2章・第5話 少女妖怪③

 今を遡る事数ヶ月前。つまり、千道さんが高校に進学する前の事であった。千道さんの実家は天狗らしく山の上にあった――人間に目撃されないのは、鬼道だか何だかで隠しているかららしい――のだが、その実家でなんと千道さんの祖父が腰を抜かして驚いてしまった事があった。その訳を彼女が聞いてみるに、どうやら自分が書き溜めて来た大事な文書が無くなってしまっていたらしい。

 その名も『筑前通史』。千道さんの祖父は泣く子も黙る大天狗で、それはそんな彼がちまちまと書き溜めて来たものだという。内容はというと、およそ千年前から今までの市内周辺の歴史について書かれているものであり、それだけ聞けば歴史の研究者がこぞって押しかけて来そうなものだが、千道さん曰く、多分に思い込みが混じっているので、歴史書としては当てにはならない、通俗小説のような出来との事であった。

「お爺ちゃんを悪く言うわけじゃないっちゃけど歴史書としての価値は低いんじゃないかな。でも、あれってばお爺ちゃんの大事な物の一つだし、現在進行系の作品だからねー。孫の私としては何としても犯人を見つけて折檻、じゃなくて通史を奪い返したいとよ」

「成程ね」

「んで、普通の人間じゃそもそも私の実家に入り込む事なんて出来っこないけど、魔法を使えるヒルデさんなら私達に気付かれる事なく通史を盗む事が可能なんじゃないかって思った」

「いいえ、何度も言いますが、私は本当に知りません。確かに、それを証明しろと言われると困ってしまうのですが、でも、その書物については私も初めて知りましたし、そもそも、私がそれを盗んで一体なんの得があるのでしょうか?」

「んー。そう言われるとまあ、あんなもの手に入れてもどうしようもないんだけどね。こういう考え方も出来るじゃん。スフィア? だっけ、それを返してほしくば爺ちゃんの本を盗ってこい! って」

「それは、そうなのですが」

「あのー、千道さん」

 私の声に千道さんと、ヒルデさんも振り向く。ヒルデさんは、まるで助けを求める捨てられた子犬のような目をしていた。やめてください、私に子犬を拾って育てる余裕はないのです。

「それって変じゃない?」

「え、なんで?」

「だってさ、異世界からなんかそれなりに大それたお宝を持ち出せるような輩がなんでわざわざヒルデさん脅して物盗らなきゃいけんのよ。異世界行く位の芸が出来るんだったら、私なら自分でさっさと盗みにいくかな」

「う、た、確かに」

 千道さんは痛い所を突かれたように目を伏せる。とはいえ、私の言った事も絶対ではない。犯人が単純に愉快犯的な奴で、ヒルデさんを焚き付けた方が面白いと考えているのだとしたら、私の言っている事は破綻する。しかし、今必要なのは真実がどうかではなくて、千道さんを納得させる事だ。

「ま、まあそうだね。そうかもしれない」

 意外にも、千道さんはあっさりと認めた。そして、ヒルデさんの方に向き直ると、

「疑ってごめんね。なんかあまりに糸口が見つけられんでさ、気が焦ってたんかも」

 そう言って頭を下げた。

「いえ、誤解が解けたなら大丈夫です」

 ヒルデさんは聖母のような、観音菩薩のような笑みをその顔に浮かべた。まだ交流が始まって間もないが、この人の懐の大きさは太平洋に匹敵し、その深さはマリアナ海溝も霞んでしまう程なのかもしれない。この人は怒るのだろうか。見てみたい気もするが、仏が明王に化けるという事も有り得るから、やっぱりそんな気にはなれない。

 ふと、私はある事に思い至った。

「あれ、さっきの話聞く限り、私って無関係じゃないかな」

「あ、そうだった」

 思い出したように千道さんは私の方を向く。

「貴方が無関係じゃないって話だけどね、理由は二つあるんだ。一つはこれ」

 そう言って、千道さんは上着のポケットから大雑把に折り畳まれた紙を差し出した。それを広げて、私とヒルデさんは「あっ」とシンクロするように同時に声を漏らした。


   筑前通史はいただいた

   有効活用してやるから楽しみにしているが良い


   くじずらせ

   菅原あさひ


   ディオゲネス倶楽部より


「実はさ、盗まれた場所にこんなのが置かれてたんよね。で、この文書を手に取った時、貴方と思しき子の声が私の頭に響いてきた。『秘密基地へ集合しなさい!』だったかな。これらを鵜呑みにすると菅原さんも容疑者なんだけど、でもま、同じ部で顔を突き合わせる可能性もあるのにこんなあからさまな事やるの可笑しいし、私の直感的に貴方が犯人じゃなさそうだな、とも思ったけん、後回しにしとったんよね。一応確認するけど、違う?」

 千道さんは投げ槍のように問いかける。

「いや、言っておくけど私じゃないからね。私だったら、こんなあからさまに足がつくように名前を書かない」

「ふーむ、筋が通ってるし、やっぱり嘘を言っているようにも見えない。じゃあ誰が」

「菅原さんに罪をなすり付けようとしている者がいるのかもしれませんね」

 ヒルデさんが言うと、千道さんはヒルデさんを見る。

「屋上の会話を聞いてたなら知ってるかもしれませんが、私も同じような怪文書を持っています」

 そう言ってヒルデさんは小ぶりな薄紅色のバッグから丁寧に折り畳まれたキャンバスノートの切れ端を千道さんに見せた。それは、以前私に見せた怪文書であった。ひょっとして、いつも持ち歩いているのだろうか?

「ご丁寧に私の元いた世界にまで赴いて残されたものです」

「ああ。そいや、書き置きがどうとか」

「ええ。実はあの後も私もあさひちゃんに諸々確認しましたが、あさひちゃんは何も知らないようでした。それに異世界、私のいた世界に渡るなんて事は彼女には不可能かと思います。勿論、私じゃありません。ええとつまり」

「犯人が他にいるって言いたいわけね。そして、その犯人とは菅原あさひと名乗る何者か」

「そうです。その人が何か変わった事が出来るのかもしれません。例えば、透明人間になれるとか」

「ふむ、成程。でもあー、どうやって探せばいいんじゃー。こんな怪文書だけじゃ分からんばい、あほ犯人め」

 そう言って、自分の髪をクシャクシャとしてしゃがみ込む。

「あの、千道さん」

「ふぇい……?」

 千道さんが徐に上を見上げると、ヒルデさんが手を差し出していた。

「千道さん。折角ですから、お互い協力し合いませんか?」

「協力、ですか?」

「ええ、私達はお互い大事なものを奪われた者同士。そして犯人は恐らく同じ人物。なら、個別に探すより協力して事に当ったほうがよろしいかと思うのです」

「た、確かに」

「決まりましたね。じゃあこれからよろしくお願いします」

 ここに至り、千道さんはにやりと笑ってヒルデさんの手を握り返した。

「うん、ヒルデさん。疑ってほんとにごめんね。よろしく」

 何はともあれ話がまとまったらしい。私はもう用済みだろうと踵を返そうとしたが、そもそもここに用とも言えない用があった事を思い出し、再び振り返ったら、二人が私を見ていた。

「な、何か」

「あさひちゃんも一緒にどう?」

 ヒルデさんがまるで遊びに誘うかのような気軽さで言った。

「どゆ事? 何のこっちゃさっぱりなんだけど」

「ええ、だから私達と一緒に犯人探しをしましょう?」

「え、と。ちょっと待って。ヒルデさん、先日言った事と変わってるって。私がどうするかは自由って」

「忘れました」

「忘れたのかよ」

「まあまあいいじゃないの菅原さん。別に減るもんじゃなかよ?」

 千道さんは朗らかに言った。この子はさっきまでヒルデさんを疑ってた癖に、何というフットワークの軽さだろう。天狗のライフステージなど知らないが、彼女は将来きっと男を手玉に取ってお手玉のように転がすのだろう。

「義兄弟の契りみたいで素敵じゃない」

 ヒルデさんは言った。しかし私は女だ、付け加えると、ここにいる三人とも女だ。姦しいの間違いじゃないか。

「桃園の誓いかー。悪くないけど、私的には三銃士がいいばい」

「いやそういう問題じゃなくて」

 偏見だが、どちらも今時の女子高生が使う言葉ではないと私は思う。きっと彼女達の常識は世間一般のそれとは随分と乖離かいりしているのだろう。

 私が思わず後退ろうとするのを千道さんは見逃さなかった。途端、視界から消えたと思ったら彼女は私の背後に回っていて、気が付いたら私は捕まっていた。

「ま、待った。話せば分かる」

 我ながら縁起の良くない言葉を口走ってしまったと思っている。しかし、焦ってしまった人間は思考能力が一段と下がってしまうのだ。中途半端に知恵を持っているものだから人間というのは困ったものである。

 無論、千道さんはそんな弁明染みた台詞で私を離してはくれなかった。

「決めたよ菅原さん。わたしゃ分かったと言うまで貴方を話さない事にした。貴方が分かったと言うまで、貴方が恋人と睦言を交わしている時もヴァージンロードを歩く時もいついかなる時も貴方にしがみつき続けましょう」

「あほか、子泣き爺か!」

「天狗だよ。そいえば、なーんか菅原さんって懐かしい感じがするんよね。これって私の気の所為?」

「知らんがな。ああもう、わ、分かった。分かったから分かった。桃園の誓いでもテニスコートの誓いでも何でもやってやるからー!」

 私は腹に力を込めて高らかに宣言した。

 野となれ山となれ。

 私はもうもうやけくそなのであった。


       〇


 紆余曲折の末、三人によってマイクロフト同盟なるものが結成された。名前は私が適当に言ったものが何故か採用されてしまったが、特に活動方針も具体的な活動内容も無いに等しく、各々が各々で得た情報を共有し、必要とあらば協力して行動し合うという緩い結束と相成った。

 私の名をかたる不届き者は是非とも捕まえておきたいとは私も思っているが、変に行動したからといって決定的な証拠など発見できようもないのだ。そんなこんなで結局相手の出方を窺うという消極的な姿勢を私は続ける事にした。

 しかしである。天というものは私の事をズームして見てでもいるのだろうか。まるで私がこの件から関心を外さないように、次なる出来事を足早に用意してくるのであった。

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