第三章 ドクター・オノ

第20話 とある深夜の研究論文

 秋津あきつ映子あきこは後悔していた、なぜこのルートを選んでしまったのかと。

 時刻は午前一時を回っていた。終電でI市K町駅のホームに降り立ったのが午前〇時五五分、そのまま人の流れに乗って駅前の商店街をまっすぐに進めばよかったものを、何を思ったのか映子はまるで何かに引き寄せられるかのように線路沿いの裏道から南に分かれる細道を選んでしまったのだった。

 確かにあのときはまだこの道にも人の姿はあった。しかし最初のT字路に差し掛かる頃にはすっかり誰もいなくなってしまった。そして今、この薄暗い夜道を歩いているのは映子ただひとりになっていた。

 夜風にかじかむ手をカーキー色のトレンチ風コートのポケットに差し入れて、映子は少しだけ歩く速度を速めた。


 パンプスの靴音が冷たい街路灯の下でコツコツと響く。あのT字路を左に、曲がってすぐの路地を今度は右に入れば自宅のマンションまではもう間もなくだ。

 しかし問題はその路地だった。左手に並ぶアパート群、右手にはこのあたりでも有名な広い敷地を持つ家の庭を分けるブロック塀、その塀の中から向かいのアパートに迫らんとするほどの勢いで鬱蒼とした常緑樹が頭上を覆っており、おかげで数少ない街路灯の明かりが遮られているのだ。

 そうだった、あの道は真っ暗になるんだった。やっぱり少し遠回りでも商店街を抜けてくればよかった。

 映子あきこは今さらながら自分の判断に後悔の念を抱くのだった。


 さあ、そこを曲がればもう間もなく常緑樹の闇が訪れる。しかしその数メートル先には街路灯に照らされた舗道が、そしてそのまた先には人の気配はないものの商店街から続く道も見える。そう、たった数メートルのことなのだ。そして闇の向こうの白く照らされたあの路地を曲がれば自宅マンションまでもうすぐだ。

 晩秋深夜の冷え込みだけではない薄ら寒さにコートの襟を立てなおすと、映子は気を紛らわせるためにここ最近の出来事を振り返ってみた。


 研究室の同僚が教授からいきなり謹慎を言い渡されたのはつい先日のこと。おかげで映子あきこは彼の尻拭いをするハメになってしまったのだった。

 自分の研究に加えて軌道計算システムの運用管理なんて門外漢な作業までしなければならないなんて。幸いプログラミングに強い後輩が協力してくれてはいるものの、それでも本来の研究に集中できないここ数日の状況に映子はすっかり辟易していた。


「まったく、尾野おの君ったらなんだってあんなオカルトじみたことを。あの素晴らしいシステムを構築した人とは思えない変わりようだわ」


 ほとんどボヤキに近いそんな思いでも、考えてさえいればあの闇をやり過ごすには十分だった。


 やがて頭上をざわざわとした枝葉が覆う。ここから先、映子あきこは余計なことは考えずに暗がりの向こう、明るく照らされた先だけを見つめて歩く。

 闇の向こうに見える映子の曲がるべき路地、せめて酔っぱらいでもいいからあそこから誰か出て来てくれればいいのに。映子がそう考えたそのとき、その思いを見透かしたかのように路地から人影が現れた。

 ひとり、続いてもうひとりと現れたその小さな影、にじんでぼやけてはいたものの紺地に白抜きの柄が入ったかすりの着物を着たあれはまだ小さな男の子だろうか。そして少し遅れて三人目、先を行く二人に遅れまいとついてくるのは少し紫がかったかすりを着た女の子に見えた。


 こんな真夜中に子供?

 それに着物だし、裸足だし、いったい何なの?

 もしかしてこれは……見てはいけないヤツかも……ダメ、見ちゃダメ!


 見てはいけない、映子あきこは直感的にそう感じた。視界の右端に感じる、なぜかぼやけて映る一列に並んだ三つの影、それを視界に入れないようにと無理やり意識しながら暗がりのその先だけをひたすらに見つめてまた少し歩を早めた。

 今まさに自分の右脇をかすめるようにランダムな足音がパタシパタシと通り過ぎて行く。そして怪しいそれらをなんとかやり過ごしたものの映子の心にはまだ何か引っかかるものが残っていた。


「それにしてもあの子たち……ダメダメ、考えちゃダメ」


 そして釈然としない何かを心の中から追い出すために映子はとにかく明日の予定、やるべきことを考えることにした。


「そんなことより明日の予定をもう一度考えておかなくちゃ。太田君にプログラムの動作確認をお願いして、そのあとは吾野あがの先生に進捗しんちょくの報告、それと……」


 そのとき映子あきこは妙な違和感を覚えた。

 何かがおかしい、何かが……そうだ、足音だ、あの子たちの足音が聞こえないではないか。

 それに気づいた瞬間、肩から腕、脇腹から腰、そして映子の全身を痺れにも似た寒気が包み込んだ。


「逃げなきゃ、急いでここから」


 映子が不穏を察したとき、そのいやな感覚は腿から膝、そしてつま先にまで達していた。そしてついには金縛りとなってその場から一歩も動けなくなってしまった。

 声を上げたくとも舌は痺れアゴも固まっている。手も足もまったく動かない。とにかく首だけでも回りさえすればなんとかなりそうなのにそれすらもかなわない。

 せめて誰かが通りかかってくれれば、しかし真夜中の住宅街でそれは望むべくもないことだった。


 やがて映子あきこの心が冷たい恐怖で十分に満たされたとき、突然左肩に重たい衝撃を感じた。突き刺さるような痛みとともに上体がぐらりと揺れる。

 間髪入れずに再び衝撃。今度は腰の下、右の骨盤だった。骨を伝わる振動で映子の右ひざがガクガクと笑い出す。そしてその場に崩れ落ちる。スローモーションのような情景の中、暗がりに青白い閃光を感じたとき、倒れゆく映子の腰に再び強い衝撃、それとともにそのまま数歩先まで跳ね飛ばされた。

 頬にアスファルトの冷たいざらつきを感じる。近づく気配はおそらくあの三人のものだろう、とにかく逃げなくちゃ。既に金縛りは解けているものの、しかし今喰らった三発の衝撃のおかげで映子の身体からだはすっかり動かなくなっていた。


 倒れたままの映子の耳に近づく気配とともにカサカサとした紙の音が聞こえた。薄れゆく意識の中、映子が最後に目にしたのはやけに白く見える一枚の紙きれが目の前にはらりと落ちる光景だった。

 微かに届く街路灯の光の下、書かれた文字だけがやけにはっきりと目に映る。


「正……イオン……正イオン、それって……まさか……」


 映子あきこの意識はそこで途切れた。

 三つの影が倒れた映子を囲んでその顔を覗き込む。


あにぃ、大丈夫か、やり過ぎじゃあねぇか」

「でぇじょうぶ、急所はぁはずしてる。骨のしびれぇおさまりゃ立てる」


 兄ぃと呼ばれた影が映子あきこに微かな息があることを確認すると、周囲の気配に用心しながら音もたてずにブロック塀に飛び乗る。するとそれに続いて二つの影もその後を追う。そして三つの影は軽やかに塀を伝ってその向こう、常緑樹の闇の中に消えていった。



――*――



 舗道に覆いかぶさるように生い茂る常緑樹が街路灯をすっかり包み隠した暗がりの中、ひとりの女性が倒れているのが見えた。

 淡いグレーのオーバーコートに身を包み、その腕に一匹の猫を抱いた銀髪の女性が速足で駆け寄る。

 抱かれた猫は女性の腕からするり飛び降りると冷たい舗道に倒れた女性の周囲を伺う。それに合わせて銀髪の女性もしゃがみこんでその顔を覗き込む。街路灯の白い光に照らされて深いエメラルドグリーンの瞳がきらりと輝いた。


「キジ丸様、いかが致しましょう。やはり警察に……」


 すると猫は尻尾をゆらゆらさせながら銀髪の女性に向かって人間ヒトのように言葉を発した。少しばかり甲高い声で命じるように言う。


ギンよ、警察はやめておけ。それよりすぐに救急車だ」


 ギンと呼ばれた女性はコートのポケットからスマートフォンを取り出すと一一九番をコールした。電柱広告に書かれた住所表示を見ながらテキパキと居場所と状況を伝える。


「……それではお願いします」


 ギンは電話を切るとキジ丸を再び抱きかかえようとした。そのとき、倒れた女性の傍らに一枚の紙きれ落ちていることに気付く。ギンはそれを手に取ろうとしたがキジ丸から厳しく止められた。


「迂闊なことはするな。オレたちの役目はここまでだ。さあ、厄介事に巻き込まれる前に立ち去るぞ」


 そして再び抱きかかえようと自分に手を伸ばすギンに向かって「このまま行くぞ」と命じた。


「しかしキジ丸様、お身体からださわります」

「大丈夫だ、問題ない。むしろ今は人目につかないようにすることだ、急げ」

「承知しました」


 ギンはその場でキジ丸に向かって頭を下げるとすぐさま銀色の被毛が美しい猫の姿に変化へんげした。そしてキジ丸とギン、二匹の猫は目の前のブロック塀に軽やかに飛び乗って闇の向こうに消えていった。



 冷たい夜風がアスファルトの上を這うように流れる。それは倒れた映子あきこの首元で小さな澱みとなって落ちている紙切れをその喉元に貼りつかせた。

 今、闇の向こうから届く明かりを受けて紙に書かれた文字がぼんやりと浮かぶ。


「空気中の正イオン濃度が人の心に及ぼす影響についての考察」


 研究論文の一部であろうその紙切れはまるで何かのメッセージであるかの如く、風に吹かれてハタハタとはためいていた。

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