を竦める。

「中空飛行の私にしてみれば、お二人の成績の良さはどちらも眩しいものがありますよ。五十歩百歩、どんぐりの背くらべですね」

 意外だ。この男、勉学も学年トップクラスかと思ったらそうでもないらしい。ただ、親しみやすさを出すために敢えてそうしている可能性もあるから油断できまい。愈々大学受験となった暁にはぐんぐん成績が鰻登り、気が付けば学年トップなどがあっても別に可笑しいとは思わない。それよりもちゃんちゃら可笑しな地位をこの男は築いているのだから。

「まあでも、今の所は大人しくしているつもりだよ。おっしゃる通り私も一人の人間であり、一介の学生に過ぎないからね。遊んで呆けてばかりで人生を台無しにしたくない」

「そうして頂戴。そして永遠に変な事を考えないで頂戴」

「とか言って、内心期待している癖に」

「なわけあるかい!」

 ペースに載せられている気がする。私は冷静さを取り戻すために腕を組んで顔を背ける。

「ま、気が向けば何かするかもね」

「はあ?」

 私は森須さんの方を見た。森須さんはやれやれとばかりにまたも肩を竦める。やれやれではない。

「さっき言ったでしょ。波風立てないで生きるなんてつまらないって。悔しいなら、自分で何かしてみたらどうかな?」

「私はそこまで子供ではない」

「あら、そう」

「でもね、売られた喧嘩を買わない私じゃないのよ。宣戦布告なんてしようものならね、私はヒルデさんや皆を焚きつけて貴方の計画とやらを全力で潰しにかかるから」

 私は力強く言った。しかし気の所為だろうか、そう言った私の声は少しだけ弾んでいたようにも思えた。馬鹿な、他人を巻き込もうとしているのに、それを楽しそうだと期待したのか? 私が?

 それを聞くと、上原さんは口角を上げながらこう言った。

「そう、それは楽しみね」

 視界の端に、今では見慣れた三人の人影が映った。

 その時、多分これはそういう事だろうなと私は理解した。

 馬鹿野郎。やっぱり何か企んでたじゃねえか。

 

 私は今にも落ちてきそうな彩度の高い大空を見上げた。

 まだ梅雨は明けきらない、しかしなんと晴れ晴れとした青空よ。これは夏に備えての地球の予行演習なのだろうか。

「青春、ねえ」

 私は誰にも聞こえない位、ぼそりと呟いた。




 もうすぐ夏がやってくる。

 もしかしたら、今年の夏は騒がしい事になるかもしれない。

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菅原あさひの愉快な陰謀 安住ひさ @rojiuraclub

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