第5話 キャッスル古城
いまどきめずらしいフローリングではない板張りの床、手入れに手間がかかりそうなピアノブラックに仕上げられたカウンターの天板も埃ひとつ見当たらなかった。しかしなによりヒロキの目を引いたのは、店の奥に鎮座する大きなスピーカーとその脇の棚にびっしりと詰まったLPレコードだった。
「いらっしゃいませ、三名様ですね。こちらのお席にどうぞ」
カウンターから出て来たクラシックスタイルのメイドが格子窓の前に並ぶ二組のテーブル席のひとつに案内した。エントランス側を背にして重厚なオーディオ機器を眺めるようにヒロキが、その向かいに九尾とよもぎが並んで座る。
「あの……ここは普通の喫茶店でいいんですよね?」
ヒロキの問いかけにメイドは三人を見下ろすことがないように一歩下がった位置に立ってにこやかに答えた。
「はい、お茶と簡単なお食事をお出ししております。みなさんメイド喫茶と勘違いされるようですが、普通のお店なんですよ」
とても美しいエメラルドグリーンの瞳がやさしく微笑む。
「すぐにお
メイドが踵を返すと白いエプロンの下に見えるライトグレーのスカートの裾がふわりと舞い、ビラを配っていたメイドと同じ銀色の短い髪もさらりと揺れた。
「ヒロキ、
「何をって、なんだよ」
「あのメイドじゃ。さては
相変わらず口が悪い
「ほんとに九尾ったらいつもいつも……でもでも、ヒロキさん。きれいですよね、あのメイドさん。それに着ている服もかわいいし」
「よもぎにとってはそこがポイントなんだろ」
「えへへ、わかります?」
そこにメイドが丸盆を手にして戻って来た。メイドは氷水の入ったコップとペーパーナプキンを三人それぞれの前に置くと、続いてメニューが書かれたプレートをヒロキの前に差し出した。
「本日のお食事はこちらです。ボルシチと黒パン、それにロシアンティーのセットです。いかがですか?」
「う――ん、確かに軽く食べたい気分なんだけど、ボルシチかぁ……ん? いや、それもまあ、ありかな。うん、よし、オレはそれにしよう」
「そう言えばよもぎもお腹ペコペコでした。よもぎもお食事にします」
「
こうして三人はそろって本日のお食事をオーダーした。
「かしこまりました」
メイドはその場で丁寧にお辞儀をすると空いた盆を手にしてカウンターの奥に下がっていった。
「ヒロキ、
「いや、その、ボルシチだよなぁ……」
この真夏にボルシチなんて、最初はそう思ったヒロキだったが、これだけ涼しいのならばむしろ暖かい料理のほうがよいのだろうと今は考えていた。
店の中は涼しいというよりもむしろ肌寒いくらいで、にもかかわらずここにはエアコンはおろか扇風機すらも見当たらないことにヒロキは気付いていた。それになにより不思議だったのは、これだけ涼しいにもかかわらず店内は無風だったのだ。それでヒロキはこの店のエアコンがどこにあるのかと店の中を見回していたのだった。
どこか釈然としないものを感じるヒロキであったが、程なくしてメイドがやってきて三人の前に小皿を並べ始めると、その興味は出される料理に移っていった。
さて、どんな料理なんだろう。ヒロキは目の前の皿に目を落とした。まずは黒パン。しかしその皿に載せられていたのはヒロキが想像していたパンとは異なる代物だった。
数ミリの薄さにスライスされた二枚のそれは、いつもヒロキが食べているいわゆる食パンにくらべてきめは粗く、しかし密度はずっと高く見え、なおかつしっとりとしていた。
そのときヒロキは思った。いくら喫茶店の食事だからとは言え、こんな薄いの二枚で腹いっぱいになるんだろうか、と。
ふと視線をよもぎに向けると、案の定よもぎも真剣な眼差しで目の前の黒パンを見つめていた。おそらく見た目からその味や食感を想像しているのだろう。一方
続いてメインの皿が運ばれてきた。真っ白な皿で供されたその料理はビーツ特有の深紅で、トマトの赤とは異なるその色から容易に味を想像することができなかった。
「お茶はお食事の後にお持ちします。それではごゆっくりお召し上がりください」
「あの――」
頭を下げてカウンター内に戻ろうとするメイドにヒロキが声をかける。
「これってロシア料理ですよね? オレ、ロシア料理なんて初めてなので説明してもらってもいいですか」
よもぎもそれに応えるように小さく頷く。メイドはまたもや一歩下がった位置から三人にメニューの説明を始めた。
「そちらの黒パンはライ麦とそば粉を使っております。見た目以上に重たいものですから一口ずつお召し上がりください。酸味が強めですが噛めば噛むほど甘味が出てきます。もしそば粉にアレルギーをお持ちであるとか、お口に合わないようでしたら白パンとお取替え致しますのでお申し付けください」
「ボルシチにはサワークリームをお乗せしてありますので、それをスープに溶かしながらお召し上がりください」
ヒロキとよもぎはメイドの説明が終わると小さく頭を下げた。
それを見たメイドは、
「それではごゆっくり」
と、もう一度深々とお辞儀をするとカウンターの中に戻っていった。
「よし、食べようぜ」
「よもぎ、ロシア料理なんて初めてです。なんだかわくわくします」
「それはオレも同じさ」
三人は磨き上げられた銀のスプーンを手にすると、まずはボルシチのスープを口にした。それは初めて経験する味だった。濃く深い紅色のスープはコクがあり自然な甘みを感じる濃厚な野菜スープのようだった。
ヒロキはスプーンで皿の中を探ってみた。サワークリームに覆われた牛肉はトロトロに仕上げられ、玉ねぎ、キャベツも柔らかく煮込まれていた。さいの目に切られたトマトも入っているがそれは完全に脇役でトマトの味はあまり感じられなかった。なによりヒロキはともに煮込まれている赤黒い具が気になっていた。ヒロキはその物体をまずは小さく切り分けて味見をしようと試みた。
すると黒パンともぐもぐと噛みながら九尾がヒロキに向かって口を開いた。
「それはビーツじゃ。ビーツを使っておるとは、これはかなり本格的なのじゃ」
「え――、九尾、ロシア料理なんて食べたことあるの?」
意外な言葉によもぎも九尾の顔を覗き込んだ。
「無論じゃ。その昔、
「へぇ――、まさに年の功ってやつか、九尾」
すると九尾はちぎった黒パンを
「このパンもドイツの黒パンとはまた違ったものじゃ。おそらくあのメイド、ロシアの文化風俗にかなりの愛着だか執着だかを持っておるのじゃろうよ」
次にヒロキはサワークリームを溶かし込んで一口、その味は濃厚なスープに十分なアクセントとなっていた。
最初は酸っぱいだけでもそもそとした食感だと思っていた黒パンも確かに噛むほどに甘味が出るし、その酸味、甘味がボルシチのスープとよく合う。なにより見た目の薄さの割に結構なボリュームの黒パンは、ヒロキが二枚目を食べ終わったときにはしっかりと腹八分目ほどになっていた。
「それではお茶をお持ちします」
メイドは三人が食事を終えた頃を見計らってテーブルにやってくるとテキパキと食器を下げて、再び一礼して戻っていった。その後ろ姿を確認しながら九尾が声を潜めて言う。
「ヒロキよ、
「
「じゃが、そう気にすることもなかろう。今はゆっくりと食事を楽しむのじゃ」
「……九尾がそう言うのなら」
そんなヒロキと九尾をよもぎはキョトンとした顔で見ていたが、それより何より今のよもぎにとってはひとりで店を切り盛りするメイドのファッションと身のこなしが気になって仕方ないのだった。
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