第16話 行ってはいかんのじゃ!

「それにしてもまいったなぁ……イベントのときには気がつかなかったけど、この神社、拝殿の周りに身を隠せるような死角がないじゃないか」


 高台たかだい稲荷神社、崖線上にあるこの神社にはその名が示す通り稲荷神が祀られているのだが、崖下の向こうを流れる川を鎮める役割もあったからなのだろう、拝殿はそれを見下ろすように北を向いている。そのため境内へ至る石段も鳥居もすべてが北を正面として配置されていた。

 一方で神社の南側には高台の落ち着いた住宅街が広がっているが、そこに佇むこちら側の門は拝殿の裏手を臨む裏門といった趣だった。そしてヒロキは今、途方に暮れた顔でこの裏門の前に立っていた。

 ヒロキは芹澤せりざわさんなる人物を遠目からでも事前に確認しておこうと早めにやって来たのだが、しかしここからでは待ち合わせ場所の鳥居はおろか拝殿の正面に鎮座する一対の狐すらも見ることはできなかった。

 腕時計に目を落とすと約束の午後三時までにはまだ時間はある。それならばこちら側から鳥居の周辺を確認できるポジションを探ってみるか。そんなことを考えながらヒロキは土の地肌の上に無造作に並ぶ敷石の導線を追って歩いて行った。


 拝殿の裏手から小さな境内の左右に回り込んで待ち合わせ場所の鳥居が見える位置を探してみる。しかしそれは容易なことではなかった。境内の片隅にはすっかり水が枯れ果てた手水舎ちょうずやがあるが、それは鳥居の目と鼻の先、まるで身を隠せるような代物ではなかった。

 こちらからは伺い難いが向こうからはこちらが丸見えというこの構図、もし何か意図があってのことだったならばそれは見事な作戦だった。


 芹澤さんはまだ到着していない。自分以外の人影も見当たらない。ヒロキは何もできないまま落ち着かない様子でチラチラと時刻を気にするばかりだったが、何度目のことだったろうか腕時計から再び拝殿に目を向けたそのとき、誰もいなかったはずの鳥居の前にこちらに背を向けて立つ女性の姿があった。


「あれ、あの人、いつの間に? てか、あの人が芹澤さんなのか?」


 ヒロキは女性の視界に映らないよう注意しながら遠巻きに様子を伺ってみた。

 女性は鳥居の前で拝殿を背にして正面の石段を見下ろすようにして立っていたが、凛として佇むその横顔をかろうじて観察することができた。色白で鼻筋の通った端正な横顔、十分に手入れされた軽くウェーブのかかった長めの髪、それをダークブラウンの髪留めで後ろに束ねている。

 見たところ落ち着いた品のある初老の女性であるが、それにしても気になったのは彼女の出で立ちだった。黒のワンピースに同じく黒のハーフジャケットを羽織り、足には踵が低めの黒いパンプスというそれはまるでフォーマルウェアのように見えた。


「何をボヤっとしているのじゃ。彼奴あやつはこちらに気付いておるぞ」


 ヒロキの頭の中に突然に九尾きゅうびの声が響く。


「可憐もあれだけ言っておったじゃろうに、れはまんまと引き寄せられおって。わらわも見過ごすわけにはいかん、よもぎを連れて追ってきたらならば、なるほど案の定じゃ」

「引き寄せって……誘導されたのか、オレ」

「どうじゃろうな。とにかく今は彼奴あやつの出方を見るのじゃ。ところでよもぎ、おいよもぎ」


 ヒロキの頭の中で九尾が何度か呼びかけてみたが気配は感じるもののよもぎからの応答はなかった。

 ヒロキと九尾の会話は声に出すことはなかったが、それでも気配を感じ取ったのか今までじっと正面を見つめていた女性がゆっくりとこちらに顔を向けた。

 しかし何かがおかしい。女性の身体からだは正面を向いたまま顔だけがゆっくりとこちらを向いている。そして顔の後を追うようにして首から下もゆっくりと回転してこちらに向く。不気味なその動きにヒロキは女性から視線をはずすことができなかった。


「太田さんでいらっしゃいますね?」


 女性は無表情な顔の下半分だけで薄い笑みを作って小さな会釈を返してきた。その異様な雰囲気に、まるで蛇に睨まれたカエルのごとくヒロキはその場から動くこともできず、少しばかり引きつっているであろう形式的な笑みを浮かべて軽いお辞儀をするのが精一杯だった。そして女性はその場から動くことなく続けた。


「このたびはわざわざお呼び立てして申し訳ございませんでした。私、芹澤と申します。初めまして」


 女性は深々と頭を下げる。それに合わせてヒロキも「太田です」と名乗って頭を下げる。そして緊張の面持ちでヒロキが再び頭を上げたとき、芹澤さんの視線はヒロキではなくヒロキが立つその向こうを見つめていた。ヒロキは芹澤さんの視線を追う。するとそこに学校の制服姿のよもぎが立っていた。

 よもぎもヒロキではなくその向こう、鳥居の前に立つ芹澤さんを見つめていた。ヒロキはよもぎに声をかける。


「よもぎ、どうしたんだ。よもぎ」


 しかしよもぎはヒロキの呼びかけに答えることなく芹澤さんを見つめ続けていた。そして小さな声でぼそりとつぶやいた。


「お……母さん……」


 芹澤さんはその小さなつぶやきを聞き逃さなかった。冷たく見えた顔が満面の笑みに包まれる。


「よもぎちゃん? 本当によもぎちゃんなの? ううん、夢でもいい、夢でもいいの。ママは……ママはずっとずっと、もう一度よもぎちゃんに会いたいって思ってたの」


 芹澤さんは白いハンカチーフを手にするとそれを目がしらにあてて涙を拭う。


「ごめんなさいね。ママはうれしくて、うれしくて……」


 そして顔を上げた芹澤さんの表情は母親らしい暖かい微笑みに変わる。


「よもぎちゃんのお部屋は今もあのときのまま、いつよもぎちゃんが帰ってきてもいいようにママは毎日お掃除してるの。さあ、よもぎちゃん、ママと一緒におうちに帰りましょう」


 二人の様子に戸惑うヒロキは、よもぎと芹澤さんを交互に見ては何もできずにただおろおろとするばかりだった。しかしよもぎはそんなヒロキの存在など気に留めることもなく、向こうに立つ芹澤さんだけを見てゆらりと肩を揺らせながら一歩前へ踏み出した。


「お母さん……」


 ヒロキの頭の中に再び九尾の鋭い声が響く。


「ヒロキめ、このたわけが! 何をうろたえておるのじゃ。よもぎを、よもぎを止めるのじゃ!」


 九尾の叱咤で我に返ったヒロキはよもぎに「行くな」と何度も呼びかける。しかしその声はよもぎの耳にはまったく届いていなかった。


「え――い、ままよ!」


 その声とともに九尾がよもぎの勾玉まがたまから飛び出した。そしてすぐさまよもぎの前に立ち、両手を広げて仁王立ちになって声を上げた。


「よもぎ、行ってはいかん、行ってはいかんのじゃ!」


 しかしよもぎは止まることなくゆらりゆらりと歩を進める。そして九尾のすぐ目の前までやってくると、他人行儀な目で一瞥すると半透明となって、その小さな身体からだをすり抜けてしまった。


「な、こ、このぉ――!」


 九尾は悔しさに満ちた表情で唇を噛みしめるとなおもよもぎの前に回り込み、両手を広げて再び通せんぼをした。


「よもぎ、目を覚ますのじゃ。行ってはいかんのじゃ!」

「よもぎ、どうしたんだ、おい、よもぎ!」


 ヒロキもよもぎに向かって叫ぶ。しかし二人の声はよもぎの耳にはまったく届いていない。なんとかしなくてはいけない。九尾は意を決して振り返ると芹澤さんを睨みつけながら声を上げた。


れは何者じゃ、なぜによもぎをたばかっておる。まどろっこしいのじゃ、正体を現わさんか!」


 続いて自らのトレードマークであるメイド服のエプロンに手を忍ばせると、そこから赤い鞘に収まった短刀を掴み出した。九尾はそれをすぐにでも抜かんとばかりに身構える。

 九尾を見る芹澤さんの顔から先ほどまでの笑みはすっかり消えていた。代わってその全身からは研ぎ澄まされた殺意にも似た冷たいオーラが発せられていた。そして芹澤さんも手にしている日傘を両手で掴んで九尾からの攻撃を受けんと身構えるのだった。

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