忘れてるけど、起きました
升釣くりす
最悪は一方で最高なんです
——最悪の目覚めだ。
誰かがシャワーを浴びている音で目が覚めた私はそう思った。自分の家なのに、覚えのない誰かがシャワーを浴びている。眠い頭を回転させて考えるも、記憶にない。昨日は菜月と焼き鳥を食べた。店を出たら雪が降っていて、二人ではしゃいだところまでは覚えている。反対に言うと、そこまでしか思い出せなかった。お酒の勢いで何かしでかしたことを証明するにはそれだけで充分だ。それに、私は裸で寝るタイプではない。
「あ、あの! 責任とれとか言わないので、すぐ出てってください!」
シャワーを浴びている誰かにそう声をかけ、私はベッドに潜り込んだ。布団の中で丸めた体はなんだかベタベタして、嫌な想像がどんどん膨らむ。どんな相手かなんて見たくない。もし知り合いだったら気まずいし、逆に全く知らない人でもそれはそれで気まずい。あの人が帰るまでこのままやり過ごそうと、私は布団の中でジッと耐えた。
シャワーの音はしばらく続き、それが途切れたのは約五分後だった。ガラリとバスルームを開ける音、それからペタペタとこちらに近付いてくる濡れた足音が聞こえる。ギョッとした私は、布団の中から叫んだ。
「こ、来ないでください! 昨日のことは忘れて、早く帰ってください!」
上ずった声は布団の中でこもる。相手が一瞬足を止めた気配はあったが、すぐに再びこちらへ歩いてきた。狭いマンションだ。すぐに"誰か"は私の元に到着し、布団に手をかける。バサッと取り上げられて完全にあらわになってしまった私の体に、その誰かはプッと笑った。
「亜美、何してんの」
それだけ言って返された布団。聞き覚えのあるその声に、私は勢いよく顔を出した。
「……菜月?」
黒のキャミソールに下着姿で部屋の真ん中に立つ"誰か"。わしゃわしゃとタオルで髪を拭くその人は、紛れもなく菜月だ。知らない男じゃなくて良かった。昨日は何もなかったんだ、とホッとする私に、一つの疑問が浮かぶ。
「菜月、髪どうしたの」
濡れた髪は、黒く輝いている。ヤンキーみたいな金髪がトレードマークだった彼女の髪が、黒い。恐る恐るそう尋ねた私に、菜月は笑って答える。
「染めたんだって」
「いつ? 昨日は金髪だったよね」
「えーっと、もう二週間くらい前かな」
顔だけ布団から出したカタツムリみたいな私に、菜月はそう言って伸びをした。
「いや、嘘だ。昨日は金髪だったでしょ」
「あー、はいはい。亜美の中ではそうかもね」
「何それ! ていうかなんで私は裸なの!」
色々なことが一気に起こって、頭の中が忙しい。それもこれも、昨日焼き鳥屋を出てからの記憶がないのが悪い。菜月はズボンも履かずにベッドの端に腰掛けると、見たこともない優しい顔で私の頭を撫でた。菜月に黒髪は似合わない。
「まず服着なよ」
「着るから向こう向いてて」
「はあ? 誰も亜美の裸なんか見たくないっつーの」
そう言いながらも、菜月は私に背中を向けた。その肩口にはくっきりと、小さな歯型がついている。それから、爪で引っかいたような跡も。ギュンと心臓が鳴った。バクバクと激しく打つ心臓に、さっき消した可能性が再び持ち上がる。
「あ、あのさ、菜月」
「んー?」
震える声でそう言うと、菜月はこちらも向かずに呑気にそう返してきた。
「わ、私たち、な、何もなかったよね?」
「何もって?」
「な、何もなかったならいいんだ! 昨日、店から出た後の記憶がないからさ。何かあったかなって思って。あはは、そんなわけないよね」
自分に言い聞かせるように、早口でそう言い切る。当たり前だ。私たちは友達で、女同士だ。間違いなんて起こらない。体がベタベタするのも、酔っ払って汗をかいてそのまま寝てしまったからだろう。
しかし、菜月は否定も肯定もすることなく、黙ってこちらを向く。それから悲しそうに笑って、なぜか私の額に唇を落とした。
「え、あ、いやだなぁ、菜月。からかわないでよ」
「ごめん」
バンバンと背中を叩く。菜月は痛いとも言わず、私の手首を掴んだ。その異様な雰囲気に、私の貼り付けた笑顔が剥がれ落ちた。
「い、いや、さすがに寝起きだからって騙されないよ?」
声が裏返る。菜月は返事もせず、床に散らばった服を着始めた。タイトなジーンズに、白いTシャツ。ジーンズの裾を折り上げ、細い足首を出した。
「ま、待って菜月。本当に私、覚えてないの」
「うん、わかってる」
「だ、だからちゃんと説明して?」
私のそんな言葉に、菜月は何かを探すように部屋を見回す。それから、机の上に乗っていた見慣れないノートを私に差し出した。普通の大学ノートではあるが、表紙がの破れが丁寧にテープでとめられていたり、何度も開かれているのがわかる。
「なに、これ」
「読めばわかるから」
それだけ言って、菜月は部屋の隅に座った。私はわけもわからず、でもとりあえず、そのノートを広げる。静かになった部屋では、冷たい風を出すクーラーの音がうるさく聞こえた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
——最高の目覚めだ。
目が覚めると、私の腕の中でずっと好きだった子が幸せそうに眠っていた。柔らかい頰をつつけば、くすぐったそうに身をよじる。私はそんな彼女の頬にキスをして、起こさないようにゆっくりとベッドを出た。
彼女は、記憶喪失だ。前向性健忘症というもので、彼女の場合、一日で記憶がリセットされる。発症は半年前の冬の日、二人で行った焼き鳥屋の帰り道。脇見運転の車が突っ込んできて、頭を強く打ったせいだった。治る可能性もないとは言い切れないらしいが、期待できるような確立でもないらしい。その日から、彼女を側で支え続けてきた。
「亜美、シャワー借りるね」
私はそう呟き、額に唇を落とす。お風呂へ移動して、熱いシャワーを頭から浴びた。昨日の記憶が一気に襲いかかる。
◇
昨日の亜美はおかしかった。彼女は毎日、記憶について書き記しているノートを読み、自分の状況を理解する。たぶんそのどこかに書かれているのだろうが、その後必ず私に電話をかけてくる。明るい声の時も、困ったような声の時も、パニックになっている時も、私はその電話一本で亜美の家に駆けつけた。
それなのに、昨日は違った。電話がなかった。まだ寝てるのかな、とソワソワしながら十五時までは待ったがそれ以上は待てない。慌てて亜美の部屋まで行って、玄関を叩いた。
「亜美! あたし、菜月だけど! 開けて!」
扉に向かってそう叫んでから数十秒後、ゆっくりと開かれた隙間から、ぬっと亜美の手が伸びてくる。
「亜美、大丈夫?」
腕を引かれて家に入った。靴を脱ぐ隙も与えられず、亜美はズンズンと突き進む。
「ちょ、待って、亜美」
彼女は答えもしない。狭いアパートの中を土足で歩く。亜美の表情は見えず、何を考えているのかわからない。部屋には破られた紙切れがそこら中に広がっていて汚い。昨日はこんなことなかったのに、と思っていると、ドサッと肩を押された。
「あ、亜美ってば」
私の背中を受け止めたベッドのスプリングがギシッと鳴る。亜美はまだ何も言わず、私の体に覆いかぶさった。
「菜月、私、本当に記憶ないの? 昨日まで冬だったのに、起きたらこんなに暑いの。おかしいよね?」
亜美はそう言いながら、私の上で涙を流す。ポタポタと、冷たい雫が私の頰に落ちた。ここ半年で一番、情緒が危うい。私は思わず亜美の頭を抱き寄せ、背中を叩いた。
「大丈夫。大丈夫だから」
「大丈夫じゃない! もうやだ!」
「あたしがいるから、ね」
そう慰めるも、聞くわけがない。亜美は私の腕を振り払い、私を睨んだ。涙に濡れた目が痛々しい。
「菜月は何にもわかんないよ!」
「わかんないよ。でも一緒にいるから」
「嫌だ! もう優しくしないで!」
亜美が叫ぶ。全身から感情が溢れ出している。私の上から降りて床に座った彼女は、わんわんと泣き出した。改めて部屋を見回すと、散らばっている紙切れは、例のノートを破ったものらしかった。私はそっと亜美を抱きしめ、頭を撫でる。
「わ、私、忘れたくないの……ね、菜月」
赤くなった目で私を見上げた亜美は、いやに色っぽい。彼女は手を伸ばして、見惚れてた私の頰を掴んだ。それから、私の頭を引き寄せて唇を合わせる。カッと顔が熱くなるのがわかる。
「ねぇ、菜月」
「亜美、やめよう?」
亜美はベッドにあがり、再び私を押し倒した。記憶のリセットを理由に彼女に手を出さないと決めていた私の決意が揺らぐ。
「ほら、こんなことしたって何にもならないよ」
慌ててそう言うも、亜美の唇が何度も落とされた。頭が沸騰する。思考がぐちゃぐちゃにかき回されて、プチンと何かが切れた。私は覆いかぶさっている亜美をひっくり返し、今度は私が彼女の上に陣取った。見上げてくる彼女の目は、とろんとしている。
「ほ、本当にいいの?」
「ん、今日のこと忘れないようにして」
亜美はそう言って、私の首に腕を回した。
◇
それからの記憶はあまりない。気が付いたら夜中で、肩の引っかき傷がやけに痛かった。その後私は部屋に散らばったノートをテープで貼り付け、机の上においた。それからゆっくりとベッドに戻り、亜美の頭を撫でてもう一度眠りについたのだ。
シャワーから出るお湯で、熱くなった顔を洗う。その時、向こう側から亜美の声が聞こえた。
「あ、あの! 責任とれとか言わないので、すぐ出てってください!」
困ったような、慌てた声だ。私は大きく深呼吸をして、キュッとシャワーを止めた。
「なんて説明しよう……」
私はそう呟いて、再びシャワーを頭から浴びる。肩口を触ると、でこぼことした歯型がくっきりと残っているのがわかった。私はバスルームを出ると、その辺りにあったタオルで体を拭きながら考える。
まあ、なるようになるか。亜美は昨日のことを覚えていやしないんだ。
「こ、来ないでください! 昨日のことは忘れて、早く帰ってください!」
亜美はそう叫ぶ。私だけが覚えている最高の目覚めを胸に、私は彼女が隠れている布団を取り上げた。
忘れてるけど、起きました 升釣くりす @masu_chris
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