第一章 キャッスル・オブ・ストレイキャッツ

第4話 池袋の暑い日

 ここに三ようの写真がある。

 一葉はそこに写る店がオープンした当時と思われる写真で、その三階建てのビルは写真の端にわずかに写る両隣の木造店舗に比べるとずっとモダンな佇まいだった。

 まず目に留まるのはフロント全体を構成する格子窓で、その洒落たデザインがこの建物を特徴付けていた。次に目が向くのは格子窓の上、壁面にかかる木製の看板で、そこ描かれた店の名であろう「古城」の文字も当時としては垢ぬけたものだったことが伺い知れた。


 第二葉は大きなスピーカーを従えた仰々しいオーディオ機器の写真だった。その店の顔である重厚で高級家具のような機材の奥にはLPレコードがびっしりと収められた棚があり、その中段にはアンティークの蓄音機が飾られていた。


 もう一葉の写真には黒い鉄骨フレームのアンティークチェアに座り、その膝の上に猫を抱く初老の男性の姿があった。背景に大きなスピーカーの一部が写りこんでいることから写真の中の男性はこの店の関係者、おそらくオーナーであろう。男性は格子窓から差し込む陽の光に包まれて安らかな笑みを浮かべており、膝の上の猫もまるでビロードのような毛をつやめかせながら自信に満ちた眼差しでじっとこちらを見据えていた。


 それら三葉のモノクロ写真は古ぼけた写真立てに収められていたが、みな長いこと西日にさらされたおかげでところどころが変色しかかっていた。



 伽藍洞がらんどうとなって久しい店の中には造り付けのカウンター以外に家具、調度品のたぐいはなく、あるのは床に散らばる紙屑と埃が溜まった黒い天板の上に並べられた、やはり埃だらけの写真立てが3つだけだった。

 夏の夜、格子窓の外から射し込む街路灯の薄明りの中、ほんのりと浮かぶ人影の周囲にキラキラとほこりの粒子が漂う。カウンターの前に立つその人影が黒い天板をより一層の黒で包み込む。


「ゲホッ、ゲホッ」


 写真立てを手に取って、それを細い指でさっとひと撫でしたその人影は、舞い散る埃の中でおもむろに咳き込んだ。


「にゃははは、こんなほこりに負けているようでは、れは幽霊失格じゃな……イタッ、イタいのじゃ」


 人影は寄り添う小さな人影の頭を小突く。そしてカウンターに置かれていた3つの写真立てを大切そうに抱えると周囲の人目に気を遣いながら、小さな人影とともにその場からふわりと消えた。


 誰もいなくなった店の中には薄明りに照らされた粒子の乱反射の中に、埃の積もったカウンターだけが残されていた。



――*――



「暑い、暑い、暑いのじゃ――! どうしてこんなに暑いのじゃ」


 アスファルトからの照り返しが未だ眩しい8月の街中でメイド服に身を包んだ九尾きゅうびが声を上げる。

 この日、ヒロキはよもぎと九尾を連れて夏物衣料を揃えるために、以前に訪れたことがある池袋いけぶくろのファッション街にやって来たのだった。ひと通りの買いものを終えて帰路についたのは真夏の午後3時、まだまだ暑さの真っ盛りだった。


 三人それぞれの買いものが詰まったブティックの紙袋を肩から下げたヒロキが呆れた顔で前を歩く九尾の背中を見下ろして言う。


「そりゃ九尾きゅうび、このクソ暑い中、そんな恰好してるからだよ。真夏に黒いメイド服なんて、私を蒸し焼きにしてください、って言ってるようなもんだろ」


 九尾は相変わらず偉そうに腕組みをしながらこちらを振り返える。


「これは、これはわらわの……」

「アイデンティティって言うんだろ?」

「そうじゃ、そのアイデンティティじゃ」


 ヒロキと並んで歩くよもぎがそんな二人のやりとりを見ながら呆れた顔で九尾きゅうびに言う。


「でもでも九尾、夏だし、暑いし、外に出るときくらいはヒロキさんに買ってもらったのを着ればいいじゃないですか」

「あんなムームーみたいな子供服はわらわの趣味ではないのじゃ」

「よもぎはいいと思うけどなぁ。生成きなりのコットンでやさしい感じのワンピだし、よもぎが着たいくらいだよ」

「ならばれが着ればよいのじゃ。をつけて差し上げるのじゃ……イタッ」

「あんた、買ってくれたヒロキさんの前で……ごめんなさい、ヒロキさん」


 九尾に手刀をお見舞いしながらヒロキに向かってペコリと頭を下げるよもぎにヒロキは尋ねた。


「ところでよもぎ、九尾きゅうびが言ってるムームーってのはなんだ?」

「ムームーというのは……」


 よもぎの言葉を遮るように九尾が割って入る。


「ハワイ好きなやつらが着る服じゃ。最近はすっかり見かけなくなったのじゃが、夏場になると年寄り連中が着てたりするのじゃ。れらはそれをわらわに……イタッ。よもぎはわらわの頭を叩きすぎなのじゃ」

「それは九尾きゅうびがいつだって一言も二言も余計だからです! それとも、こっちの方がいいのかなぁ?」


 よもぎは薄ら笑いを浮かべながら胸元に下がる金色に輝く勾玉まがたまをつまみ上げた。


「や、やめるのじゃ。ここは街中じゃ。TPOティー・ピー・オーというものをわきまえんか」


 慌てた九尾きゅうびの足が思わずもつれる。


「ほら、ちゃんと前を見て歩きなさい」


 その腕をぐっと掴んで注意するよもぎは、まるで九尾の世話を焼くしっかり者の姉であるかのようだった。そしてそんな二人を見ながらヒロキは、こんな生活もなかなかいいものだと感じるのだった。


 そのとき前方を指さしながら九尾きゅうびがまたもや声を上げる。


「ヒロキ、あれはなにをしておるのじゃ、傀儡くぐつか」


 九尾きゅうびが指さす先、そこには歩行者専用となっている十字路の真ん中でビラ配りをするメイドの姿があった。足元に置かれたラタンの手提げかごの中にビラが入っているのだろう、メイドは手にしたビラを配り終わると、かごからもうひと掴みのビラを手にしては道行く人に配っていた。


「あれは……メイド喫茶のビラ配りじゃないか?」

「ほう、どれわらわももらってみるのじゃ」


 九尾きゅうびは歩を速めてメイドに近づいた。


「おいおい、九尾、そう慌てるなよ」

「そうよ、そんなに急がなくてもメイドさんは逃げたりしないから」


 三人は人の流れを縫うようにして十字路に向かうとビラを配るメイドの前に立った。突然目の前にあらわれた三人の姿にキョトンとするメイドに向かって九尾きゅうびが手を差し出す。


わらわにもくれ、なのじゃ」


 そのメイドが身に着けているライトグレーが夏らしいフレンチスタイルのメイド服とは対極にあるヴィクトリア朝の暑苦しそうな黒いメイド服姿で目の前に立つ幼女にいささかの戸惑いを見せながらも、そのメイドはニッコリと微笑みながら腰を落として九尾きゅうびに一枚のビラを手渡した。

 続いてヒロキに一枚、そしてよもぎにも同じように笑みを浮かながらビラを手渡した。


「これは、メイド喫茶ですか?」


 こちらに背を向けて再びビラを配り始めたメイドにヒロキは尋ねた。

 メイドは配る手を止めてこちらに振り向く。真夏の日差しに映える銀色のショートヘアに澄んだ湖水のようなブルーの瞳のメイドが待ってましたとばかりにうれしそうな笑みを浮かべた。わずかにかしげた小首にチョーカーの赤が映える。


「いえ、お茶もお食事もいただける店です。あちらに見える公園の向かいです。是非お立ち寄りください」


 メイドはヒロキたちが向かう先から右に延びる道を指し示した。


「ヒロキ、行ってみるのじゃ。わらわはもう喉がカラカラなのじゃ」

「そうだなぁ、水分補給も兼ねてひと休みするか」

「よもぎも賛成です。ヒロキさん、行きましょう」


 こうしてヒロキとよもぎはメイドに軽い会釈をすると示された方向に向かって歩いていった。

 相変わらず九尾きゅうびが先頭を行く。そして三人の左手に公園が見えてきたとき、その向かいにすっかり古ぼけた小さなビルが見えた。そのビルの一階正面にはやはり古ぼけた一面の格子窓と長年の風雨にさらされて塗装がすっかり剥げ落ちた木製の壁面看板があった。まるでカビでも生えているかのようなくすんだ外壁と相まって、三階建てのそのビルは再開発からぽっかりと取り残された異空間のようなおもむきだった。


 立ち止まった途端にヒロキの額と首筋には汗が浮かび上がる。ポケットからハンカチを取り出してその汗をぬぐいながら、ヒロキは板の上に浮かぶ色の剥げた木製の文字と手にしたビラに書かれた店名を見くらべた。


「キャッスル古城……」


 看板の文字はそう読み取れた。確かにビラに書かれているのと同じである。


「どうやらここのようだな」


 ヒロキは遠巻きではあるが格子窓のガラス越しに店の中をうかがってみた。しかし中は暗く外からはその様子はわからなかった。格子に嵌め込まれたきれいに磨き上げられたガラスには公園を背にして立つ三人の姿が映っていた。


「なにを躊躇しておるのじゃ。さあ入るのじゃ」


 またもや九尾きゅうびが先を行く。

 そしてヒロキはそれを追うように小走りでエントランスの前に立つと、そのドアを開いたのだった。

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