第二章 ママと呼ばないで

第11話 真夜中の啓示

 そろそろエアコンがなくともゆっくり眠ることができるようになってきたある涼しい夜のこと、可憐かれんはベッドの脇に懐かしい気配を感じて目を覚ました。しかしすぐに起き上がることはせずにゆっくりと瞼を開きつつその方向に首を向けてみる。するとそこには深紅に光る瞳でこちらを見つめる大柄な狐の白い姿がカーテンの隙間から漏れる光に照らされてあった。


「シロ、ずいぶんと久しぶりね。元気にしてたかしら?」


 可憐の問いかけに白狐は太く立派な四本の尾をゆらりゆらりと揺らせて応えた。

 自分の身体からだを依り代とするよわい千五百の天狐てんこを可憐はシロと名付けて子供のころから共に過ごしてきた。しかしシロはよもぎとの一件が落着して以降はまるで一線を退いたかのようにただ可憐の中で静かに身を潜めているのだった。

 そんなシロがこうして姿を見せたことに可憐は懐かしさや安堵の気持ちと同時に何かしらの予感も感じるのだった。


「よもぎちゃんと九尾きゅうびがこちらに帰ってきたあの日以来ね。元気そうでなによりだわ」


 シロはもう一度大きくゆらりと尾を揺らすとゆっくりと口を開いた。


「可憐よ。おまえたちが日々精進していること、われは見ておるぞ」

「そうね、よもぎちゃんも九尾もしっかりやってると思うわ。でも……」


 可憐はゆっくりと上体を起こすと、シロの方を向いてベッドの上に正座した。


「そんな世間話のために出てきてくれたんではないわよね、シロ」

「いかにも」


 シロはより一層の強い眼光を可憐に向けた。


「可憐よ。これから起きることについて、お前はそれを見守るのだ」

「見守れって、それってどういうことなの?」

「見守るのだ。お前はただ見守ればよいのだ」

「そんな勿体もったいつけた言い方しないでよ。私やヒロキ、それともよもぎちゃんに何かが起きるの?」


 しかしシロがその問いに答えることはなかった。


「見守るのだ、可憐、お前は見守っておればよいのだ」


 その言葉を残してシロは可憐の目の前からスッと消えてしまった。そして後には憮然とした顔でベッドの上で正座する可憐が居るだけだった。



――*――



「ふふふふーん、ふんふふーん」


 いつもの鼻歌とともによもぎは朝食のためにレタスをさっと洗うとそれを食べやすくちぎって三人分の皿に盛っていく。その隣では九尾きゅうびがトーストのための皿と熱い紅茶のためのポットとカップを用意する。テキパキと準備を進めるよもぎをちゃぶ台の前に座るヒロキは落ち着かない様子で見ながら声を掛けた。


「なあ、よもぎ。オレも何か手伝うよ……そうだ、準備ができたのから運ぼう」


 そう言って立ち上がろうとするヒロキに向かって九尾が食器を並べる手を止めていつもの尊大な態度でニヤつく。


「よい心がけじゃ。ならば今並べた此奴こやつらを……イテッ」


 そんな九尾きゅうびの頭上によもぎがチョップを振り下ろす。そしていつもそうするように叩いたばかりの九尾の頭を撫でながら、


「ヒロキさん、キッチンはよもぎにまかせてください!」


と元気に返すのだった。


 既に入社が内定しているIT企業も大学が夏休みの間はヘルプだなんだと言ってはヒロキのことを呼び出していたが、大学が始まってからはさすがに遠慮しているのかここのところはサッパリ声が掛からなくなっていた。

 大学生活最後の一年、就活を意識してゼミしか履修していないヒロキには試験も課題もなく、週イチで開催される授業のために研究室に顔を出すくらいで、その後は適当に時間をつぶしては可憐かれんと合流する日々を送っていた。そしてこの日も特に何もすることがないヒロキは午後から可憐と待ち合わせをすることになっていたのだった。


 バターをたっぷりと塗った厚切りトーストを一口かじるとヒロキの口の中には香ばしさと軽い塩味が拡がる。それを甘いミルクティーとともに喉の奥に流し込む。続いて殻を剥いたゆで卵に軽く塩を振りながらヒロキはポツリとつぶやいた。


「それにしても暇だよなぁ……いや、暇というより平和なのかな。いやいや、やっぱ暇なんだよな」

「ヒロキよ、れは何をほうけておるのじゃ。暇じゃ暇じゃと言うならばれも少しは精進しょうじんすればよいのじゃ」

「精進って何をすればいいんだよ」

「それは……れも善行を積むとか、その、まあ、いろいろじゃ」

「ところで九尾、お前にはシロみたいな予知だとか誘導だとかの能力はないのかよ。お前だって八百歳だか九百歳だかの妖怪みたいなもんだろ」

「よ、妖怪とはなんじゃ。これでもわらわは神に近い存在じゃ、能力なんぞ……まあ、なくはないが、しかし今はこんな身じゃ、大したことはできんのじゃ」

「そっか……ならばれも精進すればよいのじゃ、ってところか、ハハハ」


 そう言って笑うヒロキに向かって九尾はいまいましそうにトーストをひとかじりすると口をモグモグさせながら言い返した。


「こんな平和ボケしたときこそ足元をすくわれんようにな、ヒロキよ」

「おっ、なんだ、その意味深なセリフは」

「フンッ、なんでもないのじゃ。よもぎと違ってわらわはバージョンダウン中じゃ。わらわの言うことなんぞアテにはならんのじゃ」


 そんな会話によもぎが割って入る。


「でもでも九尾。九尾だってこのあいだ尻尾しっぽが増えたじゃないですか。あれだって立派なバージョンアップじゃないですか」

「まあ……あれは、その、確かに……しかし、しかし、じゃ。あれは九尾0.1が九尾0.2になったくらいのものじゃ。まだまだなのじゃ」

「じゃあ、やっぱ九尾はもっともっと精進しないとだね」


 以前ならば自分一人のための準備が面倒で朝食を抜いていたヒロキだったが、今ではよもぎと九尾の三人で食卓を囲んでいるのがあたりまえの光景になりつつあった。そして週末にはここに可憐が加わり四人での食事である。ヒロキは家庭とか家族とはこのような満ち足りた気持ちになるものなのかと、あらためて実感するのだった。

 そんな緩やかな空気の中、ヒロキは胡坐をかいた膝をポンっと叩きながら立ち上がった。


「さて、午後からはキャッスルで可憐と待ち合わせだし、こっちもチャッチャと片付けるとするか」


 こうして遅めの朝食を終えたヒロキはひと通りの掃除を終えると軽くシャワーを浴び、その後は髪を乾かしがてらに会社や研究室からのメッセージがないかを確認するのだった。


 ヒロキがシャワーに向かうと同時にしろである勾玉まがたまへと姿を消したよもぎと九尾、ヒロキはPCデスクに置いたその勾玉を手に取るとそれを首に掛けながら白く薄ぼんやりと光る勾玉に向かって声を掛ける。


「よもぎ、九尾、行くぞ」


 そしてヒロキはすっかり秋めいてきた10月の風を感じながら可憐との待ち合わせ場所に向かうのだった。

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