第7話 ロシアンブルーの肖像
午後4時、バイトが順調に終わっていつもより早く退社したヒロキと
「ヒロキの話を聞いただけでも、なんだか不思議なお店って気がするわ」
「でも料理はうまいんだ。ロシア料理なんてそうそう食べられるものじゃないし」
「それで? これからいっしょに行かないか、ってことでしょ?」
「そうなんだ、仕事もいい感じにひと区切りがついたし」
「そうねぇ――」
可憐はいたずらっぽく笑うとヒロキの手をギュッと握りしめた。
「よもぎちゃん、よもぎちゃんもいっしょでしょ?」
「もちろんです、可憐ちゃん」
よもぎの声が可憐の頭に中に響く。続いて
「当然ながら
「じゃ、決まりね」
可憐は楽しそうに笑いかける。こうしてヒロキと可憐は雑踏の中、地下鉄駅の階段に消えていった。
――*――
「確かにここだったんだよ。あの格子窓が目印でさ」
そしてヒロキが指さすその先には、作業員の出入りのためであろうシートがかかっていない建物正面の一部から、ヒロキがあのときに見た古ぼけたドアと店を印象付けていたあの格子窓の一部が見えていた。
ヒロキは建物に出入りする職人に声を掛けようとしたが可憐が腕を引いてそれを制止した。
「やめた方がいいわ。作業の邪魔になるだけだし、それに、今のここにはもう何も残ってないわ」
「残ってないわ、って……可憐、何か見えるのか?」
しかし可憐はヒロキに答えることなく建物の周囲をキョロキョロと見渡すばかりだった。
ちょうどそのとき、建物の正面に小ぎれいな作業服に白い安全帽を身に着けた現場監督らしき男性がやってきた。ヒロキはここぞとばかりにその男性に近寄るとその顔色をうかがいながら声を掛けた。
「あの……お忙しいところすみません、ここにあったお店のことなんですけど」
男性は警戒心を漂わせながらヒロキの顔を
「物件のことには答えられないよ。それにここは部外者立ち入り禁止、さ、向こうに行ってくれ」
男性はそう言って建物内に入ろうとした。しかしヒロキは背を向けた男性になおも問いかけた。
「オレ、先週ここで食事したんです。メイドさんがいて……」
すると男性はおもむろに振り返り、ヒロキの目の前で言った。
「先週? 何を言ってるんだ、ここはもうずっと長いこと空き家だよ。その昔は名曲喫茶だかジャズ喫茶だかだったらしいけど、オーナーが亡くなってからは権利関係でモメてそのまま手付かずさ。最近ようやっと問題が解決したんだけど、この古さだ、耐震構造も何もあったもんじゃない。それで解体することになったんだ」
そして男性は建物を慌ただしく出入りする職人たちに目で合図すると、再びヒロキの顔を見て続けた。
「とにかくそういうことだ、きっと君の勘違いだろう。これ以上話すことはないし、なにより現場は危険なんだ。さあ、行った、行った」
男性は建物から出て来た職人のひとりに「ごくろうさん」と片手を挙げながら入口に向かった。しかし、建物の手前で立ち止まると、
「また来やがったな」
と言いながら、速足でツカツカと建物の向かって左手、隣接するビルとの隙間に向かって行った。ヒロキと可憐もその後を追う。そして向かった先には、近づく男性を警戒して薄暗い隙間で身をすくめる猫がいた。
ヒロキと可憐は男性の脇からそっと覗き込む。そこには強い眼差しでこちらを見つめる美しい緑色の瞳があった。その猫は後ろに控える二匹の子猫を
「このやろ、シッ、シッ」
男性は隙間に身を乗り出して猫を威嚇する。すると猫は素早く身を
「どうやらこの建物に居付いてた猫みたいでな。日に何度もこうしてやってくるんだよ。そんなに気になるならあいつらが買い取ればよかったんだよな、ハハハ」
男性は面白くもなさそうにそう笑うと職人たちに声を掛けながら建物の中に入っていった。
ヒロキと可憐は互いに顔を見合わせると小さく頷いて猫たちが消えていった先を探すためにビルの裏手に回り込んだ。すると向かった先には立体駐車場のシャッターと入出庫のための回転台があった。
回転台の右手にはドリンクの自販機が置かれており、その脇には併設のごみ箱が置かれているが、そこは缶とペットボトルに加えて明らかにこの自販機とは関係なさそうなゴミであふれていた。そしてそのごみ箱の脇、そこにあの三匹の猫はいた。
ノラにしては妙に毛並みのよいシルバーグレーの被毛にグリーンの瞳の猫がこちらを真っすぐ見つめていて、その後ろに寄り添うように同じ毛色にブルーの瞳の二匹が身を寄せている。
そんな猫たちを可憐が刺激しないよう注意しながらも興味深げに覗き込んだ。
「この子たちロシアンブルーね。でもそんな猫がノラなんてことあるのかしら」
「心無い飼い主が捨てたのかも知れないな。こんなきれいな猫なのに」
ヒロキが猫たちに手を差しのべようとかがんだとき、それよりも早くよもぎがヒロキの前にしゃがみこんで猫に向かって手を伸ばした。突然のことに猫たちは身をすくめて身構える。そのときよもぎが小さく声を上げた。
「えっ、この猫ちゃんって……コーシカちゃん?」
よもぎは向かって右の後ろで小さくなっている子猫にぼんやりとコーシカの面影を感じた。
「よもぎちゃん! よもぎちゃんにも見えたの?」
可憐の声によもぎはその顔を見上げて小さく頷いた。そう、可憐にも見えていたのだった、この三匹の猫の背後に陽炎のように薄い影となった三人のメイドの姿が。しかし可憐が目を凝らそうとまばたきした瞬間、その影は消えてしまったのだった。
「おい、どうしたんだよ二人とも。まさかこの猫があのメイドだとでも言うのか?」
するとヒロキの
「イテッ! おい、
ヒロキは声を上げてその場にうずくまった。そんなヒロキの突然の声に驚いたのか猫たちは三匹揃って猛然と走り出すと再びビルの隙間の中に消えてしまった。
「なんとなく見えてきた気がするわね」
少しばかりの静寂を破って最初に口を開いたのは可憐だった。よもぎもその言葉に大きく頷く。
「まさか、ほんとにあの猫がメイドだなんて言うんじゃないだろうな」
「その通りじゃ。あの
「そんなバカな……それならあの店は、あの料理は。それに、よもぎも九尾も店を手伝ってたじゃないか」
「結界じゃ。
「化かされたって……九尾、おまえもかよ」
「
「それにしても九尾、おまえ、いつから気づいてたんだよ」
「
「あっ、確かに……」
「ヒロキ、その話、私にも聞かせてよ」
「あ、ああ。実は、あの日はとっても暑くてさ。なのに店の中はやたらと涼しかったんだ。むしろ肌寒いくらいに。それで真夏の8月なのにおすすめの料理がボルシチだろ? でもあの涼しさならそれも悪くないかな、って。それで料理が出てくるまでの間にエアコンを探したんだ」
「まさか、エアコンもないのに涼しかったってわけ?」
「そのまさかさ。それに風すらもなかったんだ。ひんやりしててさ、そう、まるで鍾乳洞の中にでもいるように」
「なによそれ。それこそ真夏の怪談話みたいじゃない」
「断熱膨張じゃ」
今度は九尾がヒロキと可憐の会話に割って入った。
「
「確かに九尾が言うとおり、それはまさに断熱膨張と同じ原理だ。それならばあの涼しさも納得の展開……ってそもそも結界とかあり得ない話だけど、でもなんとなく理屈と言うかつじつまは合う気がするな」
「フン、納得もなにも、
そのときよもぎが猫たちが消えていったビルの隙間を見つめながら心配そうに口を開いた。
「猫ちゃんたち、大丈夫かなぁ……おうちもなくなっちゃうみたいだし」
ヒロキと可憐もよもぎのその言葉を受けて、猫たちが消えていった方に目を向ける。
「ねえ、ヒロキさん。なんとかならないかなぁ」
「私もあの子たちには悪い気は感じなかったわ。助けてあげたいけど、でもノラちゃんに人間が手助けすることがほんとにいいことなのか、難しい問題ね」
よもぎと可憐の話を聞いていたヒロキは思い出したように口を開いた。
「そうだ、キジ丸、キジ丸はどうだろう。あいつならなんとかしてくれそうな気がするんだ」
「ヒロキさん、よもぎは賛成です」
「そうね、猫のことは猫にまかせるのがいいかも。ヒロキ、私も賛成よ」
「よし、さっそく帰りがけにキジ丸のところに寄ってみるか」
ヒロキと可憐はその場を後にして夕暮れの雑踏の中を
「ヒロキよ、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます