第21話 コックリさん、コックリさん
大学から地下鉄で乗り換えなしの二十分、そこから数分も歩いたところにある神社を彼ら二人は目指していた。軽量なアルミフレームの
十一月も半ばに差し掛かった晩秋の午後、道行く人たちはみなコートやダウンジャケットに身を包むような肌寒さであったが、肩と背中にのしかかるその荷物のおかげでヒロキのシャツはすっかり汗ばんでいた。
男が歩く先に見える交差点の信号が青から赤に変わる。
ちょうどいい、あの信号で少し休めるかも。ヒロキがそう考えたのも束の間、二人がその交差点に差し掛かる前に信号は再び赤から青に変わる。そしてようやっとそこにたどり着いたとき、今度は歩行者用信号が点滅を開始した。
「太田君、急いで渡ろうか」
男はヒロキを振り返ることもなく前を向いたままそう声を上げるなり、パタパタと小走りで横断歩道を渡り始めた。
「ちょ、待ってくださいよ先生。この荷物、シャレになんないですよ」
そう言いながらヒロキも遅れまいと足を速める。やがて二人が目指す神社の前に着いた頃にはヒロキの額は季節外れの汗と熱気ですっかり火照っていたのだった。
「太田君、ここは君の地元だよね?」
「そりゃ同じ市内ですけど、地元ってほどでは……夏祭りのときにチャリで遠征に来たことがあるくらいですよ」
「そっか、それなら土地勘は大丈夫だよな。僕は社務所に挨拶して来るから君はほら、そこの児童遊園から裏手に回って準備を始めてくれ。それじゃ」
男はそう言うとヒロキに振り返ることなくそそくさと小走りで境内への石段を上って行ってしまった。
「ほんとに人の話を聞かないタイプだよなぁ、先生は」
ヒロキは肩に食い込む荷物を「よっ」と一声上げて背負い直すと鳥居の左手に見えるスロープに向かって歩いていく。少し上がったその先は誰もいない遊園地、左に地球儀の遊具を右手に小さな砂場を見ながら奥にあるブランコのそのまた奥に見える踏みわけ道を目指す。そして雑木の茂みを抜けると、そこには整地された空間が広がっていた。
「へぇ――今はこんなになっちゃったのか」
かつては昼なお暗い鬱蒼とした雑木林だったこの場所は、当時の子どもたちにとってまさに冒険の舞台であった。そしてヒロキもまた祭の夜に度胸試しと称して何度か足を踏み入れたことがある場所だった。
以前のここを知るヒロキは背中の荷物を下ろすのも忘れて多目的広場として生まれ変わったこの空間を感慨にふけりながらぼんやりと眺めていた。
「太田君、準備は……っと、どうやらまだのようだね。よし、それじゃとりあえずここでいいや。さあ測定器を下ろしてセッティングを始めてくれ」
社務所に顔を出して挨拶を済ませてきた先生と呼ばれる男はヒロキにそう指示すると自分はショルダーバッグからノートPCを取り出して起動の準備を始めた。
一方でヒロキも測定器と呼ばれた重たい荷物を背中から下ろすとそれを踏み固められた地べたに置いて操作パネルのスイッチをオンにした。
小型のギターアンプほどの大きさの測定器から静音ファンの小さなモーター音が聞こえ始めると、豆球のバックライトに照らされた小さなアナログ式メーターの針がふらりと揺れる。
測定器の準備は整った。ヒロキは先端に小さな電極がついた棒状のセンサーを手にして立ち上がるとノートPCを操作する男からの指示を待った。
「よし、それでは太田君、まずは目の前のそこの茂みのあたりを頼む。そうだなぁ、君の頭の上あたりから左右に流しながら下降させて地表あたりまで」
先生はノートPCから伸ばしたUSBケーブルを測定機に接続しながらヒロキにそう指示した。
PCの画面にグラフが表示され、リアルタイムで数値がプロットされていく。二人は測定を何度か試行してみたものの、計器の針は微かに揺れる程度でそれを誤差としか検知しないPC上のグラフは相変わらずゼロに近い数値を示すだけだった。
「先生、こんな神社の裏庭に何があるんですか。そろそろオレにも説明してくださいよ」
「まあそう慌てるなって。こういう実験はね、こちらの思うとおりの結果にはなかなかならないもんなんだ。とにかく粘りと根性だよ」
そして先生はグラフが示されている画面を一旦リセットしてもう一度計測するように命じると、センサーを動かすヒロキに向かってこの場所を選んだ理由を説明し始めるのだった。
それは今から十年ほど前のこと、当時の新聞記事が伝える。
【未明の神社でボヤ騒ぎ、心中事件か?】
11月3日未明、N市H台の神社裏手から火の手が上がっていると近隣住民から一一九番通報があった。火は一時間程で消し止められたが焼け跡から二体の遺体が発見された。N市署の調べによると付近に放置された車の中から遺書らしきものが見つかり遺体は市内に住む親子のものであることが判明した。父親と見られる側の手に刃物らしき凶器が握られていたことから息子を刺殺しての心中事件と見て調べている。
「と、言うわけさ。そして今僕たちがいるこのあたりがその現場だったってこと」
男はPC画面を流れるグラフに目を落としたまま、まるで他人事のように平然と語った。
自分が立っているこの場所が心中事件の現場だった!
まるでいい気持ちではないものの、それでも平然としていられるのはよもぎや
「空気中の正イオン濃度が人の心に及ぼす影響についての考察」
それがこの先生とよばれる男が書いた論文だった。
男の名前は
しかし今となってはその全てが過去形である。なにしろ現在彼が熱心に追及している研究はオカルトやら神秘主義やらを科学的に分析しようとする、ひとつ間違えば
そして今日、ヒロキは一太に請われてそんなオカルトじみた実験につき合わされているのだった。
相変わらずメーターの針にも画面上のグラフにも変化は見られない。
先生のあの理論はやっぱり思い込みのこじつけだったんだ、そうに違いない。
そろそろ単調な作業に飽きてきたヒロキがそんなことを考え始めたとき、
「太田君、もう一度。そのあたりをもう一度頼む!」
彼が指さしたそこはヒロキが気を抜いてたまたまセンサーを向けたあたりだった。一太の声に驚いたヒロキもそちらに目を向ける。そこには地域の少年団が建てた山小屋風の物置が建っており、そのすぐ脇には手入れすらされていない低木の茂みがあった。
「よし、太田君、一旦計測を止めてくれ。反応があったあたりに移動しよう」
そして二人は一瞬だけだが反応があったあたり、山小屋風倉庫の前に近づいてみた。
「先生、ここらへんで……」
「シ――ッ、静かに。太田君、声が聞こえないか?」
潜めた声で言う一太の言葉にヒロキも耳をそばだてる。
「……さん、……さん、お願い……、お……さい……」
「……さん、……さん」
確かに茂みのあたりから微かに声が聞こえる。ヒロキと一太は顔を見合わせると、とりあえず計測器をその場に置いて声の方向に近づいてみた。
やはり聞こえる、女の子の声だ。二人か、いや三人か。
「コックリさん、コックリさん、お願いします、おうつりください」
「おうつりください」
「おうつりください」
ヒロキの耳には確かにそう聞こえた。三人だ、三人の女の子がコックリさんをやってるんだ。
「祓えないってとても恐ろしいことなのよ」
頭の中に
そうだ、コックリさんなんてやってはいけない。これはすぐに止めるべきだ。
ヒロキが声の方向に進もうとしたそのとき、一太が腕を伸ばしてそれを制した。そしてこの場所で測定するようにと計測器を指差しながら手振りだけでヒロキに命じた。
ヒロキは渋々と計測器の前に立つと再び電源を入れて棒状のセンサーを片手に戻ってきた。同時に一太も計測器の前に置いたノートPCの画面を見つめる。
「ピッ、ピッ、ピッ、ピピピピピ……」
計測器から鳴り出す突然の電子音。アナログなメータの針も激しく振れる。
「やったぞ、やっぱりだ。こういう場には正イオンが分布してる。これがその証左だ。さあ太田君、分布状況を把握して」
そのとき茂みの中から女の子の声が上がった。
「ヤダ――誰か、誰かいるよぉ」
「信じらんない」
「とにかく落ち着いて、指、指を離さないで!」
枯葉や紙がすれるカサカサ、ガサガサとした音に混じって慌てた声が聞こえる。
「ミッコ、大丈夫かな、まだ降りて来てないよね」
「そんな、わかんないよ。ユッコは感じる?」
「ノンコ、ノンコは? 大丈夫?」
「う……うん、大丈夫」
「それじゃ、せ――のだよ、いい?」
続いて三人の揃った声が聞こえた。
「せ――の!」
その声を合図に
「君たち、心配しないで。僕たちは決して怪しいもんじゃない。今、ちょうど実験の最中だったんだ。とにかくそっちへ行きたいんだけどいいかな?」
そして茂みの前にしゃがみこんで続けて声をかけた。
「僕は
少女たちは警戒してながらも恐る恐る茂みの向こうから顔を出した。一太はその顔に笑みを浮かべながら茂みに近づくとポケットから名刺を取り出して三人に手渡す。
「博士(理学) 尾野 一太」
名刺には学位と名前に加えて一太のメールアドレスと携帯番号が記載されていた。一太は名刺を配りながらその傍らでセンサーを片手に立っているヒロキのことも紹介する。そして困ったように顔を見合わせる三人に向かっていささか早口でまくし立てるように続けた。
「僕は今、空気中の正イオンが人間に与える心理的影響に関する研究をしているんだ。ちょうど今の君たちのあたりで、その、正イオンが検出されて……と、とにかく、一度研究室に来てもらえないかな。そして今の、そのコックリさんと言ったっけ、それをもう一度やってもらいたいんだ」
三人の少女は手にした名刺と一太の顔、そして心配そうな顔で立つヒロキの顔をかわるがわる見くらべている。そして一太は期待と軽い興奮でより饒舌となって自分の研究のあらましを語り出す。
いくらなんでも大学でコックリさんなんて、教授が許可するんだろうか。そんな突然の展開にヒロキの心の中には一抹の不安がよぎるのだった。
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